慣れていても気にしないわけではない
登校してきたばかりのクラスメイト達のざわめきが残る中、「おはよう」と挨拶をしながら中へと足を踏み進めた。すると「おはよう!」という元気が声があちこちから返ってくる。
私が乗る電車は電車通学をしている中では比較的早い方なので、教室内はまだ半分以下の生徒しか揃っていない。
なんだか不思議なことにいつもと教室が違って輝いて見える。
昨日の水族館の楽しさの余韻が残るためか、なんだか気分が晴れているのだ。
凄く楽しかった。あの食事のあと匠君のお父さんと別れ、私と匠君はマリン雑貨の店などを見てまわったり、遊覧船に乗ったりして臨海公園内を満喫。
帰りは家の近くまで送って貰ったんだけれども、その時にイヤホンジャックを渡したら匠君がはにかみながら受け取ってくれた。袋から出して大切そうに眺めてくれたのが印象に残っている。
美智さんからも夜にお礼の電話があって、喜んでくれていたので良かった。
――……あれ?
ふと視界の端に映し出された黒板に意識が奪われてしまう。それは右端に書かれている文字のせいだ。そこには白いチョークで私の名前と隣の席の男の子の名前が記されている。
どうやら今日の日直は私と隣の席の橋本君みたい。
――真っ直ぐ職員室行ってくればよかったなぁ。
日直は学級日誌を職員室にいる担任の先生に取りに行かなければならない。この校舎は職員室と真逆。そのため、そのまま昇降口から真っ直ぐ職員室に向かった方が近いし楽。だから、みんな朝教室に来る前にそうしている。
仕方ない。鞄を置いてから取りに行こう。幸いまだ時間に余裕はあるのだから。そう判断した私は、そのまま自分の席へと向かう事に。
「おはよう。橋本君」
隣の席の橋本君に挨拶をすると、彼は机の上に二つのノートを出していた。どうやら友達のノートを写させて貰っているらしい。
そういえば、二限目の古典、橋本君の列が当たるんだっけ。
彼はノートから視線を上げ、こちらを見上げた。
「あっ、おはよう! 露木さん、俺達日直だよー」
「うん。さっき黒板見て気づいた。鞄を置いてから日誌取って来るね」
「大丈夫! 俺、取って来たから!」
「取って来てくれたの……? ありがとう」
「いいって。俺も日直だし。しかし、面倒だよな。日誌取りに行かなきゃいけないって。中学みたいに先生が持って来てくれればいいのに」
「橋本君が通っていた中学はそうなの? うちは取りに行っていたよ」
「マジで!? やっぱ学校によっ――」
そんな橋本君の言葉は、「露木さんーっ!」という教室の扉付近から叫ばれた声により、覆われるようにかき消されてしまう。そのため、私も橋本君もそちらへ意識を奪われてしまった。
「え?」
「なんだ? 長戸の声じゃね?」
「うん」
私は頷くと扉の方へと顔を向ける。するとクラスメイトの長戸君がこちらに手を振っていた。そしてその彼の傍には、見知らぬ少年が二人。
「露木さんの友達?」
「ううん。知らない人……なんだろう? ごめんね、橋本君。呼ばれているみたいだからまた後で」
「うん、また!」
私は橋本君に断り机に鞄を置くと、さっき潜ってきたばかりの扉の方へ。
「長戸君。何か私に用事でも……?」
私は長戸君の傍へと佇んだ。
彼は野球部のためか、髪は短めに切られボーズに近く、体もがっしりとしている。
「ごめん、露木さん。日直で忙しいのに。こっち、俺の中学時代からの友達。沢口と西田。なんか、露木さんに用事があるとかで呼んで欲しいって言われたんだ」
と、爽やかな口調で紹介された彼らに視線を向ければ、なんとも言えない表情をしていた。
その様子に、私は訝し気に思った。もしかして、何か彼らに失礼な事をしてしまったのだろうか。家から出てからの事を考えても、この人達に遭遇したようなことは心当たりがない。
「君が露木朱音さん? ごめん、中学って東川であっている?」
「あっていますけど……」
そう口にすれば、彼らは二人して顔を見合わせた。そのため、この状況が全くわからず、私は長戸君に縋るように視線を向けてしまう。
「ごめん、露木さん。俺も呼んでくれって言われて……おい、お前ら何か用事あったんじゃないのか?」
「ちょっと待ってくれ。俺達もちょっと戸惑っているんだって。もしかしたら人違いかも。なぁ」
「あぁ。東川中の露木琴音の姉かと思ったんだけど……違ったみたいだ」
琴音の姉と言われ、ドクンと鼓動が大きく跳ね上がった。
――……あぁ、わかった。
この時になってやっと彼らの思惑が理解する事が出来た。彼らは琴音の姉だからと期待してやって来たのだろう。琴音は可愛いから、きっと姉もそうだろうと思って。中学の頃は結構あった。他校生に放課後呼び出されて……
「合ってますよ。琴音は妹です」
肯定すれば気まずさが私達を包む。
「えーと、どういう事なわけ? 沢口達が露木さんに用事があったのって、なんとかちゃんの姉かどうか確認したかっただけなのか? というか、この重苦しい空気なんなの!?」
「あー、実は露木琴音ちゃんって可愛い子の話を昨日野球部の後輩に聞いたんだ。そんでその姉がこの学校にいるって事も。だから、てっきり可愛いと思ったわけ。でもさ、想像と違ってあまりにも普通だったというか……」
ちらっと長戸君のお友達は私を一瞥。それに長戸君は眉を吊り上げた。
「お前ら失礼だろ!」
その言葉に彼らはばつが悪いのか目を伏せる。
「ごめん、露木さん。こいつら根は悪い奴じゃないんだ」
「慣れているので大丈夫だよ」
「慣れているって、そんな……本当にごめんな」
「ううん。気にしないで。なんか、用事も終わったみたいだし、もう行くね? 今日、私日直なんだ。だから、日誌書かなきゃいけないから」
と言って、私はその場を後にした。
慣れている。けれども、なんとも思わないかと言われれば、人間それなりに気にはするものだ。
胃に鉛のようなものが沈んでいるかのような感覚に襲われながら私は席に座った。
「大丈夫? なんか、あんまりよくない空気だったみたいだけど……」
橋本君が不安げな表情を浮かべながら、尋ねてきた。もしかしたら、あの光景をみていたクラスメイト達は、あまり良くない雰囲気に対して訝し気に思ったかもしれない。橋本君みたいに。
「うん。大丈夫」
そう返事をしながら曖昧に笑って誤魔化しながら鞄を開ければ、教科書やノートと共に中にはいっていた円らな瞳を持つふわふわの物体と視線がかち合う。それは匠君のお父さんに貰ったお土産のクマのバッグチャーム。匠君のお父さんのアドバイス通りに、学校に行ってから付けようと思って入れておいたものだ。
――可愛いなぁ。
私はそれを取り出すと鞄へと付ける。ふわふわとしたその愛らしい体と、純白のカラーも相成ってなんだか癒される。匠君達も鞄に付けているのかなぁ? と、そんな事を考えているうちに沈んだ鉛のような感覚が胃から消えていた。
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「夕食どうしようかなぁ……」
玄関前に佇み鞄の中身を眺めながら、そんな呟きを零せば青空が吸い込んでくれた。
SHRも終わった頃にお母さんからメールが入った。それは残業だから食事作ってという内容。そのため、材料を買うためにスーパーに寄ってから帰宅しようかなって思ったけれども、冷蔵庫の中身を確認してからの方がいいのでそのまま真っ直ぐ家へ。
「えっと……あった。鍵……」
鞄から探していた自宅の鍵を取り出したその時だった。「お姉ちゃん?」という声が背にかけられたのは。そのため反射的に振り返ると、琴音が佇んでいた。
「……今日は早いね」
いつもは友達と遊んで帰ったり、ピアノの練習などでこの時間に帰宅する事は殆どない。そのため、珍しさのあまりそう口にしてしまった。だが、それがいけなかったようだ。
「なにそれ~。なんか、私が帰って来たら悪いみたいな言い方」
琴音はぐっと眉間に皺を寄せ、目を細めた。
「そんな事はないよ……ただ、いつもこの時間帯には帰って来ないから……」
「今日は地元の友達と遊ぶの。だから、一回着替えに寄っただけ」
「そうなんだ。夕食を食べてくる時は教えてね。今日、お母さん残業なの」
「えー。お姉ちゃんが夕食作るの? 普通のしか作らないじゃん」
「ごめん……」
「もっと可愛くて見栄えのするやつ作ってよ。写メってSNSアプリにも掲載できるやつ。お姉ちゃんの作るやつってお姉ちゃんと一緒でダサくて地味な……――って、なんでっ!?」
「え?」
琴音の視線が急に私から私の左部分へと移ったので、小首を傾げる。それに私も追うように顔を向ければ、それは肩から下げられている通学鞄。
正確にはそれに付いている、匠君のお父さんに頂いたクマのバッグチャームだ。
「これは駄目なの……」
琴音の視界から逸らすに、私は鞄を降ろすと自分の後ろに隠す。そんな私の拒絶は聞いてくれるはずもなく、琴音がこちらに手を伸ばしてきた。
いつもならばどうせ奪われるのだからゴネられる前に譲るけれども、これは匠君のお父さんに頂いたもの。
しかも、ちゃんと私に選んで下さったものだ。
「ちょうだい!」
「待って。琴音、話を聞いて! これは……」
取られないように琴音の手を避けるようにして体をずらしたけれども、私の反応が鈍かったらしく通学鞄の取っ手を掴まれてしまう。そのため、身体がぐっとバランスを崩し地面へと倒れ込んでしまった。
傷みで顔が歪んでいくが今はそれどころではない。幸いな事に鞄はまだ取られてなく、私の肩に下がっている状況だ。
「お姉ちゃんって本当にどんくさいよね。運動神経悪っ!!」
「……このクマは友達のお父さんのお土産なの」
「だから? いいじゃん別に。私が付けた方が絶対に可愛いもん。それに、そのクマが何なのかどうせわかんないんでしょ? 価値がわかる人に付けて貰った方がいいに決まっているわ。お姉ちゃんには勿体ないし。それ、いくらするかわかっているの?」
そう言うとまた鞄へと手を伸ばしたけれども、何故かその手がクマに触れる事はなかった。それは、触れる直前で琴音の手がぴたりと止まってしまったからだ。
――どうしたんだろう……?
悔し気にクマを見詰めている琴音に、私は首を傾げる。
「……駄目だ。ホワイトって、確かあの髪の伸びる日本人形が今日鞄に付けていたのと同じになるじゃん。ムカつく。私の方が絶対に似合うのに!!」
忌々しそうにそう吐き捨てたその台詞。それに私は一瞬思考を止められてしまう。
髪の伸びる日本人形……?




