『家』
(匠視点)
――もっと早くメッセージアプリの通知に気づいていれば!
俺は引っ越し予定の新居のエレベーターに乗りながら、苛立つ感情を抑えきれなかった。
なんとか自分を落ち着かせながら、握りしめているスマホのディスプレイを見る。
するとそこには、『私、お姉ちゃん辞めてきたの』というメッセージが表示されていた。
俺がこのメッセージに気づいたのは、数十分前。
屋敷に到着してスマホを見たらこのメッセージが届いていたので、すぐに朱音に電話をかけたけど繋がらず。
俺と別れてから家で一体なにがあったのだろうか?
どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。
もっと早く気づいてすぐに電話をしていれば、状況は違ったかもしれないという後悔が残る。
すぐに朱音の家に向かおうとしたが、『お姉ちゃん辞めてきた』と書いてあったのでおそらく家にはいないだろうとすぐに判断。
でも、どこに?
そう思った時、ビジネスホテルでも友達の家でもなく、真っ先にここ・新居が浮かんだ。
まだ引っ越しはしていないけど、ここは俺と朱音の家だから――
頼む! ここであっていてくれ!
エレベーターが開き、真っ直ぐ新居の玄関を向かうとカードキーをかざして玄関の扉を開けて中へ入った。
すると、人感センサーが反応して玄関や廊下が明るくなったおかげで、玄関に女性用の靴が一足置かれているのが目に入る。
――朱音の靴だ。
でも、靴の状態からでも朱音の精神状態がわかるように、靴は不揃いにバラバラになっている。
いつもの綺麗に揃えているのに、今日はそのまま脱ぎ捨てたような状態だ。
朱音がいた! と、ほっと安堵する間もなく、すぐに廊下を進みリビングへと向かえば、崩れ落ちるように床にしゃがみ込んでいる朱音がいた。
両手で顔を覆って声を殺して泣いている。
朱音が深く傷ついているのに、一人にしてしまった。
その光景に俺は胸が締め付けられ、「朱音」と叫びながら駆け寄るとそっと抱きしめた。
すると、朱音は「匠君」と消え入りそうな声で言うと、俺に手を伸ばしてしがみつくように抱きつくと声を上げて泣き出してしまう。
まるで子供のように……
そんな朱音が痛々しく胸が苦しい。
まるで自分の身が引き裂かれるようだ。
朱音はずっとこんな風に声を上げて泣くのを我慢していたのかもしれない。
それが堰を切ったように溢れ出たのだろう。
朱音の唯一の味方だった祖母が亡くなってから、こんな風に泣ける場所がなかったから。
朱音の家族は朱音を犠牲にして幸せを積み上げていたから、何度も泣き叫びたい日があったはずだ。
俺は朱音を抱きしめながら優しく何度も背中を撫でて落ち着くのを待つ。
どれくらいの時間が流れたのだろうか?
時計を見ていないからわからないけど、体感としては長く感じる。
地獄のような長さだ。
朱音が心を痛めて泣いているのに、俺はそれを止めるすべを知らない。
朱音の泣き声が少しずつ弱まり、彼女の深呼吸するような呼吸音が聞こえた。
「……ありがとう、匠君」
朱音はそう呟く。泣いたためか、声が少しかすれているようだ。
朱音は落ち着かせるように何度か深呼吸を繰り返すと、ゆっくりと口を開き、語った。
俺と別れた後に露木家で何が起こったのかを――
朱音の口から聞いた言葉は、衝撃的すぎて信じられないものだった。
琴音の婚約破棄と俺たちの結婚はまったく関係ないのに、延期しなきゃいけない?
そのうえ、この新居に琴音も一緒に暮らすって?
しかも、理由がお姉ちゃんだから?
どういう思考回路でそうなるのか全く理解ができない。
あの人たちはいつもそうだ。
朱音の犠牲の上に自分達の幸せを作ろうとしている。
「あの人達、そんなことを言ったのか……」
「うん。だから、お姉ちゃん辞めてきたの。これ以上両親や琴音の件で私が犠牲になるのは限界だった。縁を切るという私の出した答えが正しい選択なのかはわからない。もしかしたら、間違えているのかもしれない。でも、今は最良の決断だと思っているの。だって、私も匠君と幸せになりたい。あの家にいたら、私が幸せになるのに家族の許可が必要になってしまう」
「俺は朱音の決断を尊重する。間違えているとは思っていないよ。幸せになるのに、誰かの許可なんていらないし、他人の幸せの足を引っ張るようなことはしてはいけないと思っている」
朱音がいなくなった今、あの人たちは困るだろう。
だから、絶対に朱音に接触してくる。
きっと朱音は優しいし、あの人たちの押しの強さに負けてしまうかもしれない。
これ以上、朱音を犠牲にするなんて冗談じゃない――
「朱音。スマホで朱音の両親と琴音のことを着信拒否して。メッセージアプリもブロック」
「でも……」
俺の言葉に朱音は躊躇った。
まだ迷いもあるのだろう。自分の決断が正しいかどうかわからないと言っていたから。
「大丈夫。緊急の用事があれば俺のところにかかってくるから。それにさすがに電話とかしてこないと思うよ」
「そうかも……」
「だから、大丈夫」
俺は安心させるために朱音に言うと微笑んだ。
これは俺の嘘だ。
あの人達なら絶対に電話かけてくる。
朱音の犠牲の上に幸せを今まで作っていたし、それを自分達で知っているからだ。
――直接の接触を避けるために朱音に護衛をつけよう。ただ、会社がなぁ。会社に電話されたり、来られたりする可能性もある。朱音の会社の社長と連絡先交換しているから、後で連絡してみよう。
「匠君、ごめんなさい……新居、こんな風に使っちゃって。引っ越し楽しみにしていたのに……」
朱音が申し訳なさそうに言ったんだけど、それが胸を締め付けられた。
新居引っ越しは二人で楽しみにしていたこと。
引っ越し当日には「定番かもしれないけど、引っ越しそばを食べよう」とか些細なことを話して引っ越し日を心待ちにしていたのだ。
二人の始まりを。
それなのに、こんな結果になってしまったのが許せない。
朱音の気持ちを踏みにじって!
「全然、いいよ。だって、ここは俺たち二人の家なんだ。朱音が真っ先にここに来たってことは、もう朱音にとって家だって思ってくれているんだから」
もし、辛い事があっても家に帰ってきたら「ここなら大丈夫」って思える居場所にしたいって思っている。
逆に楽しいことがあっても、今日こんなことがあってさ~って笑いあえるような家に。
俺はそう思っているから朱音が謝ることなんて全くない。
「ちょっと早いけど、今日からここに住もう。生活できる家具も家電もあるし、電気なども通っているしさ。朱音の実家にある荷物は業者に運搬をお願いしておく。あっ、でも明日仕事で必要なものあるか……俺が取りに行ってくるよ?」
「大丈夫。鞄を持ったまま来たの」
「そっか。なら大丈夫そうだな。シロの引っ越し準備も終わっているから、シロの引っ越しも近々するよ。前から言っていた引っ越しそばも食べよう。この家でいっぱい楽しい思い出作ろう」
「うん」
朱音は涙を拭いながら大きく頷いた。