返事
頭が真っ白になった。
まさか、結婚前提のお付き合いを申し込まれるなんて思ってもいなかったから。
ゆ、夢じゃないよね?
つい現実を疑ってしまう。
けれども、目の前にある婚姻届と匠君の緊張混じりの真剣な眼差しが現実だと教えてくれた。
夢じゃないって実感した時、私は視界が滲んでいく。
感情が溢れて涙が止まらない。
頬を伝う涙を慌てて拭った。
大好きな人も自分と同じ気持ちだということが、こんなにも満たされて嬉しいことだなんて。
「朱音!?」
突然、私が泣き始めてしまったため、匠君が裏返った声を上げ立ち上がった。
匠君は私の傍に来ると、「ごめん、びっくりさせた」と言いながら頭を撫でてくれた。
温かくて大きな手。
何度も私を励まして守ってくれた優しい手だ。
私も答えなきゃ。
きっと、匠君もすごく勇気を持って言ってくれたから。
今までで一番鼓動が速くなっているかもしれない。
私はゆっくり立ち上がると匠君の手に触れ、彼の方を真っ直ぐ見て口を開く。
「急に泣いてごめんなさい。あの……私も……好きです。匠君が大好きです。私とお付き合いして下さい」
私の答えに匠君は目を大きく見開いたけど、すぐに顔を緩めて私を強く抱きしめた。
抱きしめてくれている匠君の背に手を回して、私もぎゅっと抱きつく。
匠君と出会う前は、こんな幸せな未来が来るなんて思っていなかった。
ただ、ずっと両親や琴音に悩まされる現実が続くんだろうなぁって。
それなのに、今は違う。
仕事も両親の言われる仕事ではなく自分で選択することができたし、大好きな匠君も傍にいてくれる。
高校や大学では友達も出来た。
あの時、五王の図書館に行かなかったら……
ウサギの絵本を読んでいなかったら……
匠君に出会っていなかったら……
私はこんなに幸せな未来を描けなかっただろう。
「匠君。ありがとう。私のことを好きになってくれて」
「俺のほうこそ、ありがとう。俺の事を好きになってくれて」
「ううん。私のほうこそだよ。だって、匠君と両想いになれるなんて思っていなかったもの。夢かな? って頭に過ぎるくらいに信じられないことだよ」
「俺も夢みたいって思っているよ。朱音が俺の彼女になってくれて。すごく幸せ」
「私も幸せ」
顔を上げて微笑むと、匠君も微笑んだ。
これからも匠君の隣で一緒に過ごせる。
きっと、嬉しいことでいっぱいの未来が続くだろう。
少しずつ現実だなぁと実感していくと、視界の端に見えるものが気になってきてしまった。
それはテーブルの上にある婚姻届。
記入済みなんだよね。
「匠君。あのね、聞きたい事があるの」
「なに? なんでも聞いて。もしかして、新居のこと?」
匠君が嬉々と言ったので、私は首を傾げる。
新居?
「あの……テーブルの上にある婚姻届。今日、書くの……?」
「今日でも嬉しい。でも、結婚を急かしているわけじゃないよ。ちゃんと朱音との結婚は本気だって決意表明しようと思ったんだ。その……正式なプロポーズは近々。その時まで考えて貰えれば嬉しい」
近々のフレーズに鼓動が跳ねる。
もし、匠君がプロポーズしてくれたら、答えは決まっている。
これは絶対に揺るがない答えだ。
「それにあの婚姻届の用紙は昔のだから今は変わっているかもしれないんだ。高校の頃に書いたものだから」
「えっ!? 匠君、高校の頃に書いていたのっ!?」
個室といえここはお店。
それが頭から抜けていた私は自分で上げた声のボリュームに対して、慌てて口元を押える。
まさか、高校の頃に書いたって思ってもいなかった。
「そう、高校の頃だよ。ずっと持っていた俺のお守り。朱音、結婚のこと前向きに考えて欲しい。俺はずっと朱音と一緒に暮らしたい。この先の未来をずっと」
「匠君。私の答えは決まっているよ。だって、私も同じ気持ちだから……」
「ありがとう」
匠君がもう一度私を抱きしめながら言った。
+
+
+
――夢みたいだったなぁ。
私は匠君が運転してくれている車の助手席でぼんやりと思った。
匠君からの結婚前提の告白が数時間前の出来事なのにまだ夢みたい。
匠君が今日から彼氏。
急に意識してしまうと頬に血液が集まってしまう。
あのときはまだふわふわとした気持ちだったけど、今は落ち着いているから余計そう感じるのかも。
「これって、夢じゃないよな?」
信号が赤になって車が停車すると、匠君がこちらを見ながら言った。
「えっ?」
「その……さっきの出来事……」
どうやら匠君もまだ夢みたいって思っているみたい。
二人、同じだなぁ。そう思ってしまい、私はクスクスと笑いが零れてしまう。
「朱音?」
「私も同じこと考えていたの。一緒だね」
「同じだな。あのさ、朱音。お祖父様達に彼女って紹介してもいい?」
「もちろんだよ」
返事をすれば、匠君がはにかんだ。
「朱音ともう少し一緒にいたいんだけど、明日から出張なんだよなぁ」
匠君は明日から一週間の出張。
きっと大学の時みたいに二人でゆったりとした時間は取れなくなっていくだろう。
今は私の仕事が繁栄期以外残業とかないから時間を合わせられるけど、これから匠君のスケジュールももっと多忙になるだろうし……
「わかっていたけど、社会人になると大学の時と違って朱音との時間が減るんだよなぁ」
「うん」
「だから、朱音。出張から俺が戻ってきたら、物件巡りに行かないか?」
「えっ?」
物件って、家とか部屋ってことだよね。
それって――
「一緒に暮らしたら毎日会えるし朱音との時間も増えるなぁって思って物件いろいろ見繕っていたんだ。結婚したら五王の屋敷を出るつもりだったし」
「五王の屋敷で暮らさないの?」
「……朱音は五王家で大人気なんだ。俺が朱音と結婚したら、絶対に母さんや美智に朱音を独占される! だから、結婚したら暫くは二人で暮らしたい」
「うん。前向きに考えてみるね」
「ほんと!?」
匠君は嬉しそうな声を上げた。
今日は本当にいろいろ嬉しいことばかりが起きる。
どうか、この幸せがずっと続きますように――