一度家に連れて来なさい
匠くんと水族館に行く日がやってきた。
なんだが昨夜から妙にそわそわとして落ち着きがない。まるで遠足を楽しみにしている子供のように。
それはきっと匠くんと二人きりで外出なんて初めてだからだと思う。いつもは美智さんも一緒だから……
図書館では何度か二人という事はあったけれども、いつものテリトリーの外に行くせいか、変に緊張してしまっている。
「落ち着かないと……匠くんに変に思われちゃう……」
私は自室のベッドに腰を落としながら、心を静めるために深呼吸をした。
見慣れた自室。そのため、一番落ち着くはずなのに、いつもより早い脈拍で忙しないまま。
緊張感のせいで心と体をかき乱してしまっている。
――……コンビニに着くまでに少し落ち着かなきゃ。
私と匠くんの待ち合わせ場所は、今回は駅前にあるコンビニ。
水族館まで車で1時間半と少し距離があるため、飲み物を買って行こう! という話になったのだ。だから、家の近くではなくコンビニで。
徒歩八分なので近場と言えば、近場だけれども……
「忘れ物ないよね……?」
私は立ち上がると学習机の上に置いてある鞄の元へと向かう。
水族館に行くというので、今日は斜め掛けの鞄を用意。水族館の後で時間があったら、臨海公園や遊覧船なんて話もしていたから。
だから、動き易い事にこしたことはないため、服装も持ち物も使いやすく持ち運びしやすいものを選んだ。
さっと鞄の中身を確かめれば、どうやら財布やハンカチなど必要最低限の物は入っているらしく、見た感じは問題なさそう。そのため、私はそれを肩へと掛け家を出る準備する。
――……少し早めに出かけた方がいいよね。
カーディガンのポケットからスマホを取り出し、ディスプレイを見ればまだ余裕はある。けれども、私は家を出ることに。遅刻するよりも待っていた方が気分的には楽だ。
私は部屋の片隅に置かれているスタンドミラーへと足を向ける。そしてそれを覗き込む。
すると、木目調のフレームに嵌められた鏡には一人の少女が映し出されていた。肩に付くか付かないぐらいの髪をしたその人は、雪色のワンピースに薄手のコバルトブルーのカーディガンを羽織っている。そして肩には斜め欠けの丸みを帯びた小さなバッグが。
「大丈夫だよね……?」
衣服にゴミ等が付いてない事を鏡で確認すると、私は自分の部屋を出た。そして階段を降り一階へ。
すると、玄関にいたお母さんと遭遇。丁度階段方向を振り返ったところらしく、ばっちりと視線が絡んだ。
お母さんの手に回覧板を持っていることから、お隣さんが来ていたと推測できる。
「約束の時間だから、出かけるね」
「確か友達と水族館だったわね。いってらっしゃい」
「いってきます」
私はそのままお母さんとすれ違い、玄関に準備していたバレエシューズを履いた。すると、「朱音」と背に声を掛けられてしまう。そのため振り返れば、お母さんが困惑気味な表情を浮かべていた。
「ここ最近、以前と違う恰好をするようになったわよね。お友達と遊ぶって言っていたけれども、それは本当にお友達なの?」
「……え?」
「女の子らしい恰好しだしたから、誰かお付き合いしている子でもいるのかと思ったのよ。一度家に連れて来なさい。問題がある子かどうか確かめなければならないから。琴音はピアノで今が一番大事な時なのよ。相手がろくでもない子で琴音が変な噂に巻き込まれたら困るでしょ? 六条院は特殊だから。それに貴方も来年受験生。内申に響くような相手では駄目よ」
「匠君とは友達だよ……それに、心配しないで。いつもお世話になっているの。勉強も見て貰っているんだよ。彼はしっかりとした人だから大丈夫……」
「……そう。お付き合いはしてないのね。でも、そんなに頻繁に会っているんでしょ? 一度連れて来なさい。そんなに仲が良いなら、彼の素行が悪かったら貴方も琴音も巻き込まれるのよ。お姉ちゃんなんだから、しっかりして。琴音が今まで積み重ねてきたものが、水の泡になるかもしれないのだから。六条院なら身元がちゃんとした子ばかりなのだけれども」
頬に手を当てながら深く息を吐くお母さんを見て、私を重苦しい空気が包む。
匠君は六条院の生徒。
それを告げればお母さんは安心してくれるかもしれない。
でも……私はその事を話すのを躊躇してしまう。それは、お母さんから琴音に話がいってしまうのを恐れてだ。
――……どうしよう。
もしお母さんに匠くんと一緒にいる所を見られでもしたら、きっと彼に迷惑をかけてしまう。そんな事になったら申し訳ない。
もしかしたら、彼等が離れてしまうかもしれない。そう思ったら、胸が痛んだ。何より、匠くんや美智さんと会えなくなるのは嫌……
「お母さん。ごめんね、もう行かなきゃ。約束の時間に送れちゃうから……」
私は無理やり切り上げると、駆けだす様に慌ただしく家を出た。
+
+
――家に連れて来なさい。
お母さんが言った言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡っていく。ただでさえ、勉強等を見て貰っているのに、家で挨拶なんて……
そんな面倒な事をお願いなんて出来ない。それに、匠くんはちゃんとした人だ。
もしかして、私がお母さんに心配をかけるような行動をとってしまったのだろうか……?
確かに、服装は変わってきている。でも、それはTシャツ姿でで五王のお屋敷に行くのは気が引けるからであって……
「…ちゃん。お嬢ちゃんっ!」
「え」
ぼんやりとしていると、いきなり大きな声が目の前から届き、私は弾かれたように顔を上げる。
すると急速に思考の世界から、現実の世界へと風景が開けた。
それは見慣れたコンビニの駐車場であり、私と匠くんが待ち合わせした場所だ。
コンビニの看板の下。私はどうやらそこに佇んでいるらしい。
――あぁ、そうだった。匠君の事を待っていたんだっけ……
「お嬢ちゃん」
そうこちらに語り掛けているのは、恰幅の良い中年の女性。
彼女が眉を下げてこちらの様子を窺っている。それは私が良く買い物に行く、駅前のコンビニのおばちゃんだった。
今では珍しい個人経営のお店のため制服は無い。そのため、いつもポロシャツに紅葉色の店名が入ったエプロンを纏っている。
「待ち合わせかい?」
「あっ、すみません……」
おばちゃんが手にしている箒と塵取りが目に入り、私は自分が掃除の邪魔になったと思い謝罪の言葉を発した。
「いや、邪魔とかじゃないんだよ。日が照っているから、店の中に入っていた方がいいって思ってね。顔色も少し悪いようだからさ。待ち合わせ相手はいつものあのイケメンだろ? 来たら呼んであげるから」
「でも……」
「いいんだよ。お嬢ちゃん、よく買いに来てくれる常連さんだし。それにまだ子供なんだから大人に甘えてもいいんだ……って、おや? どうやら言っているうちにイケメンが到着したようだね」
おばちゃんの視線を追うために振り返れば、ちょうど店の左手にある駐車スペースに黒塗りの車が停車した所だった。丁寧にワックスをかけているのか、艶々として傷一つない車体はとても輝き目立つ。
その車から匠くんが降りてきたのが目に飛び込んで来たので、手を上げようとしたけれども、おばちゃんに「今日のデートは何処に行くんだい?」と聞かれ、私はそのまま何もせずに反射的に振り返ってしまう。
「えっと……水族館です。でも、デートじゃないですよ。チケットちょうど2枚お友達に貰ったからって……」
「それは臨海公園内にある水族館?」
「はい」
「しかも、ちょうど2枚貰ったのかい?」
「はい」
そう返事をすると、何故かおばちゃんが「ははっ」と豪快に笑ってしまう。
どうしたのかと首を傾げると、「朱音!」と背中に声を掛けられたので、すぐに振り返ればすぐ傍に匠君が佇んでいた。どうやら私は、近づいてきた気配に全く気付かなかったようだ。
「匠くん、おはよう」
今日の匠くんは、場所が海沿いのためか、半袖のグレーのカットソーにブラックデニムというラフで動き易そうな恰好をしている。
「おはよう。ごめん、待たせたようだな」
「ううん。私が早く来すぎちゃったの」
「いや、俺がもっと……」
匠くんはそう言うと、ふと視線が気になったのかコンビニのおばちゃんの方へと顔を向ける。匠君とも、このコンビニを時々利用する。
そのため、彼も覚えがあったのだろう。おばちゃんへと微笑みを浮かべ挨拶をした。
「おはようございます」
「おはよう。今日は水族館だって? チケットよく手に入ったね。売れすぎて販売を一時停止しているから、今は買えないってうちに来るお客さんが嘆いていたよ」
「えぇ。リニューアル記念で、今はパスケース付きなので人気なんだそうですよ。ちょうど販売停止前にラスト2枚の時に運よく」
「お友達、ラスト2で買ったの?」
「えっ!? あっ、それはその……そうみたいだ」
「折角のチケットあるんだ。嬢ちゃんは気にせず楽しんで来なよ」
おばちゃんは豪快に笑いながら、そう告げた。
「リニューアルしたばかりだから、人も結構多いそうだよ。海洋動物も増えて見応えあるって話だ。タイミング良ければ、ペンギンの行進見られるからそれ見てきな」
「ペンギンですか?」
「あぁ、確か午前、午後一回ずつあるそうだよ。午前中は十一時からだそうだ」
「じゃあ、そろそろ行った方がいいかな?」
匠君はスマホを取り出して、時間を確認。
「朱音。飲み物買ってそろそろ行こうか」
「うん」
私は頷くとおばちゃんに会釈した。
「二人共引き留めて悪かったね。じゃあ、楽しんで来な! 少年の方は頑張れ!」
匠君はその言葉に目をぱちぱちと数回大きな瞬きをすると、「え、はい。頑張ります……?」と疑問形で返事をし、私と同じように会釈。
そして飲み物を買うために、一緒にコンビニの店舗へと向かった。