過去の鎖にまだ繋がれたままで
誰かの声がする……
ふわふわとした浮遊感を感じつつ私は閉ざされていた瞼をゆっくりと開けば、目の前に女の子が二人座っていた。いたって普通の女の子と、可愛らしい人形のような女の子が。
歳の頃は、三から五歳ぐらいだろうか。
その子達がいるのは、玩具が入ったピンクのケースや絵本などが収納された本棚などが設置されている室内。それは幼き頃に何度も慣れ親しんだ部屋と似ていた。
いや、違う。あれは――
「……あれは、小さい頃の私と琴音?」
つい零れてしまったそんな私の呟きを女の子達は拾わない。
それどころか、私の存在にも気づかないようだ。
――あっ、そうか。これは夢なのか。
夢の中なのに、意識がはっきりとしている。明晰夢というやつだろうか?
私と妹。第三者視点でも、こんなに違う。今もそうだか、昔から琴音は可愛い。
「このえほんはだめ! わたしのなのっ!」
「ちがう! おねーちゃんのじゃない! ことねがほしいからことねのなの!」
「これはおばあちゃんが、あかねにかってくれたのだよ……ことねはべつのかってもらったじゃんか……」
二人は、一冊の絵本を巡って争っているようだった。
いつの頃の話だろうと思っていたが、それを見てようやく把握した。
――……これは絵本を奪われる直前だ。
本の持ち主である髪を二つに結っている女の子は、その絵本を離さないように体全体で胸に抱きしめている。まるで大切なものを守るかのように。
けれども、もう片方の人形のように可愛い女の子は、構わずに無理やり奪おうとしている。
時々髪の毛をひっぱったり体を叩いたりと、その愛らしい顔には不釣り合いなレベルの執着。
そんな攻防戦が繰り返されていたが、すぐにあっけなく幕を閉じてしまう。
それは、
「何をしているの?」
という、少し高めの女性の声によって――
彼女達の左手にある部屋の扉の所に、いつの間にか女性が佇んでいた。
シンプルなワンピースに身を包んだその人は、手にキャラクターが描かれた鞄を持っている。
それはお人形のような女の子がピアノ教室で愛用しているものだ。
「おかあさんっ!」
「ママっ!」
その女性を視界に入れるや否や、可愛らしい人形のような女の子はすくっと立ち上がると、そのまま駆け足でその女性の元へ。
そしてそのままスカートの裾にしがみつくと、残っている女の子の方を指さした。
「おねーちゃんがいじめるの! ことね、あのえほんほしいのにくれないの!」
愛らしい瞳からぽろぽろと涙を流すその姿。
それを何度となく見てきた女の子には、それが作り物に見えて仕方がないらしく、ぎゅっと眉間に皺をよせた。かと思えば、見たくないとばかりにそのまま俯いてしまう。
「絵本……?」
小首を傾げた女性だったけれども、部屋に残っている女の子が胸に抱きしめている物を見ると、「あぁ」と呟いた。
「義理母さんが、大分前に買ってあげた本ね」
嘆息を一つ零すと、そのまま泣きじゃくる人形のような女の子を慰め抱き上げ室内へ。
そして俯く女の子の傍へと近づき、そのまま腰を落とす。
「朱音」
びくりと朱音と呼ばれた女の子の体が大きく動く。
かと思えば、ゆっくりと顔を上げた。
その表情は、子供ながらにこれから先起こるであろう展開が予想出来てしまっているのだろう。
深く沈み、最後の抵抗とばかりに本を抱きしめている手にぐっと力が込められた。
「朱音はお姉ちゃんなのよ? 琴音に譲ってあげて」
「このほん、わたしのたからものなの……」
「琴音はまだ小さいの。お姉ちゃんなんだから可愛がってあげないと。さぁ、渡して?」
「……でも」
「お姉ちゃんなんだから我慢して。ほら、琴音が泣いているのよ? 可哀想だと思わない? これから琴音はピアノ教室なのに本当に困った子ね」
「どうして? どうしておかあさんは、ことねばかり。おねーちゃんはがまんしなきゃいけないの? ならあかね、おねーちゃんやめたいよ……」
そう弱々しく女の子が呟けば、私の視界に違和感が広がっていく。
それはつい先ほどまで見ていたその女の子達の姿がぐにゃりと歪み、闇色に染め上げられていったのだ。
かと思いきや、今度はぼんやりと意識が浮上。
何か強い光のようなものに照らされているのか、閉じられている瞼が眩しく感じる。
ゆっくりと瞼を開ければ、すぐ傍にある見慣れた柄のカーテンの隙間から、日の光が零れ私の顔を照らしていた。
――なんで、あの頃の夢なんて。
ごろりと太陽の光から顔を守るように寝返りを打てば、ベッドのスプリングがぎしっと軋んだ。
あの夢の結末は覚えている。
結局逆らえずにお母さんに渡してしまったのだ。
そして琴音の願い通り、絵本・『ウサギの冒険』は琴音の物に。
しかもその数日後破かれ、ぼろぼろになり捨てられてしまう。
幼稚園から戻りその件を知ってしまった私は、ゴミ捨て場にまで探しに行ったんだけれども、もう後の祭り。収集車はとっくに回収してしまっていたのだ。
今でも覚えている。あの時の痛みを――
「…ずいぶんと昔の事なのになぁ……なんで、あんな夢を……」
ベッドから体を起こすと、日曜の朝だというのにやたら静かな気がした。
まるで一人暮らしをしているかのように、他の人の気配を感じないのだ。
もしかして早く目覚め過ぎたのだろうか? と、枕元にある目覚まし時計を手に取れば時刻は七時半。
むしろ、いつもよりも遅い。
なんだろう? と小首を傾げつつ、私は下へと降りることにした。
+
+
+
顔を洗い軽く身支度を整えリビングへと向かえば、テーブルの上にお金が置かれてあった。
一枚のメモと共に。
そこには綺麗な文字で、妹――琴音のピアノ発表会へ行く旨が書かれていた。
そして、三人で食事を摂ってくる事も。
どうやら両親は、このお金で私に夕食を摂ってこいという事らしい。
――……ピアノの発表会って今日だったんだ。
そうか、道理で静かなはずだ。私以外の家族が全員出かけているのなら。
「またかぁ……」
私が吐き出した小さな呟きを、壁に掛けられている時計の針音がかき消した。
最初はどうして自分は誘われないのだろうか? なんて思っていたけれども、いつしかそれも麻痺。
私も行きたいと一言いえばいいのかもしれないけれども、告げるのが怖い……
両親が妹の方を愛しているのを知っているから。
周りを見渡せば、棚や窓際に飾られている琴音の写真やトロフィーなどによって、それが引っ切り無しに伝わってくる。勿論、ここには私の写真は一枚もない。あるはずがない。
でも、それもなんとなく理解出来る。
琴音は私と違って、有名進学校である六条院付属の音楽科をピアノ推薦。
顔も人形のように可愛い。家でも友人達にも人気者で愛されるお姫様。
そんな風だから、両親の愛の天秤が優秀な妹の方へ傾くのも理解出来る。
だから自分でも努力した。琴音には追いつかないかもしれないけれども……
でも、その頑張りが実を結んで良い点取ったテスト用紙も「そう」と一瞥されて終わり。
小学校の時からそれが何度かあり、私はテスト用紙も見せず結果も言わなくなった。
きっとこの妹との差は埋まることは、この先ないだろうと思って。
琴音はいっぱい持っている。私が持っていないものを。
それなのに私が持っている大切なものは、全て琴音が奪い取っていく。
今朝見た夢のように――
ヌイグルミに、玩具……子供の頃から全て私が大切にしていたものは、何故かねだられてしまう。
どうしても嫌だったのは、おばあちゃんが生前買ってくれた『ウサギの冒険』という絵本。
つい今朝方夢で見たように、琴音がどうしても欲しいと泣いてお母さんへ訴え、お母さんの「お姉ちゃんなんだから」と言ういつもの言葉により、私から妹へと所有者が変更。
あの時「おねいちゃんやめたい」と告げたのに、「馬鹿な事言わないで。琴音のピアノ教室があるから、早く貴方も準備しなさい。置いて行くわよ」とお母さんにばっさり。
それ以来、私は何も言わずに欲しいと言われたら無条件で譲ってきた。
ゴネても無駄だと、あの時に学習したから。
「……どうしよう。今日は天気もいいし図書館でもいこうかな?」
私はそうリビングへと呟きを残すと、メモもお金もそのままにして、準備をするために部屋へと戻った。