開宴
鬱蒼と生い茂る鎮守の森の中に、簡素な作りの廬がある。
本来は地祇の一族より選ばれし童子が、彼らが奉じる形なき神の依代となるべく潔斎をする為の場所。
決して脅かしてはならぬ御神域である筈のそこは、まるで嵐が過ぎ去ったかのように荒れ果てていた。
木々の随所は枝を折られ、中には幹ごと薙ぎ倒されているものもある。 そしてひときわ大きい……否、大きかったであろう木の根元には、かつては石碑があったことを思わせるように、台座の岩だけが残されている。
そしてその周囲には、これまたその碑を囲むようにして置かれていたであろう石棒が、目茶苦茶に転がっている。そんな中につくねんと建てられた真新しい廬……正しくは精進屋だけが、まるで切り出したかのように異彩を放っていた。
そして、その精進屋の中、静かに座して瞑想に耽るのは一人の少女。彼女は、本来そこに居るべき地祇の一族の者では無い。
彼らに限らず、その地の者に二人とない、流れるような亜麻色の髪。幼さを残しつつも女性的な丸みを帯びた小柄な体躯。その肌の色はここ暫く精進屋の中で過ごし、碌に日に当たらなかった所為だろうか。ふっくらとした唇ともどもどこまでも白く、血の気は最早無い。
ーーさぁ、参りましょう。祝子の乙女よ。
迎えの者に声をかけられても、少女より返事は無い。只、琥珀の瞳をちらと寄せるのみ。……或いは、それが彼女なりの精一杯の返事のつもりなのかも知れないが。
そんな少女の様子に構うことはなく、迎えの者は彼女を連れ立った。曳かれるようにして少女が連れて行かれたのは、そこから暫し歩いた処。
視界の開けたそこは、鎮守の森の外に広がる湖を見渡せるようになっていた。
かくして少女ーー祝子の乙女は、湖の畔にて人柱となる。
祝子の乙女が捧げられるのは、かねてより天から湖へと墜ち、そのまま棲み着いた巨大な蛇。それは、地祇の神域を荒らし、依代である木や石を破壊した者その者であった。
ーー貴女はこれより、この水潟に座す者の妃となるのです。
地祇の一族の長が祝子の乙女へと声高に勅すも、彼女の返事は無い。ちらと瞳を動かすか、或いは瞬きをするのみ。
己が運命を、只粛々と受け入れるだけの人の形をした何かと成り果てていた。
そして、宴は開かれる。
長の指示に従い、地祇の者共のひとりが祝子の乙女の胸へと刃を突き立て、貫いた。この日の為に誂えた緋の衣が血潮に染まり。より深い赤色へと染まって行く。只でさえ白い肌は、青白く色を失って行く。
支度は、これで全て終わり。
あとは、「彼」を待つのみ。
そして、程なくしてそれは訪れた。
ざわり、と風が吹き、空を分厚く覆う雲が渦を巻く。湖の色がにわかに深みを増したかと思うと、白波を立てて渦巻く水面より、翡翠と青の鱗を煌めかせながら、大蛇が頭を覗かせ、首を擡げた。そして、血の臭いに惹かれたのだろうか。真直ぐに祝子の乙女が縛られた柱へと頭を寄せる。
大蛇は暫し、金色の瞳で少女が縛られた柱を覗き込む。乙女の薄く開かれた瞳に最早光は消え、異形の怪物を眼前にして驚くことも無い。
徐に、祝子の乙女の身体はふらりと傾いだ。先程まで彼女を柱へと強く縛り付けていた荒縄が、いつの間にか腐り落ちていた。
大蛇は乙女を咥えると、そのままくるりと振り向き、湖の中へと姿を消した。
そして、辺りはしんと静まった。
風は止み、湖の波立ちも消え、分厚い雲の隙間からは日の光が垣間見える。嵐の前触れの如き様相は、なりを潜めていた。
その場に残された地祇の者共は、大蛇と、祝子の乙女が消えた水面を見つめながら、静かに祈りを捧げていた。
幼い命を散らした乙女への哀悼と、これであの大蛇が鎮まり、全てが終わるように。
ただ、静かに祈り続けた。