一章(1)
六月ももう下旬。扱いとしてはまだまだ初夏か、あるいはそれを少し過ぎたあたりだというのに、僕の住む日本は、すでに汗で張り付くワイシャツがうざったい気候となっていた。もう衣替えは済んでいて、別にポロシャツなんかで登校するのも許可されてはいるのだけど、なにぶん、未だに肌寒い日があるのだから油断ならない。ほんとに、日本のこの四季の制度というのはもう少しなんとかならないものだろうか? いっそ春と秋だけあればいいのに、とかこの頃になって思うようになってきたのは、僕がおっさんぽいからなのだろうか。
……うん、やっぱり夏や冬もいいよね!
とまあ、そんなことはさておき、とりあえずは目の前で起きている事態を把握しなければならないだろう。四季なんて壮大なものに文句をぶつけて現実逃避している場合じゃない。
まずは、一度冷静になって、今の状態を見直してみようと思う。
――女の子が後ろから抱きついてきて今は目の前に立ちはだかっていた。
意味が分からないだろう。なにせ、当事者である僕自身も全くもって意味不明なのだからそれは仕方ない。
女の子のパッチリとした大きな瞳は、僕の目をしっかりと捉えていてそれはもうとてもとても強い目力光線を発しており、リップでも塗っているのか、ぷくりとした唇はうずうずしたようににやけている。背はかなり低めで、中学生女子の平均ぐらいだろうか。その結果、僕は彼女を見下ろす形となっているわけだが、これがなんだ、こう見ると凄く可愛い。
どちらかと言うと丸顔で、ほっぺたが触ると気持ちよさそうなくらいぷにぷにしている。髪型は、なんとなく昆虫の触覚を思わせるツインテールで茶髪。それに合わせているのか元からか、瞳の色も少し茶色がかっていた。身長から想像するに、まだ幼いか発育が遅いのかは分からないが、胸は控えめな方だ。
黄緑色を基調としたワンピースを着ていて、これの夏らしさがまた、女の子の活発そうな雰囲気によく似合っていた。
とにかくこんな美少女が、道を歩いていたら突然後ろから抱きついてきたのだ。なんだこのご褒美は。僕はこれといってお婆ちゃんを助けたり迷子の親探しをしたりなんてしてないぞ。それともあれか、僕はこれから死ぬのか。ああ、そうか。僕は死ぬんだ。この子はそのお迎えなわけか。なるほど納得。なんてできるわけもなく、もれなく未だに僕の頭の上にはクエスチョンマークが飛び交っていた。
こうなっては仕方ない。ほんの少しだけ時間をさかのぼって、今日の出来事を辿ってみるとしよう。もしかしたら何かが分かるかもしれないし。
☆
聞き慣れたチャイムが鳴り響き、僕達のいる高等学校に授業終了の合図が告げられた。クラス中から疲労感と開放感に満ちた空気が醸し出される。具体的に言うと溜息だよね。
「ふう。さて、帰るかなぁ」
「あ、か、神崎くん!」
帰りのHRも終わり、さあ帰ろうかと席を立ち上がったところに、女の子から声を掛けられた。僕は決してモテなどしない。まあ、それなりにクラスの女子とは話すけれど、それもあくまで普通程度だし、しかも大抵は何か用事があった後そのまま話すとかなわけで、つまりはこんな風に向こうからわざわざ話しかけてくれる子なんてまず一人しか思いつかなかった。
「なに、阿部さん?」
僕は振り返り、二つ後ろの席に座っている声の主の方を向く。そこにいたのは、全体的にすらっとしたイメージのある女の子だ。
彼女は阿部唯奈さん。このクラスの学級委員だ。背はわりと低い方に属すのだけれど、線がかなり細い方なので雰囲気としてはモデルっぽいところがある。肩にかかる程度の長さの黒髪が良い感じに似合っていて、少しボーイッシュな可愛らしさのある女の子だ。実際、僕は彼女のことをかなり可愛いと思っているのだけど、あまり周りからそういう話を聞かないのはなぜだろう? 膝上丈のスカートから伸びる脚とか、凄く綺麗でまさしくカモシカのようなって比喩表現が合いそうなのに。
っと、僕の性的嗜好が漏れてしまったような気がするのだけど……まあ、ここは気にしないでおくとしよう。
あ、一つ忘れていたことがある。
この阿部唯奈さん。実は実家が神社で、彼女もまた巫女さんの卵なのだ。だったらもっと髪伸ばしてくださいとか思うけど口にはしない。
とにかく将来に期待しようと思う。
「あの、その、神崎くんはこのあと暇?」
「このあと? うん。特に用事はないけど」
「ほんとに!? そしたらさ、うちね、このあと学級委員の仕事があるんだけど、ちょっと手伝ってくれないかな? 結構作業の量が多くて、一人じゃ今日中に終わりそうにないの」
阿部さんは両手を胸の前で合わせてそうお願いしてきた。何気に上目づかいになっていて、こうなると男子としては断るわけにいかなくなるんだよなぁ……。
「ん。いいよ。どうせやることなくて困ってたとこだしね」
「わっ、ありがとう! 今度埋め合わせするね」
ここまで阿部さんに喜んでもらえると、僕としても手伝う甲斐があるというものだ。
僕の手伝いがあったおかげか、阿部さんの作業は一時間程で終わり、ちょうど通学路を下校しているときだった。なお、阿部さんは先生に用事があるとかでまだ学校に残っている。
「やっと見つけたの!」
若い女の子の声がそこら中に響き渡った。結構幼いと思われるのだけど、かなり可愛い感じであり、最近のアニメの声優さんとかにいそうな気がする声だった。
と、ここまでなら別段、僕が気にする程のことでもないだろう。何ゆえ、こんな風に少し強調した話し方をしたのかと言えば、
「ゆうと!!」
といった具合に、その声の主が僕の名前を呼んでいたからだ。
僕が不審に思いながらも辺りを見渡そうとすると、その瞬間、背後から、どん! という強い衝撃が僕を撃ち抜き、そのまま背中一面に生温かい感触が残った。なんだか、腹の部分が凄く絞めつけられている気がする。というか、実際に絞めつけられていた。視線を下に落とすと、それは紛れもなく人間の腕だった。誰がこんなことを。必死になって首を後ろに回し、僕はなんとか犯人の正体を掴む
なんと、美少女だった。間違いなく、美少女だった。
美少女が、僕の背中に抱きついていた。