プロローグ
人間というのは得てして残酷な生き物だ。
例えば自分よりも強い人間にはへこへこと頭を下げたり、いきがって強がってみたり。なんにせよ、尊敬なり畏怖なり、自分の方が下であるような態度をとるものだ。
だというのに、こいつは自分よりも弱いと思った相手には強い態度をとってしまう。
なぜこれが残酷なのかというのはまた後で話すとして、ひとまず続けようと思う。
中には、自分はそんなことをしないという人もいるだろうかもしれない。だけど、果たして本当にそうなんだろうか?
例え弱い人間に対して強い態度をとるようなことはしなくても、同情ぐらいはするだろう。手を差し伸べるというのは同情の延長だ。それはきっと、形の良い見下すという行為ではないだろうか。
もっと突き詰めた話をすれば、今あなたの目の前に熊が現れたとしたらどうだろう? 別に、ライオンやヒョウでもいい。
大抵の人間は逃げ出すか死んだふりをするものだ(実際には死んだふりは間違った対処法であるらしい)。もしも、俺は戦うぞ! っていう人がいたならば、そいつは勇敢なのではなく単純に馬鹿なんだと僕は思う。
じゃあ逆に、あなたは足元のアリを気にかけることはするだろうか? そこらで鳴きまくっているセミは? ドブネズミは?
そういった虫だの害獣だのが死にそうになったところで、それを気にかける人間なんてまずいないはずだ。アリなんて、きっと気づきもしないうちに何千匹と踏み潰してしまっていることだと思う。
そもそもの話、アリを潰すことを気にして生きていたら、まともに外なんて歩けないだろう。
とにかく、人間というのはどんな形であれ、無意識のうちに強者と弱者を分けて態度を変えてしまうものなのだ。全く態度を変えない人間というのは、それはそれで逆に、他人に無関心で興味がないということであり、残酷なものだろう。
本当の意味での平等などというものは人間の中には存在せず、そういうわけで、人間は本来的に残酷なのである。
とまあ、なんで急にそんなことを考え出したのかと言えば、目の前でおそらく小学生ぐらいと思われる子ども達がエアガン片手に捕まえたセミを撃ち殺そうとしているからだ。
子どもって残酷だよね……。僕はそんなことはしなかったけど。
ていうか、さすがにこれはまずいんじゃないだろうか? いや、まあ、そりゃあ、今のご時世に外で遊んでるなんて活発で良い子どもだなぁとは思うけど、それにしたってちょっと残酷すぎるかとも思う。浦島太郎の子どもだってウミガメに対してこんなことはしなかっただろうに。
まだ若い年齢のうちからこんなことをしているのでは――もちろん子ども時代の遊びが将来を決定づけるなんて馬鹿げた考えを本気で持ち合わせている訳ではないけれど――それでも、ちょっとこの子達の将来に不安を感じてしまう。セミだって可哀想だ。
なんて、子ども達の将来だのセミの気持ちだのと色々と理由づけはしてみたけれど、結局のところはなんとなく、本当にその時の気分で、普通の人だったら気にはしても無視するであろうこの状況において、僕はなんということか、子ども達を止めに入ったのだ。
「こらこら君達? なにしてんのかな?」
「はあ? なんだお前」
実にわんぱくな子どもらしい受け答えだった。言い換えようか。生意気なガキだった。
「エアガンは生き物に向けて撃っちゃいけませんって習わなかったかな?」
「人に向けちゃダメなら」
なんとも正論を返してくる子どもである。確かにそう言われるよね。
「でもさ、セミさんだって生き物なんだよ? 君達と同じ、命があるんだ。君は、お友達のことをそのエアガンで撃ったりするの?」
そう聞くと、子どもはゆっくりと首を横に振った。
「だよね。じゃあさ、同じように生きているセミさんに向けて、撃ってもいいと思う?」
子どもはまた、ゆっくりと首を振った。
「よし。偉い子だね。もう、絶対に生き物に向けて撃っちゃダメだよ? 優人お兄さんとの約束だ」
「「はーい」」
と、やりとりを簡略化すればこんな感じだ。
などと、わりと長く話したけれど、僕はなにも良いことをしたなんて自慢話をしたいわけでも、子ども達のおもちゃを奪うという最低なことをしてしまったなんて自虐話をしたいわけでもない。
これは、このあとに僕が経験することとなった、それはもう不思議な不思議な一週間の物語のプロローグなのだ。
そう、それこそウミガメを助けたような、もっと言えば、鶴の恩返しのような。
そんな、不思議で不不死で、最悪で災厄で、不幸で最幸な、物語の、プロローグなのだ。
まあ、むしろ仇で返されたようだったけれど。