あの夏を思い出して
ガタン…
地方のローカル線がゆっくり動き出す。早朝のすがすがしい空気の中を、俺を乗せた電車が進んで行く。カーブのたびに傾く車内。急ぐのを忘れたゆったり感が俺を包む。
窓辺に頬杖をつき、流れる景色を見ながらつぶやいた。
「変わらないな…」
あのときの俺も、同じようにこの電車に乗った。小学5年生の夏休み、この景色を見て一人の心細さを紛らわしていた。たった一駅だけど、あの頃の俺には大冒険で、どきどきしながら隣町の叔父の家に遊びに行っていた。
プシュー…
駅に着いて、俺は鞄を手にひとりホームに降りた。涼しい車内に慣れた体が、むわんと熱気につつまれる。
「暑いな」
今はお盆、夏真っ盛りだ。子どもの頃は走り回っていたけれど、この暑い中走るのは無茶だな。
流れ落ちる汗を拭い、照りつける太陽から逃げるように日陰へ急ぐ。改札を通り抜け、外に出た瞬間、無意識に息をついていた。
「変わってない」
冷たい風が頬をなでた。何年ぶりだろうか、無性に、懐かしかった。
自販機が目に入ったので、冷たいものを買おうと向かう。水、で良いか。静かなその場所にゴトンと音が響いた。取り出したペットボトルに、握った手が冷やされる。行くか、とつぶやき歩き出す。
畑と家々の間を、俺はのんびり歩く。何だか気持ちが落ち着く。焦るなんて馬鹿らしいと思わせてくれる町だ。
ごくり、と冷えた水を飲むと暑さが少し和らいだ。ペットボトルをしまい、また歩き出す。叔父の家はもうすぐだ。いや、今は違うか。叔父は俺が6年生に上がった頃引っ越してしまったのだ。必然的に、俺も叔父の家、そしてあの場所には行かなくなった。
あの場所――小5の夏、ほとんどの時を過ごした場所。それは叔父の家の近くの山だった。
「とっ、…ここか」
緩やかに続いていた道から、細い横道に入る。人とはめったにすれ違わない。木々の緑は色濃く、夏の日差しを反射する。とにかく暑い。
曇りになればな、とつぶやくも、天の神様はあいにく俺と気が合わないらしい。ぴかりと太陽が光り、頭上は雲一つない青空。いや、あっちの方に二、三個あるか。雲って何て数えるんだっけ? 今度調べるかな。しかし暑い。脱水症状になりそうだ。暑い。あ、水持ってたんだ。
そう思い出し、鞄から水滴でびちょびちょになったペットボトルを取り出して、一口。
「ぬる…」
何だかブルーになったが、水分補給は出来たんだと思い直し、また歩き出す。
長く続く田舎の道。遠くの緑を見ながら、俺はぼんやりと悠久なんてものを思っていた。
ジージー…
午前9時。歩き続けた俺は山を登りはじめていた。
蝉の合唱ってやつか。高い木立を見上げてつぶやく。何だか暑さを増幅させるな…。俺さっきから暑いしか考えてないな。はは、と小さく笑った声は風に吹かれていった。
木もれ日がチラチラと揺れる。俺は歩きながら、さっきたどり着いた叔父の家の事を考えていた。
そこも、この町の景色と変わらず、あの頃のままだった。しかし、懐かしいその家の前で立ち止まり、ふっと思い出をたどろうとした時に気づいた。
叔父が居なくなったその家は、やはり今では他人の家で、昔の顔をしてはいなかった。腰かけた縁側も走り回った庭も、うっすらと残った記憶より、何だか冷たかった。
草花を揺らす風や、どっしりと建つ民家、子どものころと変わっていない。いないけれど、何かが、違っていた。昔と同じ景色が大人になった俺を拒むように、冷たかった。
反響する蝉の声、黒々とした地面、細く伸びる山の一本道。いつのまにか足が止まっていた。
ふるっと頭を振って、鞄を持ち直す。分かっていた事じゃないか、もう昔と違うなんて当たり前の事。沈んでいる暇があったら先へ進もう。
一歩踏み出す。あの時はわき目もふらず駆け上がったこの道を、今日は小さな花や、高く伸びる幹にいちいち目を向けながら時間をかけて進む。
自分に状況を分からせるように。そう、これ以上がっかりしないように。
一瞬だった。
俺の心が二十年前に舞い戻って行ったのは。まるでタイムスリップ。ありあり
とよみがえる、小5の夏が。
それくらい、そこは変わらずにいてくれた。
その場所は、山の頂上の少し下にあった。山道が終わる、その少し前に左に折れる道がある。ほとんど獣道のような、注意して見ないと分からない小道。
ちくちくささる葉っぱの中を三十歩ほど進むと、いきなりぶわりと視界が広がる。
両側には背丈の高い雑草が広がるが、眼下はどこまでも青く広い、海。
ざぶん…と波の音が聞こえる。吹いてくる風が、ほてった体を冷やし、潮の香を運ぶ。
あの夏が、よみがえる――…
「あっついー!」
叔父さんの家でシャーベットを食べながら縁側で叫ぶ。
「ほれ」
暑い暑いと大声で続ける俺を見かねた叔父さんが、うちわを投げてきた。
青色の涼やかな朝顔が描かれたそれでパタパタと扇ぐと、ふうわりと風が出来て、俺を吹き抜けていった。
「このうちわ、つくったの?」
手の甲に滴り落ちてくる、溶けたシャーベットをなめながら叔父さんに聞く。
「ん? さぁ~、多分それ実家から持ってきたやつだし」
かけていた眼鏡を取って、レンズを拭く叔父さん。
「おじいちゃんち?」
「おう。最近行ったか?」
シャーベットの最後の一塊を口に押し込み、棒を捨てるために立ち上がって、居間に走り込む。
「行ってない!」
ポイ、と捨てながら言うと、新聞を読んでいた叔父さんは台所に行くところだった。そうかーと間延びした返事と、冷蔵庫を開ける音が聞こえた。
「麦茶飲みたい」
「お。あー昼飯どうする?」
「んーとね、そうめんが良い」
ひんやりとした味を思い出しながら答える。いつもねぎをのせて食べる、あの味。
「そうめんで足りんの? 育ち盛りだろ」
麦茶を冷蔵庫から出し、持ってきながら叔父さんが言った。俺はコップを取りに食器棚に向かう。台所の床は、ひんやりとしていて気持ちが良い。
「そうめんが良いもん」
俺の背は平均より少し低い。好き嫌いはそんなにないが、ちいさいときから少食なのだ。
「まぁいっか。夕飯は肉な」
「うん、いっぱい食べるよ!」
前の席のだいちゃんは高いんだよなぁ、何食べてるんだろ。女子も、俺より高いやつ多いよな…。
自分の気持ちに気付き、慌ててごくごくっと麦茶を飲み干す。
けれども、口の中に残るシャーベットの甘さは、なかなか消えなかった。
「…おい、そうめん出来たってば」
蝉たちの気だるい鳴き声が聞こえる。それに混じって、叔父さんがぼくを起こす声がする。
「うんー…」
眠っていた。ちょっとだけど、夢も見ていたような気がする。
上半身を起こし、目をこすりながら周りを見る。強い日差しが庭を焼く。扇風機がぎこちなくまわっていた。暑くのびる、夏の一日。
どんな夢を、見ていたんだっけ。
きっと、食べ始めたら忘れてしまう。だけど俺は、この夢を忘れちゃダメだ。奇妙な直感が告げる。
思い出さなきゃ。はやる気持ちをおさえ、深呼吸をした。叔父さんは、居間でそうめんをすすっていた。俺が座る縁側には、小さな風が吹き込んできた。目をつぶる。思い出せ。
初めにまぶたによみがえったのは、揺れるオレンジ色だった。夏みかんのように黄色がかった色。それから、遠い波の音。幻想的なその場所に、俺。そして、だれか…?
ぱちっと目を開ける。今が流れ込んでくる。庭の緑がまぶしかった。これ以上は思い出せない。それにお腹がすいた。そうめん食べよっと。
白い麺と黒いつゆ。うまい。やっぱうまい。
夢中でツルツル食べていると、食べ終わって、書き物をしていた叔父さんが、話しかけてきた。
「そういえばさー」
「うんっ」
ごくんと飲み下して返事をする。
「その道まっすぐ行くと、山があるんだよ。」
庭の先を指し示して、そう告げられる。
ちゅるっと食べ終わり、麦茶を飲んでうなずく。昨日、とんぼを追いかけて行って、その山の近くを走った。
「知ってるけど、登ってはないやー」
「行ってくれば?」
俺の返事を聞いて、叔父さんが言った。ごろごろしてんのも飽きただろ、と付け加え、席を立つ。
「行って…何するの?」
叔父さんの後を追い、食器を持って台所に向かう。おっと、つゆこぼれそうだった。
「行けば何かあるよ、虫とりとか。な?」
がちゃがちゃと洗い物を始めた叔父さんは言う。だけど、俺は素直に頷けなかった。その山に、別段興味を感じなかったのだ。
でも、
「俺もやることあるしさ」
ザーザーと流れる水の合間を縫って聞こえた言葉に、あぁと思った。
俺が居ると邪魔になるのか。
もちろん、叔父さんは気さくで良い人だし、悪さをしたら叱ってくれる。すがるように電話したときも夏休みなんだし俺の家来いよって、すぐ言ってくれた。
だけど俺が居ないときがある方が、やっぱり楽だろう。だから、
「うん、行ってくるよ!」
傷つくなんて、おかしいよな。
にへっとごちそうさまを言い、外へ走り出した。
やーっ!
右手に構えた虫捕りあみを振り回す。ひゅんっ、頭上で空がさける。続けて走ったら、汗がぽたっと落ちてきた。太陽は輝く。両脇の畑の上を風がすべる。汗が出るのもかまわないで走った。風といっしょに。このまま、青空まで走りぬきたい。
「あっ!」
ズサーッ。道端に突きでた根につまずいていた。砂ぼこりがたつ。膝と手のひらをすりむいていた。じんじんする。
「いたた…」
ぽろりと出たその言葉で、どうしてかふいによみがえる。夜中、居間で頭を抱えてうめく姿。喧嘩する声。はたりと落ちる、涙。
「大丈夫かい?」
突然、天から声が降ってきた。びくっとして顔をあげると、おばあさんが立っていて、俺を見おろしていた。首をちょっぴり傾げて、不思議そうに。それから顔をくしゃくしゃにして笑って、手を差し出してきた。
「ほら、坊立ちな!」
ぎゅっとその手につかまると、思いのほか強い力で引っ張り上げてくれた。ぐるん、上に広がっていた世界が少し落ちて見えた。広い空はほんの少し近くなり、おばあさんは小さくなった。
「あ、ありがとう」
つぶやくように言うと、ぽんっと頭に手が置かれた。俺を立ち上がらせてくれたしわだらけの手。目が合うと、うんうんと頷いて言う。
「転ばんよう気ぃつけて走りね」
かはっと笑って、おばあさんは歩いて行った。腰をおさえてゆっくりと。だけど、強い力で立たせてくれた人。
ありがとう。
かすれた声で、また言った。転んだ跡のついた地面と、おばあさんの小さくなったうしろ姿を確認してくるりと前を向く。山が、見えた。そっと走り出す。足はまだ痛いけれど、何だか心地よい胸の高鳴りを感じていた。山に向かって走る。虫捕りあみを振り回し、意味なく叫びながら。
青い空に太陽の光がはしる。
足元から山道が始まっている。くっきり黒い影の落ちた、頂上まで俺を運ぶ道。
「よしっ」
登れ登れ、ずんずん登れ!
道はでこぼこで、それにあみもあって走りにくいけれど、夢中で駆け上がる。太陽から落ちてくる光をまぶたに受け止め、上へ上へ。がさがさと、巻き起こる風が周りの葉を揺らす。その音に合わせ、登っていく。何も考えないでただ先へ。頂上へ。
風がくるくると通り過ぎていく。足を進める。走る。緑に埋もれながら、山道を急いで登る。きらきらと降る日光が、濡れたように黒いその道をまだらに染め上げる。
そういえば。
さっきの夢をぽやっと思い出す。オレンジ色のあれ、何だったんだろうな。
蝉が鳴く。やさしい風の音と絡まって、天に吹き上がっていく。太陽の力が広がる空。この道からは、のっぽの木々に長細く切り取られて見える。
そうやって空を見上げていたら、
「う、わぁ!」
トッ…バタン!
木の根につまづいて、思いっきり転んだ。
「いって…」
また転んじゃった、ちくしょー。ジージーと蝉に笑われている気がして、膝小僧をかばって立ち上がる。土がふかふかで、怪我はなかった。
「あれ?」
すぐ左に、細い道がのびていた。あのまま山道を駆け上がっていたら絶対見落としていたような獣道。先は勢いよく生えた草に邪魔されよく見えない。
むくむくと、好奇心が湧き起こる。行くしかないだろう。…よし。
くるりと横を向き、頬を伝う汗を拭った。あみで、ぴっと道の向こうを指す。
「出発!」
葉っぱをかき分け進み始める。い、痛い。ちくちくささる。顔を防御しながら行く。この先には何があるんだろう。どこに続くんだろう。好奇心は期待に変わっていた。何だか、わくわくする。
前方には、光が満ちていた。ただそこへ。葉っぱの波をやりすごし、前へ。
最後の一歩を踏み出すと、真っ白い日の光の中だった。思わずぎゅっと目をつぶる。まぶたの裏にサァッとオレンジ色が広がった。まるで、
「あ…」
香りと音でもしかしてと思っていたことが、目を開けて確かになった。きらきらとした青に目が奪われる。
「海だっ!」
下の方に海が大きく広がっていた。ザザーン…と、波が揺れる。やわらかい土を踏みしめ近づこうとしたそのとき、気付いた。そこに咲いているひまわりの、暖かいオレンジ色の下、女の子が海を見ていた。
その子が、何気なく振り返った。髪とワンピースが風に煽られはためく。
黒目の大きな子だった。そうしてそれが、俺の夏の始まりだった。
「あのときはビックリしたなー」
懐かしいこの場所で、回想していた。声を出したことで今に引き込まれる。自分は、子どものときから随分大きくなったなぁと、当たり前のことに驚く。
大人になった今、あの日の自分を思い返すと何だか微笑ましい。同い年くらいの女の子を、ぽかんと何も言えず見ていた。そんなところに人がいるなんて思ってもみなかったし、どうすれば良いのか分からなかった。先に口を開いたのはその子だった。
混じり気のない笑顔で声をかけてくれた。そうだ、波の音を聞きながら思い出す。あの笑顔で、俺は緊張がとけたんだ。もう一度、あの声が聞きたいな。透き通った、晴れやかな声を思い出し、意識はまたあの夏に舞い戻っていった。
最初の会話だったけれど、初めましてなんかじゃなくて友達みたいにその子は話しかけてきた。
「ねぇ、あの船ってどこに行くのかな?」
遠い海の先を示す。つられてそっちを見ると水平線の上、今にも消えそうに小さく船が浮かんでいた。青い空と青い海の間で、どこかへと進んでいた。
「アメリカだと思う」
何となくそんな気がして返事をする。海の向こうまで行ったら、何があるんだろう。
「そっかぁ、どんな所なのかな」
そう言ってちょっとだけ笑ったその子と、何だか仲よくなれるような気がした。
黙って海を見続ける相手に、とりあえず何か言おうと、俺は気になったことを聞いてみた。
「ここ、よく来るの?」
そうしたら、
「うん! お友達が出来て嬉しい。明日も、来てくれる?」
来るよ、と頷いていた。叔父さんの言うとおりここに来て良かった。
その後、そこは秘密の場所と名付けられ、二人で基地をつくることに決めた。
それからはほぼ毎日、山の頂上の少し下、海の見えるその場所へ通った。秘密の場所仲間となった女の子はいつも俺より早く来ていて、つくりかけの基地にいたり、地面で寝ていたり、出会ったときみたいに海を見ていた。
二人でいるときはそんなに喋らない。あっちがふっと何かを言って、俺が答えたり、基地をつくるときの相談とかくらい。
ある夜、お風呂上りに麦茶を飲んでいたら、叔父さんに呼ばれた。
「二週間後にさ、そこの大きい公園でお祭りがあるけど、行く?」
初めはどういうことか分からなかったけれど、まだここに居るかと聞かれているんだと理解した。夏休みの宿題は全部持ってきているし、何よりまだ帰りたくない。そしてその帰りたくないには、あの子も理由になってるなって頭の隅で思った。
「うん、行く!」
俺の返事を聞いた叔父さんは、分かったと言い、くしゃっと俺の頭を撫でた。見上げると、よく分からない表情をしていた。それから、
「もう寝ろ? 布団敷いてあるから」
と、俺をせかした。寝る部屋のふすまを閉める直前、電話をかける音が聞こえた。母さんに報告するんだろう。一瞬、かすかに届くおえつや物の壊れる音、布団にくるまって泣く自分自身を思い出した。電話がつながる前に、ガタッと大きな音をたててふすまを閉めた。早く、寝てしまおう。
二週間はまたたく間に過ぎ、いよいよ明日は夏祭りだ。
その日俺は、冷蔵庫から持ってきたラムネを二瓶抱えて山に登った。瓶はよく冷えていて、ぬるくなる前に一緒に飲もうと駆け上がると、あの子はひまわりの下で歌をうたっていた。鳥に合わせるように。
「…あ、おはよ。今日早いね」
俺に気付き、歌がとぎれる。
「うん、急いだから。はいこれ」
「わぁ、ありがとう! いただきます」
にこにこと受け取る相手に、そうだ、と話しかける。
「明日、お祭りなんだって、すぐ下の公園で。行く?」
いつもの笑顔が返ってくると思ったけれど、悲しそうに首を振られた。
「…私、行けないやぁ」
「行かないの? あ、ちょっとのぞくだけでもさ、一緒行こうよ」
だけどその子はラムネをぎゅっと握って、ごめんと言う。それからあの笑顔で、
「おみやげ、よろしくね!」
透き通ったラムネが、瓶の中で波打ちながら幻想的にきらめいていた。中のビー玉がころんと、落ちた。
ブーッ、ブーッ
小さな振動で、我にかえる。すっかり子どものころに戻っていた。急に押し寄せてくる現実に、ゆっくりと自分を取り戻す。
振動は、ポケットに入れた携帯電話で、彼女からだった。メールか、と開くと『もう10時過ぎたけれど、まだ散歩してる?』という内容だった。1時間以上この場所に、というかあの夏にいたのかと驚き、もう帰るよ、と返信をする。
ラムネ色をした空に雲がゆっくり流れていく。彼女とは、今月の終わりに結婚をする。長く付き合ってきて実家も何度か来ているが、この帰省はちゃんとした報告のためだ。そして、二人で泊まった今日、起きてすぐに俺は出かけた。この場所に別れを告げるために。
あの夏祭りのあと、風邪で寝込んでしまった俺はそのまま家に帰ることになった。そして叔父が引っ越し、あの女の子とはあれが最後になっていた。
結婚が決まったとき、ふっと思ったのだ。あの子に報告できないだろうか、と。あれから何度か来たけれど、一度も会えなかった。
「でも」
つぶやいてみる。やっぱりダメみたいだな。帰ろう、立ち上がったその時、鳥が高く鳴いた。うたうようなさえずりは晴れやかで、透き通っていた。えっ、と振り返る。ぶわりと潮風が飛んできた。オレンジ色がまぶしい、ひまわりが咲いていた。
鳥の声に、風の走りに、このひまわりに、あの子がいる。お祭りに行かれないと言ったあの表情、なぜかいつも俺より先に来ていたあの子。ここに溢れているやさしさ。
「君は…」
声に出してみる。つぶやくんじゃなくて話しかけるように。
「俺、結婚するんだ。」
ザァッと風が吹いた。かすかなその声を、確かに聞いた。ひまわりが揺れる、笑っているみたいに。
〝おめでとう〟
涙が、目のはじをぬらす。
君はずっと、ここに居たんだね。そして負けそうになっていた俺に、話しかけてくれたんだ。
「あのとき、俺、叔父の家に逃げていたんだ。弱かったから…。この場所が、君がいなかったら壊れていたと思う。元気をくれて、ありがとう」
ここに来られて良かった。君に会えて、前に進めた。もうすぐ俺は、両親の祝福を受けて結婚する。
頭を下げる。また会いにくるよ。ありがとう。
帰ったら、彼女に言おう。この場所のこと。これからのこと。それから、大好きだってことを。くるりと俺は、家路をたどり始める。
潮の香が満ちる中、オレンジ色のひまわりが、太陽を見上げ大きく花をさかせていた。
終わり
読んでいただき、ありがとうございました。