第七話
ロシーヌが自室でグランスリードに拾った狼を見せた際に意識を失ってから一日が過ぎていた。
キャメロット公爵の城では、意識のないキャメロット公爵令嬢・ロシーヌが横たわる寝台の傍に身を置くグランスリード・ドラフト公爵の姿があった。
瞼を閉じたままのロシーヌの美しい顔を見つめる彼の表情は氷よりも冷たく、そして嵐を呼ぶ黒雲のような怒りとも殺気とも思える気が背中から立ち昇っている。今、この青年に話しかけることができるのは、彼の付き人であるアルス・デュエルしかおらず、食事から着替えの用意まで、普段は使用人にさせることまでこなしていた。
アルス・デュエルは、中肉中背に人の良さが窺い知れる丸いまなこをした童顔の青年だ。本来はグランスリードの付き人ではなく、ドラフト家が編成する『翼竜隊』のうち、おもに騎乗用翼竜の飼育と訓練を管轄とする第四級翼竜隊の副隊長をしている。だが、あまり剣を閃かせる騎士という印象はなく、進んで雑用をしていつも走り回っているその屈託ない人柄と働きぶりから、自然にグランスリードから声をかけられ、その結果、外出先にまで同行することになるのだった。
「グランスリード様、昨日から水すら口にされていませんから、せめてこれだけは飲んでください」
銀杯を乗せた銀の盆を持つ姿が妙に似合うアルスが、臆することなく銀杯をグランスリードに差し出した。振り返ったグランスリードの青灰色の瞳が部屋の温度を下げたと錯覚させるほど冷たかったが、それでもアルスの言うとおりに銀杯を受け取った。そして、飲み口に顔を近づけたところで、ぼそりと呟いた。
「この甘い匂い……」
ロシーヌが倒れてから一言も口を利かなかったグランスリードがやっと声を出したことにほっとしたのか、アルスは胸を反らして笑顔で返した。
「そうです、デュエル家直伝の滋養粥ですよ。今回は特別にたっぷりと蜂蜜を入れましたので、きっと頬が落ちるほどおいしいと思います」
「何が直伝だ。麦と薬草と果物を山羊の乳でドロドロに煮込んだだけだろうが」
「いいえ、蜂蜜も入っています。ああ、グラン様は大人ですから、葡萄酒でもお入れしたほうが良かったでしょうか」
悪びれずにニコニコとしているアルスから、「文句を言わずに飲め」と言外に命令する気迫が感じられたため、グランスリードは自分が主であることを忘れ、甘過ぎる薄緑色をした銀杯の中身を、眉間にしわを寄せながらも飲みほした。
「ありがとうございます、グランスリード様」
「いや、こちらもお前に心配されるようでは、まだまだ未熟だった」
主従関係にあるばかりか、年齢もアルスのほうが若干低い。それなのに、たまにその立場が逆転することがある。それでもグランスリードはアルスを同行させるのだ。それがこの二人の関係であった。
「話しは変わるのですが、グランスリード様」
主から空になった銀杯を受け取りながら、アルスが真剣な口調で切り出した。
「ロシーヌ様はいったいどうされたのでしょうか。狼もすっかり弱って、眠ったままですし」
アルスの言うとおり、白い狼は暖炉の前に設えられた寝床で死んだように眠っていた。
グランスリードは再びロシーヌに視線を戻し、ため息を堪えた重苦しい口調で話しだした。
「これは俺の推論だが、ロシーヌは異界に魂を連れて行かれたのだろう」
「異界……」
「この狼に宿っていたのは異界の住人の魂だったとして、選ばれたロシーヌは魂だけ連れて行かれた」
「そんな。異界に住む種族と言えば、神族と有翼人です。でも、今ではこの魔法王国でも伝説と化しているのではなかったのですか」
「ああ、確証はない。だが、このウォルド王国と大地の力の繋がりを風の精霊使いが証明してくれたことを鑑みると、あながち俺の推論が的外れとも言えないだろう」
グランスリードは、ゆっくりとロシーヌの卵のようになめらかな曲線を描いた頬に手を伸ばした。暖炉で燃える炎に照らされた寝顔は血の通わぬ人形にも見えるが、かえってその美しさに神秘的な色を添えていた。
そうして、グランスリードの指先が、ロシーヌの頬に触れそうになった時であった。
「あっ」
驚きの声を上げたアルスと同様、驚きに目を見開いたグランスリードは、思わず身を乗り出していた。
「ロシーヌ?」
意識を失っていた少女は、その冬の湖を思わせる清々しい青い瞳を見せた。目覚めたばかりでぼんやりとしているのか、無言で何度か瞬きをすると、瞳をめぐらせて周囲を見回した。
グランスリードとアルスは固唾を呑んでロシーヌの様子を見守っていたが、次に耳にした言葉によって絶句した。
「――ここはどこだ。そなたたちは誰ぞ」
ロシーヌの姿をした何者かが、そこにいたのであった。