第六話
気を失って倒れたロシーヌは、見知らぬ風景の中で目を覚ましていた。
ゆっくりと上半身を起こして周囲を見回すと、何もかもが水晶のように透明な、十八年間の人生の中で見たことも聞いたこともない場所であった。
そこはとにかく広々としていた。鳥が自由に飛べるほど高い天井に、それを支える太い柱が等間隔にはるか先まで並んでいる。空気はひんやりとしており、人の足音一つ聞こえない空間は、寂しさを感じさせる一方で、心に静かな安らぎをも与えていた。
ロシーヌが目覚めたのは、床よりも数段高い所に設けられた大きな台の上で、どうやらここは城の一室というよりは神殿のような場所であることが認識できた。
「異界へ来てしまったようですね」
そう独りごとを呟いたロシーヌは、自分が意外にも冷静な心持であることに驚いていた。
確かに、魔法王国ウォルドに生まれ、翼竜も風の精霊も見たことがある。しかし、さすがに異界に迷い込んだ経験はないのだ。もっと取り乱すかと思っていたのだが、意外である。これもグランスリードの影響のたまものであろうか。
「そういえば、衣服も変わってしまうなんて、本当に不思議ね」
自分自身に目を向けると、気を失う前に身に着けていた毛織物ではなく、まるで夜着のように薄い生地の服であることに気付いた。
見知らぬ生地の手触りは絹に近くさらりとしており、上品な光沢がある。大きく開いた袂が、これに似た衣装をウォルド王国の聖職者らが着ていたことを思い起こさせた。大胆にも背中の部分に殆ど生地がなく、白くなめらかな肌が露わになってしまい赤面したロシーヌだったが、長い白金の髪でなんとか覆い隠せることに思わず感謝してしまった。
「それにしても、私はいったいどこにいるというのかしら」
自室で狼の金色の瞳を見て、グランスリードが珍しく切羽詰まった声で何か言っていたのは覚えているが、誰に連れられて、どのようにここへ来たのか記憶がない。
――まずは動いてみるしかないのだろう。
そう思い立ち、数段ある階段を降りて歩を進めようとした時であった。
ふと、太い柱が立ち並ぶ、外部の光も見えないはるか先から、大きな翼を広げた鳥が滑空してくるのが見えた。その鳥が徐々に近づくにつれ、それが鳥ではないことが発覚した。
燕のごとく空を切ってロシーヌめがけてやってくるのは、背中に大きな翼を生やした人間と同じ体型の存在であった。
衝突する――と、思わず身を縮めたが、翼を生やした者は、器用に空気を抑え込むように羽ばたくと、ふわりと床の上に降り立った。
「ロシーヌ・キャメロット、我の顔を見忘れたか」
翼人は、優しい高めの青年の声でそう少女に話しかけた。
その声に、恐る恐る顔を上げたロシーヌは、すぐに目を見開いて短く声を上げた。
「……あの狼さん?」
そう、墓地で拾ったあの白い狼だ。狼は一瞬だけ人の姿に転じたのだが、まさに今、目の前にいる青年と同じ容姿をしていたのだ。
眩しいほどの白に近い金色をした髪は、ロシーヌの白金のそれよりもさらに淡い。肌も抜けるように白く染みひとつないが、血の気もなく、どこかそら寒さを感じさせる。
しかし、瞳だけは煌々と濃密な金色に輝き、人間の瞳にあるべき瞳孔が見てとれず異様な気を醸していた。
「我が名はルーセム。この聖天宮が主、聖天使・ダニエル様に仕えるもの」
長身のグランスリードよりもさらに額一つ分は背の高い青年は、表情に乏しい抑揚のない口調で素性を明かすと、ロシーヌの白い手を取った。
見知らぬ異世界での驚愕の再会。動揺を隠せず揺れている冬の湖のような青い瞳を覗き込んだルーセムが目を細めた。
「お前はダニエル様の魂の器に相応しい」
ルーセムの金色の瞳を恐れたロシーヌは、とっさに手を振り切って後退りした。
「聖天宮とはこの世にあるのですか。それに、聖天使・ダニエルとは何者です。魂の器とは何のことか説明なさい」
両手を胸元で握りしめ、恐怖しながらも状況を把握せんと勇気を奮い立たせる少女に、ルーセムが折りたたまれていても肩幅を超える大きな翼を揺らして歩み寄った。
「近寄ることは許しません」
少々語気を強めた命令に、翼の青年は歩みを止めた。ほんのわずかだが、眉が下がったところをみると、困惑しているようだった。そして、思案して口をつぐんだかと思うと、やがて再度話し始めた。
「ウォルドの民は、天空界を忘れてしまったのか」
「……天空界」
「そうだ。ウォルド王国の、いや、この世の天空を統べる世界のことだ。翼人はお前たちの隣人であったはず」
つばさびと――。
その聞き覚えのある言葉に、ロシーヌははっとなった。
「翼人は伝説の人々ではなかったのですか」
そうだ、翼人は天の使い。彼らは書物でしか見たことがない架空の人々だと思っていた。翼人の末裔だという人物の話しも聞いたことがあるが、作り話だと決めつけていたのだ。
「神竜の加護をいただく公爵家の末裔が嘆かわしい。大地の力が弱まったのもうなずける」
「失礼な。翼人を見た者がいないのですから、どう信じろというのです」
そう口にしたところで、ロシーヌの脳裏に亡き姉・アレーナと、グランスリードの顔が浮かんだ。彼らは、誰もが諦めていた翼竜との信頼関係を取り戻すため行動し、その努力に報いるかのように、風の守護竜と精霊使いが現れたのだ。
「風の守護竜と共に風の精霊使いが現れた。となれば風竜が復活することもあり得ぬ話ではないぞ」
風竜は、ドラフト公爵家を加護する神竜と言われている。
ルーセムは、地上の世情を心得ているのか、逃げるロシーヌを追い詰めてさらに続けた。
「頑ななキャメロット家の末裔よ。お前には言って聞かせても心から信じることができないようだ。ならば我が見せてやろう。この天空界――スフィアを」
ルーセムの言葉が神託のように重みを増したかと思うと、ロシーヌの体はあっさりと青年の腕に抱き上げられた。
絶句した少女にも構わず、ルーセムは翼を羽ばたかせると、聖天宮を文字通り飛び出していったのだった。