第五話
キャメロット公爵の城は北部地方の寒さに対応した造りのため、厨房や使用人の居室がある一階部分以外には廊下というものがなかった。適当な広さの個室が連なり、目的の部屋へ辿りつくにはいくつもの小さな扉を開かなければならない。
扉の開閉を先導役の使用人に任せて歩くロシーヌの後ろにグランスリードの姿を認めた侍女頭やそのほかの人々は、明らかに安堵した表情をして二人を見送った。主が不在である今、もっとも頼りになる人物が夏の涼風のように城の空気を一変させたのだ。
自室で謹慎を言い渡されていた侍女のエリーも、こっそりとロシーヌ達の後ろ姿を見送りながら傍にいた年上の侍女に問うた。
「幼いころから家族ぐるみのお付き合いとはいえ、ドラフト公爵様はご多忙なのになぜ来て下さったのですか」
侍女頭に大目玉をくらったエリーがめげていない様子を見た先輩侍女が苦笑いして答えた。
「グランスリード様は、それはもう今は亡きアレーナ様に負けないくらいロシーヌ様を可愛がっておいでなのよ。今は少しロシーヌ様が頑なになられているから、表には分からないけれど。それに、この時期は必ず墓参りの後に城に立ち寄られているわ。ロシーヌ様には告げずにね。あなたはロシーヌ様と一緒だから知らなかったでしょう」
「では、城主様もご存じなのですね」
「そうよ。今回は偶然、狼騒動があったから、こういう状況になったの」
エリーは納得したと大きく頷きながら、心の中でため息をついた。
ロシーヌはグランスリードに対して素直になれないと言っていた。本当は、兄またはそれ以上に慕っているのに。
ロシーヌはその容姿に違わぬ美しい心根をした少女だ。願わくは彼女の想いが明るい出口を見つけられるよう手助けができたら、と思うエリーであった。
いくつもの部屋を通り過ぎると、やがて心安らぐ花の香りがするロシーヌの部屋へと到着した。
部屋の主である美少女は、ためらいもなく異性であるグランスリードを招き入れた。
使用人は下がらせたというのに、だ。
幼いころはよく出入りしていたため、おそらくはその癖が残っているのだろう。
「グラン、この狼です」
優美な白い手を少し上げ、暖炉の前でおとなしく眠っている白い毛皮の獣を指差した。
グランスリードはロシーヌに軽く笑みを向けると、痩せた狼の近くに歩み出て、すぐに品定めするように凝視した。横顔で見える青灰色の瞳は暖炉の炎に照らされてもなお冷ややかで、それはロシーヌがいつも彼を遠くに感じる一瞬でもあった。
「私にはこの狼が害をもたらすとは思えません」
たまらなくなってそう静かにもらす少女に、顔を上げた青年は張り付けたような笑顔で問うた。
「何か――ほかに変わったところはなかったか」
ロシーヌは心臓が跳びはねるかと思うほど驚いたが、努めて冷静に否定した。
「……いいえ。どうしてそのようなことを聞くのですか」
「いや、変わった狼だと思っただけだ。普通は人間に警戒心を抱くものだが、それが感じられない。かなり賢い狼なのか、それとも――」
「それとも?」
「狼の姿を借りた人外の存在かもしれないな」
どうしてグランスリードという人物は、こうも鋭いのだろうか。と、小さな怒りすら感じるほど驚愕したロシーヌに、追い打ちをかけるように青年貴公子が言った。
「ロシーヌ、この狼は俺が預かる」
「グラン、突然何を言い出すのですか」
当然、ロシーヌは抗議の声を上げたのだが、グランスリードは決して譲らなかった。
そんな青年の身勝手な態度に、キャメロットの薔薇と称賛されるロシーヌの顔が怒りで紅潮した。
「グランスリード・ドラフト。あなたにこの狼の処遇を決定する権限はありません」
「落ち着け、ロシーヌ。この狼は――」
「私は、いつまでも自分の行動に責任を取れない子どもではありません。お父様もあなたも……勝手に何でも決めないでください!」
怒りで大声を上げた本人が、頭の中がどうにかなってしまったのかと思うほど目を丸くしたが、次には悲しそうに表情を歪めて両手で口を覆った。
「ごめん、なさい。わ、わたくし……」
取り乱したことを謝罪しようとしたロシーヌを、グランスリードは静かなまなざしで見つめ、これ以上興奮させぬよう優しく声をかけようとした時であった。
『呼べ――我を呼べ』
頭の中に直接語りかけるような声がした。やや低い、静かな、しかし心が清められるような澄んだ声。
とっさにグランスリードが厳しい表情で周囲を警戒した。ロシーヌを引き寄せ、守る体制になる。
「誰だ」
部屋には二人しかいない。となると、声の出どころとして思い当たるのは、足元にいる獣だけだった。
『我を求めし者、我もまたそなたを求める』
再び『声』が頭の中に響くと、声の主はおのずと判明していた。
眠っていたはずの狼が身を起こし、いつのまにかロシーヌを見上げていたのだ。
その強く輝く瞳には理知的な意思が宿り、見る者の魂を奪いそうな力さえ感じられた。
「ロシーヌ、見てはいけない!」
グランスリードが鋭く言い放ったが、すでに遅かった。
「あ……」
短い声を残して、ロシーヌはその場に崩れ落ちてしまったのだった。