第二話
狼が現れたことで、にぎやかだった町の大通りは閑散としていた。それでなくても厚い雲が暖かな陽光を遮っている今日は、首をすくめたくなるほど寒いというのに、寂しい空気が増してしまう。
しかしそんな灰色の世界の中でも一人、春の夜空に白金の光を放つ月の女神のような少女は、毅然として目的地に向かって歩を進めていた。
「ロシーヌ様、あまり人気のない場所へは行かないで下さいまし」
町の石畳に靴が当たるコツコツという音が妙に大きく聞こえ、それがよけいに不安を煽っているのか、周囲を過剰に気にするエリーが、ロシーヌに弱々しい声をかけてきた。
少女らしく恐がりなエリーを気遣い、ロシーヌは艶やかな唇に笑みをのせると、白く優美な人差し指を外套からのぞかせ、前方に見える鉄柵に囲まれた場所を指さした。
「エリー、大丈夫よ。狼は反対方向へ逃げたと言っていたでしょう。それにほら、ご覧なさい。墓地はもう目の前よ」
ロシーヌは、気乗りしない面もちの侍女を引き連れ、迷わず広場に入っていった。
「お、思ったより普通の墓地……」
広場に入ると、すぐに整然と並んだ墓石が目に入り、エリーはほっとしたように呟いた。その呟きを逃さなかったロシーヌが短く笑う。
「おかしな子ね。どんな墓地を想像していたの」
「お嬢様、このウォルド王国は不思議がまかり通る国ではありませんか。だから、死人の魂だとか、魂喰らいの精霊が出たりしたらどうするんですか」
不思議がまかり通る国――。その言葉に、ロシーヌは一瞬黙り込んだあと、うっすらと言葉に苦悩をにじませた。
「このウォルド王国は大地の大いなる力の恩恵を受けているのは確かです。でも、その力も長い時を経て弱まり、力の象徴である竜と人との交流も希薄になってしまっているのです。だから、人里に精霊などめったなことでは現れないから安心なさい」
「でも、ドラフト卿は翼竜を飼育なさって、五大竜と大地の力を取り戻しつつあると――申し訳ありません、余計なことを申しました」
ドラフト卿の名が出た途端、ロシーヌの表情が曇ったため、エリーが慌てて謝罪した。
「そうね、グランスリードはやると決めたことは必ずやり遂げる人だわ。お姉様が亡くなられてもそれは変わらないのよ」
ロシーヌの美しい顔は彫像のように表情がなく硬かった。それは寒さのせいばかりではない。
グランスリード・ドラフトは、ウォルド王国は西部地方を治める大領主の嫡男である。現在は足を悪くした父親の代理を務めており、事実上のドラフト公爵家当主であった。そして生きていれば三十歳の誕生日を迎えていたロシーヌの姉・アレーナと同じ年齢で、ロシーヌ自身とも親交が深かった。
そう、アレーナが死ぬ十年前までは――。
「エリー、そんなに気を遣わなくてもいいのよ。私ももう、グランのしようとしていることが分からないほど幼くはないのですから。ただ、素直になれないだけです」
そう言って切なそうに微笑んだロシーヌは、ある墓の前で立ち止まった。
墓石には故人の名前は刻まれていない。
「ここよ。どうやら先客がいたようですね」
墓石はさほど大きくはないが、きれいに保たれており、白い薔薇の花束が墓前に置かれていた。
その花束を見たロシーヌの深い青色の瞳がそれとなく和やかになった。
「ロシーヌ様、この薔薇はアレーナ様の……」
「ええ。お姉様が好きだった品種よ。先客はきっとグランだわ」
「でも、ここはいったいどなたの?」
ロシーヌは、侍女の問いに微笑むと、墓石を見下ろしながら静かに口を開いた。
「この墓は、翼竜の飼育に携わって亡くなった人々のものです。お姉様とグランはよくここへ来ていて、お姉様が手ずからお育てになられた薔薇の花をこうしていつも捧げておられました。お姉様が亡くなられてからは、お父様が時折いらしていたようですが、グランもなのですね」
十二歳も年上のグランスリードは、ロシーヌにとって憧れの存在であった。亡き姉もそうであったが、聡明で行動力があり、眩しいくらいに自信に満ちあふれた青年だ。
そんなグランスリードに対して、幼い頃アレーナの死を受け入れられなかったロシーヌには、姉の親友である青年を拒絶していた時期がある。それからというもの、以前のように自然に接することができないでいた。
「私はいつグランに追いつけるのかしら」
傍にいても聞き取りづらいくらい小さな声で白いため息と供に愚痴を吐き出すと、ふいにエリーが喉を詰まらせたような短い悲鳴を上げた。何事かとエリーの視線の先を振り向くと、そこに見えたのは、白色の毛をした野犬であった。
だが、よく目を凝らしてみるとそれは犬ではなかった。
痩せた体は通常の犬より一回りは大きく、知性を感じさせる鋭い目が冷たく光っているのが遠目にもよくわかった。
「ロシーヌ様……お、狼です。何故こんなところに」
恐怖で声を震わせたエリーがそう言うのも無理はなかった。聖堂で老人から聞いた話では、狼はここより反対の方向へ走っていったはずなのだから。
ロシーヌは自分のわがままでエリーに怖い思いをさせてしまったと後悔した。少し気弱な彼女が、勇敢にもロシーヌの前に立ち、主を守ろうとしている。
痩身の狼はじっと二人の少女を見定めているようであった。否、ロシーヌをまっすぐに見つめていた。それは恐怖心からくる思い違いかとも思ったが、そうではないという確信がすぐに勝った。
「何故そんな目で見るの」
「何をおっしゃっているんです。どうかお逃げ下さい。このエリーがお嬢様をなんとしてもお守り申し上げます」
ロシーヌの呟きが理解できなかったエリーが勇ましく強い口調で言い放ったが、ロシーヌはその冬の湖のような瞳で狼を見ずにはいられなかった。
そうこうしているうちに、狼の体がわずかに動いた。それに驚いたエリーは、とっさにロシーヌを抱きしめ、狼に背を向けた。
喰われる――。そう覚悟を決めた時であった。
「エリー……エリー」
狼から目を逸らさずにいたロシーヌが、自分に抱きついて震えている侍女の背中を優しく叩いた。
「お、お嬢様、狼は?」
「ごらんなさい」
ロシーヌはそっとエリーから体を離すと、狼がいた方向を見るよう侍女に促した。
「し、死んでいるのですか」
エリーがそう表したとおり、狼はその身を苔がはびこる土の上に横たえていた。
餓死だろうか、それとも重傷を負っていたのか。
「よ、良かったですね。とにかく誰かに伝えて処分してもらいましょう」
しかし、額の冷や汗を拭うエリーに反して、ロシーヌは狼に歩み寄っていった。
「お嬢様。何てことをなさっているんですか!」
「大丈夫よ、死んでいるのか確かめるだけです」
「そんなことなさらなくても」
叫び声を上げんばかりに慌てた侍女に、ロシーヌはそれ以上なにも言わなかった。
生死の確認というのは方便であった。おそらく狼は死んでいない。そうロシーヌは直感していた。
――あの狼は私を待っている。
白金の豊かな髪が、不意に吹いた冷たい風に揺らされた。ロシーヌは薄紅色の唇を引き結び、狼に一歩一歩踏みしめるように近づいていったのだった。