第十二話
西のベルド地方を治める大領主・ドラフト公爵といえば『翼竜隊』である。
魔法と神秘の国、ウォルド王国にしか生息しない、蝙蝠の翼に蜥蜴の身体を持つ生物・翼竜。その大きさには二通りあり、一つは騎馬を一回りほど大きくした四肢の長い翼竜・リンドブルム、そして、もっとも飼育が難しいとされる、まさに飛行する巨大蜥蜴――翼竜と言えば通常はこちらを差す――だ。
腹に毒袋を持ち、その唾液は鋼をも溶かす。そんな恐ろしい特性とは裏腹に、非常に敏感で繊細な翼竜は、人間に対する警戒心も強い。常に世話をする飼育員でさえ、恐慌状態に陥った翼竜によって命を落とすことも珍しくないのだ。
そんな危険生物の飼育をするのは第四級翼竜隊で、ドラフト公爵家嫡男グランスリード自らが身分を問わず集めた人員により編成されており、軍隊のような厳しい規律や貴族の気品とは無縁だが、翼竜を飼育するために必要な知識と能力を備えた集団であった。
その第四級翼竜隊の敷地であり、土埃と動物臭がする翼竜の厩舎には、ここ数日、月の清らかな光をまとった女神のような美少女が通うという異様な事態に見舞われていた。
美少女とは言わずもがな、ロシーヌのことである。厳密には、その魂は今、聖天使・ダニエルのものであったが。
「グランスリード、今日も翼竜の厩舎へ参るのか」
第四級翼竜隊舎へ向かうべく、館の外に姿を現したグランスリードをいち早く待っていたのは、ロシーヌ・キャメロット公爵令嬢だった。宝石にも劣らぬ冬の湖を思わせる青い瞳は好奇心に輝き、人形のように白い肌と白金の艶やかな髪が晴天下で光を放っている姿は人とも思えぬ美しさである。
「今日は大人しくしていろ。絶対に館から外に出るな」
にべもなく言うグランスリードは、遠慮なく苦々しい表情をロシーヌの中にいるダニエルに向けた。もともと青灰色の鋭い目つきが怜悧で冷たい印象を与えるというのに、眉間にしわを寄せると、石にされてしまいそうな迫力がある。しかし、そこは人ならぬ聖天使、ロシーヌらしからぬ薄笑いを以って返した。
「裏表のない人間だな、そなたは」
あまり見たくないロシーヌの表情に、グランスリードは長靴の留め金の具合を見る振りをして視線を逸らした。
「これ以上、第四級翼竜隊の者たちに疑惑を持たれては困る」
「何を隠す必要がある」
「アルス――馬はまだか!」
グランスリードがとうとうダニエルを無視すると、周囲で固唾を飲んでいた使用人たちの空気が凍りついた。ドラフト家に仕える使用人たちは、ロシーヌの魂がダニエルと入れ替わっている事実を、一部の者を除いてはっきりとは告げられていない。当然、ロシーヌをこの上なく大切に扱ってきたグランスリードのこの態度は驚愕に値した。
冷たい怒りの目をした青年の横顔に、目を細めたダニエルは不満げな口調になった。
「そなたはなぜそう怒ってばかりおるのだ。何がいけない? 勝手に翼竜に乗ったことか、それとも、勝手に第四級翼竜隊の者たちに接触したことか。見るがよい、ロシーヌのこの身体には傷一つ付いておらぬぞ」
勝手に、というところに罪悪感がないダニエルに、グランスリードはしかし、何も言わなかった。なぜなら、彼の危惧はダニエルの行動にはなかったからだった。
グランスリードは、ここ数日、聖天使の食事の様子を見て危機感を覚えていた。
有翼人の中でも高位であるダニエルだからかどうか知る由もないが、彼女は用意された食事にほとんど手をつけなかった。それでもダニエルは何も変化を訴えることはなく、おそらく人間の食事は有翼人には必要ないのだということが想像できた。
しかし、身体は正真正銘、人間であるロシーヌのものだ。その彼女の顔色が最近芳しくない。このままでは本当に生死にかかわることになるだろう。
「聖天使・ダニエル」
少々疲労感を滲ませた声のグランスリードは、前髪を重たそうにかきあげた。無駄とは思いつつ、ダニエルに問うた。
「あなたはいつ、ロシーヌに身体を返すつもりだ。……おい」
すぐに返答があっておかしくないこの状況で、ダニエルからは何の反応もない。訝しんだグランスリードが、眉をひそめて再度声をかけようと口を開いたその時であった。
「どうやら、そなたの要望はすぐにでも叶えられそうだぞ」
聖天使・ダニエルは、冬の清々しい青い空を見上げた後、グランスリードの青灰色の瞳をまっすぐに見つめ、悪戯を成功させた子どものように無邪気な笑顔を見せたのであった。