第一話
北の大国、ウォルド王国。
大陸では『魔法王国』という異名で知れ渡り、周辺国とは一線を画した国である。
春よりも冬が長い気候ではあるが、緑豊かな大地の力は人知を凌駕する恩恵をもたらしている。その証拠に、彼の国に住む人々は、人間に限らない。
精霊が意志を持ち、人の姿をした妖精が独自の社会を築いている。
また、異能力を持つ人々もおり、彼らは魔法や召喚術といった信じ難い力をふるうことができた。
しかしながら、ウォルド王国民が皆、そうした異能力者かというとそうではない。大半は普通の人間であり、文化は違えど、他国の人々と何ら変わりない毎日を送っているのだ。
そんなウォルド王国の北部地方を治めるのは大領主・キャメロット公爵。
この物語は、そのキャメロット公爵の愛娘、ロシーヌ・キャメロットのささやかなある日々を綴ったものである。
***
その日は気分が落ち込むような冬の寒空で、今にも冷たい雪がしんみりと降り出しそうであった。
ウォルド王国北部にある、小さな町の古い聖堂。広くはないが、石造りの重厚な建物に一歩足を踏み入れると、少女の透き通るような美声が聞こえてきた。それは、曇天から地上に差し込む一筋の陽光を彷彿させる清浄な声で、誰もが聖堂に誘われ、歌の出所を探してしまうのであった。
歌姫は、この世のものとも思えぬ美しい少女であった。
その美しさたるや神々しく、華奢な身体からはまばゆい聖なる光が見えるようであった。
白金の髪は月光の糸のように艶やかで、背中で緩やかな波を描いている。眉目は完璧なまでに整っているが、冷たい印象はなく、子猫のような愛らしさを持ち合わせていた。なめらかな白い肌、そして冬の湖を思わせる清々しい青い瞳。
町娘とはとうてい呼べぬその容姿の持ち主の名は、ロシーヌ・キャメロット。御歳十八になる美貌の少女は、このウォルド王国北部地方を治める大領主の娘であった。
「ロシーヌ様、温かいお飲物です。お口に合うかどうか……」
ロシーヌの美声が止むと、聖堂の下働きをしている中年の女が、白い湯気を立たせた素焼きの茶碗を乗せた盆を運んできた。貴族、しかも公爵令嬢にとっては粗末に過ぎるであろう茶碗を恥じているのか、女はおずおずと公女に歩み寄った。
女の心の内を察したロシーヌは、あえて多くの言葉をかけず、優しく微笑み礼を言うと、湯呑みを盆から手に取った。
「蜂蜜入りの葡萄酒ですね。貴重なものでしょうに……」
やわらかな唇を飲み口につけ、ひと口すすると、ロシーヌはゆっくりと瞬きした。
大陸でも北に位置するウォルド王国。その中でもさらに北部にあるこの地では、多くの作物は実らない。それゆえ、町の人々にとって葡萄酒は、西部地方からわざわざ買い付けなければならない贅沢品なのだ。
その貴重な葡萄酒でもてなしてくれたことが嬉しい反面、自分は町の人々に負担となっているのではないかと不安にもなった。
そもそも、ロシーヌが町の聖堂で聖歌を歌い始めたのは、八歳の時に十二も歳の離れた姉・アレーナを不慮の事故で亡くしてからであった。
男勝りで領民の暮らしを大切に思っていた姉が、生前よくこの聖堂に足を運んでいたため、よけいに思い出深く、何とはなしに通うようになったのだ。幸い、歌声は透き通るように美しく、その容姿も功を奏してか町の人々に笑顔で迎えられている。幼い頃はそれで良いものだと思いこんでいた。
しかし、年を重ね、世の中の機微を理解できるようになると、徐々に不安が胸中に広がっていった。
ロシーヌは大領主の娘である。領民である彼らにとって、笑顔で迎えるしか選択肢はないであろうし、貴重な葡萄酒を出さなければならないと思っているであろう。
自分はもう、無邪気に領民と関わっていい年齢ではなく、寂しいことだが、姉との思い出に浸ることもやめなければならないのかもしれない。
と、暗く悲しい気持ちに沈み込みながら、温かい紅色の葡萄酒を飲み干すと、聖堂の外が騒がしくなった。
「エリー、何事なの」
様子を見に行かせた侍女が戻ってくると、ロシーヌは人だかりができている入り口付近を遠目に見ながら、期待に満ちた声音を抑えきれずに問うた。生来、好奇心が旺盛で、父親のキャメロット公爵の悩みの種の一つである。
「お嬢様。お教えいたしますが、けっしてあの人だかりに混ざろうなどとお考え召しませんように。よろしいですわね」
「あなたまでお父様と同じことを。くぎを刺してから続きを話すのだから。私は幼子ではありません。自分で考えて行動します。さぁ、教えてちょうだい」
ロシーヌの冬の湖のような瞳にさざ波が立ち、美しく輝いた。こんな時、この女神のような美少女に抵抗できる者などいないのだ。特に侍女のエリーは、主であるロシーヌと同じ年齢で、友人のような感覚も持ち合わせている。それで、ため息をつきつつも騒ぎの原因を話してくれたのだった。
「狼が町に現れたですって」
恐れるどころか、さらに目を輝かせたロシーヌに、エリーが焦りを見せた。
「狼といっても、痩せて弱っているそうですから、すぐに処分されますわ。お、お嬢様、いけませんよ。迎えの馬車が来るまで、この聖堂でおとなしくしていてくださいませ。絶対にいけません――って、お嬢様!」
侍女の制止の声もむなしく、ロシーヌは長い裾の衣服にもかかわらず、早足で人だかりに向かって行ってしまった。
***
「通していただけるかしら」
ロシーヌの凛とした声が町人の人だかりの背中にかけられると、最初に振り返った中年の女がまずは仰天し、その女の声に驚いた隣の男からまたその隣へと驚きが連鎖していった。そうして、まるで潮が引くように人の群の中に道筋ができあがっていたのだった。
「狼が現れたのですって?」
人々に驚きの形相で避けられて少し傷ついたロシーヌは、努めて和やかな笑顔を保ちながら近くにいた老人に訊ねた。
「おお、これはお嬢様。そうです、なにやら手負いの痩せ狼のようで。おそらく、群からはぐれたのでしょうが、人里に堂々と現れるとはふてぶてしい奴です。しかも、手負いのくせに逃げ足が速くて、この聖堂前を通り過ぎていったのですよ。わしゃこの目でその姿を見ましたよ」
背骨は曲がり、日に焼けた顔はしわくちゃで、まるで襤褸のような老人は、しかし、美しいロシーヌに声をかけられたことを誇らしく思ったのか、白く濁った目を大きく開いて意気揚々と答えた。
「そうだったの。まだ狼は逃げているのね」
ロシーヌは老人に礼を言うと、背後に追いついてきたエリーに帰り支度をするよう指示を出した。
「ロシーヌ様、馬車がまだ……」
年若い侍女は困惑して言いよどんだが、彼女の美しい主は待ってはくれなかった。
「寄りたい場所があります。そこまで歩いて行きますから、馬車はあとから来るよう手配してちょうだい」
「どちらへ行かれるのですか」
温室育ちの令嬢に見えてその実外見に反した機敏な動きをする主に慌てたエリーに、ロシーヌは苦笑を堪えて答えた。
「お墓よ」
「お、お墓……。いったいどなたの」
「行けば分かります。町中が狼に気を取られている今なら、騒がれずに済むでしょう。幸い、狼が去っていった方向と反対ですから、襲われる心配もないでしょうし」
ロシーヌの説得力ある説明に、素直なエリーはいつの間にか感心までしてしまい、月の女神のような少女に頬を紅潮させていた。