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月をみる

作者: 昏也
掲載日:2026/08/19

 GWが過ぎ去った5月某日22時。皐月はデスクの前で疲れ果てていた。明日提出の会議資料の作成が終わらない。終電まであと2時間、なんとしてもその前には仕上げなければならない。


 皐月の部署は、各課から上がってきた資料を取りまとめている。その為、他課から資料が上がってくるのが遅ければ遅いほど、それは皐月の残業時間に直撃するのだ。その上、今週は後輩が家庭の都合で休みがちで、その影響も受けて皐月はもう2日連続で終電帰りである。


 実家の隣市の市役所へ就職してはや十数年。一人暮らしのアパートには待つ人もなく、身軽ではある。後輩のように、配偶者や子どもがいて制約のある中働くより、今の方が仕事に集中できてやる甲斐がある、とも思う。しかし、30をいくつか過ぎた身には連日の残業は応える。もう20代の頃のようにはいかない、と年々思う。


 オフィスにはもう、数人しか残っていない。パラパラといる同僚たちのデスクには、最近1階の自動販売機に入ったエナジードリンクの缶がちらほら見える。皐月はカフェインに弱いので飲んだことはないが、疲れ切った体に、炭酸と甘さは沁みる気がする。


 休憩がてら、1階まで行こうかな。

 作業中のファイルを保存し、両手を挙げて伸ばす。

 

「....っあー...」


 パキパキッ、と背中から小さな音がした。そういえば1時間以上はPCに向かい合っていた気がする。

 皐月は、財布を手に階段へ向かった。



 とっとっと、と、オフィスのある3階から1階まで、重力に任せて階段を降りる。上りはエレベーターだが、下りは階段を使うのだ、少しでも体を動かすために。


 ワンアップ、ツーダウン。


 いつかどこかで見た合言葉を心の中で唱える。

 

 1階は、すでに灯りの落ちたエントランスだ。片隅に、現金のみ受け付けてくれる自動販売機がある。後輩たちには不評だが、皐月は、この自販機のために財布に小銭を切らさないようにするのが、実は嫌いではない。


 自販機と向き合い、変わり映えのないラインナップをとっくりと見る。


 コーヒー、不可。カフェオレ、不可。こんな時間にカフェインを取ったら、ただでさえ貴重な睡眠、その質が下がってしまう。エナジードリンク、絶対に不可...。


 眺めているうちに、裏口の方から足音が聞こえてきた。誰か外から戻ってきたのだろうか。


「佐藤さん、お疲れ様」


 皐月の課の池田課長だった。皐月の5歳上、デスクは2つ向こう、独身。仕事は出来すぎるほど出来るが、部下の気持ちはなかなか汲んでくれないと噂。...でも、皐月は密かに、いいな、と思っていた。眼鏡の奥の切長な目が、皐月たち部下の動きをよく見てくれてはいるけれど、コミュニケーションが不器用でそれが伝わりにくところが可愛い、と思っているので。


「課長、お疲れ様です」

「夕方出してた、A社への回答書確認したよ。あとでチャットにも入れるけど、2枚目に修正が必要。佐藤さんのせいじゃないんだけど、共有されてた資料が古いやつだった」 


 ほら、こういうところ。一言が優しいと思う。でも、チャットで返ってくる文面は割と固いので、課長を怖がって直に話すのを避けている人はその優しさになかなか気づかない。皐月は、課長の優しさが他の同僚に理解されにくいのが、もどかしいような、でもそれでいいような、なんとも言えない気持ちになる。


「ありがとうございます。後で確認します」

「今日はもう遅いから、明日以降で大丈夫。それとも、一息入れてもう少しやっていくの?」


 課長は、皐月が向き合っていた自販機を見やる。


「ちょっと今やってる作業が詰まっちゃって...。一息入れようと思ってたところです」


 結局、ジャスミンティーに狙いをつけて、財布から小銭を拾い出す。が、長くキーボードを叩き過ぎた指は皐月のいうことを聞いてくれなかった。


「あっ...」


 滑り落ちた小銭が数枚、暗いフロアにチャリチャリン、と甲高い音を響かせた。


「あわてんぼうさんだな」


 ちょうど足元まで転がった10円玉を、池田課長が骨ばった長い指で拾い上げる。伸ばした手首に、ワイシャツからちらりとメタリックベルトの腕時計が覗く。


 ...もう!本当に!そういうところ!

 皐月は内心どぎまぎしながら、


「すみません。ありがとうございます」


 課長に数歩近づき、手のひらを差し出す。


「じゃあ、俺は先に上戻ってるから」


 硬貨を皐月の掌の中央に乗せると、課長は階段を昇ってエントランスを後にした。



 ガコンッ


 自販機から出てきた冷たいジャスミンティーを頬に当てる。知ってる。薄々は自覚していた。でも、今の出来事は決定的だ。あわてんぼうさん、って、なんだその言い方、可愛すぎる。照れる。でも嬉しい。


 自販機横の窓からふと外を見ると、丸い月。今日は満月だったか。

 オフィスラブってどうするんだ。職場恋愛って、失敗した時のことを考えるとハードル高いでしょ。でも、心臓はふわふわと落ち着かない。


 月をみる。

 深呼吸して、少し冷静になる。とりあえず、明日も、仕事がんばろう。


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