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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
最終章 【画霊】 がれい
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■第61話 エピローグ「朧月夜」


 二週間が経った。


 夜。自分の部屋。

 ベッドに寝転んで天井を見ている。電気は点けていない。カーテンを閉め忘れた窓から、十一月の夜の光がうっすらと差し込んでいる。


 右腕を上げて、天井に翳した。

 あのオボロの線は、もうほとんど消えている。

 ジャグアのインクは二週間で自然に薄れる。笹子先輩がそう言っていた通りだ。河川敷で初狩が描いた白い狐——その輪郭は、日に日に皮膚から消えていった。最初の数日は入浴しても濃く残っていたのが、一週間を過ぎたあたりから急に薄れ始めて、今はもう、よほど目を凝らさなければ痕跡すら見えない。


 皮膚の上には、残っていない。


 だが、俺の中には残っている。

 あの日の線の順番。初狩がどこからペンを入れたか——耳の先端だった。そこから額へ、鼻先へ、ひねくれた目元へ。途中で一度だけ迷って、頬の毛並みの角度を少し直した。尻尾は一筆で引いた。太い線。自信のある線だった。

 笹子先輩が土手を駆け上がってきた時の荒い息。ジャグアのペンを受け取った時の、才の指先の冷たさ。朝の河川敷の少し冷たい風。草の匂い。川の音。

 全部、消えない。

 超記憶のせいだ。良いものも悪いものも、この頭は同じ解像度で保存してしまう。故障だとねむは言った。たぶん、そうなのだろう。


 でも今は——この故障が、少しだけありがたかった。

 消えた線を、消えないまま持っていられるから。


 消えない線と、消えた影。

 初狩が描いた狐は消えた。だがその記憶は消えない。

 オボロという存在は消えかけている。だが、あの白い狐がいた記憶は——俺の中で、たぶんこの先もずっと消えない。



**



 ポケットの中でスマホが震えた。

 DiscordのDM。ねむからだ。


 「新しい噂、立ってる」


 何のことだ、と思いながら続きを読む。


『桂明の非公式Discordと、地域の噂スレッドで拾った』

『河川敷の展望ベンチに、夜になると肌に絵を描き合う二人組が現れるらしい』

『見かけた人は、なくしたものが少しだけ戻る』

『描けなくなった人は、もう一度だけ線が引けるようになる』

『相手の名前をちゃんと呼べば、願いじゃなく、自分の気持ちが戻る』


 読みながら、頭の中で情景が浮かんだ。

 あの朝の河川敷。展望ベンチ初狩が俺の腕に狐を描いていた、あの場所。

 誰かが見ていたのかもしれない。土手の向こう側を散歩していた人か、ジョギングしていた人か。遠くから見たら、確かに「肌に絵を描き合う二人」に見えただろう。


 ねむのDMが続く。


『たぶん才たちのせい!』

『河川敷が都市伝説スポットになった!』


 少し面白がっている文面だった。ねむにしては珍しく、句点の代わりに感嘆符が一つだけついている。


 苦笑した。


 まあ、俺たちのことだな……。


 「願いが叶う」ではなく「なくしたものが戻る」。


 その噂の形が、妙にこの数週間と噛み合っている。空席。輪郭の喪失。いなかったことにされる。ずっとそういう話をしてきた。その反転として、「戻る」が噂の効能になっている。


 誰かが意図したわけではないだろう。噂というのはそういうものだ。事実が人の口を通るたびに少しずつ形を変えて、最後にはもとの出来事とは違う、でも不思議と本質だけは残った物語になる。



**



 DMを閉じて、窓の外を見た。


 月が出ていた。

 はっきり丸い月ではない。少し霞んでいる。雲の薄い幕が月の輪郭をぼかして、光だけが滲むように広がっている。朧月。

 十一月にしては暖かい夜だ。窓の向こうに住宅地の屋根が並んでいて、その向こうに電線があって、さらに向こうに空がある。町の気配が、夜の中にかすかに残っている。


 もう、REXの暗がりから白い狐は現れない。

 もう、差出人不明のクエストメールが外から来ることもない。

 オボロは消えた——と言い切るには、少しだけ正確ではない。


 消えたのは、外部の存在としてのオボロだ。

 REXの暗がりに立って、皮肉を言って、偉そうに助言を飛ばしてきた白い狐。あの姿は、もう見えない。

 だが——。


 ねむのDMを見て苦笑した、あの瞬間。

 あるいは今、月を見上げたこの瞬間に。

 頭のどこかで、古風で皮肉っぽい声が聞こえた気がした。


『また面白そうな噂が立っておるではないか』


 幻聴ではない。記憶だ。

 オボロがこういう場面でこういうことを言う——その「声の型」が、俺の中に残っている。超記憶が保存した無数のオボロの言葉と声色と口調が、新しい状況に合わせて再生される。外から聞こえたのではなく、内側で鳴っている。


『お主(ぬし)、次はどうするつもりじゃ?』


 もう外部存在ではない。

 でも、俺の思考の癖として、記憶の中に溶けた形で、まだいる。

 たぶん、これからもずっと。何かがあるたびに、頭の隅で古風な声が響いて、皮肉の一つも飛んでくるのだろう。俺が壊れそうになった時に生まれた安全装置は、姿を消しても——機能だけは、俺自身の中に残った。


 少しだけ目を閉じた。


「……うるさいな」


 声に出して言った。誰もいない部屋で、天井に向かって。


「もう寝る」


 返事はない。

 当然だ。もう、返事をする存在はいない。

 でも——不思議と、寂しくはなかった。



**



 スマホを閉じた。

 ベッドの横のスタンドライトに手を伸ばして、消した。部屋が暗くなる。

 窓から差す朧月だけが、うっすらと天井と壁を照らしている。


 都市伝説は終わらない。

 誰かが語り、誰かが覚え、誰かが少しだけ意味を変えていく。

 それなら、きっと——俺たちの物語もそうだ。

 たぶん。


 右腕を持ち上げた。

 消えた線の上を、親指でゆっくりなぞる。

 何も残っていないはずなのに、耳の先端から始まった線の順番だけは、今もはっきりわかる。


 もう、差出人不明のメールは来ない。

 でも、なくなったわけじゃないものもある。


 窓の外では、朧月がぼんやりと町を照らしていた。


 そのとき、俺のスマホが震えた。

 メールの着信ランプが、暗い部屋で小さく灯る。

 差出人の欄には、俺の知らない名前があった。



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