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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
第6章 【塵塚怪王】 ちりづかかいおう
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■第42話「大丈夫という免罪符」


 その夜、雪花《ゆきはな》真白《ましろ》は自室のベッドの上で、スマホの画面を見つめていた。


 退院したのは今日の午後だ。五ヶ月ぶりの自分の部屋は、入院前と何も変わっていなかった。机の上に置きっぱなしだった教科書。開きかけのまま伏せてあった文庫本。カーテンの隙間から差し込む街灯の角度まで同じだった。何も変わっていない。変わったのは自分だけだ。左足首にはまだ鈍い痛みがあり、体力は明らかに落ちている。それでも、明日から学校に行けると医師に言われた。


 スマホには、クラス委員の入江さんから転送されてきたクラスLINEへの招待リンクがある。入院中、真白はそのリンクを一度も踏まなかった。顔も知らない三十九人のグループに、五ヶ月遅れで「はじめまして」と入っていく勇気が、どうしても出なかったからだ。


 代わりに画面に映っているのは、桂明高校の非公式Discordから流れてきた画像だった。退院の報告をした中学時代の知人が、「ねえこれ、桂明だよね?」と送ってきたものだ。


 画像には、机の天板が映っていた。

 表面のあちこちに、文字が散らばっている。


 真白は最初、それが自分の机だとは思わなかった。

 画像の下に並んだコメントを読んで、初めて理解した。


 ——「1年3組の空席の机らしい」

 ——「ずっと休んでた子の席だってさ」

 ——「呪いの机って呼ばれてるやつ」


 呪いの机。

 自分の机が、そう呼ばれている。


 文字の意味を読もうとして、やめた。読む前に、もっと手前の感覚が来たからだ。


 気持ちが悪い。


 まだ一度も座ったことのない机だった。自分のために用意されていた、見たこともない机。それが写真の中では、もう何人もの手で触られたもののように見えた。天板にはいくつもの筆跡が散らばり、色の違うインクが重なり、消しゴムの擦れた跡が残っている。


 自分のもののはずなのに、自分の知らない汚れ方をしていた。


 真白はスマホを布団の上に伏せた。

 天井を見つめる。白い天井。入院していた病室の天井は、もう少し黄ばんでいた。


 泣かなかった。

 泣くほどの感情が、まだ形になっていない。嫌悪と、怖さと、それからもうひとつ——行かなければずっと「いなかった人」のまま、九月も十月も過ぎていくという焦りが、胃のあたりで混ざり合っていた。


 明日、学校に行く。

 お見舞いカードをくれたクラスメイトたちがいる。顔は知らない。名前もほとんど覚えていない。でも、行かなければ始まらない。


 真白はもう一度スマホを手に取り、画像を閉じて、アラームを六時にセットした。


**


 翌朝。

 九月の朝の空気は、まだ夏を引きずっていた。


 真白は校門をくぐるまでに三回、足を止めた。

 一回目は駅の改札を出たとき。二回目は通学路の坂の途中で。三回目は校門の前で。そのたびに、今日はやめようか、と思った。そのたびに、やめたら次はもっと行けなくなる、と自分を押した。


 1年3組の教室は、二階の廊下の奥にあった。

 扉を開ける。


 教室の空気が、一瞬だけ止まった。


 三十人以上の視線が、入口に立った真白に集まる。ほんの一秒か二秒。でも彼女には、その沈黙が果てしなく長く感じられた。


「あ、雪花さん?」


 最初に声をかけたのは、前の方の席にいた女子だった。名前は知らない。


「えっと、退院したんだ。よかったね」

「席、こっちだよ。窓側の——」


 別の女子が立ち上がって、真白の机を指さした。


 真白は小さく頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 自分の机に近づく。


 椅子を引こうとして、真白の手が止まった。


 天板の表面。あちこちに散らばった文字。昨夜、画像で見たものが、そのまま目の前にある。鉛筆、ボールペン、マジック。テスト範囲のメモ、友達への伝言、意味のない落書き。向きも大きさもバラバラに、好き勝手な場所に書き殴られている。


 一瞬、息が止まった。


「え、ちょっと……」


 近くにいた女子が真白の視線の先を見て、顔をしかめた。


「昨日、先生が拭いとけって言ってたじゃん」

「掃除当番、誰だったっけ?」

「うわ、まだ残ってるし」

「ごめん、雪花さん、ちょっと待って。雑巾——」


 そこで、一限目のチャイムが鳴った。


 ほとんど同時に、数学担当の後藤先生が前扉を開けた。


「席につけ。始めるぞ」


 ざわめきが、ぴたりとは止まらなかった。

 教師は教卓に教材を置きながら、窓際の列を見た。


「……何だ、その机」

「昨日の掃除当番が、そのままにしたみたいです」

と誰かが言った。


 教師は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに出席簿を開いた。


「今は授業を始める。あとできちんと掃除しろよ」


 それで終わった。


 真白は何も言わなかった。


 席に座る。


 椅子を引いたとき、脚がリノリウムの床を擦る感触が手に伝わった。他の生徒のものとまったく同じ椅子。同じ机。でも、目を落とすたびに文字がある。


 黒。青。赤。鉛筆の灰色。

 テスト範囲。伝言。意味のない落書き。悪口。


 後藤先生の声は前から聞こえていた。

 黒板に書かれる数式も見えていた。

 でも、頭には入らなかった。


 ノートを開くたび、視界の端に「死ね」が入る。

 シャーペンを持つたび、引き出しの縁に残った擦れ跡が見える。

 授業の五十分が、机の上だけでできているみたいだった。


 画像越しでも気持ちが悪かった。

 実物は、もっとだった。


 引き出しの奥に手を入れると、指先に消しゴムのカスが触れた。誰かのシャーペンの芯が折れて挟まっているのも見つけた。


 自分がいない間、この机は落書き帳にされていた。


 わかっていたつもりだった。五ヶ月も空席なら、誰かが使うのは当然だ。自習の時間に、荷物を置いたり、隣の席の延長として使ったり。それはそうだろう。


 でも。


 座るのが嫌だった。

 知らない人間が書き散らした落書きを目の前にして、一日中過ごすのだ。自分の席のはずなのに、もう自分の席ではないみたいだった。


**


 一限目が終わった直後だった。


「雪花さんさぁ」


 隣の席の女子が、軽い調子で話しかけてきた。悪気のない、人懐っこい笑顔だった。


「その机、夏休みにちょっと話題になってて——」

「今、それ言わなくてよくない?」


 後ろの席から、別の女子が小声で制止した。隣の女子は「あ、そっか」と口を閉じ、何事もなかったように前を向いた。


 制止した子も、本人のために言ったわけではないのだろう。

 この場が気まずくなるのを避けただけに見えた。


 真白はそのやり取りを、全部聞いていた。

 聞いていて、何も言わなかった。


 誰かが雑巾を取りに行くこともなく、掃除当番の話も、それきりだった。机の落書きは上を向いたまま残り、二限目、三限目、四限目と授業だけが流れていく。


 たぶんこの落書きはシンナーとかじゃないと取れないから、放課後になるまで我慢するしかない。


**


 昼休み。


 教室の配置が昼食モードに変わる。机を寄せ合うグループ、購買に走る男子、弁当を広げる女子。その中で、真白は自分の席に座ったまま、鞄から持ってきたおにぎりを出した。


 すぐに、女子のグループが近づいてきた。


「雪花さん、一緒に食べよ?」


 三人か四人。笑顔で、明るくて、たぶん本当に悪気はない。


「好きな食べ物ある? 購買のメロンパン、意外とおいしいよ」

「部活とか考えてる? まだ二学期からでも入れるとこあるし」

「なんか困ったら言ってね、ほんとに」


 言葉だけを見れば、全部まっとうだった。

 でも真白の耳には、それが「もうクラスの一員として振る舞ってください」という指示に聞こえた。名前すら覚えていない相手から、五ヶ月分の空白を飛ばして「仲間」の距離を求められている。その速度に、体がついていかなかった。


「ありがとうございます」

「部活は今は考えていません」

「困りごとは……大丈夫です」


 真白はそう答えた。

 おにぎりを一口齧って、「おいしい」と小さく言った。


 女子たちは安心したように笑った。


「よかったー。なじめそうだね」

「私たちでよければ、いつでも声かけてね」


 大丈夫。

 そう言ったから、大丈夫なのだ。この子は受け入れてくれた。私たちはちゃんと迎えられた。——その安心が、女子たちの表情に浮かんでいた。


 でも真白の「大丈夫」は、受け入れでも信頼でもなかった。

 空気を壊さないための、防御の言葉だった。


 大丈夫と言えば、それ以上踏み込まれない。

 大丈夫と言えば、相手は満足して引いてくれる。

 大丈夫。大丈夫です。ありがとうございます。すみません。何でもいいです。


 ——その全部が、防壁だったのだろう。


 真白はおにぎりを二個食べた。味は覚えていない。


**


 昼休みがそろそろ終わる時間だった。


 隣の席の女子——さっき「話題になっててさ」と言いかけた子が、また真白の方を向いた。悪気のない顔だった。むしろ、昼休みに話せなかった分を取り戻すような、人懐っこい笑顔ですらあった。


「ねえ雪花さん、あの机の画像って見た?」


 真白は、一瞬だけ呼吸が止まった。


「ほんとはあれ、雪花さんの机だったんだよね。なんか、呪いの机って呼ばれてたの、ちょっと面白くない? うち写真撮ったの私なんだけど、まさか本人来るとは思わなくて——」


 笑いながら言っている。

 本当に、ただの雑談として言っている。面白い出来事を共有しようとしている。あなたの机がネットで話題になったんだよ、すごくない?——そういうテンションだった。


 真白の中で、朝からずっと薄い膜のように張っていたものが、音もなく破れた。


 撮ったのは、この子だったのだ。

 面白かったから撮った。バズると思ったから共有した。机の持ち主が誰かなんて、気にもしなかった。


 そして今、持ち主が目の前にいるのに、それを「ちょっと面白くない?」と笑える。


 悪意はない。

 だから余計に、どこにも怒りの持って行き場がなかった。


「……すみません」


 真白は静かに言った。


「少し、気分が」


 席を立つ。

 走らない。泣き叫ばない。誰も責めない。ただ、誰にも迷惑をかけないように、教室の後ろの扉から出ていく。


 足音を立てないように歩いた。

 廊下に出て、扉が閉まってから、手のひらがじっとりと汗ばんでいることに気づいた。


**


 ——ここから先は、俺――高尾才が見ていたことだ。


 雪花が教室を出ていった後、1年3組の空気は一瞬だけ揺れて、すぐに元に戻った。


「まだ本調子じゃないのかも」

「久しぶりの学校だしね、疲れたんじゃない?」

「ちょっと気遣いすぎたかな」


 善意の解釈が、教室を素早く修復していく。

 誰も、「さっきの一言が刺さったのでは」とまでは考えない。考える理由がない。あの子は「大丈夫」と言っていた。笑っていた。おにぎりも食べていた。だから大丈夫なのだ。体調が万全じゃないだけだ。——そういう処理が、教室のあちこちで無言のうちに完了していく。


 俺は自分の席から、雪花が立ち上がる瞬間を見ていた。


 泣き顔ではなかった。怒り顔でもなかった。

 表情はほとんど動いていない。声も震えていなかった。「すみません、少し気分が」という言葉は、ちゃんと完成していた。


 ただ、手だけが震えていた。


 机の端から離れる瞬間、指先がわずかに天板を引っ掻いた。意図した動作じゃない。力の入れ方がうまくいかなかっただけだ。たぶん、雪花以外の誰もそれに気づいていない。


 限界だけが手に出ていた。


 あの「大丈夫」は、防壁だったのだ。

 雪花はあの言葉で自分を守っていたのかもしれない。

 少なくとも、さっきの手の震えはそう語っていた。


 そのズレが、昼休みの終わりに破裂した。


 ——悪意ではない。だからこそ、罪は薄く、広く、見えにくい。


 クエストの文面が、頭の中で勝手に再生された。


 これは、犯人を捕まえて終わる話じゃない。

 机の落書きも、今朝の歓迎も、昼休みの善意も、さっきの雑談も、全部が同じ構造の上にある。誰か一人が雪花真白を傷つけたんじゃない。みんなが少しずつ、「いない人の場所」を雑に使った結果が、今日この教室で本人を刺した。


 入学式の日からずっと。

 五ヶ月かけて積もった塵が、持ち主が戻ってきた瞬間に、まとめて降りかかった。


**


 雪花真白は教室を出て、しばらく校舎をさまよっていた。


 授業中の校舎には、しんと静まりかえり、ときおり教室から漏れ出る教師の声が廊下に響いていた。


 保健室には行かなかった。職員室にも行かなかった。教室を出てから、真白は校舎の中をあてもなく歩いていた。渡り廊下を抜け、旧館の階段を上がり、誰もいない特別教室の前を通り過ぎ、また新館に戻る。保健室に行けば誰かが「どうしたの」と聞く。職員室に行けば担任が「何かあった?」と聞く。そのどちらにも、答える言葉がなかった。


 ようやく心が落ち着いた頃、雪花真白は1年3組の教室に戻ってきた。


 彼女は扉をそっと開ける。


 だが、教室には誰もいなかった。

 そういえば五限目は体育だったと思い出す。


 真白は自分の机の前に立った。


 天板には、五十三の書き込みがある。自分に向けられたものではない言葉たち。テスト範囲のメモ、友達への伝言、くだらない落書き、意味のない線、そして「死ね」の二文字。全部が、自分の不在の間にここに捨てられたものだ。


 天板の落書きが目に入った。もう見慣れてしまった。見慣れたくなかった。


 鞄からシャーペンを取り出した。


 落書きの隙間に、薄い筆圧で書く。力を入れすぎないように。角度を変えないと読めないくらいの、かすかな字で。他の落書きに紛れて、わざと目立たないように。


 まず、一行。


 ——やっぱり、私はいなかったみたいです


 それだけ書いて、手が止まった。

 しばらく、シャーペンの先を天板に当てたまま動かなかった。


 これを書いて、どうなるのか。誰が読むのか。他の落書きに紛れて、また「面白い」と笑われるだけじゃないのか。


 でも。

 完全に何も残さないまま消えるのは、もっと嫌だった。

 助けを求めているわけじゃない。誰に向けて書いているのかもわからない。ただ、この机に言葉を捨てたのは自分じゃないと——ここに座るはずだった人間は別の言葉を持っていたと、それだけ残しておきたかった。


 真白はもう一度、シャーペンを動かした。

 さっきの一行の下に、四行を書く。


 しろい花が、石段に落ちています

 らくになれるわけじゃないです

 はじめて鈴の音が近いと思いました

 なにも願えないままです


 書き終えて、真白は机を見つめた。

 数十の落書きの隙間に、薄い灰色の文字が五行。光の角度によっては、ただの擦り傷に見えるかもしれない。周りの落書きのほうがよほど目立つ。誰にも気づかれないまま消えるかもしれない。それでも、書かないよりはましだった。


 真白は再び教室を出た。そのまま職員室にも保健室にも寄らずに帰るつもりだったが、昇降口まで来たところで教師に呼び止められ、結局“体調不良で早退”という理由をこじつける。



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