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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
第5章 【ドッペルゲンガー】
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■第39話「観測者の存在未検出」


 夜のREXは、昼より少しだけ涼しい。


 扉を閉めて、ポータブル電源を入れて、扇風機を回す。壁際の格闘ゲームの筐体が、暗闇の中でガラス面だけをぼんやり光らせている。俺以外に誰もいない。夏の虫の音が、シャッターの隙間からかすかに聞こえてくる。


 デスクトップPCの前に座って、モニターの電源を入れた。ブラウザが開く。タブが三つ残っていた。


 ひとつ目のタブを開く。

 谷上瑠璃のアカウント。新しい動画の再生数は伸び続けている。コメント欄の空気も変わった。なりすましアカウントは凍結された。中規模の勝利。クエストとしての手応えは、ある。


 そのとき、メールソフトの受信欄が一度だけ更新された。


────────────────────────────

差出人:不明

件名:クエストNo.0005『どっぺるさん』任務完了

────────────────────────────


 本文は短かった。


────────────────────────────

本文:

模倣は終わらない。

だが、“唯一”にしがみついた者は、まだ自分の輪郭を失っていない。


救済は確認された。

────────────────────────────


 俺は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。


 ほっとしながらふたつ目のタブを開いた。

 イラスト投稿サイトのランキング。初狩《はつかり》の最新作がデイリー十一位に入っていた。昨日は十五位だった。上がっている。コメント欄には「色がきれい」「空気感がすごい」「ファンになりました」が並んでいる。そのすぐ下に、あの——初狩の画風に似たイラストが八位にいる。山田先輩が見つけたやつだ。


 みっつ目。俺の小説投稿サイトのマイページ。


 閲覧数:37

 ブックマーク:1

 評価:0

 感想:0


 ブックマークが、増えていた。


 0が1になっていた。


 一瞬、心臓が跳ねた。誰かが、俺の小説をブックマークした。読んで、残す価値があると判断して、ボタンを押した。たった一つの数字だが、それは間違いなく人間の意思だ。


 ——そう思えたのは、一瞬だった。


 すぐに、嫌な考えが浮かぶ。


 初狩だ。


 被服部で、俺が投稿サイトの画面を開いていたのを、初狩は見ていた。URLも、ペンネームも、その気になれば確認できたはずだ。しかも、REXのPCを共有している以上、初狩がブラウザの履歴からアカウントを見つけることは難しくない。


 俺のアカウントを見つけて、数字がゼロなのに気づいて——同情で、押したんじゃないか。


 読んだからじゃない。面白かったからじゃない。ただ、何もないのがかわいそうだったから。あるいは、リポストを頼んだお返しのつもりで。


 ブックマーク1。


 その「1」が、届いたものなのか、恵んでもらったものなのか。


 確かめる方法はない。誰がブックマークしたかは表示されない。初狩かもしれないし、まったく知らない誰かかもしれない。でも、一度そう思ってしまった以上、「1」はもう純粋な数字には戻れなかった。


 ——疑っている自分が、一番嫌だった。


 たとえ初狩が同情で押していたとしても、それを責める権利は俺にはない。むしろ感謝すべきだ。でも、感謝できない。「本当は誰も俺の小説なんか読んでいない」と思い込んだほうが楽だから。期待しなければ傷つかない。ゼロのままなら、ゼロを嘆くだけで済む。


 1になった瞬間、「でもそれは本物じゃないかもしれない」という疑いが生まれる。


 0のほうがましだった。そう思ってしまう自分が、どうしようもなく惨めだった。


 モニターの画面を閉じた。


 三つのタブ。谷上先輩のアカウント。初狩のランキング。俺のマイページ。


 谷上先輩は、コピーされすぎて自分が消えることを恐れた。似た顔が増えて、輪郭が溶けて、「どれが本物?」と言われて壊れかけた。


 初狩は、見つけてもらえる側にいる。真似されるほど上へ行った側にいる。描けば反応が来て、投稿すれば数字が動いて、今まさにランキングを登っている。


 俺は——。


 誰にもコピーされない。


 検索しても何もヒットしない。コメントもない。感想もない。模倣の対象にすらならない。存在しているのに、誰の画面にも映っていない。


 コピーされる恐怖の裏側に、コピーすらされない虚無がある。

 そんな風に気づいたことが、今、自分自身の胸に戻ってきている。他人の痛みとして観測していた構造が、そのまま自分に刺さっている。


『——痛いのう』


 声が聞こえた。


 右肩のあたりに、冷たい気配。白い毛並みの残像が視界の端にちらつく。


 オボロだ。


 姿は見えない。声だけが、耳の奥に直接届く。


「うるさい」

『うるさかろうと構わぬ。主よ、ひとつ聞いてよいか』

「聞くな」

『聞くが。——お主は今回、谷上瑠璃の痛みに向き合ったな。似た顔が増えて輪郭が溶けていく恐怖を。笹子の小僧と一緒に、あの娘が自分の顔を取り戻す手伝いもした』

「……ああ」


『では、自分の痛みとはどう向き合う』


 答えなかった。


 オボロの気配が、少し近づいた。


『他人の痛みには干渉するくせに、自分の痛みにはいつも"まだその段階じゃない"と言い訳するのう、お主は』

「……わかってるって」

『お主がこの五つ目の怪異に関わっている間、ずっと見ておった。谷上瑠璃の問題を解くことに集中して、自分のことは後回しにしておった。クエストを解くたびに、お主の空洞は深くなっておる。それに気づいておらぬわけがなかろう』


 俺は椅子の背もたれに体を預けた。天井を見上げた。蛍光灯の残骸が、錆びた金具にぶら下がっている。いつもの光景。


「……気づいてるよ」


 声が小さくなった。かすれるような言葉で続ける。


「気づいてる。他人の問題を解いてる間だけ、自分の問題を忘れられるから——観測者でいるんだろ、俺は。クエストが来て、事件を調べて、作戦を立てて、解決する。そのサイクルの中にいる間は、俺にも居場所がある。役割がある。でも、クエストが終わった瞬間に——」


 ——何もない。


 役割がなくなったら、俺には何が残る。


 小説はゼロ。絵は描けない。衣装も作れない。プログラミングもできない。「好き」と呼べるものが何かすら、はっきりしない。


 篠原先輩に言われた言葉が蘇る。


『君だって"見ている側の人間"って役をやってるだけじゃないのか』


 あのとき反論できなかった。今も、できない。


 観測者でいることは——逃避だったのか。


 他人の問題を解くことで、自分の空白を見ないようにしていただけなのか。


 オボロは何も言わなかった。


 答えを待っているのか、それとも、もう十分だと思っているのか。白い毛並みの気配が、右肩のあたりからゆっくりと薄くなっていく。


 俺はしばらく、天井を見ていた。



**



 どのくらいそうしていたのかわからない。


 扇風機の首振りの音だけが、暗いREXの中で繰り返している。セミはもう鳴いていなかった。夜が深くなっている。


 ふと——考えが、別の方向へ動いた。


 クエスト。


 毎回毎回、絶妙なタイミングで届くクエストメール。


 最初は座敷童——クエストは「"いない子"にされる」。初狩だけでなく、俺自身の記憶にも刺さった。

 次が百目——クエストは「無限の選択肢を潰せ」。ねむだけでなく、選ばないことで自分を殺していた俺にも刺さった。

 三つ目がのっぺらぼう――クエストは「レッテルの正体を見極めろ」。笹子先輩に貼られたレッテルを剥がす話だったのに、俺の中にある

「モブ」の烙印まで疼いた。

 四つ目が覚(さとり)――クエストは「自分という幻想を見破れ」。篠原先輩の仮面を暴いたはずが、「観測者」を名乗る俺の仮面まで見透かされた気がした。

 五つ目がドッペルゲンガー――クエストは「"唯一"という幻想を壊せ」。谷上先輩はコピーされて消えかけた。俺はコピーすらされないまま、最初からどこにもいなかった。


 全部、学校の都市伝説と噛み合っていた。

 そして全部、俺の傷に届いていた。


 偶然にしては、出来すぎている。


 そもそも、このクエストメールは何なんだ。


 誰が送っている。何の目的で。なぜ俺のところに来る。なぜ毎回、学校の都市伝説と一致する。なぜ毎回、事件の当事者だけでなく俺の内面まで見透かしたような文面が届く。


 これまでは「来たから解く」で動いてきた。差出人不明のメールに従って、クエストをクリアして、次のメールを待って、また動いて。


 でも——。


 ミッションの内容を追う前に、誰が何の目的で送っているのかを確かめるほうが先じゃないのか。


 そう思った瞬間、PCの通知音が鳴った。


 メールソフトのウィンドウが、モニターの右下にポップアップした。


────────────────────────────

差出人:不明。

件名:クエストNo.0006『塵塚の空席』

────────────────────────────


 俺は画面を睨んだ。


 ——今かよ。


 考えた瞬間に来る。疑い始めた瞬間に来る。このタイミングの良さ自体が、もう気持ち悪い。


 メールを開いた。


────────────────────────────

本文:

【ミッション】捨てられた言葉の主を見つけろ。


ひとつだけ空いた席がある。

誰のものでもないと思われた場所には、やがて無数の言葉が捨てられる。

悪意ではない。だからこそ、罪は薄く、広く、見えにくい。

塵が積もれば、名もない怪異は形を持つ。


声なき声を拾え。

見えなかった「ひとり」を、元の場所へ戻せ。

────────────────────────────


 読み終えて、椅子の上で動けなくなった。


「……空席?」


 声に出した。自分の声が、暗いゲーセンの中で妙に響いた。


「また学校の話かよ。っていうか——なんでこんな都合よく来るんだよ」


 苛立ちが混じった。今までは、クエストが来たらすぐに動いていた。座敷童も、百目も、のっぺらぼうも、覚も、どっぺるさんも。差出人がわからないまま、文面に従って、事件を解いて、完了メールを受け取って。


 でも今回は——すぐには動けなかった。


 「声なき声を拾え」。


 「見えなかった『ひとり』を、元の場所へ戻せ」。


 その文面が、他人の問題としてではなく、俺自身に刺さっている。


 見えなかった「ひとり」。


 それは、教室の空席に座るはずの誰かのことだ。でも同時に——俺のことでもあるんじゃないのか。


 誰の画面にも映らない。検索してもヒットしない。ブックマーク1すら疑ってしまう。「存在未検出」のまま、クエストを解くことだけを居場所にして生きている人間。


 空席。


 俺自身が、空席みたいなものだ。


 ——でも。


 メールの文面をもう一度読んだ。


 「誰のものでもないと思われた場所には、やがて無数の言葉が捨てられる」。


 何かが引っかかった。


 空席に捨てられた言葉。悪意ではない罪。塵が積もって怪異になる。


 どっぺるさんの事件が、その文面の向こうに透けて見えた。まだ何も起きていないのに、すでに何かが始まりかけている予感がある。


 ——このメールの正体を知らないまま、また次へ行くのか。


 そう思う自分がいる。


 でも同時に、この「空席」を放っておけない自分もいる。見えなかった「ひとり」という言葉が、俺の中の何かに引っかかって離れない。無視しようとしても、読んでしまった以上、もう知らないふりはできない。


 疑っている。


 信じてはいない。


 でも、行かざるをえない。


 俺はメール画面を閉じて、PCの電源を落とした。モニターが暗くなる。筐体のガラスに自分の顔が映る。暗い店内に、扇風機の音だけが残っている。


 立ち上がって、出口に行き扉に手をかけた。少しだけ持ち上げると、夜の空気がREXの中に流れ込んできた。湿った夏の風。アスファルトの残り熱。遠くで電車が走る音。


 空を見上げた。街灯の光で星はほとんど見えない。商店街のアーケードの骨組みだけが、夜空を細く切り取っている。


 まだ夏休みは終わらない。


 次のクエストが待っている。


 そして俺はまだ、自分の痛みに向き合えていない。



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