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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
第5章 【ドッペルゲンガー】
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■第37話「選んできた顔」


 前日の夜、REXで一人で考えた。


 正論をぶつけても、谷上先輩は壊れるだけだ。「唯一じゃなくても価値はある」なんて言葉は、届く相手には最初から届いているし、届かない相手にはどれだけ繰り返しても響かない。それは、俺自身が一番よく知っている。


 言葉で説得するのは無理だ。


 じゃあ何なら届くのか。


 ——体験だ。頭ではなく手で触れるもの。自分の選びを、自分で見る時間。


 笹子先輩にLINEを送った。


 『明日、被服部でひとつ試したいことがあります。谷上先輩も呼べますか』


 返事はすぐに来た。


 『ええよ。何するん?』

 『うまく説明できないんですけど——谷上先輩に、自分の輪郭を自分で触ってもらいたい、っていうか』

 『ほんまに説明できてへんな。まあええわ、やってみ。うちも手伝う』



**



 翌日の午後。被服部の部室は、いつもと違う景色になっていた。


 裁断台の上に、笹子先輩が広げたものがある。リップが五本。ファンデーションのサンプルが三つ。ネイルチップの束。ヘアクリップが何種類か。同系色のTシャツとブラウスとキャミソール。全部、似たような色味——ピンクベージュからコーラルピンクの範囲に収まっている。


「笹子先輩、これ全部どうしたんですか」

「百均とドラッグストアで集めてきた。バイト代がちょっと消えたわ」


 笹子先輩はミシンの前に座って、何事もないように生地を広げている。


 山田先輩が裁断台の端の小物入れを漁って、ヘアクリップの下から細いペンを一本つまみ上げた。


「笹子っち、これも使うん?」

「ああ、それ前に買ったジャグア。コスプレで肌に模様入れたい時用」

「ふーん」


 山田先輩はそれ以上気にも留めず、小物入れに戻した。


 部室には俺と笹子先輩と山田先輩がいた。初狩《はつかり》はまだ来ていない。朝のLINEでは「今日は午前中に一枚仕上げてから行きます」と言っていた。最近の初狩は、絵を描くのが楽しくて仕方がないらしい。


 通知が鳴るたびに嬉しそうに画面を確認して、その勢いのまま次の絵に入る。いいサイクルの中にいるように見える。目も輝いている。


 ——まぶしい、と思った。


 それ以上は考えない。今日は谷上先輩の話だ。


 十分後、谷上先輩が来た。


 部室のドアを開けて、裁断台の上を見て、足が止まった。


「……何これ」

「実験」


 笹子先輩が立ち上がった。ミシンの前から裁断台のほうへ移動して、並べたコスメと服を手で示す。


「"谷上瑠璃っぽさ"って、何でできてるんかなって思って。ちょっと確かめてみたかったんよ」


 谷上先輩は裁断台の端に立ったまま、並んだリップやブラウスを見回した。表情が読めない。


「……何する気?」

「まず、うちがやる。見ててな」


 笹子先輩はリップを一本取った。コーラルピンク。鏡に向かって、唇に塗る。男子の唇に、女子用のリップが乗る。色はきれいだった。


 次に、ピンクベージュのブラウスを自分の胸に当てた。鏡に映った自分を確認する。


「ほら。色味は瑠璃ちゃんの系統やろ? リップもブラウスも、瑠璃ちゃんが使ってるのと近い色」

「……うん。てか、そのリップうちの定番と同じ系統だね」

「やろ? でも——」


 笹子先輩が鏡を指差した。


「瑠璃ちゃんに見える?」


 谷上先輩は鏡の中の笹子先輩を見た。コーラルピンクのリップ。ピンクベージュのブラウス。色は先輩の投稿動画の雰囲気に近い。


 でも、どう見ても笹子玲だった。


「……見えない。玲くんにしか見えない」

「そやろ。同じ色を使っても、うちはうちにしかならへん。骨格も、肌の色も、塗り方の癖も、全部違うから。でも、サムネイルの色味だけ見たら似て見えるんよ。色は同じやもん」


 笹子先輩はリップを置いて、ブラウスを裁断台に戻した。


「ネットで似てる子が増えてるのって、たぶんこれと同じことやと思う。色が同じ。角度が同じ。パーツが同じ。でも、本人にはなれてへん」

「……それは、わかってる」


 谷上先輩の声が低くなった。


「わかってるよ。真似してるだけだって。でも、サムネイルだけ見たら同じに見えるじゃん。コメント欄で『どれが本物?』って書かれたら——」

「うん」


 笹子先輩は遮らなかった。


「そこが嫌なんやろ。わかる」


 笹子先輩は、裁断台の上のコスメと服をもう一度示した。


「次は瑠璃ちゃんの番」

「あたしの番?」

「ここに並べたの、全部"瑠璃ちゃんっぽい"系統のやつ。色味は近い。雰囲気も近い。でも全部同じやない。ちょっとずつ違う。この中から、瑠璃ちゃんが"あたしっぽい"って思うのを選んでみて」


 谷上先輩は裁断台の前に立った。


 五本のリップを順番に見た。手に取って、蓋を開けて、手の甲に試した。一本目。二本目。三本目。


「……これは違う」

「何が違うん?」

「色は近いけど、ラメが入りすぎ。あたしのメイクだと、ラメはリップじゃなくてハイライトで入れるの。リップは艶だけでいい」


 四本目を試した。


「これも違う。質感がマットすぎる。あたしはもうちょっとうるっとさせたい」


 五本目。


「……これが一番近い。でも、本当はもうちょっとだけ黄み寄りがいい。あたしの肌だとこのくらいのほうが浮かないから」


 俺は裁断台の反対側から見ていた。


 谷上先輩の手が、迷いながらも確実に何かを選んでいる。「違う」と言うたびに、彼女の中の基準が表に出てきている。色、質感、艶の量、肌との相性。それは他人に教わったものじゃなく、先輩が自分の顔の前で何百回もメイクを繰り返して積み上げてきた判断の層だった。


 服も同じだった。


 ブラウスとキャミソールとTシャツ。全部似た色味。でも谷上先輩は一枚ずつ手に取って、鏡の前で体に当てて、すぐに分けていく。


「これは首回りが開きすぎ。動画で撮ると鎖骨に影が変に入る」

「これは色が近いけど、生地が安っぽい。照明当てたらわかる」

「……これ、悪くない。でも丈が長いと腰の位置がわからなくなるから、あたしだったらここでたくし上げる」


 手が止まらない。次々に「違う」と「惜しい」と「ここはこうじゃない」が出てくる。


 谷上先輩は気づいていない。自分がどれだけ細かく選んでいるか。どれだけ膨大な判断を、無意識に重ねているか。


 笹子先輩は、黙って見ていた。


 全部選び終えたあと、笹子先輩は裁断台の上を手で示した。谷上先輩が「あたしっぽい」と選んだものが、左に寄せてある。残りが右。


「——見てみ。左と右、色味はほとんど同じやろ?」


 谷上先輩は二つの山を見比べた。


「……確かに。遠目で見たら同じに見えるかも」


「でも瑠璃ちゃんは、全部違う理由で分けたやん。ラメの量、艶の質感、生地の厚さ、丈の長さ、照明との相性。その判断って、誰かに教えてもらったん?」

「……ううん。自分で、やってるうちに」

「やろ。それが、"谷上瑠璃の選び方"や」


 笹子先輩はリップを一本取って、自分の手の甲に塗った。谷上先輩が「一番近い」と言った五本目。


「うちがこれ塗っても、瑠璃ちゃんにはならへん。サムネイルの色味だけ真似しても、選び方までは真似できへん。コピーされてるのは完成品だけで、そこに行くまでの判断は、瑠璃ちゃんの中にしかない」


 谷上先輩は黙っていた。


 否定も肯定もしなかった。ただ、自分が選んだリップとブラウスの山を、じっと見つめていた。


「……でもさ」


 谷上先輩の声は小さかった。


「それって、あたしにしかわかんないことじゃん。画面の向こうの人には見えないじゃん。サムネイルが同じに見えたら、結局同じでしょ」

「せやな」


 笹子先輩はあっさり認めた。


「見えへんよ、普通は。完成品だけ見て、似てるって言う。それはしゃあない」


 谷上先輩の顔が少し歪んだ。期待していた答えではなかったのだろう。


 笹子先輩は続けた。


「でもな。見せ方は選べる。完成品だけ並べたら、そら似て見える。でも、"なんでそれを選んだか"まで見せたら、同じにはならへん」


 谷上先輩が顔を上げた。


「どういうこと?」

「瑠璃ちゃんがさっきやったこと、そのまま動画にしたらどうなる? リップ五本並べて、『これはラメが多いからあたしには合わない』『これは質感がマットすぎる』『これが一番近い、でももうちょっと黄み寄りがいい』って——」

「——それ、メイク動画じゃなくない?」

「メイク動画やなくてええやん。谷上瑠璃が何を選んで何を外してるかの動画。完成形だけじゃなくて、途中の判断まで見せる動画」


 沈黙が落ちた。


 俺は、ここで口を挟んだ。


「谷上先輩。真似されてるのって、たぶん完成したとこだけなんです」


 谷上先輩が顔を上げた。目元が、ほんの少しだけ揺れる。


「サムネイルの色味とか、前髪の角度とか、リップの色とか。外から見える結果だけが先に似てくる」

「……」


 谷上先輩の視線が、裁断台の上の二つの山へ落ちた。自分で選び分けたリップとブラウス。その指先が、さっき選んだ一本のリップに触れる。


「でも、なんでそれを選んだのかまでは、たぶん誰も追えてない」

「……それ、あたしにしかわかんないじゃん」


 反論の形にはなっていた。でも声は弱かった。突っぱねるというより、自分で言いながら確かめているみたいだった。


「はい。たぶん、普通はわからないです。でも、その選び方は、まだ谷上先輩の中に残ってる」


 俺は言った。


 谷上先輩はしばらく裁断台の上を見つめていた。自分が「あたしっぽい」と選んだ山と、「違う」と外した山。色味はほとんど同じ。でも、仕分けた理由は全部違う。


「……動画、か」


 谷上先輩がぽつりと言った。


「盛れた顔を見せるんじゃなくて、選んでる途中を見せる……?」

「やってみたらええやん。やりたくなかったら、やめてもいいし」


 笹子先輩が軽く言った。押していない。「やるかやらないかは瑠璃ちゃんが決めてな」という距離の取り方。


 山田先輩が窓際から声を出した。


「面白いと思うけどね、それ。盛り動画より、そっちのほうが谷上っちっぽい」


 谷上先輩は山田先輩を見て、それからまた裁断台を見て、最後に自分の手の甲を見た。さっき試したリップの跡が五色、手の甲に並んでいる。


「……ちょっと、撮ってみようかな」


 声は小さかった。でも、昨日までの「別によくない?」の軽さとは違う。自分で出した声だった。



**



 その日の夕方。


 部室にはもう俺と谷上先輩しか残っていなかった。笹子先輩は用事で帰り、山田先輩は職員室に書類を出しに行って、そのまま帰ると言っていた。初狩は結局、今日は被服部に来なかった。


 谷上先輩は部室の鏡の前に立っていた。


 裁断台の上には、さっき選んだリップとブラウスが並んでいる。スマホを三脚に固定して、鏡の角度を調整している。窓からの西日が部室に差し込んで、谷上先輩の横顔を橙色に染めていた。


「高尾くん」

「はい」

「撮り方、ちょっとだけ見ててくれない。変じゃないか確認したい」

「……俺でいいんですか」

「玲くんに頼むと美意識で直されるし、山田先輩は帰っちゃったし。高尾くんは素人でしょ。素人の目で見て変じゃなかったら、たぶん大丈夫」


 少し間があった。さらに先輩は付け加える。


「……あと、さっきちゃんと言ってくれたじゃん。『なんでそれを選んだのかまでは、たぶん誰も追えてない』って。あれ、地味に効いたんだよね」


 褒められてはいない。でも、頼まれている。


「わかりました」


 谷上先輩はスマホのカメラを起動した。画面の中に自分の顔が映る。いつものメイク。今日の顔。


 でも今日は、「盛れた完成形」を撮るためじゃない。


 谷上先輩はリップを一本取った。手の甲に塗る。カメラに向かって話し始める。


「これは色味は近いんだけど、ラメが入りすぎなの。あたしのメイクだと——」


 声が止まった。


 カメラの前で、谷上先輩の手が震えていた。リップを持つ指が、微かに揺れている。


「……ごめん。ちょっと待って」


 録画を止めた。スマホを三脚に戻して、両手で顔を覆った。


「——なんか、恥ずかしい」

「恥ずかしい?」

「こういうの、見せたことないから。完成品じゃなくて、途中の判断とか、失敗とか。それを見せるって——なんか、すっぴんを晒すより恥ずかしいかも」


 西日が壁に長い影を落としている。部室は静かだった。廊下の向こうで、どこかの部活が片づけをしている音がかすかに聞こえる。


「……でも、やる」


 谷上先輩は顔から手を離した。


「完成形だけ見せて、それでコピーされて、『どれが本物?』って言われるくらいなら。あたしがどうやって選んでるかを見せたほうがいい。それは真似できないから。真似しようがないから」


 谷上先輩はもう一度、録画ボタンに指を伸ばした。


 鏡の中に、谷上先輩の顔が映っている。メイクは完璧。照明の角度も悪くない。


 でも今日の動画は、完璧な顔を見せるためのものじゃない。


 完璧に至るまでの、取捨選択の全部を見せるためのものだ。


 谷上先輩の指が、録画ボタンの上で一瞬だけ止まった。


 息を、吸った。


 止めた。


 この先は、俺が見ているのも違う気がした。


 選ぶところまでは手伝えても、最後にカメラの前へ立つのは谷上先輩自身だ。

 ここで他人の視線がひとつ増えるだけで、また「見られる側」の顔に戻ってしまう。


 ——そこで俺は、部室を出た。


 廊下に出ると、渡り廊下の窓から夕焼けが見えた。空がオレンジから紫に変わりかけている。アスファルトの照り返しはもう弱くなっていて、コンクリートの壁から昼の熱がゆっくりと抜けていくのがわかる。


 谷上先輩がどんな動画を撮るのか、俺にはわからない。


 画面の向こうの人間が、また「量産型」と書くかもしれない。「どれが本物?」と比べてくるかもしれない。選んできた過程を見せたところで、それを見てくれる人間がどれだけいるかもわからない。


 でも、谷上先輩は今、自分で選んでいる。


 誰かに言われたからじゃなく、自分で「やる」と決めて、カメラの前に立っている。


 その瞬間だけは——コピーしようがない。


 渡り廊下の向こうで、セミが鳴いていた。夏は、まだ終わらない。



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