第二章 積み重なる嘘
深夜の書記室。
窓の外ではまだ、勇者アレスの帰還を祝う宴の喧騒が遠く響いている。
だが、俺の目の前にあるのは、静まり返った絶望だった。俺は、書庫の奥から過去数年分の報告書を引っ張り出し、次々と机に並べていった。
一枚、また一枚と、アレスの「功績」に指を触れていく。
【ログ】
事象:巨大ワイバーン討伐
実行者:傭兵団ガルド
所在地 : 火山帯・噴火口周辺
【ログ】
事象:巨大ワイバーン討伐同行
実行者:勇者アレス
所在地 : 山麓・避難民キャンプ
行動:待機
【ログ】
事象:戦果報告の提出
実行者:勇者アレス
「……まただ」
報告書と、ログが噛み合わない。
もし、このログが正しいなら…この国が信じている英雄譚は、全部ウソだったことになる。
俺は低く呟いた。
ペンを握る右制の中指が、いつもの「ペンだこ」の感触を伝えてくる。
書記官として、俺はこの数年間、彼らの嘘を「公式な記録」として清書し続けてきたわけだ。
自分の無知が、吐き気を催すほどに忌々しい。
アレスが提出した美しい報告書。その一文字一文字が、今は泥を塗った落書きにしか見えなかった。
「……レインさん?まだ、お仕事ですか?」
背後で、控えめな声がした。
振り返ると、ギルドの受付嬢であるミリアが、湯気の立つカップを盆に乗せて立っていた。
「ミリアか。ああ、少し調べ物があってね」
「まあ、働きすぎですよ。ほら、ハーブティーを淹れてきました。少し休んでください」
彼女はいつもの、春の陽だまりのような笑顔で近づいてくる。
俺は礼を言い、温かいカップを受け取った。ハーブの香りが、少しだけ逆立った神経を鎮めてくれる。
「……ねえ、ミリア。君は、アレス様のことをどう思っている?」
何気なさを装って、俺は尋ねた。
ミリアは一瞬だけ、小首をかしげて考え込む仕草を見せた。
「どう、と言われましても……。強くて、優しくて、まるでお伽話から飛び出してきたような方ですよね。なぜか、アレス様のために働くのが当たり前のことのように感じるんです」
その言葉を聞いた瞬間。
ミリアの周囲の空間が、ほんの一瞬だけ滲むような揺らぎを見せた。
……今のは、なんだ?
俺は眉をひそめる。このスキルは、本来「触れた対象の記録」しか表示しないはずだ。だが、今見えたものはログではない。
……まるで、世界そのものが一瞬だけ噛み合わなくなったような。
「当たり前のことのように、か。……それは、君自身の意志なのかな?」
「えっ……? ええ、もちろんですよ。……変なレインさん」
ミリアはクスクスと笑った。
だが。
俺の目には、笑っている彼女の横顔に浮かんだ「一瞬の空白」が見えていた。
人形が瞬きを忘れたような、血の通わない無表情。
それは、文字通り「設定」された感情が、本人の意志を上書きした瞬間の歪みに見えた。
「……ごめん。変なことを聞いたね。ありがとう、ミリア。もうすぐ上がるよ」
「はい、おやすみなさい。無理しちゃダメですよ?」
ミリアが部屋を出ていく。
俺は彼女が置いていったハーブティーを一口含み、再び書類の山に向き直った。
さっきのミリアの言葉が、頭の隅に引っかかったまま離れない。
……だが今、向き合うべきはこの歪な『現実』だ。ログによれば、討伐の事実は報告書とは異なっている。
俺がこれまで積み上げてきた幾多の『公式記録』と、この目に映る『ログ』……どちらを信じるべきか、脳が拒絶を繰り返している。
だが、もしログが真実を告げているのだとしたら──
なぜ、誰もこの矛盾に声を上げない?
功績を盗まれたはずの者たちさえ、満面の笑みで彼を称えている。
……おかしい。
まるで、出来事が起きた瞬間、その場にいた人間たちの記憶まで、都合よく書き直されているかのようだ。
もしそうなら。
この男が弄んでいるのは、紙の上の記録なんかじゃない。
俺は、さらに深く、世界の記録へと意識を沈めた。
すると、視界の隅で、今まで見たこともない色のウィンドウが、静かに、しかし確かな光を放ち始めた。
【世界ログ:深層アクセス】
権限レベルの昇格を確認
世界の『初稿』を展開します
意味がわからない。だが、ログは止まらない。
【世界ログ】
事象:世界生成
目的:『執筆』および『観測』
状態:未完成の物語
「……執筆? 物語だと……?」
その瞬間、脳を直接焼かれるような、膨大な情報の奔流が流れ込んできた。
騎士団の兵士の記憶に、不自然な「空白」がある。
ミリアの感情には、設定される前の「初期値」がある。
そして——出来事そのものに、書き換えられた「痕跡」がある。
本来は存在しないはずの分岐。
削除されたはずの戦闘。
挿入された「英雄譚」。
この世界の至る所に、誰かが触れ、書き直した「継ぎ目」が残っている。
……理解してしまった。
俺は書記官だ。
原稿の継ぎ目くらい、見れば分かる。
これは歴史じゃない。
原稿だ。
この世界は、誰かが書いた「原稿」でできている。
そして、アレスはその原稿を、外側から勝手に書き換えている「招かれざる校閲者」ということか。
その真実に辿り着いた瞬間。
ギィィ……。
ミリアが閉めていったはずの扉が、ゆっくりと開いた。
振り返らなくても分かる。
背中を刺すような、傲慢で、毒々しいほどの「英雄」の気配。
「こんな夜更けまで、俺の戦歴を読み返してくれているのか。……熱心なことだな、書記官」
そこには、月の光を背に受けた勇者アレスが、完璧な笑みを浮かべて立っていた。
この作品を気に入っていただけたら、評価で応援していただけると嬉しいです!




