第一部|第一章 世界のログ
「また書類の山か……」
俺――レインは、ギルドの奥深くにある薄暗い書記室で、深く、重いため息をついた。
机の上に積み上がった依頼書と報告書は、もはや地層のようだ。冒険者たちが華々しく持ち帰るのは魔物の首や財宝だが、それらが「公的な事実」として歴史に刻まれるためには、俺のような書記官がこの紙の山を捌かなければならない。
戦う者がいれば、記録する者がいる。
——記録することが、俺の仕事だ。
もっとも、剣を振るう才能も、魔力を練るセンスも皆無だったから、消去法で、インク臭い書記官の仕事に落ち着いたわけだが。
———ウォオオオオオオッ……!!!
ふと、閉め切った窓の外から地響きのような歓声が聞こえてきた。
通りでは人々が熱狂し、色とりどりの旗を振っている。理由は、嫌でも耳に入ってくる。
今日、王都に帰還したのだ。
魔王を討ち果たした人類の希望――勇者アレスが。
ギルドの書記官である俺の机にも、最優先処理を促す真っ赤な封蝋が押された報告書が置かれている。
――魔王討伐報告書
提出者:勇者アレス
俺はインクで汚れた指先で、苦笑いしながらその表紙を撫でた。
「……英雄様は、俺が一度も拝んだことのない魔王を倒したってわけか」
同い年の連中は皆、最前線で名を上げている。それに比べて俺は、窓の外の熱狂とは無縁の場所で、ただ紙の海に沈んでいる。
……まあ、高望みしても始まらない。
俺のステータスは、平均値をなぞったような平凡そのものなのだから。
そう思い直してペンを走らせようとした、その時だった。
視界の端に、ノイズのような半透明の文字が走った。
「……? 目が疲れてるのか?」
瞬きをしても、消えない。それどころか、焦点が合うにつれて文字はどんどん鮮明になっていく。
それは、見慣れたステータス画面によく似ていた。だが、ステータスとは本来、使用者が宙で開くものだ。しかし、目の前のそれは、俺の意志とは無関係に視界へ静かに割り込んできていた。
名前:レイン
職業:書記官
固有スキル : 《ログ閲覧》
「ログ……?」
聞いたこともないスキルだ。
剣術や火魔法のように、身体を強化したり事象を操ったりする類のものではないらしい。
試しに、その文字列に意識を集中させてみる。
瞬間、俺がさっき置いたばかりの「インク瓶」の上に、小さなウィンドウが現れた。
【ログ】
対象:ガラス製のインク瓶
動作:机に置いた
実行者:レイン
時刻:1分前
「……行動記録か?」
どうやら、目の前で起きた「事象」の履歴が見えるらしい。
試しに机を叩いてみる。
【ログ】
対象:机
動作:打撃(微弱)
実行者:レイン
時刻:直近
時刻も、力加減も、対象も――全て、寸分の狂いなく正確だった。
だが、表示されるのは「終わった行動」だけだ。
「……地味だな」
思わず肩をすくめる。
どうやら、戦闘で敵の動きを予測できるほど速いわけでもなさそうだ。精々、誰かが俺の机からペンを盗んだ時に犯人を特定できるくらいか。
いかにも書記官らしい、裏方特化の能力。
俺は苦笑し、仕事に戻るべく「魔王討伐報告書」を捲った。
そこには、勇者アレスがいかにして魔王城の結界を破り、伝説の聖剣を振るって魔王の心臓を貫いたかが、流麗な文字で書き連ねられている。
…まさに英雄譚。後世に語り継がれるべき輝かしい記録。
だが。
俺がその報告書に意識を向けた瞬間、ログが暴力的とも言える速度で更新された。
【ログ】
事象:魔王討伐
場所:魔王城・玉座の間
実行者:王国軍第七騎士団
補助者:宮廷魔導師団
【ログ】
事象:魔王討伐同行
実行者:勇者アレス
所在地:魔王城・前線基地
行動:待機
「…………え?」
ペンが止まった。
思考が、白く凍りつく。俺は目をこすり、もう一度ログを凝視した。
だが、何度見ても、そこにあるべき名前が存在しない。
このスキルは、バグではないのか?ありえない「誤植」を突きつけられ、俺の思考が拒否反応を起こす。これは数分前に手に入れたばかりの、得体の知れないスキルが吐き出した記録に過ぎない。
だが、ログは俺の戸惑いなど意に介さず、淡々と記録を並べ続ける。
【ログ】
事象:魔王へのトドメ
実行者:第七騎士団長・ガルド
所在地:魔王城・玉座の間
【ログ】
事象:魔王討伐同行
実行者:勇者アレス
所在地:魔王城・前線基地
行動:待機
【ログ】
事象:戦果報告の提出
実行者:勇者アレス
「そんな……バカな」
心臓の鼓動が、不快なほど速くなる。
手元の報告書には確かに書かれている。「勇者アレスがパーティーを率い、自らの手で魔王を倒した」と。
だが、この突如現れた「ログ」は、別のデータを示している。
――このログが示す情報が本当に正しいのか、俺にはまだわからない。ただ、目を背けることができなかった。
戦ったのは、騎士団や魔導師団だ。
命を懸けたのは、名もなき兵士たちだ。
勇者はただ、その功績を奪っただけ……?
手が震えるのを抑え、俺は他の書類を掴んだ。昨日受理したばかりの、勇者による「ワイバーン討伐報告」。
【ログ】
事象:ワイバーン討伐実行
実行者:傭兵団ガルド
所在地:渓谷上空・制空域
【ログ】
事象:ワイバーン討伐同行
実行者:勇者アレス
所在地:後方支援陣地
行動:待機
【ログ】
事象:戦果報告の提出
実行者:勇者アレス
さらに、先月の「辺境の村の救出記録」。
【ログ】
事象:ゴブリン討伐実行
実行者:地方守備隊
所在地:村外縁部・防衛線
【ログ】
事象:ゴブリン討伐同行
実行者:勇者アレス
所在地:後方支援陣地
行動:待機
【ログ】
事象:戦果報告の提出
実行者:勇者アレス
めくる。
めくる。
狂ったように紙を捲り、ログを読み取る。
全てだ。
……全て、嘘だった。
窓の外では、今も「英雄」を称える声が響いている。
『救世主、人類最強の剣、聖人』
だが俺の視界には、吐き気を催すほど残酷な――信じたくはないが、しかし、どうしても否定できない記録が、積み重なっていた。
【ログ】
対象:勇者アレス
ステータス:功績改ざん、履歴操作
冷たい汗が背中を伝う。
これは、ただのスキルじゃない。俺の、この能力は――「隠蔽された世界の真実」を暴くためのものだ。
震える指で、もう一度アレスの報告書の末尾に触れた。すると、そこには今までの行動記録とは明らかに質の異なる、異質なログが刻まれていた。
【システムログ】
履歴編集:成功
実行者:勇者アレス(付与権限)
承認者:???(管理者権限)
対象件数:確認済み分 1,487件
「……編集……だと?」
足元が崩れ落ちるような感覚だった。
誰かが――アレスすら駒として使い、この世界の歴史そのものを、組織的に、徹底的に書き換えている。
一人の人間にできる規模ではない。これは個人の野心を超えた、もっと巨大で、構造的な「悪意」だ。
俺たちが信じてきた歴史は、強固な石碑などではない。誰かの都合で何度でも上書きされる、砂上の記録でしかなかったのだ———




