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「『お前の演奏は雑音だ』と追放された宮廷楽師令嬢——王城の舞踏会から音楽が消えた夜、隣国の演奏会場は満席だった」

作者: 歩人
掲載日:2026/03/19

 舞台袖から覗く客席は、一つの空席もなかった。


 五百の椅子が全て埋まっている。隣国ノイクラングの王立演奏会場——この国で最も権威ある舞台に、今夜、私は立つ。


 ヴァイオリンの弓を握る左手に、僅かな震えがある。

 緊張ではない。三ヶ月前の記憶が、指先に残っているだけだ。


 ——お前の演奏は雑音だ。


 あの言葉を最後に聞いた日から、九十二日。

 今夜、同じ時刻に、レゾナンツ王城の大舞踏広間では秋の舞踏会が始まるはずだ。国賓を迎え、楽団が演奏し、貴族たちが踊る——はずだった。


 でも今夜、あの広間から音楽は聞こえない。


「セレーナ様。準備はよろしいですか」


 背後から声がした。低く穏やかな、聞き慣れた声。


 振り返ると、フェリクス・フォン・ベルクハイン辺境伯が立っていた。深い栗色の髪を無造作にまとめ、いつものように革装丁の楽譜集を小脇に抱えている。琥珀色の瞳が、舞台の向こうの客席を見つめていた。


「……少しだけ。左手が覚えているんです。あの日のことを」


「無理に忘れる必要はありません」


 フェリクスは静かに言った。


「あの日があったから、あなたは今夜ここにいる。——五百人が、あなたの音を待っています」


 私は弓を握り直した。

 震えが止まる。


 三ヶ月前のことを、話そう。




 あの日、私は宮廷楽団の練習場にいた。


 朝の調律を終え、午後の舞踏会の編曲譜を仕上げている最中だった。弦楽四重奏の第二ヴァイオリンのパートが、広間の反響を計算に入れると半音高い。書き直さなければ、合奏全体のバランスが崩れる。


 こういう仕事は誰にも気づかれない。

 うまくいって当然。うまくいかなければ楽団全体の責任。編曲師の名前が表に出ることはない。


 それでいい、と思っていた。音楽が正しく鳴ること。それだけが全てだった。


 練習場の扉が勢いよく開いた。


「セレーナ」


 ルートヴィヒ・フォン・アイゼンガルト。私の婚約者であり、侯爵家の嫡男。金髪に碧眼、軍服を好む長身の男。


 彼の隣に、一人の女性がいた。

 蜂蜜色の巻き毛に、翡翠ひすいの瞳。男爵令嬢リゼッテ・フォン・メーレン。半年前に社交界にデビューし、その歌声と美貌で瞬く間に宮廷の話題をさらった女性だ。


 リゼッテが私を見て、小さく微笑んだ。勝者の笑みだった。


「ルートヴィヒ様。練習中ですが、何かご用でしょうか」


「用は一つだ。婚約の解消を通達する」


 楽団員たちの手が止まった。

 練習場に、不協和音のような沈黙が落ちる。


「お前の演奏は雑音だ。リゼッテの歌声を聴いてようやくわかった——本物の音楽とは何かをな。耳障りな弦をき鳴らすだけの女は、俺の隣にはいらない」


 雑音。


 十二歳から九年間、この練習場で弾き続けてきた。

 毎朝一番に来て、三十の楽器の基準音を合わせた。舞踏会ごとに原曲を広間の音響に合わせて書き直した。技術の足りない新人楽師に、夜遅くまで個別指導をした。


 その全てが——雑音。


「……承知しました」


 声が震えなかったことだけが、私の最後の矜持きょうじだった。


「承知しただと? それだけか?」


「はい。ルートヴィヒ様がそう判断されたのであれば」


 私はヴァイオリンケースを閉じた。楽譜棚に手を伸ばし、自分が書いた編曲譜の束を取る。


「おい、楽譜は宮廷の財産だ。置いていけ」


「ご安心ください。これは全て私個人の筆写譜です。宮廷所蔵の原譜は棚にございます」


 ルートヴィヒは鼻を鳴らした。

 原譜と編曲譜の違いがわからないのだ。この人には最初から、音楽の仕組みが見えていなかった。


 原譜——作曲家が書いたそのままの楽譜。それだけでは三十人の楽団は弾けない。広間の大きさ、天井の高さ、壁の材質による反響、楽器の配置。全てを計算して各パートを書き直す。それが編曲だ。


 棚に残した原譜だけでは、舞踏会の演奏は成立しない。


 でも、それを説明する気にはなれなかった。

 説明しても、この人には聞こえないだろう。音楽を「雑音」と呼ぶ耳には、何を言っても届かない。


 楽器ケースと編曲譜の束を抱えて、私は練習場を出た。


「セレーナ殿——」


 楽団長のヨハンが追いかけてきた。白髪交じりの温厚な老指揮者。私が十二歳で楽団に入った時から、ずっと見守ってくれた人だ。


「行かないでくれ。君がいなければ、楽団は——」


「ヨハン先生。編曲のやり方は、楽団にお教えしたはずです」


「教わったのと、できるのは違う。調律も、テンポの指示も、新人の指導も——全て君一人がやっていた。誰もが知っていたのに、誰も声を上げなかった。すまない」


 その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。


「……先生のせいではありません。聞こえない人には、聞こえないのです」


 私は一礼して、王城の門を出た。


 振り返らなかった。

 九年間通い続けた練習場の扉が閉まる音を、背中で聞いた。




 実家のヴァイスクラング公爵邸には戻らなかった。


 婚約破棄の報せが届けば、父と母は怒り、侯爵家に抗議するだろう。政治的な争いになる。そうなれば私は「被害者」として父の駒に使われる。

 それは嫌だった。


 もう、誰かの道具にはならない。

 宮廷でも、実家でも、私はいつも「何かのために弾く人間」だった。国家の威信のために。公爵家の名誉のために。婚約者の体面のために。

 一度でいい。自分のために弾きたかった。


 旅費は僅かだったが、乗合馬車で東へ向かった。王都から離れれば離れるほど、胸の中の不協和音が薄れていく気がした。


 五日間、馬車に揺られた。

 景色が変わった。石造りの都市が消え、木造の家屋が増え、やがて山間の小さな街に着いた。

 馬車を降りた時、山の向こうから鳥の声が聞こえた。

 不思議と、その声に音程がある、と思った。ファの音だ。宮廷にいた頃は、鳥の声など気にも留めなかったのに。


 ベルクハイン辺境領。

 名前だけは聞いたことがある。近年、音楽祭を開催して注目を集めている、と。


 だが、今の私には関係のない話だった。

 旅費が尽きかけていた。手元に残った銅貨では、宿代にも足りない。


 街の中心に一軒の酒場があった。看板には『響きのさかずき』とある。

 中から笑い声と、食事の匂い。


 私は店主に声をかけた。


「あの……演奏で食事代を稼がせていただけませんか。ヴァイオリンを弾きます」


 恰幅かっぷくのいい店主は、私を頭からつま先まで眺めた。


「宮廷楽師の格好だな。訳ありか」


「……はい」


「弾いてみろ。客が喜べば飯は出す」


 酒場の隅に椅子を一つ置いて、ヴァイオリンを構えた。


 何を弾こう。

 宮廷のために編曲した舞踏曲? 技巧を凝らした独奏曲?

 ——違う。ここは宮廷ではない。


 客を見た。農夫、商人、旅人。酒を飲み、肉を頬張り、仲間と笑い合っている。

 この人たちに、宮廷音楽は届かない。


 私は一度目を閉じ、弓を弦に乗せた。


 母が教えてくれた曲がある。

 ヴァイスクラング家に代々伝わる子守歌。宮廷では一度も弾いたことがない。編曲の必要もない、素朴な旋律。


 最初の一音を鳴らした。


 酒場の喧騒が、少しだけ静かになった。

 二小節目。酔客の笑い声が遠のいていく。

 三小節目——。


 酒場が、静まりかえった。


 カウンターに肘をついていた老人が、杯を置いた。

 奥の席で子どもをあやしていた母親が、手を止めた。

 入口付近で立ち飲みしていた旅人が、振り返った。


 私はただ弾いた。技巧を見せつけるためではなく、音楽理論を証明するためでもなく。ただ、この曲が好きだから弾いた。


 最後の音が消えた時、沈黙があった。


 拍手は——なかった。


 代わりに、カウンターの老人が袖で目を拭っていた。


「……死んだ女房が好きだった曲だ。同じ曲じゃないのに、女房を思い出した」


 店主が、黙って温かいスープと黒パンを私の前に置いた。


「飯代はいらん。明日も弾いてくれ」


 私はスープを一口飲んで、初めて気づいた。


 宮廷で九年間弾いていた音楽は、誰かの心を動かしていただろうか。

 完璧な音程、正確なテンポ、精密な編曲——それは確かに「正しい」音楽だった。でも「正しい」ことと「届く」ことは、違う。


 この老人の涙が、私に教えてくれた。


 音楽は、正しさのためにあるのではない。




 酒場で弾き始めて二週間が経った頃、その人は現れた。


 夕方の客入りが落ち着いた時間帯。私がヴァイスクラング家の子守歌の変奏を弾いていると、入口から一人の男性が入ってきた。


 深い栗色の髪。琥珀色の瞳。貴族の身なりだが、飾り気がない。小脇に革装丁の本を抱えている。


 彼は最も音が聞こえる席——酒場の中央に座った。それだけで、この人が音楽を知っている人間だとわかった。普通の客は壁際に座る。音の反響を計算して席を選ぶ人間は、演奏の仕組みを理解している。


 私は弾き続けた。


 一曲目。子守歌の変奏。

 二曲目。辺境で聞いた農夫の歌を、ヴァイオリン用に即興で編曲したもの。

 三曲目——母から教わった、ヴァイスクラング家の古い舞曲。


 三曲を弾き終えて弓を下ろした時、酒場には拍手が起きた。

 だが、あの男性だけは拍手をしていなかった。


 目を閉じたまま、動かない。


 しばらくして、ゆっくりと目を開けた。

 そして、静かに——本当に静かに、手を合わせた。


 たった一人の、ゆっくりとした拍手。

 それが、酒場の喧騒の中で、不思議なほどはっきりと聞こえた。


 演奏が終わった後、彼が私のところに来た。


「失礼。お名前を伺ってもよろしいですか」


「セレーナと申します。旅の楽師です」


「ヴァイスクラングの名は?」


 心臓が跳ねた。


「……なぜ、その名を」


「二曲目の即興編曲。あの手法は、ヴァイスクラング流の和声理論です。独学では辿り着けない。代々受け継がれた技法でしょう」


 この人は——本物だ。

 演奏の中から和声理論の系譜を聴き取るなど、並大抵の耳ではない。


「……セレーナ・フォン・ヴァイスクラング。元宮廷楽団首席奏者です。今は、ただの旅の楽師ですが」


「フェリクス・フォン・ベルクハインです。この辺境領の領主を務めています」


 辺境伯。音楽祭を開催していると聞いた、あの辺境伯。


「セレーナ殿。あなたの音は、人の心を動かす」


 その言葉に、目頭が熱くなった。

 ルートヴィヒは「雑音」と言った。フェリクスは「心を動かす」と言った。同じ音を聴いて、出てくる言葉がこれほど違う。


 ——いいえ。同じ音ではないのかもしれない。宮廷で弾いていた私と、この酒場で弾いている私は、違う音楽を奏でている。


「来月、隣国ノイクラングで音楽祭が開催されます。私の辺境領から演奏者を推薦する枠がある。——あなたに出ていただきたい」


「私は宮廷を追放された身です。公爵家の名を汚すようなことは……」


「宮廷があなたを追放したのではありません」


 フェリクスは穏やかに、しかしはっきりと言った。


「あなたが、宮廷から自由になったのです」




 フェリクスの屋敷で、音楽祭に向けた準備が始まった。


 屋敷は辺境伯の邸宅にしては質素だったが、一つだけ贅沢な部屋があった。音楽室だ。壁は音響を考慮した木材で覆われ、天井の高さは残響を計算して設計されている。


「この部屋は……」


「私の父が設計しました。演奏はしませんでしたが、音楽を聴くことが何より好きだった人です」


 フェリクスもまた、演奏はしない。だが音楽への理解は、宮廷の誰よりも深かった。


 練習を始めた。

 最初、私は宮廷時代の癖で、技巧を重視した曲目を選ぼうとした。


「セレーナ殿。五百人の客席を埋めるのは、技巧ではありません」


「では、何が?」


「あの酒場で老人を泣かせた音です。あなたはもう、その音を知っているはずだ」


 正しさのための音楽ではなく、届けるための音楽。

 酒場で学んだことを、五百人の演奏会場で実現する。


 私は新しい曲を作り始めた。

 ヴァイスクラング家の子守歌を基調に、辺境で聞いた農夫の歌、酒場の老人の涙、旅の中で出会った風景——全てを織り込んだ変奏曲。


 技術は武器だ。でも技術だけでは、心には届かない。

 技術の上に、感情を乗せる。私の九年間の全てと、この三ヶ月で学んだ全てを。


 フェリクスは毎日、練習を聴いてくれた。

 いつも目を閉じて、最後の一音が消えるまで微動だにしない。そして演奏が終わると、静かに拍手を送る。


「今日の二楽章。中間部の転調の後、一瞬のがありましたね」


「気づかれましたか。あそこは——」


「あの間が、一番良かった。音がない瞬間に、一番多くのものが聴こえた」


 この人には、音楽の全てが聴こえている。

 音だけでなく、音のない瞬間さえも。


「フェリクス様は、なぜ演奏をなさらないのですか?」


「才能がないからです。聴く才能はあっても、奏でる才能は別物だ。——だから、あなたのような人を待っていた」


 その言葉に嘘はなかった。

 この人は音楽を愛しているが、音楽を自分のものにしようとはしない。ルートヴィヒが私を「所有物」として扱ったのとは、全く違う。




 音楽祭の三日前。


 ある報せが、辺境の街にまで届いた。


 レゾナンツ王城の宮廷楽団が、秋の大舞踏会を前に「活動休止」を宣言した、と。


 フェリクスが夕食の席で、淡々と教えてくれた。


「王都の知人から書状が届きました。楽団長のヨハン殿が辞任を申し出たそうです。理由は——合奏が成立しないため」


「……ヨハン先生が」


 胸が痛んだ。あの温厚な老指揮者を追い詰めたのは、ルートヴィヒだ。


「楽団に何が起きたか、お分かりですか?」


「はい。三つの柱が同時に折れたのです」


 私は指を三本立てた。


「一つ目。調律です。毎朝、私が全楽器の基準音を出し、各奏者が合わせていた。私がいなくなり、基準音を出せる者がいない。楽器同士の音程がずれたまま演奏すれば、和音は濁り、旋律は歪む」


「二つ目は?」


「編曲です。原譜のままでは、三十人の楽団は弾けません。広間の音響、楽器の配置、各パートのバランス——全てを計算して書き直す。その技術を持つ者が、楽団にはもういない」


「三つ目」


「新人の指導です。楽団には毎年新しい奏者が入ります。彼らに合奏の基本を教え、楽団の水準を維持するのは、首席奏者の仕事でした。指導者がいなくなれば、楽団の技術は下がり続けます」


 フェリクスは黙って聞いていた。


「この三つは、全て私が一人でやっていました。誰にも気づかれずに」


「気づかなかったのではなく、気づこうとしなかったのでしょう」


「……そうかもしれません」


 うまくいっている時、裏方の仕事は見えない。

 音楽が正しく鳴っている間は、誰も「なぜ正しく鳴っているのか」を考えない。

 壊れて初めて、そこに見えない支えがあったことに気づく。


「リゼッテ殿は、歌えなかったのですか?」


「歌えたでしょう。でもリゼッテ殿は独唱の歌姫です。合奏を支えることは、一人の歌声ではできない。楽団というのは——三十の楽器が一つの音楽を作る、精密な機械のようなもの。歯車が一つ狂えば、全体が止まる」


「ルートヴィヒ殿は、歯車の存在を知らなかった」


「音楽を聴く耳がない人には、歯車の音は聞こえないのです」




 そして、秋の舞踏会の夜が来た。


 同じ夜、二つの舞台が幕を開ける。

 レゾナンツ王城の大舞踏広間と、ノイクラングの王立演奏会場。


 冒頭の場面に戻ろう。


 舞台袖で、私はヴァイオリンの弓を握っていた。

 五百席が全て埋まっている。隣国の王族、各国の音楽家、そして——音楽を愛する人々。


 フェリクスが、最後にこう言った。


「今夜は、あなたのための夜です。誰かのためではなく——あなた自身の音を、聴かせてください」


 私は頷き、舞台に出た。


 燭台の灯りが舞台を照らしている。

 五百の視線が、私に集まった。


 ヴァイオリンを構える。弓を弦に乗せる。


 一呼吸。


 最初の一音を——鳴らした。


 それは、宮廷で弾いていた音とは違っていた。

 技巧に裏打ちされた、しかし技巧を超えた音。九年間の鍛錬と、三ヶ月の旅が融合した、私だけの音色。


 ヴァイスクラング家の子守歌から始まる変奏曲。

 第一変奏は、辺境の農夫が口ずさむ素朴な旋律。弦が大地の匂いを運ぶ。

 第二変奏は、酒場の老人の涙。長く引き伸ばした一音に、喪失と追憶を乗せる。

 第三変奏は、旅路の風景。馬車の揺れ、山間の風、見知らぬ街の灯り。


 そして最後の変奏——。


 私は一瞬、弓を止めた。

 音のない瞬間。

 フェリクスが「一番多くのものが聴こえた」と言った、あの間。


 五百人が、息を止めていた。


 そこに、最後の旋律を置いた。

 子守歌の原型に戻る。ただし、もう子守歌ではない。子守歌だったものが、旅を経て、涙を知り、沈黙を学び——帰還した音楽。


 最後の一音が、天井の高い会場に溶けていった。


 沈黙。


 長い、長い沈黙。


 ——そして、五百人が立ち上がった。


 万雷の拍手が、会場を満たした。

 客席のあちこちで、涙を拭う人がいた。隣国の王太子が立ち上がり、拍手をしていた。最前列の老音楽家が、両手を高く掲げていた。


 私は一礼した。

 そして——泣かなかった。泣く必要がなかった。

 音楽が全てを語ってくれた。


 拍手が鳴り止まない会場で、私は舞台の中央に立った。


「本日は、お越しいただきありがとうございます」


 声が震えた。今度は緊張ではなく、感謝だった。


「三ヶ月前、私はある方から『雑音』と言われました」


 会場が静まった。


「その時、私は思いました。もしかしたらそうなのかもしれない、と。九年間弾いてきた音楽が、本当に誰かの耳に届いていたのか。わからなくなりました」


 五百の視線が、静かに私を見つめている。


「でも、辺境の酒場で弾いた時、一人の老人が泣いてくれました。その涙を見て、わかったのです」


 一呼吸。


「——雑音は、聴く耳がない人にだけ聴こえるものです」


 拍手が、再び沸き起こった。




 同じ夜、レゾナンツ王城では何が起きていたか。


 それを私が知ったのは、音楽祭の翌日、フェリクスから聞いた報せだった。


「王城の舞踏会は、開始三十分で中止になったそうです」


 フェリクスの声は平坦だったが、目には複雑な色があった。


「まず、楽団が曲を合わせられなかった。基準音を出す者がおらず、各楽器がばらばらの音程で弾き始めた。第一曲目の舞踏曲が——国賓の耳には、文字通りの雑音に聞こえたようです」


 皮肉だ。「雑音」と私を追い出した結果、本当の雑音が王城を満たした。


「リゼッテ殿は?」


「歌おうとしたそうです。しかし伴奏がばらばらでは歌えない。独唱を試みましたが、三十人の楽団のための舞踏広間で声一つでは——」


「……響かない」


「ええ。三曲目で国賓が席を立ちました。『これは我が国への侮辱か』と」


 国賓の退席。外交的には最悪の事態だ。

 楽団の崩壊が、国家の面目を潰した。


「楽団長ヨハン殿が辞任。ルートヴィヒ殿は楽団を推薦した責任を問われ、侯爵家の宮廷での地位が大きく揺らいでいるそうです」


「ルートヴィヒ様は……何と?」


「『セレーナを連れ戻せ』と叫んだそうです。しかし、王城の誰もが答えた——『遅い』と」


 もう遅い。

 調律も、編曲も、指導も——全ては日々の積み重ねだ。一夜で取り戻せるものではない。


「そしてもう一つ。隣国から伝書が届いています」


 フェリクスが、封蝋ふうろうの押された書状を差し出した。


「ノイクラングの王家から、正式な招聘状です。宮廷楽師として迎えたいと」


 私はその書状を受け取り、しばらく見つめた。


 宮廷楽師。

 三ヶ月前に失ったものが、別の形で戻ってきた。


「……お断りします」


 フェリクスが、少し目を見開いた。


「宮廷の音楽は、もう私のものではありません。あの酒場で、老人が泣いてくれた夜——私は初めて、本当に弾けた気がしたのです。宮廷の広間ではなく、人の心に音を届ける演奏を。あの感覚を、手放したくない」


「では、これからどうされますか」


 私は窓の外を見た。夕暮れの辺境領。山間に小さな街の灯りがともり始めている。


「ここで弾きたいのです。この辺境で。酒場でも、音楽祭でも、どこでも。聴いてくれる人がいるところで」


 フェリクスは静かに微笑んだ。


「それは……辺境伯として、大変ありがたい申し出です」


「辺境伯として、ですか?」


「辺境伯としても。……それだけではなく」


 彼はそこで言葉を切り、窓辺のヴァイオリンケースに目をやった。


「一つ、お願いがあります」


「何でしょう」


「今夜——もう一曲だけ、聴かせていただけませんか。演奏会のためでも、誰かに証明するためでもなく。ただ、あなたが弾きたい曲を」




 夕暮れのテラスに出た。


 秋の風が山から吹き下ろし、辺境の街を包んでいる。

 空はあかねから紫に変わりつつあった。


 ヴァイオリンを構えた。


 何を弾こう。

 宮廷の曲でも、酒場の曲でも、音楽祭の変奏曲でもなく。


 指が自然に動いた。

 母が最初に教えてくれた、一番簡単な練習曲。ヴァイスクラング家の子どもが、楽器を手にして最初に弾く曲。


 フェリクスは目を閉じて聴いていた。


 弾きながら、思った。

 九年間、私は「正しい音楽」を追い求めてきた。完璧な音程、正確なテンポ、精密な編曲。それは間違いではなかった。でも、それだけでは足りなかった。


 雑音と呼ばれた日、私は全てを失ったと思った。

 でも本当は——音楽の仮面を外しただけだった。仮面の下にあったのは、この練習曲を初めて弾いた時の気持ち。ただ音が鳴ることが、嬉しかった。


 最後の音が夕暮れの空に溶けた。


「もう、誰かのために弾かなくていい」


 フェリクスの声が、風に乗って聞こえた。


「あなた自身のために弾いてください。……その音を、そばで聴かせてもらえたら、それだけで十分です」


 私は弓を下ろした。

 左手の指先——弦を押さえ続けてタコができた指先が、夕日に照らされて金色に光っていた。


「フェリクス様」


「はい」


「……ありがとうございます。聴いてくれて」


 フェリクスは微笑んで、静かに手を合わせた。

 あの酒場で初めて聴いた時と同じ、ゆっくりとした一人の拍手。


 テラスに、二人分の拍手と、夕暮れの風だけが残った。




 後日。


 レゾナンツの社交界では、一つの名前が禁句になったという。


 セレーナ・フォン・ヴァイスクラング。

 その名を出すと、侯爵子息ルートヴィヒの顔が蒼白になる。


 宮廷楽団は、セレーナが去って以来、まともな演奏ができていない。新しい首席奏者を探したが、編曲と調律と指導の三役を一人でこなせる人材は、国内に見つからなかった。

 何人もの楽師が試されたという。しかし調律だけで半日かかり、編曲は一週間かかっても仕上がらず、合奏は毎回崩壊した。セレーナが毎朝一時間で済ませていた仕事が、三人がかりでも追いつかない。


 リゼッテとの婚約も白紙に戻された。歌姫の独唱では楽団は動かないと証明されてしまった以上、リゼッテを迎える意味がない。ルートヴィヒが望んだ「本物の音楽」は、最初からセレーナの手の中にあったのだ。


 ルートヴィヒは辺境に使者を送った。


「セレーナ殿に、宮廷への復帰をお願いしたい」


 使者に対し、私はこう答えた。


「お伝えください。——雑音は、もう王城には参りません」


 使者が去った後、酒場の店主が大笑いした。


「言うねぇ、楽師の嬢ちゃん!」


「嬢ちゃんはやめてください。せめてセレーナと」


「はいはい。今夜も弾いてくれよ、セレーナ。じいさんたちが待ってる」


 酒場の常連たちが手を振っている。あの涙を流した老人も、今日は笑顔だ。


 ヴァイオリンを構えた。

 弦に弓を乗せる。


 この辺境の小さな酒場が、今の私の舞台だ。

 五百人の演奏会場より、宮廷の大舞踏広間より——ここが、私の音楽が一番正しく響く場所。


 正しく、ではない。

 一番、届く場所。


 音楽は、正しく聴く耳があれば——どこででも響く。



最後まで読んでいただきありがとうございました。




 実力証明型×職業特化型の王道ストーリーです。「音楽」という見えにくい専門職を題材にしました。セレーナの仕事——調律、編曲、指導——は、うまくいっている時には誰にも気づかれません。壊れて初めて、そこに見えない支えがあったことに周囲が気づく。これは現実の職場でもよくある話ではないでしょうか。


 「雑音は、聴く耳がない人にだけ聴こえるものです」——この一言のために一万字以上を書きました。音楽を理解しない人間が音楽を「雑音」と呼び、本当の雑音を生み出す皮肉。セレーナが宮廷を去った後に王城を満たしたのは、彼女が消した「雑音」ではなく、彼女がいなくなったことで生まれた本物の雑音でした。


 もう一つのテーマは「誰のために弾くか」です。宮廷では国家のため、楽団のため、婚約者のために弾いていたセレーナが、辺境の酒場で「ただ好きだから弾く」という原点に戻る。技術と感情が融合した時、音楽は本当の力を持つ——そう信じて書きました。




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