「『お前の演奏は雑音だ』と追放された宮廷楽師令嬢——王城の舞踏会から音楽が消えた夜、隣国の演奏会場は満席だった」
舞台袖から覗く客席は、一つの空席もなかった。
五百の椅子が全て埋まっている。隣国ノイクラングの王立演奏会場——この国で最も権威ある舞台に、今夜、私は立つ。
ヴァイオリンの弓を握る左手に、僅かな震えがある。
緊張ではない。三ヶ月前の記憶が、指先に残っているだけだ。
——お前の演奏は雑音だ。
あの言葉を最後に聞いた日から、九十二日。
今夜、同じ時刻に、レゾナンツ王城の大舞踏広間では秋の舞踏会が始まるはずだ。国賓を迎え、楽団が演奏し、貴族たちが踊る——はずだった。
でも今夜、あの広間から音楽は聞こえない。
「セレーナ様。準備はよろしいですか」
背後から声がした。低く穏やかな、聞き慣れた声。
振り返ると、フェリクス・フォン・ベルクハイン辺境伯が立っていた。深い栗色の髪を無造作にまとめ、いつものように革装丁の楽譜集を小脇に抱えている。琥珀色の瞳が、舞台の向こうの客席を見つめていた。
「……少しだけ。左手が覚えているんです。あの日のことを」
「無理に忘れる必要はありません」
フェリクスは静かに言った。
「あの日があったから、あなたは今夜ここにいる。——五百人が、あなたの音を待っています」
私は弓を握り直した。
震えが止まる。
三ヶ月前のことを、話そう。
あの日、私は宮廷楽団の練習場にいた。
朝の調律を終え、午後の舞踏会の編曲譜を仕上げている最中だった。弦楽四重奏の第二ヴァイオリンのパートが、広間の反響を計算に入れると半音高い。書き直さなければ、合奏全体のバランスが崩れる。
こういう仕事は誰にも気づかれない。
うまくいって当然。うまくいかなければ楽団全体の責任。編曲師の名前が表に出ることはない。
それでいい、と思っていた。音楽が正しく鳴ること。それだけが全てだった。
練習場の扉が勢いよく開いた。
「セレーナ」
ルートヴィヒ・フォン・アイゼンガルト。私の婚約者であり、侯爵家の嫡男。金髪に碧眼、軍服を好む長身の男。
彼の隣に、一人の女性がいた。
蜂蜜色の巻き毛に、翡翠の瞳。男爵令嬢リゼッテ・フォン・メーレン。半年前に社交界にデビューし、その歌声と美貌で瞬く間に宮廷の話題をさらった女性だ。
リゼッテが私を見て、小さく微笑んだ。勝者の笑みだった。
「ルートヴィヒ様。練習中ですが、何かご用でしょうか」
「用は一つだ。婚約の解消を通達する」
楽団員たちの手が止まった。
練習場に、不協和音のような沈黙が落ちる。
「お前の演奏は雑音だ。リゼッテの歌声を聴いてようやくわかった——本物の音楽とは何かをな。耳障りな弦を掻き鳴らすだけの女は、俺の隣にはいらない」
雑音。
十二歳から九年間、この練習場で弾き続けてきた。
毎朝一番に来て、三十の楽器の基準音を合わせた。舞踏会ごとに原曲を広間の音響に合わせて書き直した。技術の足りない新人楽師に、夜遅くまで個別指導をした。
その全てが——雑音。
「……承知しました」
声が震えなかったことだけが、私の最後の矜持だった。
「承知しただと? それだけか?」
「はい。ルートヴィヒ様がそう判断されたのであれば」
私はヴァイオリンケースを閉じた。楽譜棚に手を伸ばし、自分が書いた編曲譜の束を取る。
「おい、楽譜は宮廷の財産だ。置いていけ」
「ご安心ください。これは全て私個人の筆写譜です。宮廷所蔵の原譜は棚にございます」
ルートヴィヒは鼻を鳴らした。
原譜と編曲譜の違いがわからないのだ。この人には最初から、音楽の仕組みが見えていなかった。
原譜——作曲家が書いたそのままの楽譜。それだけでは三十人の楽団は弾けない。広間の大きさ、天井の高さ、壁の材質による反響、楽器の配置。全てを計算して各パートを書き直す。それが編曲だ。
棚に残した原譜だけでは、舞踏会の演奏は成立しない。
でも、それを説明する気にはなれなかった。
説明しても、この人には聞こえないだろう。音楽を「雑音」と呼ぶ耳には、何を言っても届かない。
楽器ケースと編曲譜の束を抱えて、私は練習場を出た。
「セレーナ殿——」
楽団長のヨハンが追いかけてきた。白髪交じりの温厚な老指揮者。私が十二歳で楽団に入った時から、ずっと見守ってくれた人だ。
「行かないでくれ。君がいなければ、楽団は——」
「ヨハン先生。編曲のやり方は、楽団にお教えしたはずです」
「教わったのと、できるのは違う。調律も、テンポの指示も、新人の指導も——全て君一人がやっていた。誰もが知っていたのに、誰も声を上げなかった。すまない」
その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。
「……先生のせいではありません。聞こえない人には、聞こえないのです」
私は一礼して、王城の門を出た。
振り返らなかった。
九年間通い続けた練習場の扉が閉まる音を、背中で聞いた。
実家のヴァイスクラング公爵邸には戻らなかった。
婚約破棄の報せが届けば、父と母は怒り、侯爵家に抗議するだろう。政治的な争いになる。そうなれば私は「被害者」として父の駒に使われる。
それは嫌だった。
もう、誰かの道具にはならない。
宮廷でも、実家でも、私はいつも「何かのために弾く人間」だった。国家の威信のために。公爵家の名誉のために。婚約者の体面のために。
一度でいい。自分のために弾きたかった。
旅費は僅かだったが、乗合馬車で東へ向かった。王都から離れれば離れるほど、胸の中の不協和音が薄れていく気がした。
五日間、馬車に揺られた。
景色が変わった。石造りの都市が消え、木造の家屋が増え、やがて山間の小さな街に着いた。
馬車を降りた時、山の向こうから鳥の声が聞こえた。
不思議と、その声に音程がある、と思った。ファの音だ。宮廷にいた頃は、鳥の声など気にも留めなかったのに。
ベルクハイン辺境領。
名前だけは聞いたことがある。近年、音楽祭を開催して注目を集めている、と。
だが、今の私には関係のない話だった。
旅費が尽きかけていた。手元に残った銅貨では、宿代にも足りない。
街の中心に一軒の酒場があった。看板には『響きの杯』とある。
中から笑い声と、食事の匂い。
私は店主に声をかけた。
「あの……演奏で食事代を稼がせていただけませんか。ヴァイオリンを弾きます」
恰幅のいい店主は、私を頭からつま先まで眺めた。
「宮廷楽師の格好だな。訳ありか」
「……はい」
「弾いてみろ。客が喜べば飯は出す」
酒場の隅に椅子を一つ置いて、ヴァイオリンを構えた。
何を弾こう。
宮廷のために編曲した舞踏曲? 技巧を凝らした独奏曲?
——違う。ここは宮廷ではない。
客を見た。農夫、商人、旅人。酒を飲み、肉を頬張り、仲間と笑い合っている。
この人たちに、宮廷音楽は届かない。
私は一度目を閉じ、弓を弦に乗せた。
母が教えてくれた曲がある。
ヴァイスクラング家に代々伝わる子守歌。宮廷では一度も弾いたことがない。編曲の必要もない、素朴な旋律。
最初の一音を鳴らした。
酒場の喧騒が、少しだけ静かになった。
二小節目。酔客の笑い声が遠のいていく。
三小節目——。
酒場が、静まりかえった。
カウンターに肘をついていた老人が、杯を置いた。
奥の席で子どもをあやしていた母親が、手を止めた。
入口付近で立ち飲みしていた旅人が、振り返った。
私はただ弾いた。技巧を見せつけるためではなく、音楽理論を証明するためでもなく。ただ、この曲が好きだから弾いた。
最後の音が消えた時、沈黙があった。
拍手は——なかった。
代わりに、カウンターの老人が袖で目を拭っていた。
「……死んだ女房が好きだった曲だ。同じ曲じゃないのに、女房を思い出した」
店主が、黙って温かいスープと黒パンを私の前に置いた。
「飯代はいらん。明日も弾いてくれ」
私はスープを一口飲んで、初めて気づいた。
宮廷で九年間弾いていた音楽は、誰かの心を動かしていただろうか。
完璧な音程、正確なテンポ、精密な編曲——それは確かに「正しい」音楽だった。でも「正しい」ことと「届く」ことは、違う。
この老人の涙が、私に教えてくれた。
音楽は、正しさのためにあるのではない。
酒場で弾き始めて二週間が経った頃、その人は現れた。
夕方の客入りが落ち着いた時間帯。私がヴァイスクラング家の子守歌の変奏を弾いていると、入口から一人の男性が入ってきた。
深い栗色の髪。琥珀色の瞳。貴族の身なりだが、飾り気がない。小脇に革装丁の本を抱えている。
彼は最も音が聞こえる席——酒場の中央に座った。それだけで、この人が音楽を知っている人間だとわかった。普通の客は壁際に座る。音の反響を計算して席を選ぶ人間は、演奏の仕組みを理解している。
私は弾き続けた。
一曲目。子守歌の変奏。
二曲目。辺境で聞いた農夫の歌を、ヴァイオリン用に即興で編曲したもの。
三曲目——母から教わった、ヴァイスクラング家の古い舞曲。
三曲を弾き終えて弓を下ろした時、酒場には拍手が起きた。
だが、あの男性だけは拍手をしていなかった。
目を閉じたまま、動かない。
しばらくして、ゆっくりと目を開けた。
そして、静かに——本当に静かに、手を合わせた。
たった一人の、ゆっくりとした拍手。
それが、酒場の喧騒の中で、不思議なほどはっきりと聞こえた。
演奏が終わった後、彼が私のところに来た。
「失礼。お名前を伺ってもよろしいですか」
「セレーナと申します。旅の楽師です」
「ヴァイスクラングの名は?」
心臓が跳ねた。
「……なぜ、その名を」
「二曲目の即興編曲。あの手法は、ヴァイスクラング流の和声理論です。独学では辿り着けない。代々受け継がれた技法でしょう」
この人は——本物だ。
演奏の中から和声理論の系譜を聴き取るなど、並大抵の耳ではない。
「……セレーナ・フォン・ヴァイスクラング。元宮廷楽団首席奏者です。今は、ただの旅の楽師ですが」
「フェリクス・フォン・ベルクハインです。この辺境領の領主を務めています」
辺境伯。音楽祭を開催していると聞いた、あの辺境伯。
「セレーナ殿。あなたの音は、人の心を動かす」
その言葉に、目頭が熱くなった。
ルートヴィヒは「雑音」と言った。フェリクスは「心を動かす」と言った。同じ音を聴いて、出てくる言葉がこれほど違う。
——いいえ。同じ音ではないのかもしれない。宮廷で弾いていた私と、この酒場で弾いている私は、違う音楽を奏でている。
「来月、隣国ノイクラングで音楽祭が開催されます。私の辺境領から演奏者を推薦する枠がある。——あなたに出ていただきたい」
「私は宮廷を追放された身です。公爵家の名を汚すようなことは……」
「宮廷があなたを追放したのではありません」
フェリクスは穏やかに、しかしはっきりと言った。
「あなたが、宮廷から自由になったのです」
フェリクスの屋敷で、音楽祭に向けた準備が始まった。
屋敷は辺境伯の邸宅にしては質素だったが、一つだけ贅沢な部屋があった。音楽室だ。壁は音響を考慮した木材で覆われ、天井の高さは残響を計算して設計されている。
「この部屋は……」
「私の父が設計しました。演奏はしませんでしたが、音楽を聴くことが何より好きだった人です」
フェリクスもまた、演奏はしない。だが音楽への理解は、宮廷の誰よりも深かった。
練習を始めた。
最初、私は宮廷時代の癖で、技巧を重視した曲目を選ぼうとした。
「セレーナ殿。五百人の客席を埋めるのは、技巧ではありません」
「では、何が?」
「あの酒場で老人を泣かせた音です。あなたはもう、その音を知っているはずだ」
正しさのための音楽ではなく、届けるための音楽。
酒場で学んだことを、五百人の演奏会場で実現する。
私は新しい曲を作り始めた。
ヴァイスクラング家の子守歌を基調に、辺境で聞いた農夫の歌、酒場の老人の涙、旅の中で出会った風景——全てを織り込んだ変奏曲。
技術は武器だ。でも技術だけでは、心には届かない。
技術の上に、感情を乗せる。私の九年間の全てと、この三ヶ月で学んだ全てを。
フェリクスは毎日、練習を聴いてくれた。
いつも目を閉じて、最後の一音が消えるまで微動だにしない。そして演奏が終わると、静かに拍手を送る。
「今日の二楽章。中間部の転調の後、一瞬の間がありましたね」
「気づかれましたか。あそこは——」
「あの間が、一番良かった。音がない瞬間に、一番多くのものが聴こえた」
この人には、音楽の全てが聴こえている。
音だけでなく、音のない瞬間さえも。
「フェリクス様は、なぜ演奏をなさらないのですか?」
「才能がないからです。聴く才能はあっても、奏でる才能は別物だ。——だから、あなたのような人を待っていた」
その言葉に嘘はなかった。
この人は音楽を愛しているが、音楽を自分のものにしようとはしない。ルートヴィヒが私を「所有物」として扱ったのとは、全く違う。
音楽祭の三日前。
ある報せが、辺境の街にまで届いた。
レゾナンツ王城の宮廷楽団が、秋の大舞踏会を前に「活動休止」を宣言した、と。
フェリクスが夕食の席で、淡々と教えてくれた。
「王都の知人から書状が届きました。楽団長のヨハン殿が辞任を申し出たそうです。理由は——合奏が成立しないため」
「……ヨハン先生が」
胸が痛んだ。あの温厚な老指揮者を追い詰めたのは、ルートヴィヒだ。
「楽団に何が起きたか、お分かりですか?」
「はい。三つの柱が同時に折れたのです」
私は指を三本立てた。
「一つ目。調律です。毎朝、私が全楽器の基準音を出し、各奏者が合わせていた。私がいなくなり、基準音を出せる者がいない。楽器同士の音程がずれたまま演奏すれば、和音は濁り、旋律は歪む」
「二つ目は?」
「編曲です。原譜のままでは、三十人の楽団は弾けません。広間の音響、楽器の配置、各パートのバランス——全てを計算して書き直す。その技術を持つ者が、楽団にはもういない」
「三つ目」
「新人の指導です。楽団には毎年新しい奏者が入ります。彼らに合奏の基本を教え、楽団の水準を維持するのは、首席奏者の仕事でした。指導者がいなくなれば、楽団の技術は下がり続けます」
フェリクスは黙って聞いていた。
「この三つは、全て私が一人でやっていました。誰にも気づかれずに」
「気づかなかったのではなく、気づこうとしなかったのでしょう」
「……そうかもしれません」
うまくいっている時、裏方の仕事は見えない。
音楽が正しく鳴っている間は、誰も「なぜ正しく鳴っているのか」を考えない。
壊れて初めて、そこに見えない支えがあったことに気づく。
「リゼッテ殿は、歌えなかったのですか?」
「歌えたでしょう。でもリゼッテ殿は独唱の歌姫です。合奏を支えることは、一人の歌声ではできない。楽団というのは——三十の楽器が一つの音楽を作る、精密な機械のようなもの。歯車が一つ狂えば、全体が止まる」
「ルートヴィヒ殿は、歯車の存在を知らなかった」
「音楽を聴く耳がない人には、歯車の音は聞こえないのです」
そして、秋の舞踏会の夜が来た。
同じ夜、二つの舞台が幕を開ける。
レゾナンツ王城の大舞踏広間と、ノイクラングの王立演奏会場。
冒頭の場面に戻ろう。
舞台袖で、私はヴァイオリンの弓を握っていた。
五百席が全て埋まっている。隣国の王族、各国の音楽家、そして——音楽を愛する人々。
フェリクスが、最後にこう言った。
「今夜は、あなたのための夜です。誰かのためではなく——あなた自身の音を、聴かせてください」
私は頷き、舞台に出た。
燭台の灯りが舞台を照らしている。
五百の視線が、私に集まった。
ヴァイオリンを構える。弓を弦に乗せる。
一呼吸。
最初の一音を——鳴らした。
それは、宮廷で弾いていた音とは違っていた。
技巧に裏打ちされた、しかし技巧を超えた音。九年間の鍛錬と、三ヶ月の旅が融合した、私だけの音色。
ヴァイスクラング家の子守歌から始まる変奏曲。
第一変奏は、辺境の農夫が口ずさむ素朴な旋律。弦が大地の匂いを運ぶ。
第二変奏は、酒場の老人の涙。長く引き伸ばした一音に、喪失と追憶を乗せる。
第三変奏は、旅路の風景。馬車の揺れ、山間の風、見知らぬ街の灯り。
そして最後の変奏——。
私は一瞬、弓を止めた。
音のない瞬間。
フェリクスが「一番多くのものが聴こえた」と言った、あの間。
五百人が、息を止めていた。
そこに、最後の旋律を置いた。
子守歌の原型に戻る。ただし、もう子守歌ではない。子守歌だったものが、旅を経て、涙を知り、沈黙を学び——帰還した音楽。
最後の一音が、天井の高い会場に溶けていった。
沈黙。
長い、長い沈黙。
——そして、五百人が立ち上がった。
万雷の拍手が、会場を満たした。
客席のあちこちで、涙を拭う人がいた。隣国の王太子が立ち上がり、拍手をしていた。最前列の老音楽家が、両手を高く掲げていた。
私は一礼した。
そして——泣かなかった。泣く必要がなかった。
音楽が全てを語ってくれた。
拍手が鳴り止まない会場で、私は舞台の中央に立った。
「本日は、お越しいただきありがとうございます」
声が震えた。今度は緊張ではなく、感謝だった。
「三ヶ月前、私はある方から『雑音』と言われました」
会場が静まった。
「その時、私は思いました。もしかしたらそうなのかもしれない、と。九年間弾いてきた音楽が、本当に誰かの耳に届いていたのか。わからなくなりました」
五百の視線が、静かに私を見つめている。
「でも、辺境の酒場で弾いた時、一人の老人が泣いてくれました。その涙を見て、わかったのです」
一呼吸。
「——雑音は、聴く耳がない人にだけ聴こえるものです」
拍手が、再び沸き起こった。
同じ夜、レゾナンツ王城では何が起きていたか。
それを私が知ったのは、音楽祭の翌日、フェリクスから聞いた報せだった。
「王城の舞踏会は、開始三十分で中止になったそうです」
フェリクスの声は平坦だったが、目には複雑な色があった。
「まず、楽団が曲を合わせられなかった。基準音を出す者がおらず、各楽器がばらばらの音程で弾き始めた。第一曲目の舞踏曲が——国賓の耳には、文字通りの雑音に聞こえたようです」
皮肉だ。「雑音」と私を追い出した結果、本当の雑音が王城を満たした。
「リゼッテ殿は?」
「歌おうとしたそうです。しかし伴奏がばらばらでは歌えない。独唱を試みましたが、三十人の楽団のための舞踏広間で声一つでは——」
「……響かない」
「ええ。三曲目で国賓が席を立ちました。『これは我が国への侮辱か』と」
国賓の退席。外交的には最悪の事態だ。
楽団の崩壊が、国家の面目を潰した。
「楽団長ヨハン殿が辞任。ルートヴィヒ殿は楽団を推薦した責任を問われ、侯爵家の宮廷での地位が大きく揺らいでいるそうです」
「ルートヴィヒ様は……何と?」
「『セレーナを連れ戻せ』と叫んだそうです。しかし、王城の誰もが答えた——『遅い』と」
もう遅い。
調律も、編曲も、指導も——全ては日々の積み重ねだ。一夜で取り戻せるものではない。
「そしてもう一つ。隣国から伝書が届いています」
フェリクスが、封蝋の押された書状を差し出した。
「ノイクラングの王家から、正式な招聘状です。宮廷楽師として迎えたいと」
私はその書状を受け取り、しばらく見つめた。
宮廷楽師。
三ヶ月前に失ったものが、別の形で戻ってきた。
「……お断りします」
フェリクスが、少し目を見開いた。
「宮廷の音楽は、もう私のものではありません。あの酒場で、老人が泣いてくれた夜——私は初めて、本当に弾けた気がしたのです。宮廷の広間ではなく、人の心に音を届ける演奏を。あの感覚を、手放したくない」
「では、これからどうされますか」
私は窓の外を見た。夕暮れの辺境領。山間に小さな街の灯りが点り始めている。
「ここで弾きたいのです。この辺境で。酒場でも、音楽祭でも、どこでも。聴いてくれる人がいるところで」
フェリクスは静かに微笑んだ。
「それは……辺境伯として、大変ありがたい申し出です」
「辺境伯として、ですか?」
「辺境伯としても。……それだけではなく」
彼はそこで言葉を切り、窓辺のヴァイオリンケースに目をやった。
「一つ、お願いがあります」
「何でしょう」
「今夜——もう一曲だけ、聴かせていただけませんか。演奏会のためでも、誰かに証明するためでもなく。ただ、あなたが弾きたい曲を」
夕暮れのテラスに出た。
秋の風が山から吹き下ろし、辺境の街を包んでいる。
空は茜から紫に変わりつつあった。
ヴァイオリンを構えた。
何を弾こう。
宮廷の曲でも、酒場の曲でも、音楽祭の変奏曲でもなく。
指が自然に動いた。
母が最初に教えてくれた、一番簡単な練習曲。ヴァイスクラング家の子どもが、楽器を手にして最初に弾く曲。
フェリクスは目を閉じて聴いていた。
弾きながら、思った。
九年間、私は「正しい音楽」を追い求めてきた。完璧な音程、正確なテンポ、精密な編曲。それは間違いではなかった。でも、それだけでは足りなかった。
雑音と呼ばれた日、私は全てを失ったと思った。
でも本当は——音楽の仮面を外しただけだった。仮面の下にあったのは、この練習曲を初めて弾いた時の気持ち。ただ音が鳴ることが、嬉しかった。
最後の音が夕暮れの空に溶けた。
「もう、誰かのために弾かなくていい」
フェリクスの声が、風に乗って聞こえた。
「あなた自身のために弾いてください。……その音を、そばで聴かせてもらえたら、それだけで十分です」
私は弓を下ろした。
左手の指先——弦を押さえ続けてタコができた指先が、夕日に照らされて金色に光っていた。
「フェリクス様」
「はい」
「……ありがとうございます。聴いてくれて」
フェリクスは微笑んで、静かに手を合わせた。
あの酒場で初めて聴いた時と同じ、ゆっくりとした一人の拍手。
テラスに、二人分の拍手と、夕暮れの風だけが残った。
後日。
レゾナンツの社交界では、一つの名前が禁句になったという。
セレーナ・フォン・ヴァイスクラング。
その名を出すと、侯爵子息ルートヴィヒの顔が蒼白になる。
宮廷楽団は、セレーナが去って以来、まともな演奏ができていない。新しい首席奏者を探したが、編曲と調律と指導の三役を一人でこなせる人材は、国内に見つからなかった。
何人もの楽師が試されたという。しかし調律だけで半日かかり、編曲は一週間かかっても仕上がらず、合奏は毎回崩壊した。セレーナが毎朝一時間で済ませていた仕事が、三人がかりでも追いつかない。
リゼッテとの婚約も白紙に戻された。歌姫の独唱では楽団は動かないと証明されてしまった以上、リゼッテを迎える意味がない。ルートヴィヒが望んだ「本物の音楽」は、最初からセレーナの手の中にあったのだ。
ルートヴィヒは辺境に使者を送った。
「セレーナ殿に、宮廷への復帰をお願いしたい」
使者に対し、私はこう答えた。
「お伝えください。——雑音は、もう王城には参りません」
使者が去った後、酒場の店主が大笑いした。
「言うねぇ、楽師の嬢ちゃん!」
「嬢ちゃんはやめてください。せめてセレーナと」
「はいはい。今夜も弾いてくれよ、セレーナ。じいさんたちが待ってる」
酒場の常連たちが手を振っている。あの涙を流した老人も、今日は笑顔だ。
ヴァイオリンを構えた。
弦に弓を乗せる。
この辺境の小さな酒場が、今の私の舞台だ。
五百人の演奏会場より、宮廷の大舞踏広間より——ここが、私の音楽が一番正しく響く場所。
正しく、ではない。
一番、届く場所。
音楽は、正しく聴く耳があれば——どこででも響く。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
実力証明型×職業特化型の王道ストーリーです。「音楽」という見えにくい専門職を題材にしました。セレーナの仕事——調律、編曲、指導——は、うまくいっている時には誰にも気づかれません。壊れて初めて、そこに見えない支えがあったことに周囲が気づく。これは現実の職場でもよくある話ではないでしょうか。
「雑音は、聴く耳がない人にだけ聴こえるものです」——この一言のために一万字以上を書きました。音楽を理解しない人間が音楽を「雑音」と呼び、本当の雑音を生み出す皮肉。セレーナが宮廷を去った後に王城を満たしたのは、彼女が消した「雑音」ではなく、彼女がいなくなったことで生まれた本物の雑音でした。
もう一つのテーマは「誰のために弾くか」です。宮廷では国家のため、楽団のため、婚約者のために弾いていたセレーナが、辺境の酒場で「ただ好きだから弾く」という原点に戻る。技術と感情が融合した時、音楽は本当の力を持つ——そう信じて書きました。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
▼ 公開中
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