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修羅と聖者

九尾の狐の口から吐き出されていた業火の奔流が、唐突に途絶えた。


まるで巨大な心臓が一度だけ不規則に鼓動し、息絶えたかのように、炎は音を立てて萎れ、黒煙だけを残して霧散した。


灼熱の残滓が大地を焦がし、焼けた土と肉の臭いが鼻孔を突く。兵士たちの頬を灼いた熱風が去った後、耳鳴りのするような静寂が一瞬だけ戦場を支配した。


狐は巨体を震わせ、荒々しい呼吸を繰り返していた。


千年ぶりに目覚めた肉体は、まだ完全に適合していない。覚醒直後から全力で妖気を燃やし続けた代償が、今、骨の髄まで染み込んでくる。次の極大の炎を吐くには、肺の奥底まで妖気を溜め直さねばならない。


飛来する砲弾やミサイルを妖気の結界で防ぎながら、黄金の瞳が、憎悪と苛立ちで細められた。



「……小癪な」



低く、喉の奥から絞り出すような声が、地響きとなって伝わる。



「あんな小娘の結界ごときに我が渾身の炎が防がれるとは……。甘く見ていたか…ならば、貴様らの肉を、骨を、魂ごと直接引き裂いてくれるわ!」



狐が咆哮した瞬間、尾が大地を叩き割った。


衝撃が波紋のように地面を伝わり、陣地の最前線に立つ兵士たちの足元を揺るがす。亀裂が走り、そこからどす黒い瘴気が噴き出した。


腐臭と死臭が混じった、吐き気を催す闇の霧。その中から、ぬらぬらと蠢く異形の影が次々と這い出してくる。


錆びた鎧を鳴らして立ち上がる骸骨の武者、腐肉を滴らせ舌なめずりする餓鬼、ゆらゆらと宙を漂う青白い鬼火、そして棍棒を引きずりながら現れる一つ目の巨人――。


それは、古の時代から恐れられてきた災厄の具現、



「百鬼夜行」。



数百、数千の妖怪たちが、甲高い笑い声と怨嗟のうめきを上げながら、人間の陣地へと雪崩れ込んだ。



「総員、撃てぇッ!! 一歩も近づけるな!!」



小隊長の絶叫が轟く。


M2重機関銃が火を噴き、12.7mm弾が唸りを上げて妖怪の群れを薙ぎ払う。アサルトライフルが連続して火を吐き、米軍レンジャーはショットガンの散弾とグレネードランチャーの爆発で応戦した。


炸裂音と銃声が重なり合い、硝煙が視界を白く染める。


だが、相手は人の理を外れた存在だった。


銃弾を浴びても骸骨は立ち上がり、散弾を受けても霊体は霧のように形を崩して再生する。


そこへ、虹色の無数の矢が雨のように降り注ぐ。矢を受けた妖怪達が、苦しみながら悶絶する。


術式・虹彩破魔矢。


九尾の狐の炎を受け止めた影響でほとんど余裕の無い一見が、苦しみながらも放った術式。兵士達の負担を少しでも軽くしようとしたのだ。


矢のダメージを受けた妖怪達に弾丸が命中すると、明らかに身体が崩壊している様子が見て取れた。それを確認した自衛隊員と米軍兵士達は、猛烈な勢いで攻撃を放つ。


頭を吹き飛ばされ、胴体が粉砕され、それでも妖怪達は咆哮を上げながら前進してくる。


陣地のバリケードに取り付く妖怪達。



「突撃ィ!」


Allオール unitsユニッツ, Chargeチャージ!(全隊、突撃!)」



「オオオオオオオ!!」



吶喊の叫び声を上げながら、兵士達が妖怪の群れに突撃する。


兵士たちは歯を食いしばり、銃床で殴りつけ、ナイフを抜き、銃剣を突き立てた。弾丸と血と骨片と黒い体液が飛び散り、叫びと断末魔が交錯する。陣地は瞬く間に、修羅場と化した。


その中心、古井座一見は額に脂汗を浮かべ、唇を噛み締めながら立体鍵盤を叩き続けていた。


指先が震え、視界が歪む。脳が煮えるような痛みに耐えながら、彼女は二つの超人的な作業を同時にこなしていた。


一つは、狐の業火で半壊した巨大防御結界の修復。


もう一つは、九尾を封じるための最終術式「従属の焔」の編み上げ。


演算量は常人の限界を遥かに超えていた。霊的回路が悲鳴を上げ、血管が脈打つ。だが、それでも指は止まらない。止めた瞬間に結界は崩れ、術式は霧散する。兵士たちの命が、彼女の指先に懸かっていた。



「……っ!」



一見が苦悶の声を漏らす。


結界にできた亀裂――狐の炎が焼き破った、ほんの小さな隙間から、数体の餓鬼と一つ目の巨人が、ぬるりと滑り込んできたのだ。護衛の兵士たちは外周の敵に手一杯で、内部への侵入に気づく余裕すらない。


妖怪たちは涎を垂らし、牙を剥き、無防備な背中を晒して演奏を続ける一見へと殺到した。


腐った肉の臭い、死の気配が背後から迫る。一見は動けない。指を止めれば、全てが終わる。



――死ぬ。



その確信が背筋を凍らせた瞬間……


鋭い風切り音が、空気を裂いた。


先頭の餓鬼の首が、何もない空間でスパンと跳ね上がり、腐った血を撒き散らしながら転がった。


続いて、滑るような足運びで妖怪たちの間を縫う一つの影。


その軌跡に沿って銀色の閃光が奔り、一つ目の巨人が袈裟懸けに両断され、黒い体液を噴き上げて崩れ落ちる。


侵入してきた妖怪の一団が、瞬きする間にただの肉塊と化し、地面にぶちまけられた。


血飛沫が雨のように降り注ぐ中、静かに残心をとる一人の少女…。


深緑のブレザーには、一滴の血も付着していない。白いヴェールが風にはためき、手に握られた日本刀は、月光を浴びた氷柱のように冷たく澄んだ輝きを放っていた。


彼女の手にあるのは、葉風家に代々伝わる家宝――


彼岸仙朔月ひがんせんさくげつ』。


全てを断ち切るために鍛え上げられた、失われた古の超技術の結晶である至高の最高傑作。


葉風澪奈。


彼女は刀を静かに振るった。


その剣速はあまりに鋭く、刀身に付着したわずかな血脂さえも、瞬時に弾き飛ばされ霧散する。


刀は常に、研ぎ澄まされた鏡面のような輝きを保っていた。


普段の冷静沈着な瞳に、今は研ぎ澄まされた最強剣士の光が宿っている。恐怖も、焦りもない。ただ目の前の敵を斬るという意志だけが、鋼のように硬く存在していた。



「……演奏に集中しろ、副部長」



冷たく、静かな声。だが、その声音には揺るぎない決意と、絶対的な自信が宿っていた。



「雑音は、俺が消す」


「澪奈、さん……!?」


「なぜ俺がここにいるか、この刀の詳しい話は後だ。お前が倒れれば、吹奏楽部が困るからな」



澪奈はすり足で間合いを詰めた。


超能力ではない。鍛え抜かれた体幹と、極限まで無駄を削ぎ落とした足捌き。彼女の姿が、ブレることなく敵の懐へと滑り込む。


次の瞬間、彼女は結界の亀裂から新たに侵入しようとしていた骸骨武者の懐に潜り込んでいた。


骸骨武者が大太刀を振り上げるより速く、その胸板が横一文字に裂けた。硬い骨を豆腐のように断ち切り、その存在を維持する核となる妖気を『彼岸仙朔月』が断ち切る。


噴き出す汚濁した血。だが、澪奈はそれを予測していたかのように、流れるような動きで半身をずらす。


血飛沫は彼女のヴェールを掠めることすらなく、虚空に散る。


彼女はすでに次の敵の背後に立っていた。



「シッ!」



鋭い呼気と共に、剣閃が舞う。


一つ目の巨人が咆哮し、丸太のような棍棒を振り上げた。空気を押し潰すような圧力が、澪奈の頭上に迫る。


澪奈は逃げなかった。


『彼岸仙朔月』を頭上へと掲げ、その峰に左手の掌を添える。刀身を支えとし、全身をバネのように沈み込ませて衝撃に備えた。



「ゴアアッ!」



鋭い気合と共に、巨人の剛腕が振り下ろされる。



ガギィィンッ!!



金属と硬木が激突する、耳をつんざくような破砕音。


澪奈の足元の地面が蜘蛛の巣状にひび割れ、土煙が舞い上がる。バキキ、と棍棒に亀裂が入り刀身が食い込む。



「グオオッ!?」



悲鳴を上げるほどの衝撃が巨人の両腕に跳ね返る。だが、彼女の膝は折れていない。峰に添えた左手と、柄を握る右手が、巨人の渾身の一撃を正面から受け止めていた。



「……ぬるいな」



澪奈の瞳が鋭く細められる。


次の瞬間、彼女は踏み込んだ右足に爆発的な力を込め、峰に添えた左手で刀を一気に押し上げた。



ズドンッ!



物理法則を無視したかのような剛力が、巨人の腕へと跳ね返る。


巨大な棍棒が弾かれ、巨人の体勢が大きく後ろへと崩れた。その隙を見逃す澪奈ではない。


がら空きになった懐へ飛び込み跳躍、刀身に左手を添えて返す刀で下段から上に斬り上げた。



「――葉風流・上弦閃じょうげんせん



巨人の巨体が胸から頭頂まで両断され、黒い霧となって四散する。


餓鬼の群れが四方から殺到する。


着地した澪奈は慌てることなく、呼吸を整えた。刀身が、まるで月明かりを集めたように輝く。



「――葉風流・朔閃さくせん



一閃。


それは単純な横薙ぎだった。だが、その剣圧は鋭利な刃となって空間を走り、半径数メートル以内の全ての妖怪を、まとめて両断した。


全てを斬る刃の力が、肉体を持たない霊体までも切り裂き、存在そのものを消滅させていく。


降り注ぐ血の雨の中、澪奈は舞うようにステップを踏み、その全てを避けていた。汚れることのないブレザー、純白のヴェール。


その姿は、泥濘の戦場に咲いた一輪の白百合のように、凛として、そして何者も寄せ付けない孤高の剣士だった。


遠くからその姿を見据えた九尾の狐が、歯軋りを響かせた。



「おのれ……人間の、小娘が……! 我が眷属を、虫ケラの如く……!」













同時刻、後方司令本部。


モニターに映る修羅場の映像を、固唾を呑んで見つめていた古井座源一郎の耳に、新たなアラートが突き刺さった。



「識別不明機、戦闘空域に高速侵入! これは……大型輸送機です!」


「何!? 空域は完全封鎖のはずだ! 所属は!?」



源一郎が振り返るより早く、隣で腕を組んでいた柊武が、まるで他人事のように呟いた。



「地獄耳のバチカンからの特使だ。ほっとけ」



源一郎は一瞬、時間が止まったような感覚に襲われた。そして、怒りがこめかみを熱くする。



「……バチカンだと? 聞いてないぞ、柊のご当主」



武は微動だにせず、悪びれもない。



「すまんな。言うのを忘れてた」



その軽さ、その傲慢さ。


源一郎の拳が震えた。これは単なる連絡ミスではない。柊家が情報を独占し、最後まで主導権を握ろうとした、計算された沈黙だ。



「……私が反対するのがわかってて、黙っていたな」



宗教的介入は最悪の混乱要因だ。


科学と霊力の融合でなんとか対処しようとしているこの戦場に、キリスト教のエクソシストが降り立てば、作戦行動は混乱する。しかもあのバチカン…最悪の疫病神だ。


武は無表情で話を続ける。



「…どうでもいいことだ。バチカンの意向は、柊家といえども無視できん。…そういうことだ。」



そこには、財閥の当主としての冷徹な現実主義があった。


九尾の狐という超常が顕現した以上、世界の宗教的権威が黙っているはずがない。そしてその権威は、時に国家や財閥の力をも凌駕する。


源一郎は奥歯を噛み締め、言葉を呑み込んだ。



「……」



モニターに、輸送機のハッチが開く映像が映し出される。


そこから、常識外の速度で降下していく、一つの人影。



「…クハハハッ! 嘆かわしい! 実に嘆かわしいなァ、極東の猿どもは! たかが一匹の害獣相手に、国の軍隊まで持ち出してこの体たらくとは! 科学? 霊力? ……ハッ、笑わせるな! 貴様らのそれは所詮『お遊戯』に過ぎんのだよ。道を開けろ、無能な有象無象うぞうむぞう共! 唯一絶対なる神の代行者、この私が直々に『本物の聖戦エクソシズム』を見せてやる! さあ、異端の狐よ……貴様の穢れた魂を、聖なる奇跡でミンチにして浄化してやろうかァ!!」



戦場は今、科学、霊力、剣術、そして――神学が交錯する、かつてない混沌の坩堝へと、深く沈んでいこうとしていた。


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