婚約者の裏切りが発覚しました、とりあえず殺します
今夜殺す。
公爵令嬢ルクレチア・スカーレットは、強い決意をもって一通の手紙を握り潰した。
それはルクレチアの婚約者であるコンラッドが、ルクレチアではない女の為にしたためた手紙である。ルクレチアが手を回して手に入れたもの。
ふざけたことばかりが書かれた手紙である。
ルクレチアに対して気持ちはないだとか、君だけを愛しているだとか。
いずれ自分がルクレチアの婿となり正式にスカーレット公爵になった暁には、ルクレチアを殺して君を公爵夫人にしてやる、だとか。
どうせ箱入りで愚鈍なルクレチアは俺達の関係に気が付かない。だから君は安心して、俺が公爵になるのを待っていてくれともあった。
「ッ!!」
ドンッ!!と、ルクレチアは手紙を握り潰したままの手を机の上に振り下ろす。
悲しくはなかった。元々政略的な意味合いの強い婚約者だ。ルクレチアが14になった頃にようやく決まった婚約者だったから、会った回数自体もそこまで多くもない。だから、元々愛はない。
だが怒りはあった。
女にはひとつ我慢ならないことがあるのだ。
尊厳を汚され、足蹴にされることだけは、ルクレチアは許せなかった。
たかだか子爵家の三男坊風情が、よくもまぁ公爵令嬢であるルクレチアを、今の王の姪にも当たるルクレチアをここまでコケにしてくれたものだ。
こんな屈辱は他になかった。王立学院を随分と良い成績で卒業した、後ろ盾のない貴族の子息。実家の権威が弱いということは、その分お飾りの公爵としてぴったりということだ。ある程度勉強が出来るなら、執務の中でも、簡単な雑用くらいはさせられるということでもある。
コンラッドはただそれだけの理由で決めた結婚相手だったが、どうやら勉強が出来ることと、人として賢いことは同じではなかったらしい。
血の気が引くほどの強い怒りを抱えたルクレチアは、しかしやがて、ふ、と息を吐き出すように短く笑う。
「殺すわ……」
必ず殺す。今夜殺す。
お誂え向きに、今夜は大規模な夜会が開かれる日である。もちろんルクレチアは参加するつもりだったし、コンラッドを伴う予定であった。
きっと今日という日は、誰の記憶にも残る素敵な命日になるだろう。あの馬鹿男には勿体無いくらいには。
▪︎
「そうか、コンラッドが……」
この国を治める年若い王。ルクレチアにとっては叔父に当たるルイスは、深くため息を吐きながらそう言った。
今日の夜会までまだ随分と時間がある。にも関わらず、早いうちから王城を訪ねてきた姪に不思議に思っていたけれど、話を聞いてみればなるほど。それは確かに、ルクレチアが黙っていない筈である。
「ええ。だからね、今夜殺すわ。叔父様にはきっとたくさん迷惑をかけてしまうから、今のうちに謝っておこうと思って」
「うん、落ち着きない、ルクレチア。コンラッドもあれで一応貴族だからね。そんなことをしてはお前もただでは済まなくなってしまう」
「だって叔父様、この私が、ルクレチア・スカーレットが!あんな歴史も浅い子爵家の、継承権すら持たない三男の、デクの坊にこんなにもコケにされたのよ!?箱入り?愚鈍?結婚した暁には殺して爵位も家も乗っ取る!!??あまりにも私を馬鹿にしているわ!!私自身の手で始末を付けなければ気が済まない!!」
「ああうん、そうだね。お前はそういう子だったね。というか、うちの家系の女は皆そうだったね………」
思えばルイスの母も、姉も、祖母も、叔母も、王家の女は皆そうだった。
矜持、誇り、尊厳。彼女達はそういうものを何よりも大事にして、決してどんな相手にも譲らない。何を犠牲にしてでも、例え自分の命を引き換えにしてでも矜持を守りきる。
要するに、「馬鹿にされた」と一度でも感じたら瞬く間にスイッチが入るのだ。一度コケにされれば、何をどれだけ失おうと相手を破滅させるまで引かないのが王家の女というもので、特にルイスの母などはその性質の為に過去近隣諸国をことごとく属国にした過去がある。
元々は他国からの婿であった先王。その時代、王はあくまで傀儡でしかなかった。実質的に国を牛耳っていたのはルイスの母である先代の王妃、現在の王太后。つまりはルクレチアの祖母である。
そしてルクレチアは、そんな王太后によく似ている。王太后の若い頃を知る人間などは、ルクレチアをして「生き写し」と言うほどだ。
ルクレチアは王族でこそないが、王家の血を引いている。そして一族の中でも、特に苛烈な性格をしているのもルクレチアだった。
「お祖母様のご理解はもういただいたわ。お母様も思いきりやってこいと。庭師に頼んで一番傷んだ斧も手に入れて、準備は全て揃っているの。任せて、きっと簡単には殺さないわ」
「母上、姉上まで……!!誰か他に止めるものは居なかったのか……!?」
「お父様なら沈めてきたわ。だから今夜の夜会は不参加よ」
「公爵ーーーッ!!」
哀れ、合掌。
スカーレット公爵、相変わらずことごとく不憫な男である。殆ど平民と変わらない落ちぶれた男爵の出身だったのに、あまりにも戦争の才能があり過ぎたせいで当時の王女に見初められ、あれよあれよと戦場に送り込まれることになった苦労人。
ある程度戦果を上げて王都に戻ってきたかと思えば褒賞として王女と公爵の爵位を与えられ、慣れない高位貴族としての仕事や責務に追われるうちに、気が付けば三人の子宝に恵まれていたものだから逃げ道さえ失っていたのだ。
王家の女に目を付けられた男の最後がこれである。
本当に、うちの一族の女は怖いのだ。ここまで来るとむしろ、ルクレチアと婚約しておきながら、不貞が出来たコンラッドの勇気の方が凄い。
ルイスは思う。自分なら絶対に出来ない。だって命が幾つあっても足りないもの。
「い、いやしかしルクレチア。コンラッドを仕留めるにしても、何も今日じゃなくたって……」
「あの蛆虫を、一秒でも早くこの世界から排除したいの。だってどうしてこの私が、あんな虫と同じ空気を吸ってやらなければならないの?」
「何もルクレチアがそんなことをしなくたって、叔父様が全部片付けてあげると言ってもかい?適当な罪状をでっち上げて、確実に処刑してあげると言っても??」
「叔父様。私は、私の手で、始末を付けたいの」
ルイスは額に手を当てるようにしながら天井を仰いだ。
くそ。どうしてうちの女ときたら、一度怒るとこうも物理に走るのか。ルイスは時々、彼女達はもしかしたら蛮族よりも余程野蛮なのではないかと感じることさえある。
しかし、何にせよ今夜は駄目だ。というか、この先三年ほどは都合が悪い。何せ教会に睨まれている。先王の時代に、主にルイスの母が暴れ過ぎたせいである。これ以上王家の血を引く人間が、私情で殺生をするのはまずい。教会に付け入る隙を与えてしまう。
宗教が時には王家以上の影響力を持つこの時代、表立って教会と対立するわけには行かないのだ。少なくとも、これから三年ほどは息を潜める必要がある。上手く手を回したから、この三年間さえ乗り切れば、あとは教会も瓦解していく予定だけれど。
つまり本当に、時期が悪いのだ。
「………しゃ、」
「しゃ?」
「社会的な死じゃ、駄目ですかね……?」
「生ぬるい」
「しゃ、社会的な死というのは、あくまでルクレチアが与える分のことだよ?物理的なものもちゃんと与えるもの。こう、きちんと罪を捏造して処刑台に送った上で、処刑人に任せて……」
「ギロチンは人のための処刑具でしょう。最も苦痛のない死など蛆虫には勿体ない」
「その分を生前で散々味合わせるんだ!社会的な死というものをどれだけ悲惨な物に出来るかは、それこそルクレチアの腕の見せ所というやつだよ。生き地獄という言葉があるように、上手くことを動かせば、それこそ下手に切れ味の悪い斧を繰り返し振り下ろすよりも、余程重い苦痛をあげられるんじゃないかなぁ、と……」
「叔父様は、思うなぁ……」と、肩を小さくしながらルイスが言う。
するとルクレチアは「ふむ」と顎の下に手を置きながら検討するように暫く黙り込んだ。
ルイスはそれを、緊張のこもった目で見守る。
「……いいわ。叔父様がそんなに困るなら、今回だけ乗せられてあげる」
「ルクレチア!!」
妥協のため息を吐いて、仕方ないみたいにルクレチアは言った。ルイスはその瞬間わっと歓喜に声をあげて、うちの姪はなんて良い子なんだろう!と思う。
敵には一切の容赦がないけれど、うちのルクレチアはこれで身内には優しいのだ。ルイスはほっと胸を撫で下ろして、「私に出来ることがあったら何でも言っておくれ」と微笑んだ。
▪︎
コンラッド・チャドリーにとって、ルクレチアとは正しく悪夢のような女だった。
真紅の髪に黄金の瞳。王家の特徴をそのまま受け継ぐ公爵令嬢。国王の姪。自身の血筋に余程の自信を持っているのか、それともコンラッドをたかが子爵家の三男坊として馬鹿にしているのか、とにかくルクレチアは自分勝手で偉そうで手に負えないのだ。
女のくせに、仮にも婚約者であるコンラッドを少しも尊敬しないし、少しも気遣うことがないのである。
コンラッドの方が年も上で、やがて公爵になるのもコンラッドの方だというのに、ルクレチアからはいつまで経っても偉そうな態度が消えない。
一緒に食事をしているときもそうだ。コンラッドの家柄からして手を伸ばせなかった教養の類をこれ見よがしに披露して、彼がそれに合わせた話が出来ないと「そう」とつまらなさそうにため息を吐く。
ルクレチアからすれば普通に話をしているということらしいが、コンラッドからすればそれが一番腹が立つのだ。自分はルクレチアのいう『普通』にさえ及んでいないのだと、暗にバカにされているようで。
それだけではなかった。ルクレチアは爵位を継ぐことさえ出来ない性別をしているくせに、商売や政治の話まで口を出して、コンラッドの考えるプランにもすぐにケチを付けるのだ。どこが足りていないとか、どこを直すべきだとか。
無礼だし、頭に来る。女なら男を立てて内助の功を目指すべきなのに。女ならもっと馬鹿であるべきだ。ルクレチアの話す言葉は正論ばかりで面白くないし、どこを取ってもコンラッドに対する敬意が感じられない。
ルクレチアは公爵家のお嬢様として、箱入りに大切に育てられた娘だ。貴族社会の外のことは何も知らない世間知らず。
コンラッドは子爵家の三男として、幼い頃などは爵位を継げず平民になった叔父のもとで、平民としての暮らしを教わったこともあった。王立学院を卒業出来るほどの才能をコンラッドが持っていると知らなかった頃の両親が、それこそが息子の為だと考えたのである。
だからコンラッドは、自立するということの意味さえ本当の意味で理解している。つまり、本質的な物事についてはコンラッドの方が余程知っているのだ。
馬鹿で愚鈍なルクレチアはそんなことすら分からずに、環境だけで身に付けられた教養ばかりを誇示してコンラッドをこき下ろす。
コンラッドがそれに文句の一つでも言えば、「なら貴方も学べば良いじゃない。教師なら手配して差し上げてよ」と言うのだ。物事の本質はそういうことではない。ルクレチアが婚約者を尊敬していないことこそが問題だというのに。
許せなかった。全く悪夢のような女だと思った。
よりにもよって、そんなルクレチアが婚約者なのだ。血筋と顔、それから夫となる男にもたらす爵位しか取り柄のない女。
コンラッドが一番嫌いな女だ。
だから、コンラッドが不貞を働くことになったのは、本当に仕方のないことだったのだ。コンラッドを尊敬しなかったルクレチアにも責任がある。
実際、コンラッドの恋人は何もかもがルクレチアと正反対みたいな女だった。
平民だけどとても素直で、努力家で、だけど学は全くない。平民には珍しくないことではあるが、リリアーナは文字さえ碌に読めなかった。
子爵家の息子であるコンラッドのことを本当に凄い人だと尊敬してくれて、コンラッドが何を言っても「知らなかったわ」と純粋に驚いて称賛してくれる。コンラッドの話を目を丸くしながら聞いてくれて、「流石です」と胸を抑えて感動してくれる。
リリアーナは全く、素晴らしい女性だった。
だからコンラッドは思ったのだ。自身の妻には、あんな悪夢のような女ではなく、こういう素直な女性の方が余程相応しい。
いつかコンラッドがルクレチアと結婚して公爵の爵位を得たら、用済みになったルクレチアは排除してしまおう。事故が良い。病でも良い。便利な毒はこのご時世幾らでも溢れかえっている。
そうして、健気で素直なリリアーナこそを公爵夫人として迎えてあげよう、と。
最高の人生計画だった。コンラッドが思い描いたのは、そういう完璧な未来だった。
そうなる筈だったのだ。ルクレチアは箱入りで馬鹿だから、きっとコンラッドの裏切りにも気が付かないだろうと高を括っていた。
それなのに、何故。
こんなことになってしまったのだろう。
▪︎
「申し上げねばならないことがございます」
陛下、と。鮮やかなルージュで彩られたルクレチアの唇が、どこか不吉な微笑みと共に声を上げた。
ルクレチアの婚約者として彼女の隣に立つコンラッドは、驚いたようにルクレチアの方を見る。コンラッドはだって、何も聞いていないのだ。
季節の変わり目に開かれる、年に四度しかない大規模な夜会。折角コンラッドが次期公爵として王に挨拶をしようというところなのに、この娘は何をしてくれているのか、と思う。
けれどコンラッドは表面上、優しい婚約者の仮面を被らなければならない。
苛立ちに腹の中が煮え返る思いをしながら、しかしそれでも、コンラッドはぎこちない微笑みでルクレチアの方を振り向いた。
「ルクレチア、一体何を……」
「陛下。わたくしは陛下の姪として、この国の忠実な臣として、陛下にひとつ恥を申し上げたく存じます」
「……良いだろう、ルクレチア。他でもない其方の言葉だ。聞こう」
だが、ルクレチアはこんな時にまでコンラッドを蔑ろにする。コンラッドが屈辱に顔を引き攣らせる中でも、ルクレチアはまっすぐに王を見つめて、コンラッドを振り向きもしなかった。
「───この栄えある大舞踏会に、反逆者が潜んでございます」
「なっ……!」
「ふむ……」
思ってもみなかったルクレチアの言葉に、コンラッドは思わず息を詰める。周囲で次の挨拶の順番を待っていた貴族達が、一斉にザワザワと騒ぎ出した。
伸びた背筋。華やかなドレスを持ち上げながら、いっそ芝居じみている程に恭しく頭を下げて、ルクレチアはとんでもないことを言ったのだ。
この大舞踏会に出席しているのは、誰も歴とした貴族ばかり。玉座に座る王はルクレチアの言葉に、「それはそれは」と冷徹に瞳を細めた。
「其方がこの場で、そこまではっきりと申すということは、余程確かな証拠を掴んでいるのだろうな」
「はい、陛下。……お前達、あれを」
ルクレチアの目配せを受けて、ルクレチアの腹心とも言える公爵家の騎士達が両の手いっぱいの紙束を持って現れる。彼らも貴族の血を引く者達だから、この大舞踏会に入り込めたのだろう。
王はそれを使用人達に受け取らせて、その中から適当に取った紙束を流し読みでペラペラと捲った。
「これは。……そうか、由々しきことだ」
「誠に、釈明のしようもございません。わたくしの失態です」
「いや、良い。まさか其方に罪などあろうはずもない。其方はただ騙され、付け込まれただけなのだ。罪があるとすれば、それはこの男だけのものだろう。其方もまた被害者。そして、功労者でもある」
「勿体ないお言葉です」
「別日、また王城に来なさい、ルクレチア。功を労い、褒美をやろう。国庫から好きなものを持っていくと良い」
「叔父様……」
「ああ、泣いてはいけない。こちらへおいで」
冷徹な王の顔から、途端に叔父の顔になった国王が、ルクレチアをそう言って呼び寄せる。
ルクレチアは婚約者であるコンラッドすら見たことのないしおらしい顔で、まるで張り詰めていた糸が切れてしまったのだとでも言うように、態とらしく涙ぐみながら国王の元に歩いて行った。
「怖かっただろう。よく勇気を出してくれた」
「わ、わたくしは、貴族ですもの。叔父様の姪である前に、公爵家の娘です。貴族には、国の為に尽くす義務がありますもの……」
「何と立派な志か。お前は私の自慢だ」
涙ぐむルクレチアの手を強く握りしめながら、国王はそんなルクレチアを慰めるように何度だって頷いた。
そんな二人の様子に、周囲の貴族達は何事があったのかと注目している。その視線はルクレチアのパートナーであったコンラッドにも向けられていて、けれどコンラッドは本当に何が起きているのかも分からない。
精々虚勢を張るために、何食わぬ顔をするので精一杯だ。
張り詰めた空気だった。
「コンラッド・チャドリーを即刻取り押さえよ!!」
「っ、はッ……!?な、何を!陛下!?や、やめろ、離せ、離さないか!!私はルクレチアの婚約者だぞ!!?ル、ルクレチア、ルクレチア!!お前陛下に一体何を……!!」
「私の姪に気安く声をかけるなッ!!!!」
ドン!と音を立てて、国王は力強く玉座の肘掛けに拳を振り下ろした。はじめて耳にする国王の怒号に、コンラッドは思わず身体を竦める。
一体何が起きたのか。全く身に覚えがない事態だ。早く誤解を解かなければならないのに、コンラッドは一国の王の迫力に押されて、はくはくと口を開閉させることしか出来なかった。
「コンラッド・チャドリー。貴様、王家の血を引くルクレチアを利用して、玉座を得ることを目論んだな」
「な、な……」
「私は未だ後継者を持たない。故に現時点では、ルクレチアの持つ王位継承権は優先順位の高いものだ。貴様はルクレチアの夫となった後、私を殺し、ルクレチアの夫として王となることを望んだ。この国に女王が許されていないのを良いことに。許し難い大望を抱いたな」
怒鳴りそうになるのを必死に押し殺すような、地を這うような低い声だった。コンラッドには全く身に覚えが無い。
確かにルクレチアは王位継承権を持っている。いや。ルクレチアは女だから、正確には次代の王を産む権利と言えるだろうか。
この国では、女性当主も女性君主も認められていない。だからルクレチアがなれるのは、当主の妻か君主の妻だけなのだ。王家の血を絶やさない為の王妃にはなれるが、女王にはなれない。
だから王位の順番がルクレチアのところまで回ってきた時、本当に玉座に就けるのはルクレチアの夫になる。もちろんコンラッドだって知っている。確かに、王となる未来を思い浮かべたことはある。
だけど、思い浮かべただけだ。夢想しただけだ。そんな大それたことを実行しようなど、そんな馬鹿なことを考えたことなど、コンラッドは一度もない。
声が出ないなりにコンラッドは必死に首を振ったが、王はしかし、そんなコンラッドにますます怒りを募らせたように睨む眼光を鋭くした。
「だが何よりも許し難いのは、貴様はその上で、ルクレチアの暗殺までもを計画したことだ!!玉座を手に入れた暁には私の姪を殺し、自らの恋人を、平民の女を王妃に迎えようなどと、よくもまぁその様に大それたことを考えられたものだ!!」
「ち、違う、違います陛下!!そんなことは何かの間違いです!!私は神に誓って、そのような……!!」
「黙れ!!貴様に発言を許した覚えはない!!」
鋭い声で一喝されたコンラッドは青くした顔で、それでも、ちがう、違う、とぼつぼつと繰り返す。
「コンラッド」
と。それまで怯えるように涙ぐんでいたルクレチアが発言したのは、その時だった。
「……わたくしは、家を守るためにこそ、貴方との婚約を結びました。私達の間に愛はなかった。だから貴方がたとえ他の女性を恋人にしようと、愛人として囲おうと、見ないふりをし続けるつもりでいました。貴方が公爵として責務を果たしてくださるのなら、それ以上のことは望まないと」
「ル、ルクレチア……。まさか、お前、リリアーナのことをずっと知って……」
「陛下。わたくしが愚かだったのです。彼がこの様な野心を抱く人間だと気が付かないまま、婚約を結んでしまった。そのせいで、ああ……っ!叔父様の暗殺の計画まで企てるなんて……っ!!」
「あ、暗殺など!それだけは誤解だ、何かの間違いなんだ、ルクレチア……!!確かに私には恋人が居るが、リリアーナはただの、」
「もう辞めてコンラッド!もう、全てが明らかになってしまったのです……!!」
わっ、と顔を覆って泣き崩れながらルクレチアは言った。国王がそんなルクレチアを咄嗟に支えて、慰めるように背中をさすった。
「貴方のその計画を知ってしまった時、わたくしがどれだけ恐怖したことか!わたくしの死を願う貴方の隣で、何食わぬ顔で婚約者として振る舞うことが、どれだけ恐ろしかったか!!貴方の計画を阻止する為に証拠を集める日々の、明日も知れぬ心など、貴方はきっと分からないでしょう……!?」
「…、………ル、ルクレ、チア………?」
ま、まさか、と声が震える。そこでコンラッドはようやく王ではなく、ルクレチアの方をちゃんと見た。
赤い手袋に覆われた、顔を覆う細い指先。その間から見える黄金の瞳。
泣いているはずの女はしかし、獲物を逃さんとする鷹のような鋭い眼光で。王によく似た、ともすればそれよりも余程冷徹な目でコンラッドを捉えていた。
「陛下、わたくしは、コンラッド・チャドリーとの婚約破棄を望みます。そして、彼にどうか、罪に相応しいだけの処罰を……」
「ルクレチア……」
「例えこれがわたくしの人生の汚点となろうとも構いません。体裁や矜持のために陛下を、この国を危険に晒すことに比べれば、ルクレチアはその汚点さえ誇りと存じます」
涙を拭い、気丈に背筋を伸ばしながらルクレチアは言った。
会場はすっかり、国中から集まった貴族達はすっかりそんなルクレチアに感嘆の息を溢している。か細い声でなおも潔白を訴えるコンラッドには、ただただ軽蔑の瞳だけが向けられていた。
会場に居る誰も、コンラッドのことを信じてはくれていなかった。
「ち、違う、違うんだ………」
ルクレチアは箱入りで、愚鈍な娘のはずだった。だって女なのだ。女が男よりも優れるはずはない。自分を賢いと信じてやまないだけの、馬鹿な女のはずだった。
なのに、何故だ。何故こんなことになっているのか。ルクレチアが、コンラッドを嵌めたのか。女なんぞに、嵌められたのか?
ただ平民の女を囲っただけで、それだけでどうしてコンラッドがこんな目に遭わなければならない?
「ル、ルクレチア、ルクレチアーーーーッ!!!!」
「きゃあ!!」
激昂のまま、ルクレチアに向かおうとしたコンラッドはしかし、自らを取り押さえていた騎士たちに呆気なくそれを阻止された。口まで塞がれて、今度こそ身動き一つ取れなくなる。
ルクレチアは王の胸の中に庇われて、びくびくと怯えるように背中を震えさせていた。
会場中からの同情を集めて、あんな毒蛇のような女が、まるで被害者のように同情されているのだ。まるで逆賊から国を守った勇敢な少女のように称賛されているのだ。
やるせなかった。何もかもが。
▪︎
「それで、ああなったと」
スカーレット公爵の元に降嫁し公爵夫人となったルイスの姉は、あらあらまぁまぁと微笑みながらそう言った。
先日行われたコンラッドの公開処刑は、大々的なものであったこともあって記憶に新しい。ルクレチアを呪いながら断頭台に乗せられたあの男は、最後には貴族にあるまじき有様だった。気高さなど微塵も感じられない姿で、「死にたくない」と泣き喚いたのだ。
処刑人として立たされたのは、かつてのコンラッドの恋人、リリアーナだった。調べたところ、結婚後のルクレチア暗殺をコンラッドに唆した張本人であり、ある意味では諸悪の根源と言えるだろう。
まぁ、愛がなかったと言うわけではないらしいが。あれでリリアーナは割と、コンラッドのことを自分を高い身分に押し上げてくれる王子様だと本気で思っていたところがあるらしい。
そんなリリアーナにルクレチアは、処刑を免れる代わりに、コンラッドの処刑人となる取引を持ちかけた。
リリアーナは迷いに迷った末、それでも死ぬことは怖かったのだろう。ギロチンを落とす役割を引き受けて、一度は妻になることを真剣に望むほど愛した恋人を手にかけることになったのだ。
もちろん、ルクレチアのやることだ。自らを軽視して害そうとした人間を、それだけで許すはずはない。
リリアーナはそうやって処刑こそ免れたものの、言ってしまえば死なずに済んだだけ、という状況だった。リリアーナは身分を平民から奴隷に落とされ、この国で最も厳しい鉱山に送られることになったのだ。
あの時ルイスが言った生き地獄、という言葉をルクレチアはなかなか気に入ってくれていたらしい。
「ええ。ルクレチアが聞き分けの良い子で助かりました。お陰で教会に付け入る隙を与えずに済んだ……」
「あらあら、ルクレチアったら相変わらず貴方のことが大好きなのね。王家の女が、一度敵と決めた相手を手にかけることを諦めるなんてよっぽどのことだもの」
ふふ、と穏やかに笑みを浮かべながら、姉がしみじみと言う。ルイスはそれに照れ臭そうに頬をかきながら、「ルクレチアは幼少期を王城で過ごしていましたから」とはにかんだ。
「そうねぇ。あの頃は旦那様は戦場に、わたくしは体調を崩したせいで地方で静養していたし……。ルクレチアが寂しくないようにと、こちらに預けていたものね」
「ええ。母上にとっても初孫でしたから、母上もよく面倒を見ていらっしゃいましたが……。ルクレチアはあの頃、特に私の執務室を遊び場として気に入ってくれていましたから。それに何か気に入らないことがあると真っ先に私のところに飛んできて」
おじさま、おじさま!と泣いてルイスにしがみつき大変だったのだ。抱っこしてお菓子を食べさせて、満足するまで頭を撫でないと決してルイスから離れなかったし。
ルイスもそんな姪が可愛くて、甘やかし過ぎていた自覚はあるけれど。でもそのお陰で、ルクレチアはうちの一族の女にしては、割とルイスの切実なお願いを聞いてくれる位にはルイスに優しかった。
「まぁまぁ、うふふ。貴方がルクレチアが大好きなのも、ずっと変わらないのねぇ」
「もちろん。可愛い姪ですから」
「そうねぇ。特例を作ってしまうほど、可愛い姪ですものね」
くすくすと喉を揺らしながら姉が言う。
ルイスはそれにへにゃりと笑って、「ええ」と頷いた。
教会の教えが邪魔していることもあって、現在この国では女性当主、及び女性君主の存在が許されていない。
ルクレチアが傀儡を立てようとしたのもそのせいだったが、しかし先日の、コンラッドの事件が良い影響を及ぼしてくれたのだ。
王の姪であり、有事の際には自らの夫を王にすることの出来るルクレチアは、ともすればコンラッドのような考えを持つ者に利用されかねないのだと分かったのである。
下手をすれば国家転覆の恐れもあるのだ。ルクレチアが下手な相手を夫にすることは避けるべきだと、議会も納得せざるを得なくなった。それ故に。
「ルクレチアは近いうち、この国ではじめての女性公爵になります。ええ。公爵の位は、他の誰でもなくあの子にこそ相応しい」
「そんなことを言って。本当はルクレチアが誰かのお嫁さんになってしまうのが嫌なだけなのではなくて?」
「ははは。まさか……」
「うふふ。気持ちは分かるしありがたくもあるけれど、やり過ぎては駄目よ、ルイス。貴族はいつか結婚するものなのだから、あまり姪可愛さにルクレチアの婚期を遅らせないようにね」
「う。……はい、姉上」
肩を小さくして頷く弟に、姉はころころと喉を鳴らして笑った。次のルクレチアの婚約者は、今度こそ下手を引かないように、候補をルイスや公爵夫妻で前回よりもずっとしっかり選出するつもりである。
でもこの調子だと、多分この国王陛下は、中々どんな男子も候補から弾いてしまいそうな気さえした。
「ルクレチアが恋をしてくれたら、一番良いのだけれどねぇ。わたくしと旦那様のように」
十六年も前。戦神に等しかった男に一目惚れをして、外堀を埋めに埋めて捕まえたかつての王女は、恋にうっとりと目を細めながらそう言った。
「いや、それは……」
そして、それはそれで相手が可哀想だ、と言いかけた弟は、姉の眼光に負けてそのまま静かに押し黙る。
まぁ何にせよ、ルクレチアは暫くの間は公爵の椅子で満足してくれると思うから、結婚は多分数年先のことになるだろう。
何せ公爵ともなれば、政の場にも参加することになる。政治の場に敵は事欠かない。あの子はきっと政敵を滅することに夢中になって、夫や恋のことは二の次にしてくれるはずだ。
……そうなったら良いなぁ。
と思いながら、ルイスは紅茶を一口飲んだ。
何せルイスは姉の言葉の通り、姪が可愛いくて仕方がないので、本格的に姪が誰かの妻になるとなれば泣かない自信がないのである。
何せコンラッドがルクレチアの婚約者に決まった時ですら、ルイスは憎らしくて恨めしくて仕方が無かったくらいなのだ。
要するに今回の件は結果として、ルイスにとっても実に都合の良い事件だったのである。憎らしかった人間の処刑に一枚噛むことができたのだから。
つまるところ、ルイスもなんだかんだ言って、王家の血を引く人間ということだ。
この一族は女があまりに強烈だから男が常識人に思われがちだけど、実のところ男の方もまた、割としっかり苛烈な性質をしてたりするのである。