初めての実戦
第5章 初めての実戦
1
その晩、真夜中近くになって、夏世から電話があった。
背景音で夏世がヘリに乗っているのがわかった。
「キヨ、いますぐ出動できる?」
「命令とあらば」
「今回はちゃんと着替えなさい」
夏世は俺の生活を知り尽くしている。午後十一時半。俺は上下スウェットの格好で机に向かっている最中だった。
「お金、いまどのくらい持ってる?」
「一万か二万なら」
「それじゃ足りない。都築から十万もらいなさい」
フェラーリに乗り込んでから、早速、俺は訊ねた。
「何があった?」
「いまは言えない。地図で表示されてる地点へ向かって。それから、カーナビの音声はオフで。目的地が洩れるとまずいの」
「了解」
見ると、とりあえず、中央道を長野方面に向かえという指示だ。
「ジーナは?」
「先に出たわ」
「一体、どういうことになってるんだ、お嬢?」
「ザインが南海に負けたの」
ザイン・コーポレーション――俺たちがパーティに呼ばれたときの主催者だ。
「彼らの警護していた開発者がいるって話は覚えてるでしょ。彼が南海グループに拉致された。情報が入って阻止しようとしたんだけれど一足違いだった。でも、いまならまだ日本国内にいるはず。ただし、今後、向こうの軍か情報部に引き渡されたら厄介なことになるでしょうね。……わかるわね。そうなる前に、南海の手から奪還したいの。急ぎの仕事よ」
「じゃ、カッ飛ばしていいか?」
「ダメ。目立つ行動は避けて頂戴。指示した地点が近くなったら、また指示を送る」
たぶん俺たちの行動は常時監視されていて、情報が洩れれば、それ相当の不利益があるんだろう。情報ひとつに大金がかかって成立している世界だ。
ミスはできない。これは俺にとって、初めてのプロの仕事だ。
俺はたぶん、兼藤たちさんやジーナのお陰で、夏世の要求する水準に近づいていた。完璧までは程遠いが、ひとつひとつ壁を破りながら少しずつグレードアップしているって実感はあった。
夏世が俺に無理難題ばかり吹っかけるのも、単なる金持ち女の我が儘とかじゃなく、俺にプロ意識を植え付ける狙いがあってのことだったと考えると納得がいく。
「資本主義的奴隷制度か」
俺は初めて夏世に会った日のことを思い出し、鼻で笑った。
真夜中のドライブは悪くなかった。が、隣に夏世がいないのをつい意識してしまう。寂しいとかじゃないんだが、なんとなく物足りない気分だ。
で、音楽をかけたんだが、音楽とは言っても好きなアニソンを集めただけのコンピレーションだ。本来、こんな状況にはロックとかの方がうってつけだと俺自身も思うが、これが一番眠くならないし、テンションも上がるのだ。しかし、フェラーリに乗っていて、アニソンをガンガンかけてる怪しい奴ってどうなんだ? 自分でも笑える。
俺は休憩もとらず、百二十キロ(㎞/h)キープで走り続けた。
そうして二時間ほどが経過した頃、夏世から新たな指令が下った。
「どこだよ、これ」
カーナビが黙って地図の表示を勝手に変えやがった。長野方面へ向かっていたが、気がつくと、いつの間にか、目的地が富山に変更されていた。いくら音声オフにしてるとはいえ、こういう大事なことを、こうもさりげなくドライバーに告げるっていうのは許し難くないか。気がつかなかったらどうするんだよ。
問題が生じる原因は、コミュニュケーションの欠落だ。まったくハイテク機器の淡々とした仕事ぶりには恐れ入る。
だいたい夏世からの連絡にしたって、
「キヨ、わかった?」
それだけだ。言葉なんて所詮、連絡のための手段だと割り切っているのだろう。たったそれだけを言って、夏世は通話を終えた。このカサカサしたもの言いは、ひょっとしてこいつも機械でできてるんじゃないのかと思わせるくらい、潤いがなかった。さすがに好きなアニソンも聞き飽きて、こっちは人間らしい潤いに飢えているのだ。たとえば、女性らしい一言――キヨ、疲れてない? とか、頑張ってね、とか――さりげない気遣いの言葉を挟んだって機密漏洩にはならないと思うんだが、なんでそういう気配りができないかなぁ。
長時間の運転の末に、俺は富山の市内に入った。
ここへは仕事で来たことがあった。ここは昆布を巻いた蒲鉾がうまいんだ。夏世に教えてやろう。――なんて考えてる場合じゃないか。
目的地である広場に車を停めると、すぐさま、
「お嬢、着いたぜ」
画面に向かって言ったが、応答はなかった。
まだ早朝だ。さすがの夏世も仮眠をとっていたりするのかもしれない。誰かと違って、俺には思いやりの気持ちってものがある。疲れているのなら、少しでも眠らせてやりたかった。
しかし、どうしたものか? 少しだけ躊躇っていたところへ、助手席側の窓を「コンコン」と叩く音がした。
それから中へ入れろというジェスチャー。
夏世だった。
「ご苦労さま。意外に早かったわね」
いま頃言っても遅いぞ! こっちはもう精神的にどっぷり疲れ込んでるんだ。
「見える? あの石の門のある家。あそこへ入って」
「こんなとこにも、別荘、持ってるのか」
夏世が頷いた。
「ママの実家がこの近くなの」
だから別荘を建てるっていうのもどうかしてるが、それはそれとして、俺は悪いことを思い出させてしまったのかもしれない
ただ、言ったあとも、夏世は平然としていた。
その家で兼藤さん、真山さんと合流した。まだ朝の五時半過ぎだというのに、二人ともちゃんとSTEMの革ジャンを着ていた。四月の終わりでも富山の朝は薄ら寒い。
「お疲れ。悪いな。早速だが――」
真山さんは、俺がソファーに着くやいなや、作戦計画について話し出した。
関係者が涎を垂らして欲しがる新技術の開発者――武井元彦は、中国マフィアの手で、富山港の埠頭にある倉庫に監禁されている。警備は最低でも十人。全部でおそらく十五人前後はいるだろう、と真山さんは言った。
「強引な突入は無理だ。人数的にもきついし、武井氏を盾にとられてる分、こちらが不利だ。で、地元の警察に一役買ってもらう。あの倉庫はもともと、中国のスパイ連中が定宿にしてるところなんだ。用意周到に、脱出用の地下通路が通してある。警察に囲まれれば、そいつを抜けて、道路の反対側にある向かいの倉庫に出られるようになっているんで、非常時にはそっちの倉庫の裏口から逃走する算段だろう」
「よくそこまで調べられましたね」
「うちには神様がいるからな」
そのとき夏世が俺たちにお茶を淹れてきてくれた。珍しい――というより、そんな夏世を見るのは初めてだった。こんなことがあると、予想外の何かが起きそうな予感、たとえば、五月なのに台風でも来やしないかと心配になる。
「で、計画では、俺たちが出口にあたる倉庫の外で張っていて、武井氏を乗せて脱出してくる車を、お前のとリーダーの車が地上から――俺が空から追うことになる」
「……ってことは、ジーナはこの計画には?」
「彼女には外れてもらった。用心のためだ」
俺が夏世の方を向くと、
「ジーナには神戸方面に向かってもらったわ」と夏世は言った。
「逃走を許した場合のバックアップっていうかたちだけれど、それで一応、今回の作戦に参加してもらったってことにはなるでしょ。ウチを出るのもキヨより一時間遅らせたから、途中で気づいてこっちへ向かったとして、いま頃はなんとか岐阜に入った辺りじゃないかしら」
「ジーナを信じてないのか」
「この件に関してはいろいろあるの」
そういういろいろのことはわからんが、中身はどうであれ、仲間を信じないってこと自体が気に入らなかった。俺はまったく話に参加していない兼藤さんの方を見遣った。誰よりジーナのことを認めてるのは兼藤さんだからだ。しかし、作戦立案は真山さんの仕事、最終決定はボスである夏世が下す。無言でいるところを見ると、兼藤さんもジーナを外すことに一応は納得してるんだろう。
「南海の連中が有事に気づいて応援を要請するとしたら、まずヘリが来る。そのために近くの山中に待機させてるんだ。偵察に行って見たんだが、その機体がワーォって代物でね。あれと空中戦をやったら間違いなくやられる。どうやって持ち込んだんだか、ありゃ、コブラ級の中国の戦闘ヘリだ。……で、俺がまず向こうにいて、警察が倉庫の包囲を開始すると同時に、敵のその化け物を無力化する。タイミングが速すぎても遅くてもダメなんだ。俺の方は撃墜されるリスクもあるんで、ボスはリーダーの車に同乗して奪還作戦の方に回ってもらいます。いいですか」
「ええ」
「仕事を済ませたら俺も援護に向かいます。それから、地元の警察へ直接通報するより、ボスの方から東京の警察庁幹部を通してもらう方が確実なので、お願いできますか」
「わかりました。包囲完了時間は何時にすればいい?」
「いまから一時間四十分後の午前七時で」
真山さんが俺たち全員の顔を見渡した。
もちろん異議など唱えようもない。
兼藤さんはなぜかハマーを持ち込んでいた。おそらく東京を出るときから別行動だったのだろう。俺たちはSTEMの専用車でないと連絡が取りづらい。その点に不備はないようだった。
軍用にも用いられる大型車のハマーと、目立ちたがり屋の乗る黄色のフェラーリ。一見、ちぐはぐな取り合わせに映るだろうが、実はどちらもセレブお気に入りの車だ。こんなところにも、夏世のぜいたく趣味が伺える。
夏世が警察庁の手配を済ませ、出動の確約が取れると、俺はフェラーリ、夏世は兼藤さんと一緒にハマーに乗って現場へと出撃した。真山さんはタイミングを見計らって、しばらくしてから出るという。
出撃の前、真山さんに、銃を入念にチェックしておくように言われた。予備のマガジンが要る、とも。つまり状況によっては、銃撃戦になるということだ。
俺は黙って従った。覚悟はできていた。――自分の命をかけること。人間を狙って撃つこと。その両方についての覚悟だ。
2
午前六時五十分。夏世と兼藤さん、そして俺が配置に着いた。
脱出用倉庫の裏口から車が出て来たら、先導車がいてもそいつらは放って置く。
武井氏を乗せた車が通る。その後、続いて出て来る連中を実力でハマーが阻止し、切り離す。一方で、先を急ぐ数台あるいは本命の一台を俺のフェラーリが追う。そういう計画だ。
しばらく走るうちに、ヘリの真山さんとハマーが俺に追いついて合流する手筈だ。もっとも、どちらかに問題が起きるようなら話は違ってくる。その場合は全面的に警察に任せることになるんだが――STEMも営利団体だ。自分たちの手で取り戻せるのなら、それがベストだ。うまくやり遂げたかった。
午前六時五十八分。そろそろ倉庫群の向こう側の通りでは、パトカーや機動隊が敵のアジトを取り囲んでいる頃合いだ。突入は午前七時ちょうど。建物の見取り図もちゃんとメールで送ってあった。お薦めは二階の窓をぶち破って倉庫内に入る作戦だ。
そのとき上空で爆音が響いた。
おいおい。警察の突入部隊はヘリでご到着だった。こんなに派手なことをしたら、敵は全員地下通路から逃げてくるぞ。
「キヨ、作戦開始だ。準備はいいな」
兼藤さんの野太い声を聞くと、気が引き締まった。
多少の緊張はあるが、運転席で待機しているせいもあって、レースのスタート直前を思い出す。
だいじょうぶ。動揺なんてまるでしていない。
午前七時三分。車がぞろぞろ出てきた。
倉庫から百メートル近く離れた場所に俺たちはいる。
武井氏を乗せた車を夏世が双眼鏡で確認する。
「ターゲットは二台目よ」
「俺が三台目に横からぶち当たって大破させる。お前はそのあと二秒待ってから追跡しろ。ターゲット車が停車するかもしれん」
「了解」
連絡はコンピューター画面でだった。兼藤さんの目の輝きまで、はっきりと映っている。
まったくなんて人だ。遠足じゃあるまいし――危険がなくもない行動を前に、楽しんでいてどうするんですか? 夏世も一緒なんだから、少しは緊張してもらわなきゃ困りますって。
敵の車は全部で四台だった。先導車が一台、ターゲット車、続く二台で隊列を組んでいる。後ろの二台は兼藤さんが排除してくれる。
兼藤さんのハマーが虎視眈々と影を潜めている路地の前を、敵の車列が通過する。
一台、二台……
そして、三台目の横っ腹にハマーが激突した。真後ろを走っていた四台目の車は、激しい衝突を受けて斜めを向いた三台目の尻に激突した。
さあ、ここからは俺の仕事だ。
前の二台はそのまま止まらずに走り去るつもりのようだった。
溜め込んでいたフェラーリの力を解き放ってやる。
追いつくのは造作もなかった。
「逃げるつもりだったらもっと速く走れよ」
俺は車載コンピューターで夏世たちの無事を確認……しようとしたのだったが、
「兼藤さん、無事ですか!」
運転席にいるはずの兼藤さんの姿が見えない。
どうした!?
スピーカーから、何発かの銃の発射音が聞こえた。
「お嬢~っ!!」
悪い予感が走って、思わず、叫んだ。
「だいじょうぶ。いまの音は、兼藤さんが向こうの車のタイヤに穴を開けたの。それより、しっかり追うのよ。わたしたちもすぐ追いつくから」
「クソっ、無駄に冷やりとさせられたぜ」
「向こうも撃ってくるだろうから、気をつけてね」
あの夏世が俺のことを心配してくれてるのか?
初めてだよな。俺がどんなにヘロヘロになってても、いつだって知らん顔してたくせに。
「ああ、そうするよ」
しかし、言うが早いか、相手が自動小銃を窓から後ろ向きに出し、狙いも定めず乱射してきた。俺は体を横倒しにして頭を下げた。
何発かが、ウィンドシールド、いわゆるフロントガラスに着弾した。が、忘れていたんだが、俺の車は防弾ガラス仕様になっていたんだった。ありがたいことに、びくともしなかった。
「……撃たれた」
俺がコンピューター画面の向こうの夏世に言うと、
「キヨ――!」
悲痛な金切り声が届いた。
「だいじょぶだって」
さっきのお返しにしては、心配させ過ぎたみたいだった。明らかにやり過ぎた。
「撃ってはきたけど、防弾ガラスがはじき返してくれた」
「何なのよ、それ!! 馬鹿!」
「悪かったな。でも、ちゃんと気をつけるから」
……どうした、ボス。何かあったか? ――いまキヨが……
向こう側で話し声が聞こえるような、聞こえないような。
俺はもう集中モードに頭を切り替えていた。
車高が低いんでタイヤを銃弾で撃たれることはまずないだろう。ボディーも前回の修理のときに、カーボンから超高強度の炭素繊維素材に替えてあった。ただし、敵がバズーカ砲みたいなのを持っていないとも限らない。用心のために、車間はやや多めにとることにした。
時速百四十キロに達した。だからって振り切られることはないが、市街地に入ったのを考えると、この速度はちょっと速すぎる。
「素人がおイタすると火傷するぜ」
独りごとだ。
さっきから、信号はすべて青だった。また二ノ宮さん(神様)が手を回してくれてるのは確実だ。それに普通なら、朝七時過ぎだと市街地は混雑が始まる。この時間帯に渋滞がまったくないのも、やはり何かしらの配慮が働いていると思ってよかった。
「キヨ、いまのコースだと敵のバックアップ基地に近づいてるぞ」
背景音にヘリのローターが廻る音が入っている。
「あっ、真山さん」
無事だったのだ。声が聞けてひとまず安心した。
「敵のヘリは?」
「大爆発だ。爽快だったぞ。それはいいとして、ついでに近くの橋も破壊しといたんだが、あれが唯一のアクセスってわけじゃないはずだ。いずれ敵の車が現れると思う。早めに対処するべきなんだが」
「兼藤さんたちは?」
「引き離されてはいないが、一杯いっぱいだ。約二キロ後方にいる。市街地を出たら、前の車のタイヤを撃てるか?」
「やってみます」
「よし。俺が合図する。頼むぞ、キヨ」
銃の扱いは格段にうまくなっていた。真山さんの指導のおかげだ。
スピードが速いせいで、市街地はほどなく抜けた。
「次の緩やかな右カーブを抜けたら、ほぼ直線の道路が五百メートルほど続いて、またカーブがある。その直前でやってくれ。やられたのに先導車が気づくまで、仮に何秒かでも時間を稼げれば、仕事がやり易くなる」
ふむふむ、って感じに理解はできた。だが、射撃場以外の場所で撃つのは初めてだ。うまくやれるだろうか。
考えている間に、最初のカーブを抜けてしまった。あとおよそ十秒程度で本番だ。
銃の安全装置を外し、運転席側の窓を開ける。
「対向車がいない。ツイてるぞ。先導車がカーブを回って視界から消える瞬間を逃すなよ」
そう言われても、こっちは運転もしてるし、狙いを定めるのに長いこと顔を出していれば撃たれかねない。
要するに、パッと顔を出し、さっと狙って、スカッと決めなきゃならないってことだ。真山さんは本気で俺にそこまで要求してるんだろうか? ――そんなプロみたいな芸当をやってのけろと。
年齢は関係ない。おなじ十七歳でも、ジーナなら確実に遂行するだろう。
やらなきゃならない、と思った。俺だってプロの端くれなのだ。
射撃の精度を高めるため、車間距離を十メートルまで詰める。
三、二、一……秒読みは頭の中で刻んだ。
一で狙いをつけ、零で発射する。
パヒュンパヒュンパヒューン。練習場で聞くより高い音だ。
そのまま三発連射した。放った銃弾は右後輪にしっかりヒットしたはずだ。
ダメ押しに、左後輪も二発でパンクさせた。
武井氏を乗せた車は右カーブを曲がれず、直進して、道路外へ飛び出した。
ガードレールのない場所だったのを考慮したとすれば、敵ながらかなりいい判断だったと思う。おかげで前方のビニールハウスに勢いよく躍り込んだが、乗員の被害を最小限に抑えられたと言っていい。
で、次は俺の番だった。というのは、撃ったあと、即、ブレーキを踏んだものの、減速しきれなかったからだ。
直前まで百キロ超の速度が出ていて、カーブまで十数メートルしか距離のない状況だった。対処するのにかけられる時間は、あってもコンマ数秒。カウンターステアを当て、なんとかカーブを回り切ったから無事で済んだが、誤っていたら、俺もおなじ場所へおんなじように突っ込んでいただろう。
ついでに言うと、気がついたらセーフティーロックを外したまま銃を車内に放り出してしまっていた。どちらかと言うと、こっちの方が危険だったかもしれない。――真山さんに知れたら、タダじゃ済まない不始末だ。きっと五千メートルは余計に泳がされる。
先導車はたぶん、ターゲット車が付いて来てないのに気づいて、相当、泡を食ってるに違いない。でも気づいたときには、真山さんのヘリに真後ろに付かれていて、ヘリの機銃で威嚇を受けながら追い回されることになる――相手の立場で考えると、たまらん状況だ。
先頭の車両と真山さんのヘリはほどなく視界から消えた。さすが真山さん。死傷者を出さず、邪魔者を難なく遠ざけたってわけだ。
俺は銃を手にして車を降りた。無論、兼藤さんが合流するのを待つつもりだ。
近づいて見ると、ビニールハウスは惨憺たる状況だった。ビニールが引き裂かれ、骨格をなすL字型の鉄柱が押し倒されて、屋根も無惨にひしゃげていた。ただ車の乗員にとってみれば、障害物の方が緩衝材として働いたので、たいした物理的衝撃はなかったろう。おそらく乗員にケガはなかったと思う。
待つこと一分ほどで、兼藤さんの運転するハマーが到着した。
「よくやった。俺がハウスの裏へ回り込む。その間、敵を引きつけてくれ。――体を曝すな。絶対だ!」
聞き取れるギリギリの小声ながら、いつもの迫力はそのままだった。
夏世は車から出てこなかった。兼藤さんから言われたのだろう。それでいい、と俺は思った。ここは俺たちに任せてくれ。
ビニールハウスの中は整然と列をなして広がるイチゴ畑だった。その一部が惨憺たる様相を呈しているのは、もちろん車に突っ込まれたせいだ。プランターがひっくり返され、収穫期にあったはずのイチゴが苗ごと四方に散らばっていた。
イチゴが血を流している――みたいな状況だった。そこらじゅうのイチゴが潰れ、果汁が飛び散っているのを目の当たりにしてみて、俺は自分が平和な営みをぶち壊した張本人になったようで(事実そうなんだが)ひどく申し訳ない気持ちにさせられた。
俺は銃把を両手で握り、慎重に銃を構えた。
車内に人の姿はなかった。乗っていた奴らは? どこにいる?
通路になっている縦方向は見通せるが、何段も斜めに重ねて置かれたプランターのせいで、横方向は目の高さまでが死角になっている。ちょっと頭を下げるだけで隠れられるのはいいが、それは向こうもおなじだ。
注意を引きつけようにも、相手を発見しなくては動きが取れない。
俺は、このままじゃ埒が開かないと見て、プランターの棚の上へ攀じ登った。
最上段のプランターに這いつくばり、一センチ刻みのスローな動きで頭をもたげる。
するとすかさず、ハウスの隅の方から銃声が聞こえた。
やばいな。相手はかなりの腕だと思えた。
近くを銃弾のかすめ通る音がした。
プランターの上を這って位置を変える。俺も応戦するが、敵がいると思しき方向を大雑把に狙うだけだ。しかも、あえて人の背丈のやや上を狙った。間違っても武井氏に当たることがないように、という配慮――だけじゃなく、敵を不用意に殺したくないという気持ちが強かった。仮に敵の頭が見えていたとしても、狙えなかっただろう。
外へ通じるドアの位置は見定めてあった。
俺が入ってきたドアの対角にもうひとつドアがある。その向こう側に大きな人影が映った。兼藤さんだ。
俺は威嚇射撃の間隔を狭めつつ、棚の上からそっと降りた。
そして、それまで聞こえていたのとは異なる銃声が立て続けに二度聞こえ、少し遅れて別の銃声が呼応するように響いたとき、俺は兼藤さんが敵と対峙している通路へと全速力で走り出した。
挟撃を狙って反対側へ回り込む。
もし敵と遭遇したら、迷わず撃つつもりだ。是非もない。これは実戦なのだ。
兼藤さんが相手にしている人数は、おそらく四人。その全員が銃を所持していて、おまけに人質まで取られているとあっては、いくら兼藤さんでも分が悪すぎる。
一秒でも早く駆けつけたかった。
俺は争闘が行われている通路へ到達するなり、その勢いで通路の真ん中へ躍り出た。――やっちまった。
兼籐さんの命令に背いた!?
それでなくても、逸る気持ちのまんまって――それじゃ余りにシンプルというか、ストレート過ぎて――死ななきゃならない真性の馬鹿だ。
早い話が、アホを曝け出しちまったってことだ。実際、それがどれだけ不用意で危険な行動だったかを、俺は身をもって知ることになる。
次の一瞬、敵から狙い撃ちされた。
自業自得。
飛んで火に入る夏の虫。
咄嗟に体を転がしたんでなんとか避けられたが、銃弾を二、三発喰らっていてもおかしくない状況だった。
地面に横腹をあずけた体勢で、俺の方も撃ち返した。
発射したその一発が、プランターの棚を背にしていた男に命中した。俺を撃ってきた男だ。
男がうずくまったとき、兼藤さんが飛び出して来てすかさず男のあごを蹴り上げた。なんという早業、なんという威力だったろう。男はその一撃で昏倒し、動かなくなった。
兼藤さんが男の腕を踏みつけ、銃を取り上げる。
それが最後の一人だったらしい。すでに地面に突っ伏している男たちが他に三人いた。
「武井さんは?」
俺が問うと、兼藤さんは答えの代わりに親指で後方を示した。
「保護しろ」
通路の端からその武井氏が顔を覗かせた。
結局、敵は全員、兼藤さんが掃討してくれた。
万事うまくいったということだ。
終わったのだ。
俺は喜びを分かち合おうと、武石を連れて兼藤さんの傍まで歩み寄った。と、突然、平手打ちが飛んできた。意外だったし、気が抜けていたせいもあって、歯を食いしばるとかの準備すらできてなかった。
「馬鹿もん! 体を曝すなと言っただろうが」
「すいません」
言われたとおりにしなかった俺が悪い。脳天にガンと来たが、殴られた痛みはまったく感じなかった。
「こいつは俺が止血する。おまえは脚から出血してる奴から先にやってくれ。ネクタイで強く縛って圧迫するんだ」
一番ケガが酷かったのは、俺の撃った男だった。出血は脇腹からだった。あとは三人とも、主に利き腕の付け根に銃創を負っていた。ムダ弾は一発も撃っていない。二人は脚も撃たれていたが、たぶんその場で確実にダウンさせるためだ。敵の攻撃能力を奪うだけの正確な射撃。さすがに兼藤さんだ。
処置をしながら、兼藤さんがぼそっと言った。
「初めてにしては、よくやった」
その一言で救われた。俺が未熟だったせいで、敵とはいえ、人をひとり無駄に死なせてしまうかもしれなかったのだ。こうして手当までして敵を気遣っていながら、兼藤さんはそのことについては咎めなかった。
言葉少なに、それでいて、俺のことを完璧に気遣ってくれている兼藤さんの優しさが身に沁みた。
3
武井氏を連れて、即刻、その場から立ち去らねばならなかった。ぐずぐずしていると敵のバックアップチームがやってくるからだ。兼藤さんは、警察に引き継ぎをするためこの場に残る。ということは、武井氏の護衛は俺の役目だ。
「ボスと武井さんを乗せて、ハマーで行け」
「わかりました」
「この人を安全な場所へ送り届けるまでが仕事だ。気を抜くな」
「はい! ……えっと、俺のキーはこれで、兼藤さんのは?」
「ボスが持ってる。さっさと行け」
俺が武井氏の前を歩き、ビニールハウスを出た。
二十メートルほど先の空き地に兼藤さんのハマーが見えた。
どうしたんだ? 夏世は乗っていないようだった。
そのとき携帯の呼び出し音が鳴った。
で、ポケットに手を……
そこへ夏世の生の声がした。
「戻ってキヨ!!」
「……えっ?」
近くにいるのか。
物凄い勢いで夏世が飛び出してきた。斜め前方からだ。
「なんだよ。もう終わっ……」
俺がそう呟いてる最中、格段に大きな銃声が響いた。そして、その轟音とほぼ時を同じくして、俺のすぐ間近まで来ていた夏世がこちら向きに激しく倒れこんだ。
夏世が撃たれた!?
「武井さん、体を低くして、さっきのとこへ戻ってください」
俺も体勢を低くして、夏世を救出に行く。距離は八メートルかそこらだ。
「わたしのことはいい」
「バカ言うな!」
言ってすぐ、俺は、野球のヘッドスライディングの要領で前方に跳んだ。かなりのハードランディングだったが、なんとか夏世の腕に手が届いたんで一応はセーフだ。ちなみに、地面を滑っているとき、敵の銃弾が俺の真上を通過する音がした。危なかった。ほぼ同時だったってことは、一瞬の差だったってことになるんだろう。
敵は小高くなった田んぼのあぜ道に身を隠し、そこから射撃の練習場みたいにビシバシ撃ってきやがる。しかも、さっき夏世を撃ったときの精度を考えると、おそらくライフルを持った奴がいる。
「行くぞ!」
夏世に言った。頭を低くしたまま立ち上がる。
背後からも銃声が聞こえてきた。たぶん兼藤さんが援護射撃をしてくれているのだ。
「わたしの体を盾にしなさい」
馬鹿な! そんなこと、できるわけないだろう。
俺は夏世の体を抱きかかえ、夏世がさっきまで身を隠していた物置きの陰に身を寄せた。
俺の携帯に兼藤さんから電話が入った。
「お前の弾はどれだけ残ってる?」
「十発以上と、マガジンの分がまるまる」
「俺の方はそろそろ切れる。そっちからけん制してくれ。新しいマガジンに替えて、いまある弾は温存しろ」
「なくなりかけたら、この場からなんとか退避します」
「そうだな。だが、だいじょぶだ。その前に真山が来る」
仲間を信じて疑わないようだった。真山さんは、たぶん何かあって、てこずってるんだろう。俺も、真山さんがカッコよく現れるのを素直に信じられた。
敵の数はおそらく八人から十人。撃ってくる位置から推して、そのくらいだと思われた。もし突撃を受けたら、オートマティックで対処する。その分の銃弾は最後まで確保しておかなくてはならない。
幸運にも、俺たちの援軍がやってきたのは、それからすぐのことだった。――意外なことに、それは真山さんじゃなかったのだが。
ジーナのポルシェを先頭に何台かの黒のSUVが現れ、空き地に停車した。――ジーナが元いたチームのBMWだ。あのとき俺が巻いた連中だと思う。
着くと早速、彼らは車を降りドアを盾にして、横方向からドンパチやりだした。まるでギャング映画だ。これじゃ、傍から見たら、どっちが悪者か区別がつかんだろう。
続いて、空から真山さんが来た。
すかさず、ヘリの機銃が威嚇射撃をする。
敵はダメ押しのヘリの登場で観念した。ざっと七、八人が両手を挙げ、このタイミングで全員が投降した。
「終わったぞ、夏世。気をしっかり持て」
「わたしのことならだいじょうぶ。お金で済むことだから」
「何を言ってる!?」
まったくなんて奴だ、こんなときまで。冗談のつもりなら、それ、全然笑えないからな。
俺は銃弾を受けているはずの夏世の背中に手をやろうとした。
「触らないで!」
すごい剣幕だった。それで不意に、子供の頃、脚にケガをした飼い犬の傷口に触れようとして、本気で指を噛まれたのを思い出した。
「お願い」
今度は哀願するように俺を見つめ、か細い声で夏世が言う。
やむなく俺は手を引っ込めた。
ところが――どういうことだ?
血に染まっているかと思えた右手は何ともなっていなかった。パニクっていて上手く働かない脳を駆使してみるが、逆にどんどん混乱した。夏世が身を挺して俺を守ってくれたのはしっかりこの目で見たのだ。
記憶は確かなのに現実がついて来ない――この不可解な事態を一体どう理解したらいいのだ!
「もっと早く知らせればよかったのよね。でも、あなたたちが戦ってるときに、呼び出し音とかはよくないんじゃないか、って思って」
「そうだな。いい判断だったと思うぞ」
「武井氏は無事?」
「ああ無事だ。もういいから、そんなに喋るな」
横たわった夏世の上半身を膝で抱きとめていた俺は、感極まって、夏世の頬に手をあてがった。
「いい気持ち……こういうの、どのくらい振りかな」
いいから、黙ってろよ。
気持ちが落ち着くなら、いつまでだってこうして抱いててやるから。
BMWに乗ってきた連中が拉致メンバーの捕縛を終える頃、警察車両がようやぅサイレンを鳴らして駆けつけた。
兼藤さんが駆け寄ってきた。ジーナは悠々と歩いてくる。
二人ともひどく心配そうだった。
「夏世、あなた、どこか撃たれたの?」
夏世がさっきよりもいっそう弱々しい、瀕死を想わせる表情で頷く。
「あなたがこんなに早く来るとは思わなかった」
「キヨの車に発信機を付けてあったのよね」
「それは、わたしたちを裏切ってたってこと?」
「そうなるわね。よりいい条件を提示してくれる側に付いたの。それで、あの人を横取りするつもりで来た。だけど……やめたわ。わたしたちは犠牲を払ってない。こんなのフェアじゃないものね」
そう言ってジーナは踝を返した。
「……キヨ、夏世を死なせるんじゃないわよ」
ジーナは背中でそう俺に声をかけ、去って行った。
「救急車より、ヘリで搬送した方が早いと思うんですけど」
兼藤さんに向かって言うと、そうだなと答えてくれた。
ところが、当の夏世が我が儘を言う。
「キヨ。あなたに乗せて行って欲しい」
兼藤さんが俺の方を見た。判断は任せるという意味だ。あるいは、もう諦めていたのかもしれない。
「わかった。じゃ、行こう」
もちろん俺は諦めてなんかいなかった。
わずかな時間さえ惜しかった。もしも取り返しのつかないことにでもなったら、ジーナになんて言えばいい? いや、違う。俺自身の問題だ。
夏世を抱え、フェラーリに乗せた。
さっきより重い気がしたので怖くなった。全身の力が抜けたのなら、それはとりもなおさず、夏世の生命力が失われつつある兆しに思えたからだ。
シートベルトは俺が締めてやった。
「シートはもっと倒した方がいいか?」
「このままでいい」
いつになく素直な言い方だ。
4
富山の市街へ向けて走り出した。
車載コンピューターに向かって、俺が問いかける。
「二ノ宮さん。十分な設備があって、最も近い病院はどこですか?」
「いいの。二ノ宮くん、切るわよ」
夏世が勝手にスイッチを切った。
「……夏世!?」
理解不能だった。一体、どういう気なんだ!?
「わたしの病院へ連れて行って。いいえ、この体を病院まで運んで」
「遠すぎる。その体じゃ、東京まではとても保たないよ」
あんまり非常識なんで、俺の方が泣きたくなった。
「わたしの背中、触ってみて」
何なのだ。さっきは触るなと言っておいて、今度は触れと?
「いいわ、触りたくないのならどっちでも。さっき触ったとき、血が出てなかったでしょ」
「……ああ」
何が言いたいんだ? ――「実はわたし、エイリアンなんだ」とかって、さらっとカミングアウトするつもりじゃないだろうな。
「この体には、血が流れてないの」
おいおい。冗談じゃない。
「この体は私の意思を受けて動くアンドロイド――」
いいかげんにしてくれよ。こんなとき、突拍子もない嘘や冗談はナシにしてもらいたい。
俺は夏世の顔をまじまじと見た。
「それ、おっそろしく質の悪いジョークだぞ。わかってないのかよ。自分の体を盾にしろとか……さっきから、どうかしてないか?」
「嘘でも冗談でもないの。中学生の頃、わたし、事故に遭って……そのとき、全身の機能がほぼ麻痺したの。そんなわたしに、当時まだ生きていらっしゃったお爺さまが、懸命になって特別な自由を与えてくれた」
両親と一緒に事故に遭ったという話は前に都築さんから耳にしていた。
「いまのこの体はアンドロイドだから、銃で撃たれても修理すれば直る。お金で済むことだって、さっき言ったでしょ」
「本当のことなのか」
「正真正銘」
信じるのがこれほど難しい話は他にないと思う。だけど、もしもそういう事情があったというのであれば、夏世に関して、奇異に感じていたことの悉くが腑に落ちる気がした。
「ひょっとして、レース事故のあと俺を助けてくれたのは、そういう背景があったからなのか」
「そう。うちは母体が保険会社でしょ。キヨの情報が入ったとき、なんとかならないかなって検討してみたら、たまたまいい方法が見つかったの。わたしのときはまだ無理だった。だからかな、ちょっと強引だったかもしれないけれど、キヨの承諾も得ないで手術を受けてもらったの」
「夏世だって、いまからでも遅くないんじゃないのか」
「無理だと思う。研究は続けてもらってるんだけど。でも、いろいろとね……」
「希望はあるってことだろう?」
「もちろん、少しは。だけどわたしの場合は、こんな形でも自由に過ごさせてもらってるから、文句は言えないもの。それにこの体が好きだし、いまの生活にはこれでそこそこ満足してる」
「そういうものか。よくわからんけど、なんとかなるといいな」
「ありがと」
「感覚はあるんだろう? こうして喋ってて、痛むとかって、そういうのはないのか?」
「限度を超えると、センサーがその部位の感覚を遮断するの」
「よくできてるんだな」
「莫大な開発費がかかってるもの」
「莫大な?」
夏世が莫大なって形容詞を使うからには、それこそ相当な額なんだろう。
「そう、数千億単位。だいぶ前から、うちはこの分野に進出してる。――ヒューマノイド・インターフェイス・ビジネス。せっかく開発費をかけた分、きっちりペイしないとね。それがお爺さまのやり方だったし」
「夏世もそういうのを受け継いでるんだ」
「そうみたい」
夏世は笑った。心なしか、弱々しい笑みに思えた。夏世の体がアンドロイドだと認めるとして、だとしても、この怪我が夏世本人に悪い影響を与えていないかどうかが心配だった。
「で、病院へ行けって言ってたが、その体、そこで直せるのか?」
「違うの、それとは別の話。……キヨに是非会ってもらいたい人がいる」
5
痛みがない、死ぬことはない、そうとわかってはいながら、怪我人を隣りに乗せてるってイメージはなかなか払拭できなかった。逸る気持ちがつい走行スピードに表れる。
夏世にはできるだけ眠っていてもらい、その間に俺はできるだけ距離を稼いだ。
アンドロイドとは言っても、体の大部分が動かないのは確かなのだ。一体どう感じているのか、夏世の意識状態がわからなかった。ときどき目覚めると、夏世はいつもより格段によく喋った。きっと俺に秘密を打ち明けて、気が楽になったせいもあるんだろう。
「こんなになっちまって、不安を感じるとかはない?」
「……全然」
技術的には、もう問題はないらしかった。
夏世の言うヒューマノイド・インターフェイスという奴は、現在、すでに数体が稼働しているという。夏世が使った言葉なので正しいんだろうが、数体って言い方は、俺にはちょっと違和感がある。
契約者はいずれも数十億の対価を払える人間なのだそうだ。金を出したけりゃ、いくらだって出せばいい。なかには、障害がないのにもう一人の自分が欲しくて買い入れたって奴もいるという。
常識的な思考で判断すれば、このビジネスの正当性には、どうしたって疑問符が付く。これが公開され、事業として軌道に乗り始める段階に入ると、若い体を欲しがったり、究極の美を手に入れたいとかで、喜んで金を出す人たちが大勢でてくるだろう。
そんな連中のためにする仕事に価値があるとは思えない。
俺がそれを言うと、
「利益は上がる」と夏世が返した。
「利益だけで仕事をしていいのか?」
「フフッ……、キヨらしい。やっぱり合格。――でも、いい? 実用化が進まなければ、一体あたりの単価が下がらなくて、本当に必要な人が利用できない。普及して、大量生産ができるようになってはじめて事業として成立するの。でないと、いくら素晴らしいものを造っても事業が継続できないし、さらなる発展もない」
「そういうのが資本主義のシステムなんだな。つまり、必要悪ってことか」
「そういうことね」
夏世の経営者感覚にはまったく頭が下がる。金儲けも世のため人のためか。なんかまた言いくるめられた感がないでもないが、夏世の場合、ちゃんと理念は堅持している。やってはならないことの線引きをしていた。これは大事なことだ。
「ゆくゆくは、キヨにこのビジネスの指揮を執ってらいたいと思ってるの」
「それで俺は理系にさせられたのか」
「そういうわけじゃない。キヨにはそっちの方面が向いてると思っただけ。それに、あの時点でそこまでは考えられなかった。……たぶんいずれは、病院の方もキヨに任せることになると思う」
「俺のこと、そんなに買ってくれてるのか」
「独りじゃ、やっぱりきついし。それに、わたしにもしものことがあったら、二万数千もいる従業員の人たちが路頭に迷うことになるでしょ」
「もしも、とか言うな」
――悲しくなる。
「俺はどんな仕事でも黙って働く。疲れるんだったら、もっと代わってやったっていい。……そっか、ジーナにも何かの役割を期待してたんだな」
「まあね」
「俺はだいじょぶだ。絶対裏切らないから安心してくれ。――なんたって、俺は夏世の奴隷だからな」
しばらく前なら言えなかったセリフだが、本心だった。
「それ、胸を張って言うことかしら? あなたって、本質的に馬鹿なのね」
「だろうな。さらに言うなら、馬鹿って言われて、なんかうれしい気もする。まっ、とにかく……病院まであと三、四時間はかかる。もういいから、しばらく寝ろ」
「ありがと。そうさせてもらう」
よしよし。らしくもなく、ずいぶん殊勝じゃないか。
秘密を明かされ、不自然なまでに夏世のことを気遣っていた都築さんの心の裡がやっとわかった。それでなくてもオーバーワークなのに、普通の体じゃないというんだからほとんど自殺行為だったのだ。
いままでずっと財閥の総帥にかかる重圧を、よくぞこんな細い体ですべて背負ってきたよな。俺は、寝顔の夏世に向かって、心の中でねぎらいの言葉をかけた。実際に言ってやってもこいつは喜ばない。むしろ、人のことを気にかける暇があるなら自分の仕事をきちっとしなさい、とかなんとか言ってまた怒り出すのだろう。
弱さを見せない女。それが御月夏世だ。