ジーナの特訓
第4章 ジーナの特訓
1
大原ジーナ。この女とは、勝負の日から、同じ屋根の下で暮らすことになった。もっとも、それを言うなら夏世ともずっとそうしてきたわけで、同じ屋根とはいえ、デカ過ぎれば実質的な意味はほとんどない。
俺は御月家へ来て三か月になる。メイドの人たちとは、すでに仲間みたいな関係になっていた。特にメイドの高井さんは、廊下やホールで会うと必ず寄ってきてくれる。
「キヨさま、疲れてる?」
それがいつもの挨拶みたいになっていた。
「いつだって呼んでくれれば、キヨさまが気持ちよくなるまで、マッサージしてあげられるのよ」
高井さんは俺より二つ年上だ。すっかり大人の女性なのに、童顔で声も可愛い。してもらえれば、さぞ気持ちいいだろうとは思うのだが、俺が寝るのは真夜中だし、やはりそういうのはまずいだろう。
その高井さんなんだが、御月家で暮らし始めたジーナとはどうにも相性が悪いらしく、初日からぎくしゃくしていた。
最初の日の夕食の席でのことだ。
「わたしたちのことはいいから、自分の仕事をしててください」
それは俺も日頃から思っていたことだ。ときどきそう言って、下がってもらうこともあった。
「いいえ。仕事ですので」
このときばかりは高井さんの声が妙に低かった。別人かと思って振り返ったくらいだ。
以来、ジーナと俺が一緒に食事をする度、後ろに立つのはいつも高井さんになった。意地になってやっている感があった。
それから、ジーナの服装が少しばかり大胆だったりすると、眩いばかりの胸の谷間をじっと見つめ、無言の圧力をかける。目の敵にしているような……いや、間違いなく、敵同士がいがみ合ってるとしか思えない修羅場っぽい場面だ。本来なら単なる服装の趣味の問題だし、セクシーなのは全然悪いことじゃないと俺は思うんだが――
ジーナは「どうかしました?」とか言って平然とやり過ごすので、一応、喧嘩にはならない。とはいえ、見ているこっちがうすら寒くなる。
あとで俺が気を利かせて、
「居づらいようなことがあったら言えよ」
ジーナに言うと、「別に」とだけジーナは答えた。
高井さんにもそれとなく言ってみたが、
「わたし、あの人嫌い」
けんもほろろにそう言われた。
なんで無駄に争う? なんで仲良く暮らせないんだよ。
まあ、女同士の諍いに男が口を挟んでも埒が開かない。女ってものはたかが好き嫌いくらいのことで、無益なことをするものだと、つくづく思う。
そう言えば、ジーナと夏世はどうなんだろう?
ジーナも夏世も、互いの印象とかついて、俺にはひと言も話してくれなかった。
四月に入り、ジーナも俺たちの高校に通うことになった。高三の新学期からだ。
STEMに加わった以上、夏世の指示に従わなくてはならない。夏世に言わせれば、表向きの身分をはっきりさせておかないといけないのだそうだ。ただし、身分や経歴など、どんなふうにでもねつ造してしまえる夏世のことだ。例によって、ジーナは当然のごとく、俺たちのクラスになった。
ジーナが教室へ来て、男子生徒たちは色めき立った。きりっとした金髪の女性が爆裂しかねない胸を抑え込んでいるのだ。たまらん光景だろう。ただ一緒に暮らしている男からすると、ジーナのその姿はやや無理をして作り上げてるようなところがあった。
客観的に見れば、もちろん、ジーナのような女性はどんな服装でも見栄えがする。実際、グレーのスーツがよく似合っていた。しかも、ストッキングをはいているとはいえ、短いスカートであの美脚が丸出しなのだ。頭のてっぺんからつま先まで、どこに目を遣っても堪能できた。
俺と夏世が制服で、ジーナはスーツ姿。
そう。ジーナは生徒じゃなく、先生の側に回ったのだ。
俺たちのクラス担任で、科目は英語。本人が言うには、母親がカナダ人らしい。――これだってねつ造かもしれないが――英語はとにかく流暢に喋れる。バレるわけがなかった。
それにしてもどうなんだろう。設定がそうと決まったとき、夏世に疑問を投げかけた。
「年齢は俺たちとおんなじだぞ」
「そうは見えないもの。ジーナがわたしたちと並んで勉強してるなんて、その方がよっぽど不自然じゃない?」
「そりゃそうだが……」
はっきり言って、俺はジーナと高校生活を楽しんでみたかったのだ。たとえば、肩が触れ合うくらいの距離で宿題をやったり、文化祭の準備で一緒に働いたりする――そういうのが夢だったのに。
先生と生徒じゃ、それは無理だろう。
「一体、どういうジーナを望んでたの?」
それは言えなかった。
「クラスメート……かな?」
「朝ごはん一緒に食べたりしてるじゃない。何が不満だって言うのよ!? それを言うならわたしだって……」
そこで夏世はなぜか言い澱んだ。
何が言いたいんだ、こいつ……?
見当もつかなかった。頭のいい女の気持ちは見えている表面の奥の奥に沈んでいて、その深さといったら海よりも深い。
「まあいいわ。それよりSTEMの方はどう? ジーナがあなたのコーチになったのは聞いてる。もしかして甘やかされてるんじゃないでしょうね」
「それはない。ちゃんとひどい目に遭わされてる」
嘘じゃなかった。
鍛えてあるんで痣こそつかないが、結構、いろんな場所を打たれていた。だがそれは、愛の鞭というか、ちゃんとした理由があってのことだ。
夏世が言ったように、STEMでは顔見せの日の翌日から、兼藤さんに代わってジーナが俺の体術のコーチをやってくれている。
俺が初めてジーナを連れてSTEMへ行った日。というと、四、五日前のことになる。
まず最初に、廊下で本間さんと出会った。
ああいう性癖があるので、ジーナのようなクールビューティーに出会うと居ても立ってもいられなくなるらしい。自分から声をかけ、ついでに肩に手をかけようとして腕を捻り上げられた。
男の俺が見ても、本間さんの顔つきにはただならぬものを感じた。身も蓋もなく言ってしまうと、あれはどう見てもスケベオヤジの顔だ。やられて当然とまでは言わないが、まあ、止むなしといった感はある。
「痛っ、痛いです。それ以上は勘弁してください」
「新人の女はそうやって躾けるわけ?」
「そのままでお願いします。痛っ! どうぞそのまま……」
「このド変態!」
吐き捨てるようにジーナに言われ、腕を捩じ上げられたままの本間さんは、口の端を妙なかたちに歪め、卑屈な笑いを浮かべた。
「どうか、わたくしめに鞭を――」
冗談っぽく聞こえるが、本間さんの場合は本気で望んでいるのだ。
「悪いわね。鞭は持ってないから、これでいい?」
ジーナは本間さんの体をくるりと回して自分の方を向かせ、その頬を手の甲でバシッと殴った。
「あああっ!」
本間さんの場合、痛いのか、悦んでいるのかは不明だ。たぶんその両方だろう。とにかく、本間さんは廊下全体に響くくらいの嗚咽を漏らした。
(奇態なその声を聞きつけて)真山さんが部屋から飛び出してきた。
「おお、キヨか」
「俺じゃないですよ」
わかってる、といった顔で真山さんが頷く。
「その人が噂のジーナさんか?」
「はい」
「ボスも顔負けだな」
……何が?
って顔で、ジーナが俺の方を見る。もちろん言わずと知れたことだ。オッパイを中心にした素晴らしい体型のことだろう。しかし、それを言ったらお仕舞いだ。セクハラだと罵られるくらいならまだしも、悪ければ、本間さんと同じ目に遭わされる。俺は肩をすぼめて知らん振りをした。
「大原ジーナさん、STEMへようこそ。……真山です。チーフの兼藤さんに会わせるから、こっちへ」
頭も顔もいい真山さんは、そう言ってなにげに話を逸らした。
自分のオフィスにいた兼藤さんはだいぶ待ちわびていたらしく、俺には一度も見せたことのない、ひどく嬉しそうな表情でジーナを迎えた。
兼藤さんは即座に、本間さんの顔に殴られた痕跡があるのを認めたようだった。一瞬で察しは付いたんだろうが、まずは落ち着いた表情のジーナを見て、それから俺の顔を。そしてジーナに視線を戻し、頭を下げた。
「本間、手を出したな」
「すいません」
本間さんは殴られてない方の頬っぺたを黙って差し出した。覚悟して最初から片目をつぶっている。
「馬鹿者!」
兼藤さんは気持ちよく平手で殴った。
「許してやってくれるか」
「はい、もちろん。犯した罪より罰の方が重かったですから」
「すまんな。じゃ、ここで話してるのもなんだから、ジーナさん。早速で悪いが、ひとつ手合わせを頼めないか」
面接に来たってわけでもないが、初対面の挨拶も曖昧なまま、兼藤さんが唐突にそう切り出した。子供っぽいというか、己の欲するところに忠実な、というべきか。本質は、強そうな奴を見ると居てもたってもいられないって人なのだ。
もっとも、あの夏世だって、ジーナを手に入れるために大層な金を使ったのだ。
たぶんジーナには、どことなく人を素に帰らせる力、魔法のような魅力がある。わくわくして居ても立ってもいられなくなるというか、俺もそういうのを感じていたんで、なんとなくみんなの気持ちがわかった。
兼藤さんの申し入れをジーナは快諾した。
で、みんなで武道場へ移動した。俺がいつもしごかれてる場所だ。兼藤さんは自室へ着替えに行った。本間さんは、あれでも懲りていないのか、ジーナの後ろにぴったりと附いて歩いた。
ジーナはスーツのジャケットを脱ぎ、俺に預けた。
「わたしは道着を持ってきてませんので、こんな格好で失礼します」
「なんの。わたしはこの方が気が引き締まるから着替えたまで」
両者が礼をして試合が始まった。
女性らしい体つきのジーナと倍近く体重のありそうな兼藤さんとでは、まるで勝負にならなそうに見えた。身長だって十センチ以上違うのだ。それに俺は兼藤さんの強さを身に沁みて知らされていた。ジーナが強いのはわかっていたが、どうしたって、ケガをしないか心配になる。
ところが、試合が始まってみると、見た目で判断することの危うさをまざまざと見せつけられた。
兼藤さんが強いのは確かだったが、ジーナは速かった。しかも動きが正確で、兼藤さんの本気の攻撃をことごとく躱してしまう。
隣で、真山さんが感嘆して言った。
「凄いな、彼女。俺なら三秒でやられるぞ」
「そんなに強いんですか」
「おまえなら間違いなく瞬殺だな。しかも、手を抜いてもらえなけりゃ、何をされたかもわからないうちに、即、あの世行きだ」
真山さんの言葉どおりなら、俺が考えていたより何十倍、何百倍も怖い女だったってことになる。なんだかんだで、俺に計二百五十万もの出費をしてまで夏世が欲しがったのは、こんなスーパーウーマンだったのだ。車を買い替えたっていいとまで言っていたのは、意外と本気だったのかもしれない。
ジーナの蹴りが何本かヒットしていたが、兼藤さんは倒れなかった。しかし、倒れなかったのは、兼藤さんだからだ。
凄い試合だった。さすがに息が上がっていて、二人は大きく間合いを取った。そして、二人ともが大きく息を吐くと、そのままどちらからともなく構えを解いて、同時に礼をした。
終わったのだ。
「素晴らしい技だった、ジーナ。直伝の詠春拳はやはり見事だ」
「いえ。わたしなどまだまだです。兼藤さんには二つ手を抜いてもらいましたし……」
「気づかれてたか。失礼した。どうにも女性の顔や胸には触れられんものでな」
ジーナの白い顔に少しだけ紅い色が差した。
この二人、結構、気が合うんじゃないか――そう感じた。二人とも果てしなく強いが、優しいところがある。
俺の体術のコーチが兼藤さんからジーナに交代して、日々の訓練内容が甘くなったかと言うと、夏世にも言ったとおりそんなことは決してなかった。
どちらかというと実戦的な稽古を好んだ兼藤さんとは対照的に、ジーナは主に脚力と柔軟性を高める訓練を重視した。毎日、走り、跳び、畳の上を転がる。ウエイトトレーニングもあったし、水泳もやった。何日かして木人が運び込まれてくると、それと長い時間、格闘させられた。ただ黙々と鍛錬に励むって感じだ。しごかれているというよりは、武道の修行を思わせる体の使い方だった。
ほぼ五時間の訓練で、ジーナとの組み手の稽古は合計で三十分くらいだ。
ジーナは教え方が上手だった。手足の動かし方を教えるのにもそれこそ手取り足取りで、バランスが崩れてないかを常にチェックしてくれた。
「体ができてるから呑み込みが早いみたいね」
褒められるとやる気になるのは、俺が馬鹿だからか?
しかし、思えば、STEMで訓練を始めて二か月になる。地道に取り組んできた訓練を評価してもらえると、ダテに虐められてきたわけじゃなかったのだという思いがして、やっぱりうれしい。
ときどき対戦形式での稽古をしてくれたが、俺が本気でかかっても、ジーナにはかすりもしなかった。二、三分やれば、何回か脚を払われて倒された。それでも向かって行く気は萎えなかった。相手がジーナだから? かもしれないが、これだって、おそらく兼藤さんたちが稽古をつけてくれて、半端ない忍耐力が身に着いていたおかげだと思う。
2
朝食はいつもジーナと一緒だった。学校では先生と生徒、STEMでは師匠と弟子という関係なので話し方は微妙なんだが、それでもジーナは意外と話し易い相手だった。
「お嬢との約束で、次の中間は十番以内にならなきゃいけないんだ。英語の試験は難しいのかな」
早いもので、そろそろ五月の連休が近かった。そのあとすぐに試験がある。
「英語で何点欲しいの?」
「九十点以上は必要かな」
「いまのキヨじゃ、無理ね。実力問題も半分あるし」
「……教えてくれないかな」
「殴られたいの? まだできてないし、絶対、教えないわよ」
「試験問題じゃなくて、重要な部分がどこかがイマイチわからないんだ。俺、勉強の方も始めて四か月しか経ってなくて……」
「ボスに聞けばいいじゃない」
「英語はジーナに聞けって」
それは嘘だった。バレたらどんな目に遭わされるかわかったものではないが、賭けをしてみる価値はある。なんとか訓練以外でジーナと過ごしたい。その一心だった。
「キヨは時間ないでしょう」
「昼休みとかはダメかな」
少し考えて、首を縦に振ってくれた。
「いいわ。じゃ、今日、職員室へいらっしゃい」
ジーナは最初から先生役を完璧にこなしていた。何年も前から先生をやっていたかのような自然さがあって、セクシーさ目当ての生徒ばかりじゃなく、女子にも慕われていたし、受験を真剣に考えている連中からも一目置かれる存在だった。武道の達人はどんなことに対しても真摯な姿勢で取り組むのだ。ジーナはそれを実践していた。夏世が俺に望んでるのは、たぶんジーナのような人間になることなんだろう。
ジーナは自分のポルシェで学校へ行く。俺と夏世は変わらず、島袋さんの車でだった。
「お嬢、今日の昼休み、ジーナに英語を教えてもらうことになってる」
「あなた、まさか、試験の問題を!」
「ジーナがそんなの許すはずないだろう。ポイントっていうか、重要な部分を教えてくれって頼んだんだ」
「そう、ならいいんじゃない? 昼休みは、唯一、キヨの自由時間なんだし」
夏世は淡々としていた。以前はあれほどジーナを意識していたのに。上司と部下の関係になってからは、ジーナに対する見方が明らかに変わったみたいだった。
昼休み、俺が職員室へ行くと、ジーナは場所を変えた。会議室のひとつだ。
ジーナは薄手の上着を脱いだ。インナーは水色のブラウスだった。オーダーメイドなのか、胸の辺りがパツパツじゃないんで、見ている方も落ち着いた気分でいられる。
わざわざ椅子を近づけて隣に座ってくれた。
「さあ、時間がないから、早く出しなさい」
出しなさいって言うのは、もちろん英語の教科書と問題集のことだ。
重要箇所をラインマーカーで線を引いていく。
「先生、これは動名詞でしたっけ、それとも不定詞?」
「ジーナでいいわ。どれ……? あ~ん、これは大事ね。これからのことを表すから、不定詞にするの。一昨日の授業でやったわよね。forgetもそうだから。覚えてる?」
俺の顔からわずか二十センチの距離で、ジーナの茶色っぽい金色の髪が揺れる。
それから顔を少し上げ、覗き込むように魅惑的な瞳を俺に向けてきた。
反則的なまでに顔が近過ぎる。
「どうしたの、キヨ?」
こんなとき、ジーナは普通の女の子みたいに恥ずかしそうに笑ったりはしない。そのままじっと見据えてくるのだ。まるで俺の心の中を射抜くように。それだけで俺の心臓は爆発寸前になった。
ちょっと怖い……が、なんてきれいなんだ!
本当に美しいものと対峙するとき、人は無言になる。
「キヨ! こんなことでボーっとしてたらSTEMの仕事でひどい目に遭うわよ。ただの失敗じゃ済まされない。命にかかわることだってあるはず。いまのうちにもっと女の子に慣れておきなさい。……わたしは協力しないけど」
そう言いながら、ジーナはさらに顔を近づけてきた。あと十センチかそこらで鼻と鼻が触れ合う距離だ。
長い睫毛が不思議な色なのを発見した。髪の毛と同じゴールデンブラウンだ。瞳のまわり、虹彩の部分は、より薄い色で琥珀色に近い。眼球の中が見透せるんじゃないかと、じっと覗き込んだ。
「ダメよ、キヨ。キスはさせない!」
ほんの少し俺が前のめりになったのを、すかさず咎められた。びっくりした俺はやや目を伏せた。
「目はしっかり開いてないとダメ。わたしの目をちゃんと見なさい。そんなしょぼくれた目じゃなくもっとしっかり! ……動揺してちゃダメ。もっと相手を呑み込むくらいの気迫がないと」
それは無理だ。呑み込むにはジーナの存在は大き過ぎる。
やがて、呆れたって感じでジーナが距離をとった。そして首を振る。
「キヨのことが好きそうな女の子がクラスに何人かいるみたいだから、誰かと付き合うといいわ。でも真剣になったらダメ。知り尽くしたら捨てなさい」
「そんな酷いことはできない。女の子の気持ちを弄ぶなんて、男として最低だろう」
「そういう安っぽいモラルは命取りになるわよ。もしわたしが悪い女で、あなたを殺す気だったらどうなってた?」
「あっさり殺られてただろうな。運が悪かったと思うだけだ。諦めるよ」
「そんなんじゃ、軽過ぎ。自分のことなのよ。しかも、生きるか死ぬかっていう……」
「俺は一度死んでるから、さばさばしてる感じはある」
ジーナはやれやれ、と言いたそうな表情で、もう一度、俺と目を合わせた。今度は、探るような、獲物を狙う野獣のような目だ。
「じゃ、本当に、殺してあげる」
言いながら、ジーナが座ったまま、俺の方へ手を伸ばしてきた。初めは蛇が巻き付いてくるときのような緩慢な動作だった。が、いきなり素早い動きに転じると、無防備だった俺を瞬間で捕らえてしまった。何ひとつ抵抗できなかった。
気づくと、俺は椅子ごと引き寄せられ、背後からの絞め技をがっつり食らっていた。
「どんな感じ?」
一応、喋れるように力を抜いてくれているんだろう。
「いい気持だ」
ジーナの乳房が後頭部に当たっていて、本当に気持ちよかった。まるで天国の枕だ。いや、天国行きの枕か?
「死ぬのは怖いでしょう。どう?」
今度は力を緩めてくれなかったんで、答えられなかった。
本当に俺を殺す気なんだろうか?
殺されるとか、死ぬとかが、すぐそこに迫ったリアルな感覚としてあった。
ジーナに殺されるなら、それはそれでいいとも思う。
「あなたは……そうね……死んだほうが幸せかも」
本当のことを言えば、死ぬのはもうたくさんだった。というより、そのあと生かされて、また別の境遇に置かれるのが面倒だった。いまの境遇にやっと慣れた矢先だったし、何よりも、いくら勉強や訓練が厳しいとはいえ、こんな俺に絶世の美女二人が構ってくれているのだ。文句の言える筋合いではない。
俺は意外と幸せな男なのかもしれない。ふと、そう思った。常に付きまとっている疲労感を抜きにすれば、結構、充実した日々を送っているとも言えた。寝る前にその日一日でやったことを振り返ってみると達成感があったし、少しずつだが成長しているという実感もあった。
(頼む、ジーナ!)
せっかくなんで、いまの人生で、やれるだけのことをやってみたいと思った。
声にならない声でジーナに懇願してみる。
(俺を生かしておいてくれないか?)
そう言ったつもりだった。が、声にはならなかった。
ちょっと遅かったか。
仕方ないな。
全然苦しくなかった。
天国の枕で死ねるんなら、まあ、よしとするか。
深い谷底へスーッと落ちてゆくように感じながら、俺はいつの間にか意識を失った。
死。
それは虚無だ。
すなわち、現在とこれから訪れる未来のありとあらゆる関係を失うこと。
現在のしがらみから逃れたいのなら、すべてを投げ出して別の場所で生きればいい。たとえば、いまの俺みたいに。
未来がある限り、何度だってやり直せる。
俺は心の底から死にたくないと思った。
やり直すことには無限の意味がある。それは未来ってものが不確実だからだ。不確実だってことは、結果がどっちへ転ぶかわからないってことなのだ。
どっちが面白いかは考えるまでもない。
でもまあ、そういう結末を神さまが命じるのなら、それはそれで受け容れるしかない。
最後の最後まで集中力を研ぎ澄ませていても、負けることはあるわけだし……
ところで、俺はこんなつまらないことで、また死んだのか?
いやいや。ジーナがそこまでする理由はない。
だいじょうぶだろう、たぶん。
さて、結果は?
俺は机の上で腕を組み、頭を乗せて、涎を垂らしていただけだった。
涎を啜り、起き直る。
すぐ前に、ジーナのメモが残されていた。
いい夢が見られた?
午後の授業 遅刻したら
お仕置きよ
慌てて時計を見ると、午後一時半を過ぎていた。
まずい。完全に遅刻だった。
先生の立場からして、とりあえずお仕置きはいいとしても、……いや、加害者はジーナなのだ。本当は俺がお仕置きされる謂われはない。でもクラスで隣の席の夏世だって、相当怒っているのは間違いないだろうし……まいったな。
それにしても……、俺は考えた。
殺す一歩手前まで俺を追い込んだりしたのは、一体、何故なのだろう。
ひょっとして、これもある種の訓練なのか?
ジーナの考えはよくわからなかった。それを言うなら、夏世の真意だって不可解だった。たぶんジーナは俺の教育を夏世から全面的に託されているのだろう。
考えてみると、すべてが夏世を中心にして起きていると言ってよかった。いい人に思えることもあるし、あらゆることを計算ずくでやっているようでもある。俺もジーナも、夏世の手のひらの上で転がされてるだけの単なる駒に過ぎないんだとしたら――
もしそうなら、どこかで逃げ出すって選択肢も考えておかなくてはならないんだろうか?
でも、いまはいい。いまは、体が悲鳴を上げそうな割りに、まあ居心地はいい方だ。このまま強くなっていけるのなら、俺としても願ったり叶ったりではあるのだから。
3
その日、夕方の訓練は、いつもより格段に厳しかった。――メモに書いてあったように、いわゆるお仕置きモードだったんだろう。
いつもはひとりでするんだが、この日ばかりはジーナが膝の上に乗ってくれて、腹筋百回のセットを三本もやらされた。ジーナはわざわざ胸の谷間がモロに見えるタンクトップのシャツを着ていて、俺の体力をとことんまで絞り出す魂胆なのが見え見えだった。もちろん、そんな策略にどっぷり嵌った俺も悪いんだが、ちょっとやり方が汚くないか?
お仕置きなので、体を伸ばしかけたとき、毎回俺の腹をそこそこの力でジーナが殴る。力を入れてないと「うぐっ」となるくらいの強さだ。
ただしセットの終わりにご褒美があって――よく頑張ったわね、と言いながら、俺の頭を抱きかかえてくれる。そうすると豊満な胸に押し付けられて息ができなくなるんだが、それがいい。呼吸できなくて死んでも本望だって気持ちになる。ジーナの胸は柔らかくて、いい匂いがした。――それが刺激になって、というか、最後までやらないともったいないって気にさせられるものだから、それこそ精も根も尽き果てるまで必死に頑張った。
二セットまではやり終えて、ちゃんとご褒美に与ったんだが、さすがに三セット目の途中、残念ながらダウンした。
「んっ? どうしたのキヨ。もうできないの?」
そういう言い方をされると男としての本能を揺さぶられるが、ホント、もう無理だった。
「……残念」
ジーナは立ち上がるとき、俺の腹に、かなりの強さで正拳突きを入れた。
当然、ゴホッとなる。
「これ、明日もやるわよ。お楽しみに」
言われるまでもなく、俺だってやる気はあった。が、アドレナリンを使い果たしたって感じで、明日のことは明日にして欲しいというか、とにかくもう限界だった。
「わたしは帰るけど――」
結構、ジーナは容赦のないところがある。
「キヨは五百メートル泳いでから帰りなさい。……さあ立って、キヨ。九時までに終わらないと、ボスに叱られるんじゃないの?」
ジーナとの訓練で限界までしっかり絞られた。もっともこの日に限らず、大抵はこんなものだ。そして、続く夏世との勉強で意識が朦朧とするまで頭を酷使させられる。
そんな楽しくて苦しい日々が続いていたんだが……
五月の連休の少し前、夏世が突然学校を休んだ。
前もって一言もなく出かけるのはたぶんそれが初めてだった。基本的に仕事の話はしない奴なんだが、いつもなら海外へ行くときはその国名を、国内なら都市名くらいは言ってくれる。
その朝、都築さんに尋ねると、出張だと言って夜明け前に出たとだけ教えられた。
たとえ知っていたとしても、執事たる都築さんは平然と知らんぷりのできる人だ。それでも一瞬だけ、表情にうっすらと影が差した。この人にとって、夏世に対する心配だけは隠しおおせぬ特別な感情なのだ。俺は心の裡にざわつくものを感じて運転手の島袋さんにも聞いてみた。
「夏世様を送ったのは飛行場でした」と島袋さんは言った。車を降りたあと、自家用ジェットじゃなく、ヘリに乗ったらしい。
国内だろう。用向きはSTEM関連だと考えてよさそうだった。しかも、余程のことがあったに違いない。直感的にそう思った。
放課後、STEMへ行っても、兼藤さんと真山さん両方の姿が見えなかった。STEMを背負って立つふたりが揃って不在というのは滅多にないことだ。
怪しい。何かあったのは、ほぼ確かだろう。
ジーナはいた。しかし、無関係な事柄に首を突っ込む気などさらさらないといった態度で、いつものように、その日も俺の体力をとことん擦り減らした。
最近ではもう男女のあいだの壁を取り払って、というか、ある意味、一線を踏み越えてしまった感がある。シットアップのときなど、俺の股間のほんの間近でジーナが馬乗りになって支えてくれるのだ。特に腹筋の上部を鍛える効果があるらしいんだが、それにしても、ジーナの熱がしっかり伝わってくるし、俺が上体を上げるたびにジーナの下腹部に当たる。
「もっと速く。もっと(動作を)大きく」
俺の動きに合わせ、ジーナの体も揺れる。俺はほぼ興奮状態だし、よくわからないながら、ジーナもたぶん感じていないはずはないのに、シラっとした顔をしていられるんだから大したものだ。さすがにただの女性じゃないと思わずにはいられない。