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夏世の思惑

第3章 夏世の思惑



 STEMでの訓練は一か月目を過ぎ、実技の方は柔道から空手に変わった。

「俺の正拳突きを()けてみろ」

 訓練の中身は最初からこんな感じだった。柔道のときと変わらず、兼藤さんの指導は基本的に実戦を想定したものばかりだ。

「避けられなかったら?」

「たぶん死ぬことはない。ただ、きついだろうな」

「たぶん、ですか……」

兼藤さんの太過ぎる腕を見れば、その「たぶん」も怪しく思えてくる。

 始め、とかの合図さえなかった。

 ハーッ! という奇声とともに連続して繰り出される(こぶし)は、俺のみぞおち、喉、眉間を的確に狙ってきた。体の中心線に沿った箇所。これって全部、急所なんですけど。

 仕方なく、俺は兼藤さんの拳の動きに全神経を集中させる。

「よし。よく見えてるぞ、キヨ。――今度は前蹴りだ!」

 ――ハッ! ――ハッ!

 構えから脚を上げるまでの速度がさっきより格段に速かった。しかも威力は正拳突きの数倍はありそうだ。食らえば、たぶんとかじゃなく、間違いなく死ねる。

 兼藤さんは、何か俺に怨みでもあるのかと思うくらいに、その一撃ごとに気合を込めてくれていた。手で受け止めるなんて甘い考えは通用しない。この蹴りはまさに殺人的で、体全体を使って(かわ)すしかなかった。

「おまえ、意外と筋がいいな」

「ありがとうございます」

「じゃあ、次は、回し蹴りだ。――あんまりお薦めはしないが、手で避けるときは斜めに受ける感じにしろ。跳ね返そうとすると折れるぞ」

 前に真山さんに言われたとおり、兼藤さんの教えはやはり厳しい。ただ脚を振り出すよりも、一瞬早いタイミングで声を出してくれているのがわかった。俺が避けられるようにさりげなく配慮してくれているのだ。

 真山さんの方は、俺に銃の扱い方を教えるコーチになった。

 銃の扱いを学ぶということは、危険な任務に就く場合に備えるという意味合いを持つ。

「俺も、人に銃を向けないといけなくなるんですか」

「嫌なら銃は持たなくていい。その代わり、相手はこっちが丸腰でも撃ってくるぞ」

「真山さんは、人を撃ったことは?」

「あるよ」

「それで相手はどうなりました?」

「知らん。銃撃戦はアニメや映画とは違うんだ。当たり所まで考えて撃てるほどの奴は、実際にはほとんどいない。銃身の長さにもよるし、それぞれの銃に癖もあるから一概には言えないが、十メートル離れて撃つ場合なら、通常、拳銃だと数センチの誤差が出る。つまり、肩を狙って心臓を撃ち抜くことは、狙いどおりに肩に当たるのと同じ確率で起きるってことだ」

「どういうことですか」

「敵の攻撃能力を削ぐことだけを考えろってことだな。相手が生きるか死ぬかは、はっきり言って、相手の運次第だ」

「気をつけて撃っても、殺してしまう場合もあり得ると?」

「そうだ。それが嫌なら撃つな、としか言えん」

「俺は嫌です。だから可能な限り、撃たないようにしたいです」

「そうあるべきだと俺も思う。ただし作戦を失敗に導くような消極的行動は許されん。撃たなければならない状況には、今後、必ず遭遇する。おまえが無意味な殺戮を嫌うのであれば、方法はひとつしかない。――射撃精度を極力高めることだ」

 場合によって自分が死ぬことだってあり得るというのは十分想像できたし、その覚悟ならできる気がした。しかし、人を殺すのは何より嫌だった。といって、自分の仕事を果たせないようならそれほどの屈辱はない……

 この二律背反が俺の甘さから来ていることは十分承知していた。でも、簡単には譲れない事柄もある。譲ったら、俺の本質的な何かが失われる気がした。

 結論として、俺には、真山さんが言うように射撃精度を高めることでしか自分の気持ちを込める術がないらしかった。

 そんなわけで、週三回の射撃訓練には特別に力を入れた。




「明日、ドライブに出かけましょ。あなたの運転で」

 春休み前のある土曜の夜、夏世が初めての提案をしてきた。行きたいのはやまやまだったが、兼藤さんとの訓練がある。

 夏世にそれを言ったら、

「そのことならだいじょうぶ。あなたを一日貸し切りにしたから」

 初めからそのつもりだったらしい。でも、もし俺が嫌だと言ったら……?

 いいや、そもそも俺には拒否する権利そのものが存在しない。夏世が行きたいと言ったら、百パーセント俺は従うのだ。

 翌日の日曜は朝から晴天だった。

「晴れてよかったな」

「そんなの当然よ。気象予報、ちゃんとチェックしてあるもの」

 少しは喜んで見せたらどうなんだ。まったく、可愛げのない奴だ。

「お嬢、どこか行きたい所とか、あるか?」

「富士山が見たい。御殿場方面へお願い」

 いいチョイスだと思った。俺にとっても高速に乗れるのが嬉しかったし、御殿場へ向かう第二東名は最高速度がやや高めだ。――ひょっとして、そこまで考えて言ってくれてるのかとも考えたが――いやいやいや、夏世はそんな女じゃない。知っていて、わざと逆を選ぶ種類の人間だ。

「この車、もう慣れたみたいね」

 高速道を三十分ほど走った頃、夏世が言った。

「そろそろひと月になるからな」

 俺はアクセルを一気に踏み込んだ。どのくらい慣れてるかをパフォーマンスで示そうとしただけで、悪気はなかったのだ。

 前の車に数秒で近づいて、あっという間に抜き去った。

 俺は夏世の表情を窺った。どうよ、これが俺の実力だとでも言わんばかりに。

 ホント、俺は馬鹿だ。――そんなの全部、車の性能だっちゅうの。

 夏世がビビったのがわかって、ゆっくりと元の車線に車を戻した。夏世の場合、普通の女の子のように声を上げたりはしない。頬をこわばらせ、目を閉じただけだ。

 ちょっと可哀想だったか?

「わかったわ。いまみたいな運転はもうやめて。……キヨ、これからサーキットへ行って。富士スピードウェイ。十二時までに着ける?」

「楽勝だ」

「違反はダメよ」

「問題ない」

 御殿場に程近いレース場に向けて、黄色のフェラーリを疾駆させた。

 ところで、途中、サービスエリアで休憩したときのことだ。俺たちがかなり人目を惹いているのがわかった。そのほとんどはフェラーリの威力だったが、車から降りた夏世にも相当数の男女の視線が向けられていた。

 夏世が人目を惹くのは当然だった。きれいな体型がわかるぴったりした薄手のコートを羽織っていて、ミニスカートで嫌みなくらい美脚を誇示しているのだ。そのシルエットはファッション誌のグラビアを飾るモデルと比べても遜色がなかった。顔だってつまらん美人女優より遥かに綺麗だし……。そんな女がフェラーリから降りて来たら、俺だって見蕩れる。

 そういう夏世に比べて、俺の方はまるでイケてなかった。細めのジーンズはまだいいんだが、ジャンパーがひどく安っぽかった。奴隷だと見抜ける奴はいなくても、セレブの付き人か何かだと見られてるのはほぼ確実だった。それは行き交う女性たちの視線で痛いほどにわかった。彼女たちの視線はすべからく、俺を一瞬でスルーして、隣を歩いてる夏世にがっちりロックされ、動かなくなる。

「なんでそんな恰好で来たんだよ。目立ち過ぎだぞ」

 認めよう。単なる負け惜しみだ。

「そう? これ、普通の外出着なんだけどな」

 かもしれないが、それは夏世の常識だ。一般人のとはかけ離れている。

 俺はさっさとトイレを済ませ、車に戻った。車が心配だったからだ。

 何をしてるのか、夏世は遅かった。まあ女はそういうものなんだろう。戻ってきた夏世は髪を整えてあったし、いい匂いがした。

「お嬢は一人歩きできないな。大抵の奴の視線を浴びてた」

「それを言うなら、キヨだって、女の子たちが見てたわよ」

「それは、夏世の付き人かなにかだと思ったからだろう」

「違う。わかるの。特別な視線だったわよ。――レーサー時代はだいぶモテたでしょう」

「多少はファンもいたけど、あの頃は自分のことで精いっぱいだった。F1に昇格するのが夢だったからな。英語の勉強だってそのためにやってたし、いろんな人から話を聞いて、必死にいろいろ学んでた」

「レースに戻りたい?」

 俺は首を横に振った。

「この件に関しては、無理なんだそうだ。神経伝達の速度に問題があるし、手足の動きの正確さにムラが出るんだって医者が言ってた」

 夏世はすべて知っていたのだと思う。ゆっくりと頷いた。あの病院の医師も看護師も、みんな夏世の部下なのだ。報告は受けていて当然だ。

「完全とは言わないまでも、訓練によってかなりのところまでは取り戻せるはずよ。とりあえず、いまはSTEMのために訓練に励みなさい。いつか、それがあなた自分のためにならないとも限らないし」

「五十年後だろう」

「さあ? それはわからないわよ。完済するまでは、わたしのために働いてもらうけど」

 別にそれで構わなかった。

 俺は命を拾ってもらったのだ。最近、事あるごとにそのことが頭に上る。



 ここには、昔の俺――十六歳の若さで参戦していた南清臣を知っている人がたぶんいる。サーキットに着いてからは、頭からすっぽり被るレース用のマスクを外さなかった。

 富士スピードウェイの場合、コースは二種類ある。ショートサーキットの方だったが、夏世は俺のためにコースを貸し切りにしてくれてあった。一時間だが、それだけあれば充分だ。

 俺の前にコースを使っている奴がいた。いい腕だ。ちょっと見でわかった。

「あの人はどう? 競ったら、あなた、勝てる自信はある?」

「お嬢のおかげで車がいいからな。それがなかったら、七分三分ってとこかな。絶対じゃない」

「たいした自信ね」

「あの人、我流だから、ときどき雑なところが出るみたいだ。でも才能はある。まだ若いのかな」

「会ってみる? 行きましょ」

 俺の答えなんか、夏世が待つはずもない。どんどん先に行ってしまった。

 そろそろ十二時。交代の時間だった。

 ピットに止まったポルシェ。少し古いが評判のよかった車種だ。

 降りてきたのは細身の男。いや違う、女だった。ヘルメットを脱ぐと茶色っぽいブロンドの長い髪が優雅に踊った。

 もの凄い美女だ。それも途轍もなく。外国人なのはたぶん間違いない。俺は吸い寄せられるように一歩二歩と前へ進み出る。

 顔が素晴らしいだけじゃなく、スタイルも(見ようによっては)夏世以上だった。胸の膨らみが夏世のそれを大きく凌いでいて、それだけでも大差判定勝ちは決定的だ。是非、お近づきになりたかったんだが――

 夏世が後ろから俺の肩をつかみ、すっかり我を忘れていた俺を強引に押し止めた。

 そのブロンドの女性が、俺を一瞥し、夏世を見つめながら言った。

「お待たせしちゃったかしら」

 日本語が話せるようだった。というか日本人? いや、ハーフだろうと思った。虹彩が薄いブラウンで、たまらなく魅力的だ。

「いいえ、わたしたちが早く来ただけです。……キヨ、いいから、あなたは行ってらっしゃい」

 俺だって一緒に話したかった。が、まあ仕方ない。納得のいかない思いで、対峙する二人の美女の許を離れた。

 しぶしぶ出走する。

 しかしながら、サーキットでの走りは爽快だった。

 これがフェラーリだ。これが本当の俺なのだ。

 周回ごとにタイムが縮んでいく。実感でそれがわかった。

 あの頃の勘が戻り、くすぶっていた俺の中身をヒートさせる。

 次の周回はコース取りに変化を付けてみた。ガキの頃、よくやった遊びだ。ターゲットがすぐ前にいて、後ろからストレートスピードのやたら速い奴が追ってくる想定で走る。

 コーナーを抜けた。

 だいじょぶだ。あの事故のトラウマはない。

 誰かと一緒に走ったら、もっとおもしろいんだろうな。

 ということで、ふと、思いついた。

「あの人はダメかな」

 彼女が一緒に走ってくれたら一石二鳥だ。残っていれば誘ってみようと考えて、俺はピットレーンに入った。

「どうしたの、もう終わり?」

 夏世が訊いてくる。さっきの美女はすでに帰ったあとだった。

 やむなく、俺は気持ちを切り替えた。

「お嬢も助手席に乗ってみないか」

「遠慮しとく。っていうか、二百キロ越えで走られたら、心臓が保たないと思う」

「そうか、じゃ悪いな。もうひとっ走りしてくるよ」

「気兼ねしなくていいから。行ってらっしゃい」

 夏世はいつになく寛容だった。思えば、来る途中もそうだった。夜、並んで勉強してるときも、ときどきこういう一面を見せる。経営者としての夏世じゃなく、学園の人気者でもなく、STEMのボスでもない――ひとりの女の子としての夏世は決して嫌な奴じゃない。


 帰り途、一日つきあってくれたことに対して、夏世に礼を言った。

「わたしにとっても息抜きになったし、仕事の面での成果もあったの」

 何のことを言ってるのか想像もつかなかったが、仕事の話に口を出しても無駄なのは心得ている。

 何か共通の話題はないかと思いを巡らしてみて、すぐに浮かんだのは、サーキットにいたあの女性のことだ。

「さっきの女の人、あの人は……誰だったんだ? 俺が出たあと、話したんだろう?」

「気になる? 顔に出てるわよ」

「ちょっと聞いてみただけだ。他意はないって」

「嘘ついても無駄。あの人、キヨのタイプよね。それもド真ん中」

「夏世と並んで引けをとらない女はめずらしい、ってくらいに思っただけだ」

「オッパイ大きかったものね」

「おい、頼むよ。運転に集中できなくなるだろう」

「想像するだけで興奮するんでしょう……。何? なんでこっち見るのよ!! ダメ! わたしのと比べるのやめなさい!」

「被害妄想だ。比べたりしてないって」

 比べる必要なんてない。結果はわかり切っていた。

「わかり切ってるって、いま言ったでしょ」

「言ってない。……なにげに、思うには思ったけど」

 夏世は自分の胸を両腕で抱きながら、怒ってるのか悲しんでいるのか、どちらとも判然としないナイーブな表情をした。

「こっち見るな! 見たら減給!」

 俺の隣でぷりぷり怒っているのは、紛れもなく、十七歳の普通の女の子だった。




 高校が春休みに入り、夏世とドライブに出かけた翌日の朝から、STEMでの訓練に明け暮れる毎日が続いた。

 おかげで俺の体は筋肉量が増え、実技の方もめきめき上達している。こんなふうに訓練のことだけを考えていられる日々の訪れを、いままでずっと心待ちにしていたのだ……ってなわけがないだろう。

 春休みが始まってから、俺はボロ布のように身も心もくたくたで、夏世との夜の勉強時間だけに一時の安らぎを見出していた。いままでの俺からすると異常とも思える心境だが、事実、それほどに切羽詰まっていたのだ。

 春休みに入って五日目の夜。

 夏世が時計を見ながら俺に言った。真夜中の十二時ちょうどだ。

「明日の夜は、勉強はお休み。……十二時を過ぎてるから、ということは、もう今日の夜ってことになるわね」 

「勉強ナシってことは、訓練が延長になるとか――そういうことなのか?」

 それはもう俺にとってラグナロクを意味する。あなたは今日地獄を見るのよ、と宣告されたも同然だった。

 俺はピンと来た。――兼藤さんが、近いうちに四十八時間のサバイバル訓練がやりたい、と言っていたのだ。ひょっとして、それが今日の朝からに予定されてるとか?

 肩を落とし、しょんぼりする可哀想な俺。

 だが、優しい夏世が救いの手を差し伸べてくれた。

「訓練は早めに切り上げてもらうわ。キヨのミッションは、わたしとパーティに出かけること。七時からだから、訓練は四時までってことにする」

 むむっ?

 忘れてはならないことがあった。最近になって、優しい夏世にお目にかかる機会が増えてる気もするが、実は、彼女は冷酷な夏世と表裏一体の存在なのだ。優しい方の夏世に見蕩れていると、つい逃げ遅れて冷酷な夏世に捕まっちまう。

「明日っていうか、今日の夜できない分を、今夜あと二時間やって取り返しましょ」

「平気で言ってくれてるけど、春休みは朝七時から訓練が始まるの知ってるだろう。あと二時間やったら、四時間ちょっとしか眠れなくなるんだぞ」

 訓練と勉強の両面から、そんなに激しい攻撃を受けたんじゃ身が保たない。

「その分、ぐっすり眠ればいいじゃない。最悪、一日くらい眠らなくたって死なないからだいじょうぶ。……頑張って、キヨ」

 最後の台詞は何なんだよ。言い方が妙に女の子っぽくて…… そういうのは、とんでもなく卑怯だろう。

 どういうわけか、可愛い声で「頑張って」とか言われたら、その気にならない奴はいない。策略なのがわかっていても、つい頑張ろうって気にさせられてしまうのが男ってものだ。

 冷酷な方の夏世は実に狡猾だ。

 その辺の心理を完全に見切ってやっているのが心憎いとしか言いようがない。


 パーティー会場は都内の一流ホテルだった。

 玄関前にフェラーリを停め、夏世をエスコートして大きなガラス扉の内側へ。

 二人ともビシッと衣装を決めているのに、夏世はなぜか人に触られるのを嫌うところがあるんで、他の女性のようにエスコート役の男(=俺だ)に腕を預けたりはしない。

 四十七階の会場までエレベーターで昇る。

 夏世は光沢のあるピンクのドレスを身に着けていた。服のデザインや夏世の体自体も文句なしに素晴らしいんだが、華やかなシャンデリアの下で見ると、その色合いが映えて、周りの着飾った女性たちを従えているように見えた。たぶん若さだけじゃない夏世の優れた部分が強調されるのだ。知性、自尊心、行動力、そしてまだまだこれから大きく花を咲かせる可能性……、すべてが圧倒的だった。

 夏世自身、自分の勝ちを確信しているみたいで、いつも以上に堂々として見えた。女が身に着けるものに金をかけるのは、自分自身を誇示するためのツールだからだ。それは俺みたいな男が車に金をかけたがるのとよく似ている。

 俺の方は袖を通したばかりのイブニングスーツでかっちり決めていた。一週間前に仕立て屋が採寸に来た理由は知らされていなかった。そして一昨日、その微調整を済ませ、それが昨日、手元に届いた。得意の手を使ったか何かで、無理に急がせたんだろう。ついでに言うと、靴もシャツも蝶タイも、すべて新品だった。――総額でいくらかかったんだかわからん。ちなみに、これらはすべてSTEMの経費で落ちるらしいんで、その点は安心だった。

 このパーティは、STEMのライバル会社の代表たちが一堂に会する、盛大な会合だった。暴力団と紙一重の強面(こわもて)の連中も大勢いた。つまり、夏世が凌ぎを削っている連中には、そういう輩も結構多いということだ。

「こういう集まりへはよく来るのか」

「いつもは兼藤さんか真山さんが一緒だけど、キヨにも勉強させたかったの」

 やれやれ、こんな勉強もあるのか。俺で務まるんだろうかと、我ながら心許なかった。

 スタンディングパーティー形式で、ホテル従業員がオードブルやらシャンパングラスだのをトレーに乗せ、広間のあちこちを歩き回っている。

「いまの俺って喜多野清臣だよな。シャンパンもらってもいいかな?」

 囁き声で夏世に聞いてみる。

「ダメよ。帰りも運転するんだから」

「あっ、そうだった」

 シャンパンのトレーを持った従業員が俺の前を通り過ぎていく。

 ……とまもなく、「おい、おまえ!」

 誰かを恫喝する声が周囲に響いた。

 俺のこと……? じゃないよな。 

 怒鳴られたのは、シャンパンを運ぶ従業員だった。難癖をつけられ、立ち往生させられていた。俺たちの立っている場所から三メートル。話し声の届く距離である。呼び止めたのに素通りしたとかしないとか、そんなつまらんことが原因らしい。

 ひたすら頭を下げる従業員に向かって、さらに一歩、男が詰め寄る。

「下っ端じゃ話にならん。上を出せ、こらっ!」

 だいたい、こらっ、とか言ってるアンタが下っ端だろう? 

 始めに大声を出してるだけに、引っ込みがつかなくなったってところだと見えた。なんとかいい形の落ちが付けたいらしいが……その手の月並みな台詞は品位に欠ける。

 いい加減、ムカッ腹が立ってきた。

 俺ごときが割って入っても、すっきり解決するわけがない。頭ではわかっていた。むしろ、話が余計ややこしくなるだけだろう。

 でもすでに、そっちの方向へ重心が傾いていた。

 夏世はしかし、俺のわずかな挙動の変化を敏感に感じ取っていたらしい。動き出そうとする俺の(そで)を、すかさずギュッとつかんで俺を制止した。――手出し無用、という意味だ。

「命令か?」

 俺が小声で訊ねると、

「そう。命令よ」さりげなく答えた。

「俺が、弱いからか?」

「それもあるけど、あんなクズ男を相手にしてもしょうがない」

 おい。そんなことないってくらいの嘘も言えないのかよ。ホント、優しくない女だ。

 だが無茶をしそうな俺を止めたのは、状況に見合った当然の危機回避行動だったと、正直思う。悔しいが、いまの俺では何をするにも技量が足りない。それは事実だ。

 そして、数秒後――

 夏世に『クズ男』呼ばわりされた奴が、やっぱり、どうしようもない屑だったことを自ら証明して見せた。

 ――トレーを持った男性従業員を足蹴にしやがった。

 被害者がヨロヨロしながら俺たちのいる方へ後退してくる。トレーの平衡を保つことに集中していて、いまにも後ろ向きに転倒しそうだ。

 俺は夏世に袖をつかまれていた。

 そのせいで逡巡している間に、夏世が、握っていた俺の袖を自分から離した。さらに、背中を押しさえした。――ということは、今度は、行って助けろと?

 わかった、わかった。では、仰せの通りに。

 半歩踏み出したが、実際は、俺が手を差し伸べるまでもなかった。俺の斜め後ろから、(まばゆ)いばかりの真っ白な脚が伸びてきたからだ。

 先を越された形だが、人助けにあとも先もない。

 それに、すぐ目の前の空間に現れたのは、ロシアの某フィギュアスケーターばりの究極の美脚だった。先を争う気になんてなれるもんか。

 見ている方が断然いい。

 美脚の女性は、後ろ蹴りの体勢だった。

 ハイヒールのつま先で被害者の背中をやんわりと押し戻し、後退する勢いを見事に殺す。

 およそ百二十度開脚してくれてるおかげで、太腿の裏側がまるごと――それこそ盛り上がった(でん)()に近いところまでが――露わになっていた。

 神々しいまでに美しいその光景を、手を伸ばせば触れられる位置で見ることを許されていたが、幸か不幸か、このときの俺はふたたび夏世に腕を掴まれていて自由に手が動かせなかった。

 美脚の女性は、時が止まったかのようにピタリと静止して、背中の揺れが止まるまでの間、バランスを取るだけでも難しいその体勢を維持してくれた。見ている側も、生唾が溜まって、息が詰まる。周りの男性諸氏からも、「ああ」とか「おおっ」とかの嘆息が漏れていた。もしもそのまま永遠に動きが止まっていたら、崇拝の対象にだってなりかねなかっただろう。

 とりあえず、倒れそうだった従業員の勢いはそれで止まった。

 咄嗟の後ろ蹴りは、たぶん尖ったヒールが背中に当たらないように配慮してのことだったようだ。手で支えてやればいいのにとも思ったが、見ると、両手がシャンパングラスでふさがっていた。一瞬で最適の判断ができるなんて、驚くべき対処能力だ。

 上体を起こして後ろ姿が見えたとき、この女性の(まと)っていた純白の服がベトナムの正装であるアオザイだったのを知った。足首から腰の近くまで両脇の布地が切れ上がっている。

 でも、たぶんベトナムの人じゃない。それは明らかだった。脚が雪のように白かったし、髪がブロンドなのだ。どこかで見た覚えがあるような……

 顔が見えた瞬間、俺は完全に、完膚なきまでに言葉を失った。その人は、忘れもしない――もう一度会いたいと百回も願った憧れの人――サーキットで出会ったブロンドの美女だった。

 よせばいいのに、騒ぎの元凶となった男が近寄ってきた。

 馬鹿な奴だ。力の差がわからないんだろうか。俺でもわかるのに。

 アオザイの美女がさりげなく俺に目配せをして、持っていた二つのグラスを差し出してきた。

 もう一悶着ありそうな予感。

 もちろん、喜んで預かった。

 彼女がおもむろに振り返ると、クズ男が余計なことを口にしかけた。 

「姉ちゃん、いい脚して……」

 だが言い終わらないうちに、アオザイの割れ目から、再度、超絶ものの美脚が繰り出された。今度は前蹴り、いや、回し蹴りだ。いったん左膝を上げてアオザイの前側のひらひらを開帳させると、自由になった右脚を鞭のように(たわ)ませ、一気にその力を解放させた。

 凄い! 飛び蹴りの形になった。

 ゴッという鈍い音がした。後頭部への回し蹴りが決まった瞬間だ。

 クズ男はその一撃で昏倒した。

 介助は要らなそうだった。部下だか知人だかが周囲に集まったからだ。仇をとろうと前を向く者もいたが、アオザイの美女に睨まれて(すく)んでしまった。

 おそらく会場にいた全員がアンコールを期待したのに、ちょっと残念だ。

 アオザイの美女は俺に預けていたシャンパングラスを手に取って、俺に軽く会釈すると、何も言わずに、(くびす)を返した。

 カッコ良過ぎだろう。早く帰って、俺もスクワットがしたくなった。

 颯爽とした後ろ姿に向かって、助けられた従業員が深く頭を垂れている。

「あんな人、敵に回したくないな」

「そうなるかも。でも、うちに欲しい人材だわ。――大原ジーナ。ああ見えて実年齢はわたしたちと同じ十七歳なの」

「……んなことって!?」

 絶対、あり得ないだろう。あの体術の切れといい、豊満なオッパイといい――もし本当なら、どれだけ早熟なんだ!? 生まれついての武術の天才で、しかも、幼稚園時代からオッパイが大きくなり始めたとか?

 大原ジーナ。やっぱりハーフなんだろうな。

 夏世は他にも何か知っていそうな口振りだったが、余計な詮索はしない方が無難に思えた。十中八九、また逆鱗に触れる。わざわざ事を構える奴がいるか? って話だ。


 主催者が俺たちをパーティに招いたのは、STEMのような中小の組織に、ある計画の下請けをさせようという算段があってのことだった。まるで群雄割拠の時代、大きな(いくさ)に備えるみたいな状況だ。敵方も傭兵を必要としていて、どちらに付くのかまだ身の振り方を決めていない組織のトップ達を、先んじて味方に取り込もうとする狙いがあるらしかった。

 夏世は来る前から情報は入手してあって、受ける気はないが、敵方に付くつもりもないことを示すつもりでやってきていた。難しい交渉になるだろう。

「結局は、二つの陣営の勢力争い。この件はわたしたちがどう出るかを見極めるための試金石に過ぎない。こんなところでぶれる気はさらさらないわ」

 来る途中、車の中でそう聞かされていた。

 俺たちが引き込まれようとしている今回の計画とは、ある中国系企業に雇われた産業スパイが相手の、最新技術の開発者争奪戦だった。――軍事関連の開発競争に影響するだけに、場合によっては、開発者の拉致も選択肢として排除しない強引なものだ。

 普通なら、まずトラップを仕掛けてくる。そうして本人が日本にいられなくする方策が考えられた。家族を先に拉致するという手法もある。要するに、ただ単に物理的にターゲットを守るだけでは済まないのだ。

「わたしたちに任せたい仕事は、たぶん情報戦の分野だと思う。うちの二之宮くんの力が必要なのよ」

IT担当の二之宮永太。俺は紹介を受けたときに一度会ったきりだ。部屋にこもりっきりで、食事のときも出てこない。真山さんや本間さんとは多少話ができるそうなんだが、異常なくらいの人見知りなので、俺はもう少し期間を置いてから話しかけるようにと言われていた。

 話を元に戻すと、大きな作戦になればなるほど、末端で動く人間の数が必要になる。ハッキングの技量を生かして、二之宮さんならその動きが正確に捉えられるのだそうだ。どこで誰と会ったか、何を買ったか、携帯で何を話したかに至るまで、狙った獲物の言動を逐一知ることで、敵の次の一手が読める。

 考えてみると、サーキットで大原ジーナと会ったのも偶然とかじゃなくて、きっと二之宮さんに彼女の動きを調べさせてあったんだろう。ということは、俺が夏世に感謝したのは勘違いだったってことになるが、あれはあれでよかったのだと思うことにした。俺は走りを楽しんだのだし、少しだけれど、夏世と本音で話すこともできた。

 パーティの主催者、すなわち今回の件の元締めは、ザイン・コーポレーション――知る人ぞ知る日本の裏稼業の最大組織だ。表の看板として商社や大手警備会社を傘下に持つため、国の内外で比較的楽に活動できるし、情報も入手しやすい。そうした立場を利用して、ここ十年ほどでトップにのし上がったと言われている。対する産業スパイの側は中華資本。アジア裏社会の雄で規模はザインを上回る。チャイニーズマフィアとつるんで動くことが多く、大抵の場合、日本のヤクザより手荒な手法をとる。

「どちらか一方に付かなきゃならなくなったら、当然、ザインでしょうけど、うちは独立系でやっていきたいの」

 仕事の話をしない夏世がここまで話してくれるのはめずらしかった。俺を信頼してくれた証拠か、あるいは、一緒に出席する人間に対して、あらかじめ話しておくべき最低限のことだから話してくれているのかもしれなかった。

 しばらく経って、各組織二名ずつの計二十四名が別室に通された。

 白のアオザイの美女、大原ジーナもいた。おそらく所属する会社の代表を守るボディーガードか何かで来ているのだろう。彼女の組織は、席が上座のすぐ近くだった。主催者のザインに次ぐ序列だ。それに引き替え、俺たちは真ん中ちょい下くらいの扱いだった。

 全員が席に着くのを待って、上座の男が立ち上がった。

 テーブルに置かれたネームプレートには「副社長 戸川恭介」とある。

「われわれはいわば、日本の番犬です。わたしはつい、あなた方にドーベルマンの雄々しい姿を重ねて見てしまいます。いや、美しい女性の方々もいらっしゃるのに、いささか失礼な喩えでしたか。お詫びします。

 日頃、日本の平和のために力を尽くしていらっしゃる皆さんの義の心に、ザイン・コーポレーションの社長になり代わりまして、敬意を表します。……ところが最近、あろうことか、泥棒に尻尾を振る惨めな駄犬がいるようで、今日集まっていただいた皆さんも、彼らの節操のなさにあるいは呆れ、あるいは憤っていらっしゃることと思います。まったくもって嘆かわしい限りです。

 われわれには使命があります。

 それは社会の秩序を陰で支えること――」

 ザインの副社長は、列席のトップたちの表情に、順番に目を配った。

 賛同の意を表そうとしきりに頷いている者もいるなか、夏世は完全に無表情だった。

「今回の件で、われわれは同志を募ることといたしました。ここにご列席の皆さんは、共に手を携えるに足る方々ばかりです。真の正義を体現するのにどうして躊躇(ためら)うことがありましょう。……賛同していただける方々は、遠慮なく、挙手をお願いします」

 代表たち十二人の中で、手を上げなかったのは夏世だけだった。

「STEMさんは如何されました? 肩の調子が悪くて手が上がらないとか?」

 一同が追従して笑う。俺は頭にきて、一番声高に笑っている奴を睨みつけた。

 だが夏世は、物怖じせず、静かにこう言った。

「戸川さんのお話は義を重んじるうちのポリシーに通ずるものがあり、非常に共感を覚えます。しかし、味方に付くようにとのお誘いには、にわかにお答えすることはできません。わたくしどもはこれまで、クライアントに直接依頼されて、動くべきかどうかを熟慮した上で働いてまいりました。そのやり方に間違いはないと思っています。もちろん敵の傘下に入ることはないと断言できます」

「よその旗の下で働く気はないと……。さすがに御月の御大(おんたい)のお孫さんでいらっしゃる。しかしですね。時代が違うのですよ、時代が。仕事のスケールはますます大きくなっている。今回の依頼も、数十億単位の資金が動く仕事なのですよ。とても一つの組織でできる規模ではありません。頭を切り替えるにはいい機会だと思いますが」

「そういう機会に(あずか)るのはいずれまた、ということにさせてください。今回の件は政府の仕事ではありませんし……」

 余裕の表情でいたザインの副社長・戸川恭介は、このとき初めて眉をひそめた。

「後悔しますよ」

「いいえ」

 夏世は不敵な笑みを浮かべながら断言した。

「失礼します」

 それで俺たちは席を立った。

 後から誰かが追いかけてきて……、とかを一応警戒したんだが、何もなかった。



 車に乗り込んでからも、夏世はともかく、少なくとも俺の興奮は冷めていなかった。

「胸のすくような退席の仕方だったな。しかしお嬢、あれでよかったのか?」

「確かに、ザインが負ければ、うちが非難されるでしょうね。勝ってもうちの()が悪くなる。決して要領よく立ち回ったとは言えないけれど、そういうチームが一つくらいあってもいいじゃない」

「そうだな」

 人に流されない夏世の態度は立派だった。

 電気店街の明かりが夏世の頬に映り込んでいた。さすがに緊張したのか、いまは気力が抜けたように目を休めている夏世に対して、俺はいままでにない特別な思いを抱いた。見かけによらず豪胆なこの女の子の下で働けること――それがどんな仕事であろうと、誇りを感じないではいられない。率直な感情として自然に湧き上がってくるのだ。それは真山さんの感じ方に似ていると思うし、同列には扱えないが、夏世の奴隷になりたいと言った本間さんの言う、ストレートな関係というのとも、ある部分で重なる感情だ。

 俺は夏世を起こさないように、「お疲れ」と小さく呟いた。




 それから何日か経って、夜の勉強中、夏世に電話がかかった。そういうのは普段からよくあることなのだが、しかし――

 夏世の様子がいつもとはどこか違っていた。

「どうかしたのか、お嬢」

「キヨ、車出して!」

「これからか?」

「いますぐ。急いで!」

 いきなりそう言われても、俺はパジャマ代わりのスウェットの上下だった。この姿でフェラーリを運転するっていうのは、ちょっと様にならないだろう。

「いいわよ、そのままで」

 夏世は夜もちゃんとした格好でいるからいいが……

「早く! 車を玄関に回しておいて。さあ、ほら、もたもたしない! 三分以内よ」

 あまりに自分勝手な言い分だ。

 俺はガレージまで走り、なんとか三分以内で玄関前に車を着けた。すると夏世は、ちゃっかりラフな外出着に着替えていた。ジーンズにジャケット。俺にはスウェットでいいと言っておいて、ちょっとひどくないか?

「どこへ行けばいい」

「カーナビを」

 カーナビと言っても、だいぶ前から車載コンピューターにグレードアップされていた。本間さんと二之宮さんの共作だ。音声認識方式なので、手で操作する必要はない。

「二之宮くんのパソコンとリンク」

「声紋と同時に左手親指の指紋を確認します。枠内に触れてください」

 夏世はわざわざ右手の人差し指で画面にタッチした。

「おい、それ……」

 夏世は口唇の前で親指を立て、黙るよう俺に示した。

「認証しました。暗証番号を言ってください」

「natsuyo/eita/love」

「なんだそれ? お嬢、二之宮さんと恋人同士だったのか!?」

「違うわよ。事実無根だから。向こうで勝手に暗証番号決めちゃったの」

「しかし向こうはその気なんだろう?」

 俺のその問いを、夏世は完全にスルーした。

「ターゲットの位置を確認して――大原ジーナ」

 ジーナと言えばすぐ、あのきれいな太腿と、前と横に張り出したボリュームのある胸を思い出してしまう。アオザイが似合っていたよな。

 位置が表示された。

「大原ジーナがどうしたんだ?」

「組織を抜けたの。で、いま追われてる」

「STEMに入ってくれるのか?」

 もしイエスなら、またとない朗報だ。

「それはまだわからない。とにかく抜けるように仕向けたのはわたしなの。だから責任取らなきゃ」

「その責任、代わりに俺がとってもいいか」

「……何か言った?」

「俺が一生面倒を見るとかはどうかな」

「わたしの?」

 こいつは俺の話を聞いてないのか!?

「はあ? それでも別に構わない……かな?」

「馬鹿言ってないで、早くジーナさんに追いついて。今回に限って、スピード違反は許す」

 それは願ってもないことだった。車の多いところで、こいつの性能を遺憾なく発揮させてやりたかったのだ。

 首都高に入ってから、俺は猛烈に加速してスピードを上げた。およそ百八十キロで邪魔な車を何十台も抜き、瞬間値だが、直線で三百キロ弱まで速度を上げた。

 車線が塞がっている場所では、ほぼフルブレーキ。そして、また加速。

「お嬢、気持ち悪くないか?」

「だいじょうぶ」

 やがてパトカーが追いかけてきた。

 まあ、当然だろう。この運転が傍若無人でないとは、本人の俺だって思ってやしない。

「お嬢、どうする?」

 一応、聞いてみたが、止まれと言われるのは承知だった。

 ところが、夏世は――

「振り切って」

 予想外な答えを返してきた。

「いいのかよ」

「あとで何とかするから、とにかくいまは急いで」

「よっしゃ~!!」

 首都高を降りた。ジーナの居場所はもう近い。

 警察はすぐ追って来なくなった。

「神様、聞こえてる?」

「ハイ」

「わたしたちの進行方向の信号を全部青にできる?」

「さっきからもうやってるけど」

「そうなんだ……ありがと」

 道理で信号を赤で突っ込まなくて済んでいたわけだ。

 ところで、いまの神様って呼び方は何だったんだ?

「二ノ宮さん、神様ってあだ名なのか?」

「そう。お願いすればどんなことでもやってくれるから」

「へ~え。そんなに凄いんだ、あの人」

 俺が会ったときは、後光が差してる神様というよりは、ちょっと存在感の薄い人くらいの印象だったが。

「お嬢、もうすぐだ。どうすればいい?」

「ジーナさんは追われてる。追手の邪魔はできる?」

「ブロックすればいいんだろう。俺、去年まではセカンドドライバーだった。くそ忌々しいが、それだけは得意中の得意だ」

 ジーナのポルシェは四台の車に追われていた。全車がSUVタイプの黒のBMWだった。個人的には好きな車だが、こうして同車種で揃えられると、あんまりいい趣味じゃないように思えてくる。

「前へ出られる?」

「当然」

 相手が気づく前に、俺は四台とも難なく抜き去った。

「撒き(びし)か何かをばら撒けば一発なんだろうが、要は、こいつらの動きを鈍らせればいいんだろう?」

「どうするの?」

「まあ、任せてくれ」

 俺は故意に尻を振るドリフト走行を始めた。ただし、こっちはフェラーリなのだ。ぶつけられて傷でもつけられようものならたまらん。その点を考えて、相手を過度に刺激しないように気を配った。

 相手のコースを消しつつ、徐々にスピードを緩めていく。これこそまさにセカンドドライバーの真骨頂だ。チームの二台のうち一方のスターを勝たせるため、もう一方が犠牲になって後続のドライバーの邪魔をする。若い俺は、かつて、そっちの役回りばかりさせられていた。

「いい仕事してるわ。さすが元レーサーね」

 ジーナのポルシェはどうやら完全に逃げ切ったようだった。しかし、後ろの連中がブチ切れたらしく、クラクションは鳴らしっぱなしだし、後部バンパーに何度か嫌な衝撃が伝わってきた。こんなふうに後ろから追突されると、嫌でも、レース場で事故に遭った日のことが頭に昇る。

「いまぶつけられてたのって、修理費は俺持ちか?」

「当然、うちで持つわ」

「フェラーリの修理は高いぞ」

「保険が効く。でなくても、経費は経費。場合によっては買い替えてあげるから、もうちょっと頑張って」

 スピードが速いせいで、夏世の顔に映り込む電光の色が慌ただしく切り替わる。表情は変えていないが、楽しんでいるみたいだった。仕事モードの夏世は、凛々しくて、眩しいくらいに輝いて見える。

 夏世は大原ジーナに電話を入れた。

「ジーナさん、できたらあなたの携帯、いますぐ捨ててくれる? そのままだとGPSで居場所を悟られる」

「さっきから電源切ってあるんだけど」

「電源が切れてても、こうして電話かかってるでしょ?」

「わかったわ。でも、あなた誰?」

「わたし? ……誰でもいいでしょ。とにかく、携帯の処理を終えたら、この道を逸れて、どこでもいいから走り続けて」

 夏世はそれだけ話してジーナとの連絡を絶った。

「キヨ、後ろの連中をとにかく巻いて。それから、ジーナさんを追ってくれる? ……できるわよね」

「四台を一遍に振り切れってか?」

「そうよ。できないの?」

「まあ、無理じゃないとは思うが。ちょっときついな」

「ボーナス五十万でどう?」

「そういうことなら喜んで! やらせていただきます」

 俺はしばらく闇雲に走ったあと、急遽、逆方向にフェラーリをターンさせた。正面衝突寸前の離れ業だ。

 四台のうち一台は、向かってくる俺を避けようとして路肩の店舗に突っ込んだが、真夜中だから人的被害はなかったと思う。

 そのままほぼフルスピードで駆け抜けたので、追走する車はいなくなった。なんとか振り切ったってことだ。

「二ノ宮くん、大原ジーナの足取りを追える? 彼女、携帯は持ってないんだけど」

「問題ないです。警察のモニターを見るから」

 追跡の車を巻いて、やっと一息つけた。

「二之宮さん、凄いな」

「そうよ。超一流の人材。グーグルから声がかかってたんだけど、断ってうちへ来てくれたの」

「お嬢に惚れちまったんだな、きっと」

「他でそんなつまらないこと言ったら、減給するわよ」

 しばらくして二ノ宮さんの声がした。

「いま国道246号を西へ向かって走行中」

「ありがとね、二ノ宮くん。おかげで助かったわ」

 なんか不公平じゃないのか。二ノ宮さんにだけありがとうを連発して、俺には「ありがとう」の「あ」の字もないなんて。だいたい夏世から感謝の言葉は一度だって聞いた覚えがないんだが、それって俺が奴隷だからか?

「ロックした。キヨ、地図上で点滅してるでしょ。追って」

「OK」


 大原ジーナとは横浜郊外で合流した。

 しばらく後ろに続いて走っていると、ジーナがハザードランプを点けながら減速し、空地に車を乗り入れた。俺たちも従った。

 降りてきたジーナは、もちろんアオザイは着ていなかった。すっきりしたラインのパンツにノースリーブのセーター。それでなくても長い手脚が強調されていて……大きなオッパイも当然目立った。思わず、溜め息が洩れる。

「助けてもらったんだから、一応、礼は言っておく。……あ・り・が・と・う」

 声が小さくて聞き取れなかった。

「……あなたたち、わたしを助けて何の得があるの」

「困ってる人がいたら助けたくなるだけ。――損な性分なのよ」

「じゃあわたしがただラッキーしたってことでこのまま消えても、怒ったりしないわよね」

「もちろん。だけど……わたしたちのために働いてくれると嬉しい」

「このくらいのことで、そこまでする義理はないわね」

「確かに。――釣り合わないのはわかってる。恩着せがましいことを言うつもりもないし。これはビジネスの話として聞いてくれる? わたしはあなたのいたTSSよりいい条件を提示できる」

「なぁんだ、ただのお金持ちのお嬢さまなんじゃない。一目置いてたのに、がっかり。……御月さんって言ったかしら、あなた、この世にはお金で動く人間しかいないと思ってるの?」

 そうだ、そうだ。言ってやれ!

 俺はにわかにジーナを応援したくなった。

「あなたがTSSにいた理由も、抜けたくなった理由も、知ってるつもりよ」

 交渉術はおそらく夏世の方が上なんだろう。ジーナの目が急に険しくなった。

「あなたの抱えてる問題、わたしが解決してあげる。……それでどう?」

 俺にはさっぱりだったが、夏世のこの申し入れはジーナの心をかなり動かしたみたいだった。

「じゃ、ここは勝負ってことでどうかしら。たとえば、そこにいるスウェットのお兄さんにわたしが負けたら、おとなしく言うとおりにする。瑠璃奈(るりな)を取り返すことは、当然、条件に入れさせてもらうけど……約束できる?」

「それでいいわ。でもキヨとあなたじゃ、格闘技で闘ったって勝負になるとは思えない。例のサーキットで勝負するのはどう? あなたもいい腕してるみたいだし」

「いいわよ。それで」

「じゃあ、ディール。新しい携帯に替えたら、明日の午後、ここへ連絡して」

 夏世がジーナに名刺を手渡した。

「サーキットの予約をとっておく。勝負の時間はそのとき知らせるから……」

 すべてが俺抜きで決まった。いまひとつ納得できなかったが、まあ、しょうがない。これは夏世の勝負だ。それにレースは俺の本業だ。やってみたかったし、沽券にかけて、負けるわけにはいかない。

 マッチレースは二日後の午後二時に決まった。

 前の晩、夏世との勉強中は、特に意識して、俺からはジーナのことをおくびにも出さなかった。そういうことに関して、夏世はひどく勘が鋭いのだ。

 すると夏世の方から念を押された。

「キヨ、明日は絶対勝ってね」

 妙に可愛らしく言うのは、大抵、裏があるときだ。俺に期待しているというよりは、負ければ、ジーナを取り込もうとしている夏世の計画がぶち壊しになるからだ。

 しかし、勝てば、俺にとっても十分な恩恵がある。ジーナみたいな美女と一緒にいられたら、毎日がさぞ刺激的になるに違いない。

 そんなことやあんなことを考えると、ベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。

 まるで遠足の前の日の子供みたいに。


 俺と夏世はサーキットに午後一時半に着き、ジーナを待つかたちになった。

 夏世とのドライブはもう、最初の感動がすっかりすり減ってしまって、新鮮さみたいなものは(かけ)()も残っていなかった。走行中、夏世はフェラーリのコンピューター画面を仕事に使っていた。俺も前だけを見ていたし、それぞれがただ自分の仕事をこなしているだけ。味気ないことこの上ない。俺と夏世は、たぶん生まれ変わりでもしなければ、恋人同士にはなれない運命なのかもしれない。

 昼食は、俺だけで食べた。俺が店内でハンバーガーを食べてる間、夏世は車に残り、仕事を続けていた。これまで夏世は、俺の見ている前では、飲み物を摂ることすらなかった。仕事は人一倍できるが、ほとんど食べないで生きられる。少なくとも傍目にはそう映った。まったく効率のいい女だ。

 飲み物とハンバーガーを一人分テイクアウトにしてもらったんだが、

「要らないからキヨが食べて」

「スタイルを保つのが大変なのはわからなくもないが、そんなんじゃ、可愛げがないと思われるんじゃないか? 女の子がおいしそうに何かを食べてるときって、可愛いく見えるんだ」

「キヨはそういう普通の女の子と付き合えばいいじゃない。わたしは違うの」

「まあ、言ってもしょうがないか」

 そう。夏世の場合は特に、どうにもならない。俺が食べることにした。

 ジーナがピットレーンに着いたのは一時五十分だった。

「一周だけ走らせてもらっていいかしら」

「じゃあ俺もそうしようかな」

 ジーナと俺はゆっくりと走り出した。レースではタイヤとブレーキを温める意味からフォーメーションラップを走るのだが、ジーナはウォーミングアップから駆け引きをするつもりらしかった。たとえば、俺の前でいきなりブレーキを踏んだりして。そうして俺の反応速度を試し、俺が前へ出ると、今度は右左に追い越しをかける振りを見せて俺の癖を探った。

 どうあっても、ジーナは俺に負けたくないんだろうか?

 その辺がよくわからなかった。結局、ジーナの言っていた瑠璃奈を取り返すとかいう話も、どういう意味なのか聞かず仕舞いになっている。

 慣らし運転の一周を終えて、俺たちはスタートラインに車を並べた。

 三周で勝敗を決める。

 最初の一週目は、ジーナを先に走らせるつもりだった。どれだけできるのかを確かめたい気持ちもあったが、最新のフェラーリと型落ちのポルシェではポテンシャルが違う。その分のハンデを与えてやりたかった。

 夏世がスタートの合図に、スカーフを振る。

 GOの合図だ。

 予定通り、俺はジーナを先に出した。あえて車間は詰めない。

 ジーナのコース取りはやはりプロ並みだった。

 うかうかしていると負ける。そう感じたとき、レーサーとしての狩猟本能が目覚めたというか、俺は一周目の後半から本気モードに入った。

 背後に付くと、ジーナが巧みに俺のラインを消しにくる。 

「いい腕だ。でも、プロを舐めるなよ」

 プレッシャーをかけ続けると、ジーナにちょっとしたライン取りのミスが出る。

 二周目だった。カーブに入る。その入りでのブレーキングのタイミングから考えて、膨らむのは必至だった。その隙を狙って一気にインを突く。

 入り込んだが、ジーナは負けじと、アウト側から車を寄せてきた。

「ぶつける気かよ! クソッ!」

 ぶつけられたら、修理費が……。いや、こんなことで、もし車がおシャカにでもなったら、俺の借金に大金が加算される。

「俺の弱みを見抜いてるな、こいつ」

 俺の方が前に出ていたので優先権はあるんだが、やむなくラインを譲った。

 いったん退いて、次のストレートに賭けることにした。二本あるショートサーキットの方なのでストレート部分はやや短いが、エンジンパワーの違いもあるし、スリップストリームもある。抜き去るのにコンマ数秒あれば足りるはずだ。

 三周目のホームストレートで、トラップを仕掛けるかに見せて、そのまま一気にジーナを抜き去った。

 ところが、すぐの第一コーナー。どう考えても無理のないブレーキングだったのに、後ろから追突された。

「あ~、何なんだよ。素人かよ」

 故意にやっているのは間違いなさそうだった。でも不幸中の幸いと言うべきか、リア部分だけなら、一昨日カーチェイスのときやられたのがそのままにしてあった。格好悪いから早く治してくれとせがんだのを、夏世に無視されていたのだ。

 フロントやサイドは、おイタしちゃダメだぞ。――俺は自分に、そして追走してくるジーナに向かって、声に出して言った。サイドミラーを壊されただけでも、涙がチョチョ切れるほどの修理費がかかるのだ。

 俺は少しでも距離を開けたくて必死で逃げる。リスク覚悟でブレーキは最小限にした。ぶつけられてバランスを崩そうものなら、事故につながりかねないからだ。俺のことはいいが、車が心配だった。

 結果、五十メートル近い差をつけて俺が勝った。

「よっしゃ~!」

 思わず、ガッツポーズ。勝てば、賞金を二百万出してくれる約束になっていた。

 ウイニングランの周回を終え、降りてすぐ損傷箇所を調べる。

 どうやらバンパーの傷が増えただけで済んたみたいだった。ということは、二百万フルにゲットだ。

 隣に車を止めたジーナに、俺は食ってかかった。

「わざとぶつけるなんて、あり得ないだろう」

「レースは相手を潰してなんぼの格闘技だもの。我慢しなさい。でも、さすがね。完全に負けたわ。どうにもならなかった」

 夏世が寄ってくる。嬉しそうだ。

「キヨ、よくやってくれたわ。でも、ぶつけちゃって残念ね」

「修理費はお嬢が持つって一昨日言ってたよな」

「一昨日の分はこっちで払うけど、今日の分はキヨの払いでしょ」

「交換するんだから、おんなじだろう」

「半々と言いたいところだけど、わたしが七割、キヨが三割でどう?」

「イヤだ! そんなに出すんだったら、俺が自分で、パテ塗って、塗装する」

「そんなのダメよ。わたしが完璧主義なの知ってるでしょ」

「頼むよ、お嬢。……いいえ、お願いします、ボス」

「ダメ」

 俺は泣きそうだった。

「あなたたち、そういう関係だったの? わたし、すごく悪いことしたってこと?」

「そうだ。ものすご~く悪いことだ」

「御月さん、あれは、わたしが故意にやったのよ」

「……冗談よ。キヨはよくやってくれたし、修理費は全額わたしが持つわ。その代わり、二人とも恨みっこなしで。いいわね」

 本気にした俺が馬鹿だったと?

 まあ、それならそれでいい。めでたしめでたしということで手仕舞いにしてやろう。

 俺はジーナに握手を求めた。友好の(しるし)の固い握手。――ジーナは男みたいに俺の手をしっかり握ってきた。

 でも、やっぱりジーナは女だった。その乗りでハグしようとしたら、あっさり拒まれた。


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