御月夏世という人物 その正体
第2章 御月夏世という人物 その正体
1
視点の定まらない目で都築さんが言った。
お嬢さまが事故でご両親を亡くされてからもう四年になります。
夕食の最中に、ある日たまたま、何かの加減でそんな話になった。ダメ出しする箇所がなくなりつつあったせいか、仕事を終えたという安堵感がこの誠実な人の口を軽くさせたのかもしれない。
「当時はまだお嬢さまのお爺さまがご存命でして、その大旦那さまが直接、夏世さまにお仕事の手ほどきをされました」
こういう修行時代の話を夏世が俺にするわけがない。
「お嬢は苦労されたんでしょうね」
「それはもう。大旦那さまは、仕事の面に限っては、至って厳しいお方でしたから」
身をもって知っているという口ぶりだった。都築さんもやはり、たっぷりしごかれた経験があるんじゃないのか――容易に推測がついた。
「ご両親を亡くされたあと二年ほどで、お嬢さまが高校に上がられるとすぐのことでした。大旦那さまも他界されました。それからずっといまのように忙しくしておられますから、お嬢さまのお身体が心配です」
「まだ若いですから、心配要らないんじゃないですか」
「……ええ」
都築さんは少し言い澱んだように見えた。含みがあるというのか、言えない何かを隠しているような口ぶりだった。ただ、夏世のことをあたかも自分の娘のように気遣っている人なので、気にし過ぎになっていたとしても不思議はない。いつもじゃないが、階段を降りるときなど、つい手を差し出してしまうという感じなのだ。夏世の方もそれを嫌がるでもなく、ただ黙って、都築さんの手に自分の手を預ける。
きっと夏世が子供だった頃の名残りなんだろう。そういう主従関係があってもいいと思う。俺はしかし、絶対、そんなことはしない。――夏世がもし目の前で倒れていたって、起こしてやるものか。
待望の、テストの結果発表があった。
数学が九十二点。英語は九十四点だった。
「これ、ひょっとして、学年の上位じゃないのか?」
俺は言った。ちょっと、どや顔になっていたかも。
「そうね。わたしが十番、キヨは八番だった」
「俺、夏世に勝ったのか」
夏世は素直に頷いた。
ちなみに、夏世は数学が百点で、英語が七十七点。合計で俺より九点低い点数に終わっていた。もっとも、英語は途中退出したから七十七点だったのだ。時間があれば、確実に、もっと取れていただろう。
つまらん言い訳をしないところは、敵ながら天晴れとしか言いようがない。ただし、約束は約束だ。例の件はちゃんと履行してもらわなきゃならん。
「あれは返してくれるんだろうな」
「そういう約束だったわね。今夜取りに来なさい。七時半でいいわ」
そう言われ、下校までそのことばかりが頭を巡っていた。屋敷へ帰っても、夏世の部屋で何をどう言ってやったら気が晴れるのかを想像するうち、またたく間に時が過ぎた。
そして夜の七時半ちょうど、俺は夏世の部屋のドアを叩いた。
返事がない?
「お嬢、入るぞ」
夏世の部屋へ入るのはもう慣れっこだった。いつもなら、夏世は自分が待つことも、人を待たせることもないんだが。
とりあえず、俺は部屋中央の上等なソファで待つことにする。
五分ほど待って、ようやく夏世が来た。
「お風呂入ってたの。待たせてゴメン」
夏世は髪をバスタオルでくるみ、バスローブを身にまとっていた。試験が終わって、久しぶりに寛いでいるところのようだった。
「キヨの頭には、これしかなかったのよね」
夏世は、別の部屋から例の写真集二冊を小脇に抱えてきた。
そして、俺の真正面に腰を下ろす。
よしよしって感じでその二冊を受け取る俺。
と、なんでだ? ラップが剥がされていた。
二冊が二冊とも……新品ではなくなっている?
考えられる可能性はひとつだった。すなわち、俺より先に夏世が見たということ……
この女には事の重大性がわかってないのか?
初めて開く楽しみが――あらかじめ失われていることの悲しさが――わかってないとでもいうのか?
「先に見たのか?」
俺は半ば呆然として訊ねた。
「検閲したの」
「検閲?」
「……そう。わたしに隠れて、おかしな物を見るのは許せないから」
夏世のバスローブの胸元が心持ち開き加減になっているのにそのとき気づいた。
俺は見なかったふりをして写真集を開いてみる。
もし大事なページがむしり取られていたりしたら、絶対、弁償してもらうからな。そのくらいの意気込みで、最初から最後までのページをめくった。
俺のやることを夏世が不思議そうに眺めている。
俺は単に本の状態をチェックしただけだ。いくら動体視力が並外れていたって、このスピードじゃ写真の迫力までは伝わってこない。だいたい女の子の写真とかは、じっと見つめてなんぼのものだろう。
奇しくも、試験の前にイメージしていたのとおんなじ光景が目の前にあった。――俺が写真集に目を落としている一方で、そんな俺を所在なげに夏世が眺めている。
たまたま水着の紐が両方とも肩から外れてる写真に目が止まった。胸を押さえながら恥ずかしそうにしているこんな表情こそが、男心をグイッと鷲づかみにするのだ。
女の子は表情ひとつでこんなに可愛くなれるんだぞ! 目の前の――どこかのサッカーチームの監督みたいに無表情な――夏世に教えてやりたかった。もしこれが夏世だったら、たぶん挑むような目つきになるだろう。おっと、そういうのも悪くないな。
思わず、俺はニンマリした。
「何よ、その顔。イヤらしい」
「違うって! 中身が無事だったんで安心したんだ」
「水着のショットだけだったから許すけど、そんな女の子のどこがいいのよ。どっちかと言うと太めだし、そんなに可愛くないし、オッパイが大きいだけじゃない」
「オッパイが大きいのがいいんだ」
「男って、そんなにオッパイが大事なの!?」
「当たり前だろう!!」
これじゃ、逆切れだ。いいや、逆切れは夏世の方だ。
夏世の表情が妙にこわ張っているのは感じていた。そうとわかっていて、俺はあえて、もう一冊の写真集を手に取った。そしてこれ見よがしに開いてみせる。
「いやあ、スゲえ。頑張ってホントよかった~」
実際、一冊目の子より凄かった。ところが俺がそう言った瞬間、激怒した夏世が前のめりになって俺の写真集に手を伸ばしてきた。
「やっぱりダメ! 寄越しなさい」
そうはいくか! 夜明け近くまで頑張り抜いて、ようやく勝ち取った戦利品なのだ。
力づくで奪おうとする夏世に、なんとしても取り戻したい俺。
お互い負けじと引っ張り合った。
引き寄せる手によほど力を込めていたのだと思う。夏世は「ん~っ」という唸り声を上げた。いいや、呻き声と言うべきか。とにかく、そういうのはやめてほしかった。女の子の高いトーンの声――鼻にかかったその種の声は男の本能を無駄に刺激する。
もともと俺は、夏世をそういう目で見る気はさらさらなかった。自分の運命を変えた女を好きになってどうするんだって話だ。それに俺は女らしい優しい子がタイプなのだ。真逆の奴にわざわざ恋をする馬鹿がいるか?
しかしそんな俺を惑わせたのは、呻き声だけじゃなかった。写真集を引き合っていて、俺は偶然、上体を俺の方へ向けてる夏世の胸元が大きく開くことがあるのに気づいていた。下着をつけてない乳房が重力の法則に従っていて(見えそうで見えない)微妙な角度だった。
どうしたって刮目してしまう。性格の方はどうしようもないが、顔やスタイルは女として一流なのだ。
正直、写真集なんぞ、もうどうでもよかった。
もう少し、あとちょっとだけ腰の曲げ具合を変えてくれれば……
引っ張り方をやや下向きに変化させてみる。
あとほんの少しだ。あとちょっとで全体が見える。
すると、俺のそんな儚い思いが夏世に伝わったらしい。
慌てて襟元を手で絞りつつ、夏世はぼそっと訊ねてきた。
「キヨ、見た?」
「見えなかった」
本当だ。残念ながら、大事なところは見えてなかった。
「バカ!」
夏世が俺の左の頬を思いっきりひっぱたいた。
「だから見てないって」
「嘘!」
「じゃ、正直に言う。七割くらい見えた。でも先っぽは見てない……きれいなオッパイだったよ。これでいいか!?」
「なに開き直ってるのよ。 ん~~っ、……もう許せない!」
夏世はもう一発、いや二発、俺に平手打ちをかました。手の平と甲とでビシッとだ。いわゆる往復ビンタと称される荒業である。
脳震盪の一歩手前。それはそれはきついお仕置きだった。殴った夏世の方もかなり手が痛かったんじゃないのか?
「いま鞭もってくるから、キヨ! そこで大人しくしてなさいよ」
まさに正解。さすが夏世だ。痛みを伴わずに相手をこっ酷く痛めつける方法を心得ている。こういう場合、鞭が最適だということに俺も同意する。鞭の代わりに棒はどうかというと、棒はいけない。殺人まで一気にエスカレートする恐れがあるからだ。だいいち、野蛮だし、洗練されていない。
しかし鞭まで用意してるとは――御月夏世、なんとも恐るべし。
鞭を取りに夏世が寝室かどこかへ立った間に、俺は俺の写真集二冊を胸に抱き、こっそり部屋をあとにした。
その夜は襲撃を警戒しつつ床に就いたんだが、そのまま何事も起きなかった。
そして翌朝も。登校時に会話が一切なかったのを除けば、いつもと変わりない一日の始まりになった。
お咎めなしってことでいいのか? そう考えて安心しかけていたところへ、教室のある三階まで階段を昇る途中、夏世がおもむろに俺の耳に顔を寄せてきて、こう囁いた。
「昨日、一晩考えたの。キヨがそんなに見たいんなら、見せてあげないこともないって」
「ホントか!?」
どういう風の吹き回しなんだ。
「その代わり、条件がある」
「それは、なんていうか、普通にできることなのか?」
正直、俺はかなり乗り気だった。
「どうなんだろう? 気合を入れればできるんじゃないのかな」
「じゃ、一応、聞いておくとするか」
「わたしの裸を見たら……死んでもらう。それでどうかしら?」
どうやら冗談めかして真黒な本心を伝えたかっただけらしい。
「要するに、死にたくなったら、お嬢に頼めばいいんだな」
「あなた、謝る気はあるの?」
「いまのいままで喉のここのところまで出かかってた。……悪かったよ。せこかったと思ってる」
「ごめんなさいは、ないの?」
「ごめんなさい」
「これからあんなことをしたら、覚悟してね」
わざわざ声音を優しくしてくれてるから、逆にそら恐ろしかった。
「わかった。でも、もしもの話だ。もし偶然見えたりした場合、それでも俺は命を取られるのか」
「偶然にもいろいろあるわね。一般論として、犯罪の要件は、故意または未必の故意があること。そのときどきで自分で考えるといいわ」
「わかんねぇ言葉を使うな。もし偶然に見えちゃったりしたら、何度でも死ねって……か?」
「何度も見るつもり?」
「そういうことじゃないんだが」
理解できなくて悩んでるを見て、夏世が少し笑った。
夏世はそれから、オッパイ事件のことは二度と蒸し返さなかった。
ただ、その強大な権力と非情さの故に、こいつのあらゆる報復が不可能ではないことがわかっていた。もしも本気なら、誰かを雇うとかしてホントに人を殺しかねないが、いったんその怒りが治まれば、意外とさっぱりした性格なのかもしれない。しかし、何年も経ってから急に、これはあのときの分……これはあのときの……とか言い出すことだってあり得なくもない。
頭のいい女の考えてることは、正直、よくわからん。
夏世はもう何食わぬ顔で(たぶん仕事上の)メールをチェックするために、タブレットに目を落としていた。横顔は、怜悧なビジネスウーマンのそれだ。
登校中くらいは学校のことに集中すればいいのに、と思う。面倒なことをいろいろ抱え込んでいるのはわかるが、実年齢はまだ十七歳。高校二年なのだ。
でも実を言うと、その頃の俺はまだまだ本当の夏世の厳しさ恐ろしさを知らなかった。
2
その日の帰りは、なぜかいつもの島袋さんではなくて、執事の都築さんの運転だった。初めてのことだ。ただ、その違和感を夏世に伝えようにも昨日の事件というか、今日の「今度見たら死んでもらう」的な夏世との遣り取りがあって、自分から話しかけるのは気が退けた。
まだ怒っているんだろうか?
夏世の横顔にはいつも以上によそよそしいものを感じた。怒っているようでもあり、難しい決断を下したグループ企業の総帥といった感じの(まさにそのとおりなんだが)、冷徹な表情だった。
ほぼ沈黙の状態が二十分ほど続いた後、夏世はある廃工場へ俺を案内した。
会わせたい人がいるの、とだけ夏世は言った。
見捨てられた工場がいくつかあるだけの区域だ。
ひっそりとした鉄工所の跡地らしい建物の前で、都築さんが車を停めた。
「ここでいいのか?」
俺が言うと、夏世が黙って頷く。
眼前に鉄の扉が立ち塞がっていた。ここは俺が、と進み出たが、びくともしない。たぶん油圧式の自動ドアなんだろう。
どこかにスイッチが? あるいは、「開け、ごま」みたいな何かの符牒でもあるのか?
なんとか開けようと俺がもう一度踏ん張っている最中に、夏世が脇にあった高さ一メートルほどのドアを示し、
「キヨ、こっち」と、あっさり自分が一番先に中へ入った。
屋内はひと気がなく、寒々としている。車が四台。そのうち一台は巨大なハマーだ。
地下室への階段があった。
辺りはもう薄暗い。都築さんがスイッチを入れると、足元を照らしてくれるだけの電灯が点いた。夏世は地下へ降りるための鉄骨の階段を慣れた足取りで降りて行く。都築さんは、例によって、夏世に手を貸している。
こんなところに誰かいるのか?
いや、案外、地下は大きな研究所があったりして……とか思っていると、地下室のドアの向こうは、長い廊下になっていた。左右それぞれにドアが四つずつある。想像はしていたものの、結構、広い空間だった。
その突き当りから二つ目、右側のドアを夏世がノックした。
内側からドアが開いて、夏世と都築さん、そして俺が順番に室内に入る。
会議室なのか。そこはテーブルと椅子がたくさんあるだけの二十畳ほどの部屋だった。俺たちを中へ通したのは、体格のいい四十代くらいの口ひげを生やした男だった。いかつい風貌だけじゃなく、戦闘服のようなものを身に着けているので、どこからどう見ても軍人にしか見えない。ひょっとして、どこかの国の特殊部隊の人だったりするのか。身長はおよそ百八十五センチ。筋肉で首筋の張った、見るからに強そうな偉丈夫だ。
「紹介するわ。兼藤昌剛さん。うちの特別工作部のリーダー」
特別工作部って、やっぱり?
「兼藤さん、どうかしら。仁志野清臣、十七歳。運動能力はほぼ回復してるわ」
「元レーサーか。ちょっと脆弱だな」
「だめ?」
「鍛えてみないとわからんが、目は良さそうだ。まあ、ボスの目利きだ。一丁前にできなかったら、俺の責任になるんだろう?」
俺は呆気にとられて聞いていた。
「無理ならいつでも言ってくれていいのよ。他の仕事もできると思うから」
夏世はこんな男に俺を預けようとしているのだろうか。あるいは奴隷として転売するとか……? 転売ではなく、転籍というのが最もあり得そうな処遇だ。
「キヨ。これからあなたをこの兼藤さんに預けることにしたから」
それは決定事項なのか? まあ、考えるまでもない。そういうことなんだろう。
「それで俺は、一体、ここで何をするんだ?」
「わたしが請け負う仕事の実行部隊なの。あなたもその一員になってもらう」
「どういう仕事なんだ、それ?」
「国家の機密事項に関する任務が多いわね」
「違法なことも含まれてるのか? たとえば、人を殺すとか」
「基本的にそういう仕事は受けない。任務遂行のためにやむなく、ってことはあるかも知れないけれど」
「ということは、スパイみたいな仕事なんだな」
「契約によりけりね。ケース・バイ・ケースだと思う。迷い猫を探すような仕事じゃないことだけは確か」
「お嬢は俺を初めからそういうつもりで……」
「人ひとりに一億出すってことは、並大抵のことではないの。わかるでしょ。それに、あなたはこの仕事に向いていると思う」
「命懸けの仕事、だよな」
夏世は黙って頷いた。
本当は夏世が本心からそんなふうに考えているとは思いたくなかった。近頃は特に、俺を使い捨ての駒のように考えるような女ではない、と思い直しかけていたところだった。しかし夏世には非情さがある。本人の気持ちも聞かず、強引に仕事をさせる権限もあった。
「わかった。そういうのが俺の仕事なら、甘んじて受けよう」
「いい覚悟ね。その代わり、報酬ははずむわ」
そういうことじゃない。そんなことで承諾しているんじゃなかった。――命を拾ってもらったことに報いる。それだけだ。
借りは必ず返す。それは俺自身のプライドを守るためにそうする必要があるからで、命令だからというのとは別問題だ。
「あなたには、毎日放課後、ここへ通ってもらう。基礎訓練があるの。……兼藤さん、毎日でいいわね」
「ああ。俺がいないときは、真山が代わる」
「寝泊まりはここじゃないのか?」
「そう。高校生という身分も変わらない」
「でも、毎日なんだよな。超厳しい部活みたいに」
俺の不安が夏世には伝わらないらしい。
「できるだけ早く強くなってもらわないと困る。わたしは弱い男が嫌いなの」
まったく……どういう性格してるんだよ、こいつは。
頭の悪い男が嫌いで、しかも弱い男が嫌いって、それはつまり完璧な男にしか興味がないってことだろうが。我が儘が過ぎるだろう。
強い奴は最初から強くて、頭のいい奴は最初から頭がいいのだ。その両方を同時に努力で補えっていうのは無茶苦茶大変なことなんだぞ!
「あなたを見込んで頼んでるの。頑張ってね、キヨ」
こいつは無理なことを吹っかけるときに限って、こんなふうに女の子っぽい優しい声になる。自分の魅力を心得ているだけに、ホント、性質が悪い。
「で、その基礎訓練ってやつは、今日から?」
「そうね、善は急げって言うものね」
「善か……」
この世の中、何が善で、何が悪なのか――それは強者の論理で一方的に決まる。夏世にとっては、自分の判断で決めたことが善で、以外はすべて悪ってことになるんだろう。
そんなわけで、俺は秘密基地みたいなその場所に残され、スクワットやら腹筋やらをさんざんやらされた揚げ句、柔道着を着せられて、帰るまで兼藤とかいうオッサンにひたすら投げられた。
クソッ! このオッサンはさぞ夏世と気が合うに違いない。受け身を取る手がすでに腫れ上がっていたが、そう思うと心の底から笑えてきた。――二人とも、すげぇ。見事と言えるくらい情け容赦がないと来ている。
夜九時少し前に、都築さんが迎えに来てくれた。
この日から当分の間、俺の勉強のコーチは夏世で、体造りの方はこの兼藤昌剛って人になった。
相手代われど人変わらず。
俺は売れっ子アイドル並みに忙しくなった。
睡眠時間は五時間半。休める時間は、主に学校で過ごす昼間の時間帯だけになった。もしこれで俺が過労死でもしたら、残念ながら、夏世は俺に投資した一億を取りっぱぐれる。それはそれでおもしろくないか?
そう思うだけで、日々の訓練も死ぬ気でやれた。
この秘密基地は、御月グループの一部門であるSTEMと呼ばれるチームの活動拠点だった。Supporting Team in EMergency――すなわち、緊急時の支援チームといった意味だと説明を受けた。メンバーは、フィクサーである夏世を軸に、実行部隊として、リーダーの兼藤昌剛、サブリーダーの真山駿の二人がいて、装備担当の本間博史、IT担当の二之宮永太の五人で構成されていた。
訓練中ながら、俺もすでにその一員に加えられている。だまし討ちに近いかたちで配属され、初めのうちは筋肉痛の絶えない日々を送りながら、それでも、意地だけでひたすら耐えた。
仕事の内容については、さしあたり、誰も何も言ってくれなかった。だから目的意識もなく、ただ走り、泳ぎ、スクワットの回数を数える毎日が続いた。溺れないために泳ぎ、倒れないために走る。何かを考えている余裕などなかった。思考力が低下するのを意識したが、一方で、それを他人事のように感じる自分が生まれた。あとになって思えば、黙々とそうして訓練に励むのが、ある種の通過儀礼のようなものだったのかもしれない。
夏世に言われたとおり、俺の訓練は休みなしで続けられた。土日の休みがないどころか、学校が休みの土日や祝祭日は特に訓練が過酷だった。まる一日あるのをいいことに、気が遠くなるほどプールを往復させられたり、五十キロも離れた山中に置き去りにされたりで、早朝から十五時間かけて体を酷使させられるのだ。
そうして三週間ほどが過ぎた頃のこと。
プールサイドで仰向けになっている俺に、サブリーダーの真山さんが飲み物を手渡してくれた。ヘロヘロに疲れて起き上がることもままならなかったが、不思議なもので、体の欲するものは本能がちゃんと受け入れる。震える手でボトルを掴み、幼い子供みたいに口の端から垂らしながら、そのスポーツドリンクを飲んだ。
「よく頑張ってるな」
「仕事ですから」
「兼藤さんは厳しいだろう」
と言ってる真山さんだって、ときどき兼藤さんに代わって来ては、いつもの指示にプラスアルファのメニューを入れてくる。ただこの人には、俺の調子を見て変更を加えるようなところがあった。実は、話しやすい人で、いい兄貴分ではあるのだ。
「あの人は根っからの軍人だから、鍛えるのも愛情だと思ってるんだと思う。昔、傭兵をやってたんで実戦にも出てるし、きっと部下を死なせたりもしたんじゃないのかな」
「STEMの仕事っていうのは、そういう?」
「いつもってわけじゃない。危険を伴う場合もある、ってくらいだな」
「真山さんはどうしてここに?」
「俺は参謀になるための教育を受けた。つまり作戦計画の立案が専門で、わからんだろうが、こんなところにしか居場所のない人間だ。ただ、やり甲斐はあるよ。俺のプランがはまって撃ち合いさえなかったりすると、兼藤さんがさりげなく褒めてくれる。ボスはボスで、その場では当然だって顔をしておいて、あとで気前よくボーナスを出してくれるしな」
「世の中、やっぱり金ですか。お嬢は確かに、そういうところがありますから」
「それは違う。ボスはそういうやり方で俺たちを気遣ってるだけだ。おかげで俺たちは金の心配をしなくて済む。……若いのに凄いよ。キヨと同い年なんだろう?」
「同じクラスです」
「想像がつかないんだが、学校ではどんな人なんだ?」
「やりたいようにやってます。必要があってそうしてるって本人は言ってますけど」
「まあ、普通の高校生じゃない。仕方ないだろう。俺たちのボスとして見れば、彼女はちゃんとした基準を持っていて、やり甲斐のある仕事だけを受けてきてくれる。赤字が出るケースもあるのに、それを承知でやってるんだ。決して金の亡者なんかじゃない」
それはそうなんだろうが、夏世の金持ちっぽさというか、自分の価値観を他人に押し付けるみたいなところはどうかと思う。
「異議ありって顔だな。……じゃ、ひとつボスが大損をしたときの話を聞かせてやるよ」
真山さんは去年依頼を受けたある事件のことを話してくれた。
テロ組織による拉致事件。人質になった二人の商社マンを救出する作戦だった。監禁場所が判明していれば、アメリカなら軍の特殊部隊が出る。が、日本の場合、現場が外国だと、そういうことがおいそれとはできない。といって、すんなり身代金を出すわけにもいかない。悪党に資金を提供するのと同じことだからだ。
アメリカ政府は、身代金を支払えという要求について、断固拒否するという昔の強い姿勢から、当事者が望んでする場合にはこれを黙認するという方針に転換している。日本は結局、アメリカに倣うことになるんだろう。ただ、出せば弱腰だと各国から批判されるし、強硬姿勢で助かる命をみすみす失っては国民が納得しない。難しいところだ。
この件については、CIAや現地の諜報機関が協力してくれて、監禁場所の特定はできていた。だが、急襲作戦までは外国の軍隊にお願いできる筋合いのものではないし、自衛隊の海外任務は特例法に縛られる。で、どうしたのかというと――
「妙な話だが、政府が秘密裏に、われわれのような組織に受注させるわけさ」
しかし敵の基地の規模から考えて、最低でも二十名程度の要員が必要だった。戦闘になった場合、犠牲者も出る。となると、国の提示した五千万やそこらの報酬では割に合わない。当然、大手は二の足を踏んだんだが。
「STEMが唯一、手を上げた。うちのボスはこれからのことを勘案したんだろう。政府の信頼を得ておきたかったのがひとつ。理由はまだあるんだ。――彼女は人命のかかった案件に妙なこだわりを持っている。黙っていられなかったんだろうな、きっと。
うちは兼藤さんの伝手で傭兵部隊を動かせる。それを生かして作戦は成功したよ。俺と兼藤さんも加わった。十分な兵力で大規模に行ったんで、こっち側に死傷者は出なかった。しかし、それでめでたしめでたし……ってわけでもなかったんだ。
費用が報酬の何倍もかかった。小さな会社なら一発で破綻する額だ。それでもボスは、戻った俺たちを満面の笑みで迎えてくれたよ。臨時ボーナスまでもらった。凄いだろう?
実は、損した分は、人質たちの所属先である大手商社とのパイプを広げるのに使えるんだそうだ。もともと受ける前に、そっちの方の上層部とも会っていたらしい。それがこの仕事を受けた三つ目の理由だ。――胆力もあるし、先を見る目もある。女だとか、まだ若いとかは関係ない。あれは経営者としての才覚だな」
真山さんが夏世をベタ褒めするのもわかる気がした。
俺なんかには想像もつかない世界の話だ。その中で夏世は、トップとしての役割を見事にこなしている。高校生なのに凄いというより、グループ企業の総帥なのに高校生であることの方が凄いのだ。
しかし忙しい時間を割いてまで、どうして高校に通ってるのかがわからなかった。しかもこの先、大学へも行くつもりだという。それはとんでもなくきつい状況を好んで選択することに他ならない。
都築さんが夏世の体のことを心配していたのは、こういう背景があってのことだったのだ、とようやく腑に落ちた。
3
夏世は、高校では相変わらず、俺のことを気遣ってくれている。
授業中、俺が寝てると、シャープペンで穴が開くほどの強さで突っつかれるし、当てられて答えられないと、早速、休み時間に注意される。揚げ句の果てに、二週間後の学年末テストで学年二十番以内を目指せという命令まで頂戴した。まったく、言いたい放題だ。
命令を受けたのは、昼休みの終わりかけた頃、二人で廊下に出たときのことだ。
そんなのはどう考えたって無理だと、例によって、俺は突っぱねた。
「知ってるだろう? 夜中まで訓練があるんだぞ」
「範囲の決まってるテストならなんとかなるはずよ。それに、勉強する時間だったら朝まであるじゃない」
「寝ないでやれってか!?」
「場合によっては、しょうがないんじゃない?」
「お嬢とは違うんだ。そんな無理は利かない」
俺がそう言うと、夏世は少し暗い顔になったように思えた。
が、錯覚だったみたいだ。
「なんでわたしが一億も払ったと思ってるの? 与えられた人生を楽しみなさい」
「俺はそんなこと頼んだ覚えはない」
「現実からは逃げられないわよ。だいたい、あなた男でしょ? 逃げたりしないで、壁があればぶち壊しなさいよ。自分で枠を作ってどうするの」
「俺の枠は、お嬢の作った枠だ」
「だったらなおさら、そんな枠、壊せばいいじゃない。ただし、外側へ向かってね。わたし、意志の弱い男は大っ嫌い」
そうですか。またまた、完璧な男になりなさい、ってことだ。
俺は奴隷の身だ。やるしかなかった。しかし完璧な男に仕立てて、一体、この俺をどうするつもりなんだか――
「とりあえず、いままではよく頑張ってきたわね。認めてあげる。……本当は条件をつけようかと思ってたんだけど、いままでの頑張りに対して、ってことでいい」
わけのわからんことを夏世が言った。
「キヨにご褒美をあげる」
きっと話してるうちに考えが変わったんだろう。忙し過ぎて、ついに頭の中がコントロール不能に陥ったのかもしれない。
ご褒美というのは、金か? それ以外のことは想像がつかなかった。
キスとかそういう軽いのはナシだぞ、と俺は瞬時に思う。いや、心のこもったキスだったら、それもいいか。
まあとにかく、ご褒美がもらえると聞いてソワソワしない奴はいない。
続く夏世の言葉、あるいは、いきなりの行為に備え、身構えたんだが。
「今日の放課後は、わたしといったん家に帰りましょ。それから訓練に行くといいわ」
「どういうことだ?」
「……サプラ~イズ」
こういうノリは夏世のキャラじゃない。妙だ。というか、怖かった。
だいたい褒美をもらったことなんて、いままでただの一度もあった例がなかった。サプライズとか明るく言ってるのは、さらなる無理難題を俺に押し付けて自分だけ楽しむって腹じゃないのか? 疑いたくもなる。
そして、その日の放課後――
ご褒美の話が出た昼休みから考えられる限りのあらゆる想定をしてあったので、心の準備は万全と言ってよかった。できることならやるし、できないことでもやるだけだ。実を言うと、俺は夏世の悪意を寸分も疑っていなかった。
俺たちは三週間ぶりに、島袋さんの運転する車で御月御殿に帰った。
「なんか久しぶりだな」
「そうね」
このところずっと、下校の際は、都築さんの車でSTEMへ直接送ってもらうパタンが続いていた。
「また何かやらせる気だろう」
俺が尋ねても、夏世はちらっと笑うだけで黙ったままだった。よほど(夏世にとって)楽しいイベントでも用意しているのだろう。そうとしか考えられなかった。
車に乗ったままで御月家の門を通り過ぎる。それから玄関までの百メートルほどの間に、夏世がまた、俺の方は見ずに不気味な笑い方をした。
ほとんど初めて見せる夏世の嬉しそうな顔。笑顔を作り慣れていないせいか、ややぎこちないが、悪くはなかった。もしこんな家に生まれていなかったら、あるいは両親がまだ健在だったら、たぶんいつもこんなふうに笑っていられただろうに。
車寄せに着いた。
車を降りて、俺が玄関へ向かおうとすると、
「キヨはこっち。島袋さんは、そこで待ってて」
玄関へは入らず、俺たちはガレージの方角へと向かった。
いつの間にか、都築さんが後ろから付いてきていた。ちらっとその顔を見たが、いつもの笑顔だ。怖いのは、薄笑いを浮かべてるように見える夏世の横顔だけだ。
――怪し過ぎる。
ガレージにあるからには、俺がもらうご褒美ってやつはとにかくデカいものらしい。たとえば、拷問にも使える強度のトレーニングマシンとか? 一応、そういうのも想定しておくべきだろう。
ガレージの電動シャッターが上がってゆく。
何台も並んでいる車の間に、ここで初めて見る黄色のフェラーリがあった。その色、そのフォルムが、俺の目にドバッと飛び込んできた。
思わず、そっちへ足が向かう。
「ひょっとして、これは俺の!?」
「残念。それはSTEMの経費で買ったの。あなたのじゃないけど、自由に乗ってもいいわ」
「でも俺、免許が……免許、ないんだぞ。知らないのか?」
レースでマシンに乗れるライセンスはあっても、一般の公道を走れる普通免許は持ってないのだ。俺は十七歳だ。取得できる年齢にはまだ達していなかった。
「都築、渡してあげて」
都築さんは嬉しそうに、小さなカードのようなものを俺に手渡した。
「これは…………」
「運転免許よ」
「だから免許は」
「名前見てごらんなさい。それと、生年月日も」
喜多野清臣。
二〇〇九年八月一日生。
「――ってことは、いまは二〇三〇年だから、こいつは二十歳?」
「そういうこと。喜多野清臣は二十歳だから、車の運転もできるし、お酒も飲める」
「お嬢、また偽造したのか」
「失礼ね。偽造じゃなくて、新しい戸籍を作ったの。あなたは十七歳の仁志野清臣であり、二十歳の喜多野清臣でもある。時と場合に応じて使い分けなさい」
夏世の言葉には、悪魔の囁きにも似た甘美な響きがあった。この免許証を使うのは、普通に考えるならうしろめたいことであり、その効果を考えると、とてつもなく有り難いことでもある。
――これがあれば、フェラーリに乗れる。
すぐさま、うしろめたさの方だけを心から追い払った。
「この車、運転できるわよね」
「もちろん」
「じゃ、訓練行ってらっしゃい。くれぐれも法定速度は守るように。免許が取り消しになったら、困るのはキヨよ。スピードを出してみたかったら、……そうね、そのうちサーキットを借りてあげる」
「ありがとう、夏世」
喜びのあまり夏世の手を取ろうとしたが避けられた。それでも俺は、感謝と感激で泣きそうだった。
「六時までにはSTEMへ行きなさいね。遅くなるって連絡はこっちでしておく」
まだ四時半だった。つまり、六時まではドライブしていいと?
夏世のどこにこんな思いやりの心があったのか。
いままでは誤解していたのだ。俺はこの瞬間、これまでの言動を精一杯悔いた。
「運転中はできるだけサングラスをかけなさい。中に入ってるわ。高校生が乗ってるなんて通報されたら面倒だから。……それから、いい? ぶつけたら修理費はキヨが持つのよ」
「だいじょぶだ。そんなヘマはしない」
フェラーリ。俺はフェラーリに乗っている。
ただし一般道では、気持ちよくスピードが出せるはずもない。スポーツ仕様の車に乗る意味があるとしたら、発進時の加速を楽しむことと、レスポンスを生かして、複数車線の道路で追い越しを楽しむことくらいだろう。しかしどちらも変に目立つし、実際上はほぼ無意味だ。
レーサーは、大抵、公道上では一般の運転者よりゆっくり走る。ライセンスを取られたら仕事ができなくなるからだ。
でも、レーサーだった俺はもう死んだ。
急発進をしてみた。時速六〇キロまでなら二秒とかからない。レースマシンに比べるともたつく感じはあるが、それでも久しぶりの快感だった。
遅めで走ってる車があると、逆にうれしかった。法定速度で追い越しを楽しめるからだ。車と車の間に割り込んでは、すぐ次へ。フェラーリはまるで王侯貴族だ。気づいてもらえれば、他の車が避けてくれる。
ただ、ひとしきり運転を満喫してしまうと、自分がやってることの無意味さばかりが意識された。速く走ってるつもりでも、せいぜい信号一つか二つ分しか違わないのだ。場合によっては、信号待ちのとき、さっき追い越した車がすぐ後ろに付いてるとか――格好悪いことこの上ない。
「これが南清臣のなれの果てか」
ぼそっと、そう呟いた。
本物の歓喜は、自分の感覚と車の性能のギリギリのところ、それぞれの限界点をノックして確かめることでしか味わえない。高速道路でもたぶん無理だろう。それでも、車を走らせていると、懐かしい景色に出会ったような思いに捉われた。ガキの頃から親しんできた感覚がいくぶんかは蘇るからだ。それにフェラーリには、車高の低い車ならではのスピード感がある。
羽を伸ばしているという実感はあった。つまるところ、俺は車が好きなのだ。
STEMに着いたのは五時半だった。わずか一時間だったが、加速の手ごたえを楽しめたし、一応の満足感は得られた。
失われた体の一部を取り戻したみたいな充足感があった。すべて夏世のおかげだ。いくら感謝しても足りないくらいだ。
工場の大扉の前で、ここのところいつも俺を乗せてきてくれる都築さんの真似をしてみた。所定の位置に停めれば、車種とナンバーを認識して鋼鉄の大扉が自動開閉してくれるのだ。
そのはずだったんだが……やはり登録がまだだったようだ。
携帯で装備担当の本間さんに連絡する。
「これから、俺、こいつと通勤します」
早速、登録してもらった。これでこのフェラーリもSTEMにフリーパスで出入りできる。
「おいおい。とんでもない玩具、買ってもらったじゃないの」
新車拝見に来た本間さんの最初の一言だ。
「ええ、まあ」
「キヨはボスのお気に入りだからな。こんな大層なものを買ってもらったってことは、やったってことか?」
「そんなんじゃないですよ」
本間博史。二十九歳、独身。工学系の知識が豊富で、本来は武器とかの専門家ながら、車の性能についてもかなり詳しい。この人とは暇があると話し込んだりもする仲だ。
会ったばかりの頃、こんな話もした。
「――本間さんはいくらですか?」
「おまえはアホか? まだ二、三回しか会ってない先輩にそういうこと聞くか? ……まあいいや、俺は四十万とちょっと、ってとこかな」
怒りもせずに答えてくれるところが、この人らしい。
「給料じゃなくって、借金のことですよ」
「何を言ってる。借金なんかないよ。俺は堅実に生きてる」
「そうっすか。じゃ、奴隷は俺だけなのか……」
「…………? 奴隷ってなんだ!? おまえ、ボスの奴隷なのか」
「はい。いろいろと事情があって」
「ホントか? 奴隷なのか? いまどき奴隷って、あんまり聞かないが……、そういうストレートな関係っていいよな。おまえ、どうやって奴隷にしてもらったんだ?」
「言ってる意味がよくわからないですけど」
「専制と隷従。複雑な要素の入り込む余地がないだろう。余計なことを考えるなってのは、ある意味、純粋でいいってことだ。しかし……羨ましい奴だな。あの人の奴隷になれるもんなら、俺もなりたいよ。『夏世様、わたくしめにもっと鞭を』とかって、言わされるんだろう? ……鞭の傷はどうよ? ヒリヒリ痛むのか?」
「やめてくださいよ。お嬢の名誉のためにも言っときますけど、断じて、そんなことはやってません」
「隠すなよ。……ホントか? せっかくいいポジションにいるのに? ……ならいっそ、自分から申し出てみたらどうだ?」
「イヤです」
とても夏世には言えない話だった。言ったら、この人は確実に馘にされる。ことによると存在そのものが許せないとか言って、この世から抹殺されないとも限らない。あの気性だし、財力もある。あり得ないとは言い切れないのが怖いところだ。
「本間さん、その手の話は絶対、お嬢には聞かれないようにしてくださいよ」
「なんでだ?」
全然、わかってないようだった。
本性を知らない人には、夏世は若くて美しいボスにしか見えないんだろう。まあそれはそれでいいんだが。
「とにかく絶対ダメですから」
一応、釘を刺しておいたが、本性はいつか滲み出る。
本間さん、ホントに、だいじょうぶなんだろうか?
それから一週間が過ぎ、学年末テストまで余すところあと一週間に迫っていた。夏世の部屋で毎晩並んで勉強するのはすでに不文律のようになっていて、俺が訓練から帰ったあと、午後九時半から始めて午前二時前に終わる。夏世もおなじだ。
毎晩付き合ってくれなくていいんだぞ、と言ったんだが、わたしが隣にいないとキヨはやらないもの、と夏世は返した。
事実、そのとおりだった。訓練の方は相変わらずだったんで、夏世が隣にいてくれることでやっと、俺は疲れた体に鞭打ってなんとか机に向かっていられる状態だったからだ。――ここでいう『鞭打って』というのは、あくまで比喩だ。
夏世は物理が若干不得手で、俺が古文だの世界史だのをやっている隣で、大抵は物理か数学をやっていた。
物理に関しては、俺の方が教えることもあった。が、教えられるのはおもしろくなかったのだろう。
「じゃなくて、解き方のポイントを言ってよ」
といった感じに、教え方まで指示される。
その一方で、俺に教えるのは嫌いではないらしく、
「あ~、くそっ! ピピンがどうの、カール・マルテルがどうのって、わけがわからねぇ。お嬢、これはどうやって覚えるといいんだ?」
という感じに訊くと、結構、丁寧に教えてくれる。
「この時代もそうだけど、ここから先のヨーロッパは、年表を見ながら、その時代に生きてるつもりでよその国の政治とか事件に目を配るといいの。わたしはノートに整理したけど、……やってみれば?」
「イメージするとき、お嬢の場合は、統治者目線なんだろう?」
「そうね」
「俺は民衆の側だな。こっちの戦争は無駄で、そっちは止むを得なかったなんて考え方はできない。……しかし、ノートに整理してる時間はもうないだろう」
「時間がないとか勝手な理由をつけて何もしないからダメなのよ。やればできるものだし、書いてみると、あやふやなところがなくなって覚え易くなるの」
「そういうものか」
「最近、素直になったじゃない。いい傾向ね。兼藤さんの訓練の賜物かしら」
「それもあるけど、やっと最近になって、お嬢の正しさが理解できたというか……、少しは俺も成長したというか」
「何よ、それ」
急に寒気に襲われたみたいに、夏世はぶるっと体を震わせた。
「らしくないからやめなさい。だいたい、いくら褒めたって、もう何も出ないんだからね」
ちょっとだけ素直なのはいいが、素直過ぎるのは気に障るらしい。あまのじゃくめ。
俺の方も自分の変化に不可解なものを感じていた。この路線を進んでいくと、近い先でどうにもならない袋小路へ行き着いてしまいそうな予感がした。夏世もおなじ気持ちだったのかもしれない。
俺が「冗談だ」と言って誤魔化すと、夏世も「バカ!」と応じた。でも、後味の悪い飲み物でも飲んだみたいに、俺たちはしばらく押し黙ったままそれぞれの科目に没頭した。
そんなふうにして残りの一週間も瞬く間に過ぎていった。
限界ぎりぎりの奮闘努力を続けるうちに、俺はそこそこの仕上がり具合で試験の日を迎えた。
夏世はもちろん抜かりなさそうだった。自分で万全だと言っていたから、いつものように表彰台は確実って手応えはあったんだと思う。
テストが終わり、数日後、各科目の点数が出揃った。
数学が八十七点、物理九十四点……。課題にしていた世界史は八十八点で、古文は六十四点だった。俺の方はこれでまあまあといったところか。ところが夏世は、俺と合計点で四十点くらいしか違わない点数に終わった。
その後順位が出て、俺が二十四番。夏世は八番だった。
気にしないふりはしていたものの、本気で挑んで表彰台を逃したというのは相当ショックだったようだ。
「夏世、具合でも悪かったのか?」
俺なりに気遣って、声をかけたつもりだ。
「順位がすべてを語るってわけじゃない。気にしないからいいわ。でもキヨは、今回のミッションを達成できなかったことになるわね」
「ちょっと待ってくれ。自分はよくて、俺はダメなのかよ」
「立場が違うもの。同列には扱えない」
なんでそうなる?
「そんなの不公平だろう」
文句を言っても始まらないのは、言いながら、自分でもわかっていた。
「じゃあいいわ。わたしも責任をとる。次の試験で目標を達成するまで、毎晩の合同勉強は今後も続けましょ。ただし、お互い健康を害するのはまずいから、時間は一時まで。目標は、そうねぇ……私は一番。キヨは十番以内ってことでどうかしら」
「いきなり十番以内かよ。夏世だって一番はきつくないか?」
「目標は低めに設定したって意味ないじゃない」
「まあ、そうだよな。で、次はいつになる?」
「五月の半ば。三年一学期の中間テストね」
「そうか、わかった。よろしく頼む」
「お互い、頑張りましょ」
俺にとっては、かえってご褒美とも思える処分だった。いつの間にか、俺は夏世が隣にいるのを当たり前に感じていたし、はっきり言って、一緒にいる時間は楽しかった。だんだん夏世に引き寄せられていくのを意識していたが、もはやそういう自分に抵抗するだけの理由が希薄になり、夏世の命令に従うことに対してもほとんど違和感を覚えなくなっていた。
きっと現在の自分のあり方を肯定的に考えるようになったのだと思う。むしろこれが、自然の流れなのだというふうに。