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資本主義的奴隷制度

第1章 資本主義的奴隷制度


1 


 何度も夢を見て、同じ数だけ、また深い眠りに引き摺り込まれた。うっすらと、そんな記憶だけが残っている。

 夢と眠りのスパイラル。

 行き着く先は――きっと限りなく現実感が希薄になった世界だ。

 ……もうたくさんだった。

 死ぬのも、眠ったままでいることも。

 最後の夢の終わりに、俺は自分の意思で、それ以上眠り続けるのを拒んだ。

 現状維持を否定したのだ。

 揉めごとは不可避だった。あるいは、静かに死なせてやるから大人しくしていろ、という死神の誘いを棒に振ったことになるのかもしれなかった。

 それでもためらいは一切なかった。『静かな死』を待つよりはずっといい。

 『生還』する可能性がないと誰が言える?

 結果として『苦痛の果ての死』を迎えることになったら、それはそれだ。

 失うものなんか、もう何も残ってなかった。

 だから――

 怖いものなんて何にもない。



 早速、電気ショックをたっぷり食らったみたいに――肩や肘、腰といわず、手足の指先まで余すところなく――猛烈な痛みがビビビッと走った。

 毀れそうな音を立てて、全身が(きし)むイメージ。

 いいや、そんなものじゃなかったな。

 痛くて死ぬ奴がいるのも、なるほどな、と思えた。――まさに地獄の責め苦だ。

 そんなのに耐えること(感覚的には)数十秒。いや、永遠だったかもしれない。何にせよ、時間が無意味な世界のことだ。本当のところはよくわからん。

 でも諦めるなんて最後まで考えもしなかった。できぬ我慢をするが我慢、とよく言うだろう。俺はとうとう我慢をし倒した。

 耐え抜いたのだ。

 詰めが甘かったな、死神め!

 今回は俺の勝ちだぜ。

 スタートダッシュで突き抜けたときの感じだ。

 歓喜の歌が流れる。

 俺は――――生還した。



 目蓋にまばゆい光が射した。

スプラッシュ――光のシャワーだ。

 真夏の太陽みたいに、きつい光線。

 いきなり目蓋を開けるのを本能的に控えた。なんたって、光に目を曝すのはあの事故以来初めてのことだ。三日か……一週間か……? 一体、どれだけ時間が経過していたのか、意識のなかった俺には知る由もない。 

 場所に関してもそうだ。ここがどうやら病院らしいとわかったのは、光に目が慣れてからだった。

 ゆっくりと目を開けてみる。

 俺は病院のベッドに横たわっていた。天井から四方を囲むようにカーテンレールが下がっているが、肝心のカーテンは壁のところにきちんと括られていた。おかげで、部屋中の光が洪水みたいに目に飛び込んできやがる。

 ベッドの左脇にポールが立っていて、点滴のビニールバックが吊ってあった。きっとチューブの先端が俺の腕にでも繋がっているんだろう。

「誰か、います~?」

 そう言ったつもりが、モゴモゴ言えただけで言葉になってなかった。

 目覚めたときから、何かが詰まっているみたいな異物感があった。口腔から気管にかけて、何かを挿し込まれているような。

 頬の辺りにも引き()る感じの違和感があった。きっと太いチューブが口に入っていて、それをテープで止めてあるとか――重症患者が付けられてるのをドラマか何かで見たことがあった――そんな大層な処置が施されているらしい。

 外したくて、うずうずしてきた。

 しかし手が出せなかった。というのは、手が動かせなかった、という意味だ。同様に脚もダメだった。

 幸い、どちらも切断されたりはしていないようだったが、動かそうとすると、雷を食らったみたいな酷っ非道い痛みに見舞われる。

 確認のために、もう一度動かしてみようとすると、

「ガァ~~~グ」

 いや、何でもない。痛くて、俺が叫んだだけだ。「あ~~~う」って声を発したんだが、口にものが詰まっていて、うまく発音できなかった。

 異様な雄叫び(=俺の叫び声)を聞きつけたのか、人が駆けつけてきた。

 白い服の女性。胸から上だけが見えた。たぶんワンピースになっていて、下まで白いんだろう。

 看護師のお姉さんだった。ちょっと見でわかるほど綺麗な人だ。

 俺は自分の方から声をかけようと、予行演習に咳ばらいをした。

「ヴォ~、ヴォ~」

 お姉さんの目が急に真んまるになった。

 同時に「あっ!」と声を上げ、いきなり部屋から駆け出して行った。

 どうした!? 

 俺の声がよっぽど怖かったのか、それとも幽霊か何かと間違えたりした?

 ――にしても、ダッシュで逃げるなんて、患者の俺に対して失礼じゃないのか?


 ふたたび俺は独りにされ、一転、辺りが閑かになった。

 見回してみると――首が硬くて、目をキョロキョロさせて見るのが限界だったんだが――そこはホテルのスイートルームみたいにやたらと広い病室で、患者は俺一人だった。

 寂しいとか、気分がいいとかはどうでもよかった。――俺みたいに生まれつき貧乏な人間は、そういうことを考える前にまず不安を抱く。咄嗟にこう考えるのだ。差額ベッドの支払いはだいじょぶなんだろうか、と。

 実際、俺や俺の家族は、こんな病室に俺を寝かせておけるほどの金持ちじゃない。

 レースで日本中を転戦してるときは、大抵、狭いビジネスホテルで一人っきりだった。食事のほとんどがコンビニ弁当。宿舎へ帰ると、夕食を済ませ、風呂に入り、ビデオでその日のレースの反省をして寝る。ドライバーとして稼ぐギャランティーは、お世辞にも一丁前とは言えなかったからだ。

 部屋代を払ってくれてる人が誰かいるのか?

 家族で住めるくらいのだだっ広い部屋だ。大画面のテレビがあり、見舞客用のソファだってある。よくは知らないが、一泊十万とか二十万の費用にはなると思う。

 正直、怪我の具合より、そっちの方がよほど恐ろしかった。


 しばらくして、医師やら何人かの看護師やらが大挙してやってきた。さっきのお姉さんも一緒だ。

 別の看護師が前にしゃしゃり出て、俺の口元に貼られたテープをピピッ、ピピッと勢いよく剥がしてゆく。

 あえて口には出さなかったが、結構痛いんだよ、そういうの。

 看護師さんたちが俺の口から長い管を抜き終わると、

「南さん、気分はどうです?」

 男性の医師が優しく声をかけてくれた。最初の一声くらいは、さっきの綺麗なお姉さんにかけてもらいたかったんだが。

「気分はいいです。よく眠れました」

 俺のその一言で、周囲がざわついた。

 なんでだ?

「ここがどこかわかりますか」

「病院でしょ? 事故起こしてからの記憶は全然ないですけど」

「なくっていいんですよ。南さんはずっと眠ってたの」

 さっきのお姉さんだ。声もきれいだった。

 ネームプレートに白石佳苗(かなえ)とある。

「痛いところはあります?」

 言ったのは、またさっきの医師だ。

「痛くないところがない、っていうか、普通にできるのは喋ることくらいです」

 俺が言うと、ぷふっ、と白石看護師が吹きだしたので、

「白石さん!」

 と、上司らしい中年のオバさん看護師が目くじらを立てた。

 実際、看護師たる者、ここは笑うところじゃない。ただし白石さんみたいに綺麗な人は例外だ。むしろ、さっきの笑顔がもう一回見たい、という気にさせられてしまう。俺は白石さんと目を合わせ、彼女の愛らしいミスのフォローをするつもりで、軽く微笑んだ。

 ひとしきり問診やら診察やらを済ませると、ワイワイガヤガヤ、医師団はいたって騒々しく病室を後にした。

 彼らの様子から察するに、俺の容体はそんなに悪くなさそうだった。

 安心は安心だったが、体中が痛むのはなんとかして欲しい。

 ナースコールは押せないし、また大声でも出すしかないのかな、と思案していると、まもなく白石看護師が再登場してくれた。

 点滴の中に注射を打ちながら、

筋弛緩(きんしかん)剤です。痛みが治まりますよ」と言う。

「それって、殺人のときよく使うやつですよね」

「量が多いと、そういうことにも使えるわね。なんなら、そうね。あと二本くらい打っとく?」

「綺麗なのに、怖いこと平気で言うんですね」

「あらあら、うれしいこと言ってくれるのね。そうやってなにげに女の子を落とすんだ。……わたし、もう半分くらい落ちちゃってるかも」

「落としても意味ないでしょう。この体、ほぼ動かないんだし」

「じゃあ、しっかりリハビリに励むのね。動けるようになったらデートしましょうか」

「そんな。ちゃんと指輪までしてるくせに」

 左手の薬指に指輪の痕が見えた。仕事中は外しているらしい。

「あれ? バレてたんだ……」

 しばらくすると、てきめんに筋肉の痛みが退いていった。

 こんな看護師さんがいてくれるんなら、いつまでだって入院していたくなる。白衣の天使というのは、体も心も癒してくれるこんな人のことを言うのだ。

 俺の病院生活は、とにもかくにも、こうして始まった。

 十月の半ばだった。


「心停止状態があったのに、ほとんど脳に損傷が出なかったのは奇跡としか言いようがないね。南君はほんとに運が強い」

 お言葉ですが、もし人並みに運が強かったら、あんな事故には遭ってませんって。

 言いたかったが、言わずにおいた。

 俺担当の医師が言うには、障害が残ることはまずないそうだ。少なくとも、普通の生活をしていく分には差し障りがないらしい。本当は喜ぶべきなんだろうが、神経に若干の問題が出るというので、どうしたって喜びの感情は控えめになる。

「というと、レースに復帰するのは……?」

 あえて訊ねると、レースに戻れるかどうかはいまのところなんとも言えない、と告げられた。

「リハビリしてもですか」

「やってみて、その結果次第だね」

こんなふうに含みを持たせる理由は、これからリハビリをやっていく俺のやる気を削がないためだ。そのくらいは俺にもわかった。

 まあ、普通に動けるのなら、それでよしとするしかないだろう。それに言葉どおりに解釈させてもらえば、完全復活の可能性がゼロだと言われたわけではない。

 生きているということは、そもそも、いろんな可能性が否定されないということだ。前例があるとかないとかは関係ない。俺は馬鹿なんで、千分の一であろうと万分の一であろうと、可能性があるのなら頑張れる。いままでだって、ずっとそうやってきたのだ。



 2

 

 思えば、事故のときは痛みすら感じなかった。あとの処置が悪かったら、こうして何かを感じることも、考えることも不可能だったはずだ。「我思う。ゆえに我あり」とデカルトが言ったのはこういう簡単な意味じゃなかったかもしれないが、俺はとにかく、存在できていること自体に感謝すべきなんだろう。

 痛みもまた生きていることの(あかし)なのだ。哲学者ならそう言うかもしれない。

 幸せなことに、痛みなら、いまはいくらでも感じることができる。

 たとえば、消毒のときとかがそうだ。

「キヨくん、ゴメンね。ちょっとだけ沁みるわよ」

 この言葉をちゃんと分析してもらえばわかる通り、俺には拒否権なんて与えられていない。というか、白石さんは優しい言葉をかける一方で、まるで心の準備など有害無益だとでも言わんばかりに、さっさと処置を始めてしまう。

 だいたい、こういうときの『ちょっと』は、かなり刺激的だけれど死ぬことはないから安心しなさい、という程度の意味である。

 消毒の痛みは体験済みだったが、その日は不覚にも呻き声を上げてしまった。

「んんっ? あらあら、痛いの? だいじょうぶ?」

「まあ、なんとか」

「さすがに男の子ね。……でもいいわね、若いって。もうこんなに治ってるんだもの。わたしね、キヨくんみたいな患者さんのお世話をしてると、看護師になってよかったなってつくづく思うの。充実感があるっていうか、使命感を呼び覚まされるっていうか。なんだか力が(みなぎ)ってくる感じがするのよ」

 使命感って――それは多分に、自分に都合のいい解釈じゃないかって思いません? 力が漲ってくるのは、単に痛みをこらえてる患者を見て興奮してるだけだと思うんですけど。

 内心そう思いつつ、俺は「おかげさまで助かってます」と礼を言った。

 実は、背中のこの傷、これは事故で負ったものではなかった。

 事故からほぼ三か月後の、最近、受けた手術の痕なのだそうだ。意識がなかった俺には知りようのなかったことだが、極めてリスクの高い手術だったらしい。

 断裂した神経の接合手術。

 それは前例のない画期的な方法で行われたのだという。消毒が終わり、目下、幅の広い包帯をぐるぐる巻いてくれている白石さんから、何日か前に聞いた話だ。

「そうそう。ドアの向こうに可愛らしいお客さんが来てるわよ。あの子、キヨくんの彼女でしょう」

「いませんって、そんなの。強いて言うなら、俺の彼女はマシンでした」

「カッコいい。歳が違わなかったら、こんなふうにしがみついて離れないんだけどな」

 俺の胴体に包帯を巻く手を休め、白石さんはかるく俺に抱きついてくれた。

「いいですよ、俺。年上でも気にしない方なんで」

 半分冗談で言ってみる。既婚者でなければ、白石さんは最高に魅力的だ。

 しかし冗談の応酬でも、度を越すと危なくなる。包帯を巻かれた俺の胸の辺りで頬をすりすりしていた白石さんが、やにわに俺の顔を見上げてきた。

 甘えるような笑顔。これもジョークのつもりなんだろう。ただその素振りや笑顔はたまらなく可愛かった。

 ドキッとしながらも、俺は冷静に考えてみる。

 まさかこの人は、控え室にいるという「可愛らしいお客さん」と真っ向勝負するつもりなんだろうか?

 白石佳苗。年齢は不詳だ。訊いても、いつもはぐらかす。

 俺の考える完璧に近いルックスの持ち主だ。胸は立派だし、腰のラインも美しい。顔だって綺麗なのは間違いないんだが、可愛いというよりはセクシーさの際立つ大人の女性である。(少なく見積もって)俺と五、六歳は離れているだろう。そんな白石さんが可愛さのカテゴリーで若い子と勝負するっていうのは、ちょっときついだろう――きついはずなんだが、その笑顔は、十七歳の俺が見ても、途方もなく愛らしかった。

「白石さん、実は、いくつなんです? どこかの高校の制服を着てても全然、不自然じゃないっていうか……笑顔、カワイ過ぎです」

 お世辞も相当入っているが、最後のはほとんど本心だ。

年齢(とし)は、そうね、……十七歳?」

「またまた」

「今度、高校の制服着てこよっか」

 普通は女子高生とか年増のお姉さんとかが看護師のコスプレをするものだが、白石さんみたいな美女ならどっちも似合う。正直、白石さんの制服姿は見てみたかった。

 何度も頷く俺。

「ところで、あの子、ファンの人かしら。……あれ~? キヨくん、どうかした?」

「いえ、別に」

 俺は女子高生コスプレの白石さんを脳裡に描いたあと、バニーガール姿の白石さんをイメージするのに躍起になっているところだった。

「付き人が二人いて、すっごい花束持ってて……あの子、かなりのお金持ちのお嬢さまだと思うわよ」

「はあ」


 処置を終えて病室を去る白石さんと入れ替わりに、見も知らぬどこかのお嬢さまが病室に入ってきた。

 御月夏世(みづきなつよ)。一見したところでは、まったく年齢がわからなかった。

 高校生によくあるぽっちゃりした感じがまるでなく、スレンダーな体つきなのに、胸はそこそこあった。それでいて顔立ちが妙に可愛らしくて、中学生だと言われればそんなふうにも見える。――嫌いじゃないタイプだ。

 ところがその話しぶりは、上から目線で語るのが妙に堂に入っていて、言葉と声だけで判断するのなら、間違いなく大人そのものだった。

「御月夏世さまでございます」

 こういう相手にかける言葉を知らず、俺は、ただゆっくりと目蓋を閉じた。

 御月夏世と自らを紹介させたその女の子は、――ここでは、一応、レディーと言っておこう――そのレディーは、ツヅキという名の執事を伴っていた。初老の優しそうなオジさんだ。

「ツヅキ、花を」

 彼女が、持っていた豪勢な花束をツヅキさんに預けると、そのツヅキさんがまた、後ろで控えていたメイド服の女性に手渡した。もらったのは俺のはずなんだが、手足の動かせない俺は受け取ることすらできなかった。あえて言うなら、俺は、目の前で厳かな儀式みたいに執り行われてる花束のリレーを、他人事のようにただ黙って見ている一般庶民の役どころだった。

 メイド服の女性が花束を抱えて部屋を出て行った。

「動ける?」

 夏世が言った。

 力を入れてみたが、力の入れ方そのものがまだわかってなかった。

「じゃ、いいわ。そのままの格好で聞きなさい」

 そうさせてもらうと助かる。ていうか、なんの因果で、突然入ってきた見知らぬ女の子に命令されなきゃならないんだ!?

「あなたは致命的なケガを負ったの。知ってるでしょ?」

「まあ、そうだろう。……で、それがあんたと何の関係があるんだ」

南清臣(きよおみ)――元プロレーサーのあなたに、わたし投資したの」

「……投資!? きみがか?」

「そう。おかしい?」

 藪から棒にそんなふうに言われ、ハイハイわかりましたとかって、ものわかりよく納得できる奴はいない。しばらく時間を頂戴して、俺は状況を整理してみた。

 怪我をしたのは確かだし、凄い手術も受けた。だいいち考えてみれば、こんな広い病室に俺が長いこといられるわけがないのだ。どう考えても、誰かに金を出してもらったというのでなければ、あり得ない話だった。

 しかしその誰かが、なんでこの子なんだ?

「こんなところで死ぬのはもったいないと思ったの」

「死ぬって、俺、そういうことに決まってたのか」

 目覚めて何日も経つが、誰もそこまでのことには触れなかった。

「何もしなければ遠からず」

「ということは……よくわからんが、きみが俺の命を救ってくれたってことになるのか」

「そうなるわね。正確に言えば、あなたの命をわたしが買ったの」

 何かの比喩で言ってるんだろうと俺は思った。

「買った? 意味がわからない」

「わたしがお金を出して、あなたを生かしたの。だからあなたはわたしのもの」

 やれやれ。若いのに頭がどうかしているらしい。

 命を売買の対象にするって、そんなのは明らかに違法だろう。

「買ったとか買われたとか、そんなこと簡単に納得できるか。だいたい誰が勝手に売ったんだよ。俺は知らねぇぞ。承諾なんかしてないし」

「契約書があるのよ。ここに」

 御月夏世は執事のツヅキから書類を受け取って、ひらひらさせながら俺に見せた。

 見せたいのか、見せたくないのか。そこそこ動体視力は鍛えてあるつもりだが、書類に書かれた文字までは読み取れない。

「あなたのお父さまとお母さまが連署して、あなたをどうにでもしていいってはっきり認めてるの。つまり御両親があなたのためを思って苦渋の選択をしたっていうこと。これって、ホントにすごいことよ。感謝すべきだわ」

「……んな! 絶対、認めない!! そんな契約、いまここで、俺の意思で、破棄させてもらう」

「じゃあ、いますぐ手術料や治療費にかけた一億、わたしに払える?」

「一億? 一億って、円か?」

 夏世は黙って頷いた。可愛い顔をして、一億円払えだなんて、よくもシラッとそんなことが言えたものだ。

 これじゃ、まるで心臓を担保に取る因業な金貸しと変わらんだろう。

 一億なんて大金、はいどうぞとかって右から左に動かせるものじゃない。並の人間だったら、百万円の札束だけでも喉から手が出るほど欲しがる代物だ。その束をずらっと並べて百個なのだ。古新聞を敷き詰めるのとはわけが違う。

 俺は一億の重みとその返済までの果てしない道筋のことを思い、言葉を失った。

 そこへ滔々(とうとう)と御月夏世がまくし立てる。

「……諦めなさい。

 いまの法律だと奴隷は無理だから、あなたは奴隷みたいにわたしのために働くの。

 言っておくけど、わたしの命令は絶対だから。

 でも、お給料はちゃんと払うわ。月に三十万。そのうちの二十万は天引きで借金の返済に充てさせてもらう。ちなみに、あなたの治療費が一億とちょっとかかったから、無利子で計算しても、返済期間は四十年とちょっとになるわね。

 利子は年一・五パーセントにしてあげる。良心的でしょ?

 毎月の払いを欠かさずに続けると、たぶんプラス十年くらいで元本と利息を完済できるんじゃないかな。――ということは、これからおよそ五十年間。あなたは人生の大半をわたしの奴隷的存在として過ごすことになるのだけれど……それでもよ、たまたま自発的に意識が戻ったところでせいぜい半身不随がいいところだったあなたにしてみれば、かなりましな運命だったんじゃないかしら。

 それはわたしだって、たった一回の事故でほとんど一生の自由を失うなんて、ホント可哀想だって思うわよ。

 だからときどきスポットで特別任務を与えてあげる。スポーツ選手みたいにプラス出来高払いって感じになるはず。たとえば百万とか、報酬はその都度決めるから、そういうときにガッツリ稼いで返済期間を短縮できると思う。

 言うなれば、資本主義的奴隷制度ね。

 だから頑張りなさい。あなたが働いた分だけ自由になる日が近づくと思うから」

 言っていることに説得力はあったと思う。

「言いたいことは終ったのか?」

「あなたのほうに質問がないのなら」

「ないよ。あるわけないだろう。どうとでもすればいい」

「じゃあ、とりあえず、リハビリに励みなさい。二ヶ月あげるから、その間にちゃんと働けるように体を作っておくのよ。いい?」

「ああ」

「その返事、改めなさい。そんなんじゃ忠誠心が見えない」

「…………」

「……まあいいわ。そのうち、きちんと教育してあげる。じゃあ、今度わたしが来るときは、もう少しまともになってなさいね。期待してるから」

 御月夏世は、言うだけ言って、付き人の二人とともに病室を去った。

 部屋に残されたのは、俺と、花瓶に生けてもらった過度にゴージャスな花束だけだ。

 あの女、『期待してるから』って――結局、俺を一日でも早くこき使いたいだけなんだろう。

 それにしても、なんであんなに非情になれるんだ?

 金があるからって他人の弱みにつけ込みやがって。呆気にとられてさっきは考える暇がなかったが、よくよく考えてみると、めちゃくちゃ非道い話だ。

 ――くそっ!

 屈辱と怒りと、わけのわからない動揺とで、はらわたが煮えくりかえる思いだった。ただなんというか、抑えが利いていたと言うべきか、煮えくり返っても中身が吹きこぼれるほどじゃなく、ブチ切れる寸前でなんとか腹の虫が治まっていた。新しい身の置き所に若干の興味が芽生えていたとか? つまり金持ち女の奴隷、いや、奴隷的存在ってものに、俺がある種の期待感を抱いていたということなんだろうか。

 ……でも違うぞ。俺は脳裏に大きな×印を描いて否定した。

 悦んで鞭で叩かれたりとか、俺はそっちの方面の趣味はない。絶対にないとは言い切れないが、たぶんないと思う。それに主人になる奴がちょっとぐらい可愛いからって、へらへら媚びたり、黙って言うことを聞くと思ったら大間違いだ。

 俺は最速の帝王を目指していた男だ。本来なら一億やそこらで身売りするほど安い人間じゃない!

 知らないうちにとはいえ、金を借りたというのなら必ず返す。

 借金は借金だ。でもプライドまでは、絶対、売らない。

 そう俺は心に誓った。




 その翌日のことだった。

 早速、俺専任の理学療法士が送り込まれてきた。いかつくて、無表情で、見た目どおりの無口な男だった。

 出口と名乗ったその男は、まず各部のマッサージから開始した。昼間は二回に分けて数時間施術した。それと並行して手脚を動かす訓練があり、最初は手と脚を一日の合計でおよそ二時間。それを徐々に延ばしてゆき、一週間後には四時間になった。その頃から、手脚の曲げ伸ばしに加えて歩行訓練が入り、前屈も追加された。

 彼が来てからは、起きている間の大半が彼とのリハビリに費やされた。

 熱心な男なのはありがたかったが、受ける側は彼以上に大変なのだ。痛いし、疲れるし、特に最初のうちは、何を言ってもほとんど受け答えがなかったし……

 まるでヨガの本場で修行しているみたいな日々が続いた。

 もっとも、翌週になると、おかげで自分で寝返りが打てるようになった。そして一か月で、ぎこちないながらも、一応、歩けるようになった。

 信じられない回復速度だと思う。

「明日から水泳も取り入れよう」

 一か月と六日目に、彼が言った。

「俺、泳ぎは苦手なんですけど」

「じゃビート板を使うから、心配ないよ」

 得意じゃないとは言っても、本当はそこまでじゃなかった。でも、こんなに反応の鈍い体だと溺れそうな気がしたので、

「じゃ、ビート板ありってことで」とお願いした。

 俺たちはもう意地を張り合って対立するような仲ではなかったからだ。

「ところで出口さんは、休みはとらないんですか。いまなら俺、散歩くらいなら独りで行けるんで」

 冷ややかだった俺たちの関係も、その頃には、そこそこ話ができるレベルまで進展を見せていた。なにしろ朝から晩まで、四六時中一緒だったのだ。石でもない限り、普通、そのくらいにはなる。

 雑談のなかで、俺は、出口さんが二年前に奥さんと別れたことやその理由、そして子供の養育費を月々きちんと支払っていることなど、知りたくもないことまで知らされた。俺の方も、レースで各地を転戦していたときのこととか、ドライビングテクニックについて解説する――みたいな、一般の人にはあまり価値のない話題を提供した。

「気持ちは嬉しいけど、一日も無駄にできないんだ。清臣君を二か月で走れるようにしないと俺の報酬がまったく出ないのよ。まっ、プロの意地もあるんだけどね」

「報酬が出ないって、それって非道くないですか」

「まあ、そういう契約だから」

 この人もやっぱり契約制なのか。

 あの観月夏世って女は、人を紙切れ一枚で働く自動人形とでも思っているらしい。

「ちなみに、聞いていいですか? 出口さんの成功報酬、どのくらいなんです?」

「百二十万――悪くないでしょう。病院の方の仕事は有給扱いにしてくれるって言うし――で、食いついたわけよ」

「もしかして、その金額、このあいだ言った俺の借金に追加されるのかな」

「さあ、わからんけど」

「あの女、最初に会ってからこのひと月、一度も顔を出してないんですけど。出口さんは会ってます?」

「わたしも、ツヅキさんに電話とかメールで経過報告をしてるだけだな」

「信じられます?」

「お金のこと?」

「そう。ちゃんと支払ってもらえるかどうか」

「だいじょぶでしょ。この病院の院長を通してきた話だから」

「そうなんだ。ちゃんと筋は通してきてるってことか。じゃ、まあ……出口さんの百二十万のためにも、頑張りますか」

「そうしてくれると、助かるよ。本人が頑張ってくれれば、その分、仕事がはかどるから」

 その点ではお互いの利害が一致していた。俺だって一日も早く普通の生活に戻りたかった。

 しかし、あの専制君主め! 俺を走れるようにして、一体、何をさせるつもりなんだか。

 スポットの仕事で百万出すとか言ってるし……おそらく危ない仕事なんだろうが、何をさせられるのか、まったく見当もつかなかった。


 約束の二か月が近づいて、俺は一応走れるようになっていた。全力疾走するのはまだ怖いが、六割程度の力でなら走ったり跳んだりもできた。

 ひとえに出口さんが有能だったからだ。

 今度、執事のツヅキさんに連絡を入れるとき、俺にも話をさせてもらえるようにと頼んであった。二か月もの間、黙ってリハビリを続けてきたのだ。出口さんの契約に協力すると言った手前もあるが、結局、俺はなんだかんだ言いながらも、あの女の思う通りになっていたことになる。仮に奴隷身分だとしたって、俺にも、自分のことくらいは知る権利があるはずだ。

 数日後、出口さんが直接会う機会を作ってくれたので、気になっていたことについて洗いざらい、執事のツヅキさんに尋ねてみた。

「最初の質問は病室のことですが、いま俺がいるVIPルームは入院費高いんですよね。それ、俺が払うんですか」

「室料はこちらでお支払いします。といっても、書類上の手続きだけですが。この病院はお嬢様の経営ですから」

 はい? あいつはそれほどの金持ちだったのか!? 

 内心、恐れ入った。

「じゃ、出口さんの成功報酬は?」

「そちらに関しては折半になると聞いておりますが」

「ということは、俺の借金に六十万上乗せされるってことですか」

「そうなります」

 まあ仕方ないか、と俺は考えた。出口さんは考えられる最大限の仕事をしてくれていた。それに大ざっぱな話、一億も一億六十万もたいした違いはない。

「それから、もうすぐ退院できると思うんですが、今後、俺はどこで何をすればいいんですか?」

「こちらのお屋敷で生活していただくことになります。どのような仕事になるかとのお尋ねにつきましては、委細はいずれお嬢様の方からお話しすることになると思います。ですから、わたくしから申し上げるべきことはございません。来週、退院の日取りが決まりましたらお迎えに上がりますので、それ以降、直接お嬢様にお話しになってください」

「わかりました」

 少なくともこの人は、俺を奴隷扱いするつもりはないようだった。まるで俺が「お嬢さま」の仕事のパートナーであるかのように接してくれている。

「それから、俺、外部との連絡を一切認められてないのはどうしてなんですか。家にも連絡できないって――拉致されてるみたいでおかしくないですか?」

「ご両親との連絡を絶つことは契約条件のひとつでしたので。それから、これは大事なことですが、あなたは戸籍上、すでに亡くなったことになっています」

「おまえはもう死んでいる、ってやつですか?」

「…………」

 無言ながら、ツヅキさんは微かな笑みを浮かべた。しかし、本当のところ、冗談を言っている場合じゃないのだった。死んでいるとか簡単に言われても、俺には、死んだ後の自分のことが思い描けなかったからだ。

「死んで、そのあと、俺はどうなるんです」

「すでに新しく生まれ変わっていただいております。新しい戸籍は用意してありますのでご心配なく」

「そんな……!? それって、滅茶苦茶じゃありませんか」

「いいえ。滅茶苦茶なのは簡単に操作できる戸籍制度の方ですから。私どもがご批判をいただく(いわ)れはございません」

 ございませんって、それは違うだろう。

 ここから出たら、俺はまったく別の人間になる。そもそもその辺りからして、胡散臭いのだ。とはいえ、俺が何かを言ってみても始まらないのは確かだった。なんたって、俺は何の権利もない資本主義的奴隷なのだから。


 それから退院までの一週間は、ずっと気分が冴えなかった。どうにでもなれ感(?)みたいなものが募って、心の内側からカビのようなものが生えてきている感じがあった。朝起きて夜寝るまで、ただ体を動かすことだけでやり過ごす毎日が続いた。

 そんな俺の湿った気分を少しでも晴れやかにしようと、白石看護師はいつもより頻繁におもしろいことを言ってくれたし、出口理学療法士はより誠実に俺と接してくれた。この二人にはとにかく感謝している。


 退院の日、御月夏世はバスみたいに長いリムジンで俺を迎えに来た。もちろん俺の退院に箔をつけるためなんかじゃなく、自分自身のためだったろう。どうせ金持ちの考えることなんてそんなものだ。

「清臣、よく頑張ったじゃないの、上出来よ。それに出口さん、二か月なんて無理を言ったけど、やっぱりさすがね。院長が推薦してくれただけのことはあったわ。有能な人が厚遇されるのは当然。逆に、仕事をしない人が温情で雇われてるのは、資本主義の観点から言って断罪されるべきだと思う。わたしからもよく言っておくけれど、今後、もし待遇に不満があったら言ってくださいな」

 余計な話が混じってはいたが、出口さんに対するねぎらいの言葉は的を射てると思えた。一応の経営者感覚が備わっているんだろう。

 看護師の白石さんも玄関まで見送りに出てくれていた。

「あの子、一体、何様のつもり?」

 俺に耳打ちしてきたのを、適当になだめておいた。彼女にとって病院経営者に盾突くことは、決してプラスにはならないからだ。しかし御月夏世をただの小娘だと思っているようなのが笑える。自分の病院の経営者を知らないというのもどうかと思うが、まあそういうことで世の中が成り立っているんなら、わざわざ俺が口を出すこともないだろう。

 別れ際、白石さんが俺に言った。

「あの約束、覚えてる? キヨくんがその気なら、わたしはOKだから」

 約束って、なんだっけか?

 たぶんデートの話だ。OKって、一体どこまでOKなんだ? 

 いや、考え過ぎだろう。でも、話の流れによっては結構やばいんで、ニコッと笑ってみせるだけで勘弁してもらった。

 車寄せの向こうは、毎日リハビリで歩いた遊歩道だ。

 ところどころに枯葉が集められている。

 もうそんな季節だった。俺が意識を失ってここへ運ばれてきたのは初夏だったはずなのに。考えてみると、白石さんを始め看護師のみなさんには、そんな頃から世話になってきたのだ。

 白石さん、出口さんの二人に丁寧に別れを告げ、俺はリムジンに乗り込んだ。

 長かった病院生活ともこれでおさらばかと思うと名残り惜しくて、しばらくしみじみ浸っていたい気分だった。

 なのに……こいつには、情緒ってものがないらしい。

 御月夏世は、俺のそんな感慨など気に留める様子もなく、ただただ俺の回復ぶりを見てご満悦の様子だ。

「さっき看護師さんの言ってた約束って、一体、何なの?」

「さあ? 俺もよく覚えてないんだ」

「あんまり一般の人と深く関わらないでちょうだい。利益にならないから」

「利益の出ないことは全部無意味だって切り捨てるのか?」

「個人がいろいろ勝手にやるのは咎めないけれど、少なくとも、社会的には無意味だわね」

「それって、つまらない生き方だな」

「なんでよ!」

「意味のないことのほうが大切な場合だってある」

「いいわよ。でもそういうのは仕事外で、暇なときにだけやりなさい。もっとも、あなたには、何時から何時までっていう自由時間はないわよ。仕事の合間に自分で自分の時間を作る。いつでも命令に備えていてもらわないと困るの」

「休みはナシってことなのか?」

「それはあなたの能力次第」

「労働基準法を知らないのかよ」

「法律を知らないのはあなたの方。わたしはあなたと契約してるの。あなたはわたしの従業員じゃない。わたしの命じた仕事を忠実に遂行するだけ。言ってみれば、下請け企業みたいなものね。いくら時間をかけたかなんて、わたしには関係ない。だいいち、あなたには、そもそもの訴訟適格者たり得る法律上の人格がないの。わかってる?」

 はっきり言って、法律上の難しい話になるとよくわからなかった。悔しいが、俺の学歴は中卒だ。それにそういうことは別にして、面倒な議論をしてもこの女とは接点が見出せないだろうという気がしていた。

「難しい話になると黙るのね」

 いちいち気に障る奴だ。

「俺は仕事を選んだんで、高校へは行ってない。それのどこが悪い!?」

「わたしは頭の悪い男が嫌いなの。仕事にも支障が出るし……。だから、あなたにはわたしと一緒に高校へ通ってもらう。いまは二人とも二年だけど、卒業したら、わたしと一緒に大学へも行ってもらうから」

 信じられないことに、こいつ、夏世は俺と同学年だったのか。

「嫌だと言ったら」

「嫌だとか、無理だとかは認めない。ちょっと考えればわかることでしょ。あなたには、自由がないのよ」

「くそっ!」

 俺がそう言うと、御月夏世は犬を叱るときのように、人差し指を立て横に振りながら言った。

「これからそういう汚い言葉を言ったら、反抗的だとみなして減給するわよ」

 こうやって、金で、俺を教育するつもりなのだ。

 冗談じゃない。知れば知るほど嫌な女に思えてくる。

 こんな女に心の底から従うなんて真っ平だった。仮に上辺では言うことを聞く振りをしても、本来の俺、というか俺自身の核の部分だけは決して失うまいと、このとき再び心に誓った。

 奴隷である前に、俺は人間なのだ。

 内心の自由までは侵させない。

 人間であること――それがいまの俺の最低限のプライドだ。




 俺が退院して御月家の居候になったのは――いや、どんなに格好をつけた言い方をしてもせいぜい下僕ってところだが――年の瀬の差し迫った十二月二十二日のことだった。

 案内された俺の部屋は二間続きの客室で風呂まで付いていた。俺の住んでいたアパートの部屋に比べて格段に広かったが、だからって、夏世に対する評価を変える理由にはならない。思うに、居住空間の基準が違うだけなんだろう。あいつにしてみれば、このくらいの部屋は犬小屋並みとか、きっとその程度のレベルなのだ。

 着いたのが昼前だったので、俺は昼食のテーブルに同席させられた。

 十人は座れる長いテーブルの端と端に、俺はあいつと向かい合って座った。俺の後ろにツヅキさんが立っていたが、彼を含めなければ、二人だけだ。

 当然、御月夏世は一番いい席で、俺はその真向かい。あいつから最も遠い七、八メートル離れた席に座らされたってことは、その距離感からして、俺は自分が最低級の席をあてがわれたことを疑わなかった。

「テーブルマナーはこれからすべてツヅキに習いなさい。誰と食事をしても恥をかかないようにちゃんと教えてくれるはずです。わたしは忙しいので、これからもあなたと食事をしてる暇はないと思うけれど、マナーを学ぶのも仕事のうちだと思って、ツヅキの言うことにちゃんと従うのよ」

 そう言い置いて、あいつはひとりで食堂を出て行った。もともと一緒に食事をする気などなかったのだろう。あいつの前には水さえ置かれていなかった。

 どっちにしろ、俺にしてみれば、そんなことはどうでもよかった。とにかく食事だ。病院食も悪くはなかったが、退院後はじめてのちゃんとした食事には、どうしたって期待が先行する。

 まず前菜というやつが給仕され、俺は、運んでくれたメイドのお姉さんに軽く手を振った。

「いけません、清臣さま。マナーに反します」

 黙っていればいいのだそうだ。とりあえず、ひとつ覚えた。

 ところで俺の前にはフォークとナイフが最初から何種類も並んでいた。

「これらは外側から使って行きます」

 そんなふうにしてツヅキさんの指導が最初から最後まで続いた。料理は一流だったが、これじゃ、全然、食べた気がしない。

「食事中は話してもいいんですよね」

「ええ、日本の懐石料理でない場合は」

「じゃ、ツヅキさんのファーストネームを教えてもらえますか」

「まだ申し上げておりませんでしたか。それは失礼を。わたくし、都築隆明と申します。(りゆう)(せい)を誇るの『隆』に、明らかの『明』です」

 都築さんはすかさずポケットからメモ帳を取り出して、その一枚を破り、自分の名を書いて俺に手渡した。

「俺は南清臣。知ってましたっけ」

「はい、存じております。ですが、これからは新しい名字でお呼びすることになっております。清臣さまは今後、仁志野(にしの)(きよ)(おみ)さまとなります」

 もう一枚破り取って、今度は「仁志野清臣」と書いてくれた。

「仁志野って、いかにも偽名っぽいですね」

「いいえ、そのような! これはお嬢さまがお考えになりました」

「すみません。それから、俺に『さま』をつけて呼ぶのはおかしいのでは? 俺は奴隷身分だから、この家では一番下になるはずでしょう」

「いいえ、清臣さまでよろしいのです。お客さま扱いで遇するように仰せつかっておりますので。それは、メイド、料理番、庭番、運転手――使用人一同が揃ったところで、はっきり申し渡された事項でして、間違いありません」

「お嬢さまから?」

「はい」

「でも、ちょっと変じゃありません? 奴隷なんですよ」

「いいえ、そのようなことは。おそらく、きちんとしたお考えがあってされていることです。お心を疑うべきではないと考えます」

「そうですか」

 よくわからなかった。たぶん何かの気まぐれで思いついたことなんだろう。だが呼び方なんて、実際はどうでもいいことだ。お客さま待遇でも奴隷は奴隷、身分相応の仕事はさせられるのだから。

 午後はクリスマスの飾り付けをするというので、都築さんの下で働くことになった。ただし、指示する者とされる者の関係が建前上ミスマッチの状態なので、どうかするとおかしなことになる。

「清臣さま、納屋から大きい方の脚立(きやたつ)を持ってきていただけますか。廊下の美術品には傷をつけないようにくれぐれも、お気を付けください」

 といった具合だ。

 俺の場合、働くのは昔から嫌いじゃない。何もしないで部屋にいろと言われるよりはるかに気が楽だった。メイドさんたちとも仲良くなれたし――

 御月家のメイドは三人いる。メイド長の渋谷(しぶたに)さんはたぶん五十過ぎで、中堅の松永さんは四十前後くらい、そして見習いの高井さんは今年高校を出たばかりだという。メイド服がよく似合う。とにかく元気な女性だ。食事の席で俺が手を振ったのは、この高井さんだった。


 屋敷中の飾りつけが済んで、夕食の時刻になった。形式上、俺は食客なので、メイドさんたちと一緒に食事を摂ることはない。

 都築さんと二人だけの食事を終えたあと、内線電話で夏世から呼び出された。――部屋へ来るように、と。

 ここへ来て最初の夜だ。

 予測不能なだけに、不安と期待で頭がいっぱいになる。余計なことまで考えたりするせいで、正直、かなり混乱もしていた。

 ノックすると、「入りなさい」という女主人らしい毅然とした声が聞こえた。

 もちろん入る。躊躇なんて、あるわけないだろう。

 夏世の私室は、位置からすると、家の中心で玄関ホールの真上にあたる。

 俺はまず部屋の広さに驚かされた。俺にあてがわれた部屋のおよそ五倍。これこそが人間の部屋だと言うんなら、俺のはやっぱりペット用だ。

 クリスマスツリーを飾った大広間とは(おもむき)が異なり、壁や床は現代的な造りだ。真ん中に特大のソファーがあり、夏世はそこに不自然なくらい背筋をまっすぐにして、大人っぽく腰かけていた。俺に、真正面に座れと、目で指図する。

 部屋着を着ていたが、寝間着とは明らかに違っていた。特にセクシーなものではなく、普通の高校生であれば、外出着に相当する程度の服だと思う。

「そこに鞄があるから、開けてみなさい」

 俺は言われた通りにした。

 中身は教科書だった。

「あなたは理系のコースよ」

 何のことだ? それより、何の根拠があって俺が理系だって断定できるんだ?

 どちらかと問われたって、俺自身、理系でも文系でもないと答えるしかない。高校へは学校訪問にすら行ったことがないのだ。

「三学期が一月八日から始まる。その翌日に英語と数学の課題テストがあるから、今日から勉強しておきなさい。赤点なんかとったら許さないわよ」

「それは無理だ。英語は独学でやってるが、数学は中学までしかやってないんだぞ。数学ⅡとかBだとか、こいつはⅢか。何だこれ!? できるわけないだろう」

「できるかできないかの話じゃなくて、今日から二週間とちょっとあるから、とにかくやるの。ちゃんと理解して、最低でも五十点取りなさい。必要なら数ⅠAからやればいいじゃないの。参考書はわたしのを貸すから……」

「そんなの無理だって。二週間で高校の数学をゼロからマスターしろだなんて、ニュートンやアインシュタインだって無理だ」

「マスターしろとまでは言ってない。主に冬休みの課題の中から問題が出るの。解き方を覚えて、とりあえずそれだけできるようにすればいいんじゃない。なんなら、ここで二、三問やってみる? 勉強の仕方はわたしが教えるから」

 とか言われても、無理なものは無理だろう。俺はレーサーだ。ていうか、元レーサーだ。ドライビングテクニックやマシンの構造ならともかく、普通の高校生がやってる科目については完全に白紙なのだ。だいたい自慢じゃないが、中学の数学だってとっくに忘れてる。こんなんで、できるわけないだろう。

 しかし夏世は、自分のノートを隣の部屋から持ってきて、強引に、俺の隣に座った。

「これは微分の問題」

 おいおい、本気でやるつもりなのか?

「微分っていうのは、もともと、曲線のある一点から引ける……こういう接線の方程式を表すの。……公式はこれ」

 夏世が丁寧に教えてくれようとしてるのはわかった。だが、内容についてはほぼすべて理解できてなかったと言っていい。

 それもそのはずだった。忌々しいが、俺は至近距離で見る夏世の横顔、特に首筋とか、髪の生え際とかに完全に見蕩れていた。

 この二年近く、俺はそもそも女子の隣に座ったことがなかった。しかも五十センチかそこらの距離に女子がいるって、そんな状態で、平気でいられる方がおかしいだろう。白石さんは除けば、女の匂いがプンプンする大人の女性に一度だけ優しくされたことがあるだけだった。でも若い女の子は、まるで違う生物みたいに、瑞々しい。たまたま夏世が綺麗だということもあるんだろうが、とにかく、これじゃ勉強どころではない。

 俺は夏世を見つめている。

 夏世は説明を続けている。

「なによ、清臣! どこ見てるの!? こっちでしょ」

 不思議な気分だった。

 こうして怒られたり、教えてもらったりしながら隣り合っていると、非情な実業家に見えていた夏世が、実は無理に作り上げた虚像だったんじゃないかとさえ思えてくる。もしこれが本物の夏世なら、少しぐらいムカつくことがあっても、黙って言うことを聞いてやれそうな気もするんだが。

「最初にこれを微分して……清臣? ねえ、あなたやる気あるの?」

「ああ、なんかやる気出てきた」

「ホント?」

「だいじょぶ。ホントの本気を出せば、やれる」

「信じられない。それ、コミットメントと取っていいの?」

「まあ……コミットメントだな」

 ホントの本気を出せば、不可能はない。そう考えて取り組むのが俺のモットーだ。

 その夜は、結局、真夜中過ぎまで夏世が付き合ってくれた。そして、翌日も夜八時になったらまた部屋へ来るようにと命じて、それまでにやっておくべき箇所を紙に書いて俺に手渡した。ある意味、仕事の指図書みたいなものだ。

 それからの二週間、俺の仕事は主に朝夕のトレーニングと勉強ということになった。

 トレーニングの方は出口さんに作ってもらったメニューをこなす。少々きついが、こちらは納得できる内容だ。

「トレーニングに四時間。勉強だって、昼間六時間はやらないと間に合わないんだからね。今日の分の復習もしておくのよ。もしやってなかったら減給だから」

 減給、減給って――最後のを言わなければ、俺のことを思って言ってくれてるんだと勘違いすることだってできたただろうに。事実、教え方も丁寧だし、勉強中は親切で可愛い女の子だと錯覚することもあったくらいなのだ。

 ホント、残念な女だ。


 御月家のクリスマスは一日早い二十三日に、子供たちを屋敷へ招待して盛大に行われた。夜遅くまで二人で数学と格闘した初日の、翌日のことだ。訪れたのはどこかの施設の子らしかった。

 俺は勉強があるんで子供たちと遊ばなくていいと言われていたが、昼食のときとその後しばらくの時間は、ガキどもと一緒に過ごせたので心が晴れた。

 庭でフットサルをやった。俺は競争とか試合とかでないとやる気の起きないタイプなんで、すぐ試合形式での対戦に変えてしまった。小学四年くらいまでの十二人の子供たちだ。男の子の場合は、すでに結構うまかったりもする。

 俺はつい本気モードになった。さすがにキーパーに強烈なシュートをお見舞いするまではしなかったが、手が出せない位置からのシュートは渾身の力で打つ。

 夏世が「子供相手にムキになってどうするの」と耳打ちしてきた。

「このお兄ちゃんは勉強があるの。ゴメンね、みんな」

 子供たちには、そう言って、いちばん夢中になっていた俺をのけ者にした。

 その日の夕食は子供たちをホテルに招待して、ディナーを共にしたのだそうだ。都築さんも夏世と一緒に晩餐会へ出かけて行った。で、俺は一人で夕食。いや、俺の後ろにメイドの高井さんが控えていた。一番若いメイドさんだ。

「清臣様はレーサーだったんですってね」

「致命的なミスをやらかしたんで、このザマなんですけど」

「そんな……格好いいです」

 目がとろんとして見えた。やばい兆候だ。

「ええっと、俺のことは呼び捨てにしてくれませんか。そっちの方が慣れてるんで」

「じゃあ、二人だけのときは、キヨ様って呼ばせていただきます」

「恥ずかしいな。『キヨ』じゃダメかな」

「イヤっ、キヨ様がいいです」

 イヤっとか言われても……正直、困惑させられるんだが、結局、そういうことになりそうだった。

「じゃ、わたしのことは、『くるみ』で」

「『くるみさん』。わかりました」

「困ったことがあったら、何でも言ってね。たとえば……部屋の掃除とか、洗濯物とか」

 いやいや。下着まで洗ってもらうなんて、それは気が退けるでしょう。

「そうだ、キヨ様はベッドで寝てるんでしょ?」

「はい? 洋室なんで、もちろんそうですけど」

「じゃあ、シーツや枕カバーは定期的に替えないとダメです」

「ハイ」

「キヨ様はいいの。わたしが洗ってあげる」

「いいですよ。自分のことは自分でやります」

「そんなこと言って、男の子は絶対やらないんだから。わたしだってきれいなベッドで寝るのは嬉しいし、キヨ様が学校行ってる間にわたしがやっとく、ってことで問題なくない? 気持ちいいわよ」

「確かに、そうですけど」

 どういう文脈で理解したらいいのかわからなかった。

「じゃ、決まりね。気にしないでいいのよ。わたしがしたくってすることだから」

 あるいはって程度だけれど、どれも意味深な言葉のようにも聞こえた。ひょっとして、婉曲にベッドに誘っているんだろうか?

 馬鹿な! 考え過ぎだ、俺。

 高井さんは俺の目をじっと見ていて、俺の考えていることを見透してでもいるみたいに「ふふっ」と笑った。

 こんなふうに、俺はガキの頃から年上にいじられるタイプなのだ。

 高井くるみ。

 黄色の三角形の中にコーションマークの付いたTシャツでも着ててもらいたい危険人物だ。

 ――触るな危険!


 翌十二月二十四日の夜、今度は俺たちが、サンタクロースの格好で施設に赴いた。

 付け髭をつけ、赤い服を着て、子供たちにプレゼントを配る。その役目を仰せつかったのは、俺と御月家の庭番のおじさんだった。真夜中に出かけて行き、泥棒のように忍び足でいくつかの部屋を渡り歩く。庭番のおじさんがいい年をして楽しんでるのはおかしかったが、笑っていた俺だってそこそこ楽しかった。そう言えば、俺たちサンタを施設まで運んでくれた運転手さんも、任務を終えて車に戻った俺たちを迎えるとき「ミッション、コンプリート?」とか言ってふざけて見せた。

 この二人がかなり気のいい人たちなのは、この真夜中のミッションを一緒にやってみてすぐにわかった。

 夏世の周囲には、善良な人たちが揃っている。

 なのに、一体、なんで本人はあんな性格なんだ?


 クリスマスが終わると年の瀬になり、正月が来て、夏世が夜出かけている日が何日も続いた。忙しかったんだろう。少なくとも、夏世には病院や孤児院、ホテルチェーンを統括する経営者としての顔がある。実は他にもやっているらしく、冬休み中の昼間は大抵不在だし、夜の勉強中も会社の人たちからよく電話やメールが入った。

 夏世は俺に仕事の話を一切しない。聞いても、「余計なことに口を出さない。わたしの仕事はわたしの仕事。いまのあなたは勉強が仕事でしょ」と言って、取り合ってもくれなかった。

 仕事の面では、夏世は十七歳にしてすでに立派な大人だった。しかも、かなり有能なビジネスウーマンなのだろう。俺は夏世のごく一部分しか知らない。まあとにかく、住む世界が違っていて、俺にはまったく理解不能のキャラだ。




 一月八日。三学期の始まる日。

 これから毎日、夏世と俺は、運転手の島袋さんの車に乗せられて一緒に高校へ通う。そう言えば、運転手さんの名は島袋さんという。クリスマスのミッションのときから、会うとどちらからともなく声をかけ合うようになった。庭番の清水さんもそうだ。

 ただし夏世に対しては、あいさつは例外として、島袋さんの方から話しかけることはなかった。話しかけられれば答える。そういうのが運転手のマナーなんだろう。

 ところで通学のときは、リムジンじゃなく、普通にレクサスを使う。とはいえ、最高級グレードの車だから二千万円クラスのやつだ。それでも(リムジンに比べて)ちょっと狭い感じがした。

 最高級レクサスが狭いって?

 まったくとんでもない話だ。自分でもつくづく思う。贅沢にはきりがないってことを俺なんかが知ってどうするんだよ! 

「俺、こんなふうに一緒に通わせてもらっていいのかな。立場的に」

「キヨはわたしの従弟ってことにしてあるの。おんなじ家に住んでるし、赤の他人じゃ逆に不自然でしょ。だから学校では対等でいいわ」

「じゃあ、命令を無視しても?」

「それはダメ。子供の頃から、わたしに頭が上がらないっていう設定だから」

「それって対等とは言えないんじゃないのか」

「対等でありながら、自発的にわたしに服従してるの。あくまで自由意思でやってるんだから、別に上下関係とかではないでしょ」

「俺はつまり、自由意思で服従してる振りをする命令を受けてるってことか」

「そうなるわね。でもあなたはいつも通りでいい」

「結局、おなじことか」

「まあそうね。これから頑張りましょ。――わたしは頭の悪い男が嫌いだから。成績はそのうち上位になってもらわないと困る。いいわね」

 困るとか言われても、言われてる俺の方が困る。どれだけ努力しなきゃならないかは、この二週間の猛勉強で身をもって知らされていた。

「それから学校では、わたしのこと、『お嬢』とかじゃなく、『夏世』って呼び捨てにしなさい」

 俺は夏世のことを、家では「お嬢」と呼んでいた。都築さんみたいに「~さま」を付けたくなかったからだ。それで夏世が文句を言ったことはない。たぶん「お~」が付いてるから許せるんだろう。

 それにしても「夏世」か……なんかいい響きだ。

 俺たちの乗った車は当然のごとく、校門の横、車両出入口と書かれた門から構内へと侵入して行く。どうせなら金持ち専用通路とか書いて置けばいいのに。

「なんで校門の前で降りないんだ」

「清臣さま、それは……」

「島袋さん。それはわたしが……。時間を節約するためよ。悪い? それと、校門の前で乗り降りしたら渋滞の原因になる」

「そういうことなら、まあ仕方ないか」

 つまらないことにも、ちゃんと理屈が通っていやがる。言い返せなかった。

 俺たちは校舎のすぐ近くで降りた。

「キヨにとっては初登校だけれど、ビビッてないわよね」

「これくらいのことでビビるような心臓はしてない」

「さすが、ただの高校生とは違うわね」

 いつもの習慣で、俺は夏世の後ろを歩いた。

「ダメよ、キヨ。隣を歩きなさい。学校では対等にって言ったでしょ」

 ケッ! いちいち面倒な!……

 しかし隣を歩くと、夏世が急に近い存在になった気がした。俺より少し背が低いし、堂々と歩いてはいるがやはり女の子だ。歩く速度を合わせるのにこっちが気を遣わなきゃならない。もっとも、そういうこと自体を面倒だとかは考えなかった。白状すれば、むしろ悪い気はしなかった。ただ、隣を歩いていても、話題がないのに困るのは否めなかった。

 何を話せばいいんだ?

 考えてるあいだに、夏世の方から話題を作ってくれた。

「キヨはどこの高校から転校してきたの?」

「静岡の三島から」

 そういう打ち合わせがしてあった。

「いいわよ。じゃ、名字を教えて」

「仁志野だ。仁志野清臣」

「これからは、どんなに寝ぼけても、南って前の名字は言わないで」

 夏世が声を小さくして言った。

「ああ。しかしどんな手を使ったんだ? 俺が転校扱いで高校二年から入れるなんて」

 夏世はもっと声を下げるように、と手振りで示した。すでに一般の生徒が周りにいる。

「戸籍だって変えられるのよ。そんな情報操作はカンタン。だけど、この手の話は二度としない。いい?」

 俺たちは教室へ一緒に入った。

 みんながほぼ一斉に俺たちの方を向いた。いや、たぶん誰もが夏世だけを注視していた。

 すぐに女子の半分くらいが夏世の周りに集まった。

「姫、その人は? 知り合い?」

「まさか姫の彼氏とかって、そんなこと、言わないでくださいね」

 なかには俺に嫉妬心むき出しの女子もいた。

「わたしの従弟で仁志野清臣っていうの。今日からこのクラスに入る転入生。仲良くしてやってね」

 こいつ、姫って呼ばれてるのか。ちょっと笑える。「姫」だったら「お嬢」って呼び方とそんなに変わらんだろう、と俺は思った。

「仁志野です。ヨロシク」

 ひそひそ声でカッコいいとか言ってくれてるのが漏れてくる。席は決まってるのかなぁ。わたし興味ないな……とかって声も混じっている。囁き声で話してるんだろうが、バレバレだった。

 どの世界でも新参者は注目を浴びるものだし、そういうのは大抵最初だけだ。別に気にするつもりはなかった。

 俺は冷静にクラス全体を観察してみた。夏世がクラスの中でどんな位置にいるのかを把握しておくためだ。

 とりあえず、女子の中での人気は相当高いみたいだった。ただ明らかに、俺や夏世の登場に冷淡な女子グループがあった。女子の場合、そういう構図はどこでも少なからず存在する。気にかける必要はなさそうだと俺は判断した。それから男子の多くが、男を同伴してきた夏世の動向に関心があるようだった。大抵は夏世が従弟だと紹介したのを耳にして胸を撫で下ろした口だろう。おそらく夏世に気がある男たちだ。そういう輩が相当数いるようだった。

 全体的に観て、夏世がクラスの中でうまくやっていけてるようなのを知り、なんだかほっとした。あんな性格なのでクラスの中で浮いてるんじゃないかと、内心、かなり心配していたのだ。

 ――って、なんで俺がそんなことを気にかけたりするんだ?

 それにいつの間にか、自分がボディーガード的視点で夏世の周囲を観ていたことに驚かされた。それだと、俺が自発的に、夏世を守ろうとしてるってことになるんじゃないのか? 

 仕事意識でやってるのか、それとも、下僕として無意識に? あるいは、夏世に対する特別な感情が芽生えたとか? いや、最後のは絶対にない。

 いずれにせよ、明確に意識してやってるのでない以上、それは紛れもなく、俺がたった二週間で飼い慣らされたことの表れに他ならない。それが気に入らなかった。

 俺は夏世のために存在してるんじゃない!

 鬱屈した思いが膨らんで、急速に気分が尖ってきた。

「キヨ、どうかした?」

 すかさず見咎めて、夏世が耳打ちしてきた。

「なんでもない」

 心にもなく言い方がきつくなった。夏世にしてみれば、とんだとばっちりだ。

 俺に対する夏世の態度が気に入らないわけではなかった。むしろ考えられる最大限、いや、それを通り越して厚遇してくれているとさえ言えるくらいだ。

 問題は俺自身だ。

 俺のプライドがそんなに(やわ)だったってことがショックだった。心から奴隷に成り下がることは決してすまいと誓ったのに、こんなにも容易く懐柔(かいじゆう)された自分が許せなかった。

 夏世にとっては迷惑な話だったろう。

「いいから座りなさい。席はそこ、わたしの隣ね」

 俺が席に着くと、夏世とその仲間たちによるガールズトークが始まった。


「今朝のあれは、一体、何?」

 夏世が訊いてきたのは昼休みだった。

「ちょっと緊張してたみたいだ。謝るよ」

 これが嘘なのはわかっているようだった。感じでわかった。

「勝手に怒って、勝手に謝って……何なのよ。それ、男のヒステリー!?」

 女心が複雑なように、男だって繊細なのだ。――殊にプライドの問題に関しては。

「すまん」

 説明するのが面倒だったんで、ただ謝った。

「次は英文法の授業だから。チェックしてなかったけど、だいじょうぶなのよね」

「ああ」

 とは言ったものの、全然、だいじょうぶじゃなかった。

 席順で当てられて、なんと中学生問題でコケちまった。英文法なんてものが高校英語の世界でこれほど幅を利かせてるとは思っていなかった。言い訳になるが、中学卒業以来、会話や英文を読むことに関しては、意識して毎日勉強していたのだ。

 で、これについても、あとで夏世のダメ出しに遭った。

「わたしが恥ずかしいじゃない。これからは文法書も勉強しなさい。今日、買って帰りましょ。……あと、そうだ、数学、物理、化学の参考書も必要ね。こういうのはあなたの給料から出すのよ」

「イヤだ!」

「じゃいいわ。こっちで買っといてあげる。その代わり、来月分の給料から天引きするからね」

「それじゃおんなじだろう。自分で出すよ。いまちょうど、そこそこ金はあるし……」

 給料日は毎月二十日に決まっていた。

 返済分に二十万。部屋代と食費の分で五万。俺の給料が三十万なんで、残りは五万だ。

 すでに一月分は去年の暮れに支給されていた。別に買い物が好きなわけじゃないんだが、もらってすぐ普段使いの服や靴やらを買ったので結構な出費になっていた。それでも俺の財布には、まだ二万以上の金が入っていた。理由は簡単だ。すなわち、金を無駄遣いするための時間的余裕がなかった。それだけのことだ。


 夏世の思い付きは、単なる思い付きだけに止まった例がない。

 帰りに島袋さんに本屋へ寄ってもらい、俺はカート一杯になるくらい各種参考書を買わされた。これと、それからこれも……といった調子だ。

 金を出さないんなら口も出すな、と言いたかった。なんで自分の参考書を選ぶところまで夏世の言いなりにならなきゃならないんだ? 

 もっとも現実を考えると、自分では何ひとつわからなかった。腹が立つけれど、感謝すべきだったのかもしれない。

 ついでに俺は自分の趣味の本も何冊か買った。

 そういうあれやこれやで、レジで支払った金額は一万八千円とちょっと。

 自分でも驚いた。本屋でこんな大人買いはしたことがない。

 車の中で、早速、夏世に注意された。

「ちょっと、キヨ。買った物を見せなさい。……参考書は当然だからいいとして、車の雑誌が三冊に、それから、これは何?」

「まだ見てない。ラップかかってるからな」

「これ、エロい写真集じゃない。高いわね。それも二冊って、あなた馬鹿じゃないの!?」

「いいだろう。俺の金なんだからどう使おうと」

「あなたって、どうしてそう馬鹿なことに大切なお金使っちゃうのかしら」

 じゃあ、見せてくれるのかよ! それならそれで、俺はこんなもの買わなくたって別に構わんのだが――なんてことは言えるはずもない。

 俺は仕方なく黙っていた。

「わかった。いいわ」

「いいのかよ。って、何がいいんだ? 何がわかったんだ?」

「あなたの給料からわたしが積み立てといてあげる。あなたが奴隷解放の日を迎えたとき困らないように。毎月、そうね、三万円ずつ給料から天引きしといてあげるわね。そうすれば何千万かになって、幾ばくかの足しになるでしょう。いろいろ差し引いても、お小遣いとして二万円は残るわ」

「そんな、理不尽な」

「キヨ、あなた、まだ高校生なのよ。二万円あれば充分じゃない。まったく……レースやってる時代に金銭感覚がずれちゃったんじゃないの? 賞金は一体どうやって使ってたの?」

「…………」

 それについては、正直、触れて欲しくなかった。

「……そっか、そうよね。ギャランティがたいしたことないから、転戦してると、勝てない間は赤字が出るものよね。御両親に蓄えがなかったのも頷けるわ」

「余計なお世話だ!」

 図星を突かれてるんで、反論できない悲しさ。――レーサー時代の俺のプライドは、(もろ)くも、この一言でズタズタにされちまった。

「とにかくこの二冊は没収するから。身近にいる男が夜な夜なエロい妄想してるだなんて、思ってみるだけで寒気がする」

「でも、せっかく……」

「せっかくも何もない!」

 夏世は本気で怒っていた。

 なんか気恥ずかしくて言い返せずにいると、夏世の方から折れてきた。

「ムカつくけど……ひとつ条件を出したげる。明日のテストで英語と数学の両方で六十点以上取りなさい。そうしたら返してあげてもいい」

「ちょといいかな? その条件、ふたつあるんじゃないのか?」

「つべこべ言わない! せっかく譲歩してあげてるんだから。――ああ、もう。せっかくっていう言葉があなたのせいで(けが)れちゃったじゃない。とにかく、今夜一晩かけて猛勉強しなさいっ!」

 こういうインセンティブの与え方もある。夏世としては一銭もかからないのだから、えらく効率のいいやり方だ。おかげで俺はほぼ一晩中かけて、冬休みの課題を隅々まで総チェックする羽目になった。

 その夜、夏世が勉強に付き合ってくれなかったのは、(流れから行って)至極当然だった。出来がよければ、それこそ俺が夜な夜な、写真集を見ながらエロい妄想をすることになるのだから、手伝ってくれるわけがなかった。


 夜が明けて、いよいよテストの朝を迎えた。

 前の晩は午前四時に寝た。睡眠時間はたった三時間だったが、体力的にはほぼ問題がなかった。きっと出口さんのトレーニングメニューのおかげだったろう。体力や筋力の面では、事故以前より確実に強化されていたと思う。問題は頭脳だ。

「何度も言うようだけど、わたしは頭の悪い男が嫌いなの。傍にいられるだけで体質的に無理。……自信はあるのよね」

「もちろん」

 登校中、レクサスの中で、俺はそう明言した。レースでも負ける気で戦ったことは一度もない。だからって、一回も優勝したことはないんだが。

 とにかく今回の勝負には自信があった。

 時間前、まだ問題を渡されてもいない段階で、スカスカ問題を解いていく俺が見えた。これは予知とかじゃなく、レーサー時代、スタート前にやっていたイメージによる自己啓発法だ。事前にイメージを作っておくと、(囚われさえしなければ)判断が早くなり、対処がより正確になる。

 それからもっと痛快なイメージもあった。――わざわざ夏世の目の前で俺が写真集を開き、夏世とグラビアアイドルをまじまじと見比べる。で、俺は「そこそこだと思ってたけど、やっぱりプロには敵わないみたいだな」とか言いつつ、ほくそ笑むのだ。いや、そこはあざ笑っていいだろう。

 言い返せないのがよほど悔しいと見えて、夏世が泣きそうな顔をする。

 でも慰めの言葉なんか絶対言わない。むしろ俺はこう言ってやるのだ。

「オッパイの小さい女は嫌いなんだ」

 ――夏世は、一体、どんな顔をするんだろう? 想ってみるだけで嬉しくなって、俺は教室の机に突っ伏し、笑いを押し殺した。


「どう? 簡単だったでしょ」

 昼休みに入ってすぐ、夏世が言った。

 英語も数学も、俺はイメージどおり、すらすらやれたと思う。

「ああ。チョロかった。で、いつ返してくれるんだ?」

「明日あたり返されると思うけど」

「そうじゃなくて……」

 俺が言ってるのは写真集の方だ。

 気づいたらしく、夏世は口をへの字に曲げ、首を横に振った。

「点数を確認するまでは返せない。そんなの当然でしょ。……バカ!」

 まあ、結果を待つしかないか。

 ところで昼休み。昼食は、俺は、料理番のおじさんが作ってくれる弁当を食べる。夏世は昼食を摂らないのか、あるいは校外のどこかからとって食べるらしく、作ってもらうのは俺だけだった。そう言えば、朝食も夕食も、夏世が俺と一緒に食べることはただの一度もなかった。なので、食事をしているところは一度も見たことがない。

 ――まさか霞を食って生きてるとか?

 よもやそんなことはないと思うが、考えてみればかなり不思議だった。人と食事をすることに何かコンプレックスでもあるんだろうと俺なりに勝手に考えていたが、本当のところは、どうなんだか?

 まあ、もともと変わった奴だ。食事をしながら仕事の電話をしてるとか?

 三度の飯より仕事の方が好きそうな夏世には、むしろその方が似つかわしい。

 実は、学校内に夏世のための特別室があるのだ。

 昼どきになると、夏世は必ず、専用の執務室へ消えてしまう。そういうのに俺は慣れていたし、クラスの連中も夏世が食事中どこかへ行っているのを何とも思っていない様子だった。

 俺でさえ入れてもらえない夏世だけのための部屋。昼休みはいつもそこで過ごしているらしい。寄付金をたんまり払ってるせいで、そんな特別待遇が(まか)り通っているのだ。自分でそう言っていた。

 電話がかかったりすると、授業中でも、そこへ(こも)って戻らないことがあった。そもそも授業中は携帯の電源は切るのが決まりなんだが、複数の仕事を抱えてる夏世に言わせれば、緊急時の対応は例外措置の対象なのだそうだ。

 ――トイレに行きたくなったときとおんなじでしょ。

 夏世はなにげにそう言うが、それは違うだろう。

 ――例外のないルールはないのよ。

 いや、そんなんじゃ、校則が滅茶苦茶になる。

 学校と校則は不可分の関係にある。校則のない学校は学校じゃない。(もちろん俺だって、本当は校則なんて気にくわない。でもそれが学校というものなのだ)

 しかし夏世は、「お金でどんなことでも動かせるの」と悪びれずに言い放つ。携帯に関する例外措置もまた多大なる寄付金の威力らしい。

 資本主義の申し子。それが御月夏世だ。

 なんたって、人権だって買ってしまえるのだ。校則なんて屁でもない。

 まあこのくらい割り切られると、ある意味、敬服させられもする。



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