赤信号の待ち方を、教えてください
「赤信号の正しい待ち方って?」
ふと、赤信号を待っている間に考えた。
休日、いつもなら車で出かけるが、今日は何を思ったのか、何となく電車でお出かけしてみようと思ったのが、失敗だった。こんなに悩ましい問題に頭を抱えることになるとは、意気揚々と自宅を出たときには、ゆめゆめ、想像もしなかった。
街中を歩いていると、当然、赤信号にひっかかる。車でも赤信号には引っかかるのだが、歩いていて赤信号に引っかかるのとは、雲泥の差がある。その差は、とどのつまり、プライベートである。徒歩の信号待ちと車の信号待ちとでは、プライベートの差が全く異なるのだ。車だと、車内、ある種、個室のような状態で信号を待つことができる。個室が街中を走っているといっても過言ではない。したがって、私たちは車という個室によって公の世界から隔離され、周りの目はあれど、公からはガラス越しの状態で、リラックスして信号を待つことができる。
それに対して、徒歩の信号待ちとなるとそうはいかない。公の、しかも、公の直の視線に晒されている。座ることもできず、周囲の視線を気にしながら、直立不動で信号を待たなければならない。
しかし、この直立不動で待つということが、私にとっては大変困難を極めるのだ。そもそも直立不動で待てれば、何の問題もないのだけれど、現実の世界は厳しい。両足を閉じて、手は体側、顎を少し引いて、視線は真っすぐ、と、まるで中学時代に受けた体育の授業での体育教師の口癖のような姿勢で、立っていることができる人は、そう多くはいないのではないだろうか。
理由として、考えられるのは、体育教師の口癖のような姿勢というのは、しんどい。ただでさえ、街を歩き回って疲労しているのに、わざわざそんな姿勢で信号を待つのは、体育教師か体育教師の犬くらいである。
次に、そのような姿勢で信号を待つことは、あまりにも不自然だから、という理由も考えられる。周りから見ると、なんだ、こいつは今から戦地にでも赴くつもりなのか、とでも思われかねない。そんな風に思われながら、あの給食前の四時間目の残り二十分、のような、いつもより時の流れが何倍にも遅く感じる、赤信号の待ち時間を耐えることは、そう容易くはない。
というわけで、赤信号を待っている間に、「赤信号の正しい待ち方とは?」という、深い深い、お母さんの懐よりも何倍も深い悩みに、私は陥ってしまったのである。
いくつかパターンは考えた。まずはポケットに手を突っ込んで、片足立ちで待つスタイル。ちょっと格好つけすぎかなとも思う、このスタイルで待つのは、イケている若者に多い。髪を中央で分け、シルバーのアクセサリーを身に付け、香水のいい匂いをぷんぷんさせている若者に多い。が、しかし、これは却下だ。第一にこのスタイルは、イケている方にしか、世間から許可が下りていない。ということで、上下スウェット(毛玉付き)の私には、許可が下りない。というわけで、却下です。世間から却下です。
続きまして、ハンドバックを両手で前にかわいらしく持つスタイル。これは、ニットのトップスにミニスカートをお召しになった、女性の方、もしくはふんわりとしたロングスカートに、豪華なアクセサリーを身にまとった、マダムに多い。このスタイルは、偉そうでもなく、格好つけているようでもなく、むしろ、控えめな感じがして良い。が、しかし、男である私にとっては、ちょっとばかし、威厳がなさそうに見える。上下スウェット(毛玉付き)の私でも、少しくらい、人から良く見られたいという気持ちは持っている。また、時代錯誤な考え方かもしれないが、男らしく見られたい。よって、どことなく女々しく見える、両手を前にハンドバックを持つスタイルは、残念ながら却下だ。と、それ以前にハンドバックなど持っていないという事に気づき、このスタイルのスタートラインにも立てないため、対象外となった。
ここで私の思考は完全にストップしてしまった。なぜなら、これまで赤信号の待ち方について真剣に思案したことなどなく、脳みそが完全に燃料切れとなってしまった。
あぁ、難しい。なぜこんなにも難しく、重要な問題に、今の今まで向き合ってこなかったのだろう。世間にも、文句を言いたい気分になってきた。
世の中にはマナー講師というものがあるそうだ。ビジネスマナーやテーブルマナーを教えているのであれば、なぜ信号待ちのマナーを教えてくれないのだろうか。ビジネスマナーは週五日働く、ビジネスマンでも実際にそのマナーとやらを発揮する場面など、大して多くないのではないのか。ましてやテーブルマナーなんかを意識するほどの、高級店で料理を嗜む回数なんて、庶民からすれば、年に一、二回あるかないかだ。
それらのマナーなんかよりも、よっぽど信号待ちのマナーの方が、日常生活で頻度も高く、重要度も高いはずだ。全国信号待ち協会(二〇二四年、作者創設)によると、一人当たり、一日の赤信号に引っかかる回数は、平均四回だそうだ。週に換算すると、二八回。月だと、一一二回、年で一三四四回だ。こんなにもマナーを有効活用できるマナーは、信号待ちのマナー以外にあるだろうか。いや、ない。
全国のマナー講師の皆さん、ぜひご検討くださいませ。
そんなことを考えている内に、信号が青になり、人々の足並みにつられ、私も歩き出した。ふと思った。「今、おれ、どうやって待ってた?」と。
あぁ、誰かビデオでも撮ってくれていたらよかったのに。
大したことでもないことには、野次馬のごとくビデオを回す世の中であるのに、どうして「赤信号を待つ姿勢」という、こんなにも大したことをビデオに撮っている人間は一人もいないのだろう。
そんなことを考えていると、また赤信号に引っかかった。