彼女は彼を愛しさえしなければ
◼️他の執筆の息抜きに書きました。ふわっとぶっ飛んだ設定なので、ふわっとお読みください。
◼️ヒロインもヒーローも一途とは言い難いです。
ガシャンという音が荘厳な宮殿の廊下に響き渡る。騎士が突きだした剣の向こう側にいた少女は、震えて蹲っている。
「お、おかぁさ」
ぶるぶると震える少女は、その身に纏っている服からして高い身分の人間であると分かる。
父によく似たはねた毛は、普段ははねが目立たぬように括られているのだが、今は髪の毛を纏める紐を失くし、無造作に背中に広がっていた。
「離しなさいよ!!!」
怒号を響かせたのは少女の前方、騎士によって取り押さえられている女だった。
目を見開き唾を飛ばしながら己を押し倒している騎士とその周囲で剣を自分に向ける騎士たちを罵倒する姿は美しさから程遠いが、身に纏う服の質は少女にそう劣らない。本来ならば騎士たちが取り押さえるなんて力に任せた方法で触れて良い相手ではないのだが……そんな事をいくら女が主張しても、近衛騎士たちは涼しい顔で女を取り押さえている。
慌ただしい足音が廊下に響く。女を押さえていた騎士がちらりと視線を上げれば、同僚が一人の女性を連れて走ってきている姿が見えた。明らかに上等な服に身を包んだ女性は髪を乱していたけれど、騎士が押さえる女のように取り乱してはいなかった。
「マーガレット!」
弾かれたように恐怖で震えていた少女が振り返る。そしてこちらに駆け寄ってくる女性を見ると、茶色の瞳からぶわりと涙をこぼしながらそちらに走り出した。
「おかあさま!!」
「ああ、ああ、マーガレット! 良かった、良かった無事で……」
マーガレットは女性の胸に飛び込む。女性は少女を抱き留めると、自身も緑色の瞳を少し潤め、何処にも行ってしまわぬようにと言わんばかりに両腕でその小さな体を抱きしめた。わんわんと泣くマーガレットと「良かった、良かった」とこぼす女性。どこからどう見ても、互いに愛し合った親子の感動の再会という風の光景。それを見た騎士に押し倒されていた女は、茶色の瞳をカッ開き、髪を振り乱しながら叫んだ。
「返しなさいよ!!! その子は私の子よ!!!!」
マーガレットはびくりと体を震わせる。
「お母様ですって!? あんたの母親は私よ!! その女じゃないわ!!! いいからこっちに来なさい! 来なさいよ!!」
女が叫ぶ。震えるマーガレットを女から隠すように、マーガレットを抱きしめている女性は体の向きを変えた。
女は叫び続けた。己の主張を通そうと。
しかし誰も、女を庇おうともしなかった。
――事の一部始終を聞いた皇太子妃アイリーンマリーは溜息を吐いた。
「だから言ったのです。貴女には、皇太子の女は、荷が重い、と」
◼️◼️◼️
『帝国は、人柱の国と言われる国である。』
◼️◼️◼️
皇太子とは、帝国の未来を担う男性を指す。
ただ、普通の国とは違い、この帝国において、皇太子は必ずしも皇帝の子供からは選ばれない。皇族の中で最も相応しい者が選ばれるのだ。この方式はある時期より厳格に守られるようになり、それが無視される事はただの一度もない。
勿論、現皇帝と現皇太子の関係は、伯父と甥にあたり、皇帝の実子は他に沢山いたにもかかわらず、皇太子の地位にはつけなかった。
……数いる皇族の中から最も相応しいとして皇帝陛下の甥であるオーウェンが立太子したのは、彼が十五歳の時。
そしてその日、同い年の公爵令嬢アイリーンマリーは彼の婚約者となった。
二人の間に熱烈な感情は無かったが、お互いに婚約者として尊重しあっていた。
婚約の際にアイリーンマリーひいては公爵家はとても分厚い契約書にサインしている。アイリーンマリーはその契約書を守った。それに反する事をしなければ、皇太子が何をしても構わなかった。そう、何をしても。
例えば、精通して以降の皇太子オーウェンが、日々違う女性を閨に招いていたとしても、契約書に反していないので、アイリーンマリーは気にもとめなかった。
アイリーンマリーは婚前交渉は絶対お断りで、オーウェンはそれを無理強いしてくる事はなかったので契約に反しなかったのだ。
まさに貴族の結婚そのものと、二人の婚約関係は評された。事前に定められた約束に従い、二人は極めて穏やかに、性の匂いが少しもしない関係を築いていた。お互いに対する情が異性の情になる事もないまま、月日が過ぎ、そしてオーウェンとアイリーンマリーは十六歳となった。
この年、社交界に一人の少女が現れる。
この少女により二人の周りはにわかに騒がしくなる事となった。
少女の名前はミーナ。
とある男爵の姪であり、親の死後唯一の親族である男爵に引き取られた少女だった。男爵の姉が平民の男と駆け落ちして作った子供であったが、とはいえ自分たちが助けなければ大変な生活を送るだろうミーナに同情した男爵夫妻が彼女を引き取る事を決めた。養子縁組もし、正式に貴族の仲間入りを果たしたのだ。
その後彼女は貴族としてのマナーを学び、それが合格点に達したとして男爵らに連れられて帝国の社交界に顔を出したのだが、彼女はとんだ問題児であった。
社交界に出たのは結婚相手を探すためだったらしい。
それ自体は責められる事ではないが、しかし方法がまずかった。
第一条件は金がある事。次に顔がいい事。このどちらかの条件を満たし、もう片方の条件をある程度満たした男性という男性に、片っ端から手を出した。それは独身男性だけに留まらず、妻がいる者や婚約者がいる者もいた。とはいえ大半は年が近い、まだ若い者をターゲットにしていたようだ。
最初の数人は独身であり多少噂が立つ程度であったが、ある時若くとも結婚していた男と良い感じになり恋人のように夜会で振る舞った事から、妻が怒り男爵家に文句が届いた。男爵たちは、マナーの成績が素晴らしいと言われた事から問題ないと思い、自分の息子の一人に連れをさせて後は半ば放っていたのだ。この息子もミーナに篭絡されていたがために報告が遅れていた。
男爵は怒り、息子とミーナを引き離した。それからミーナが一人で夜会に参加できないようにお小遣いを殆どなくしてしまった。社交の場に行くのは準備から含めて、金がかかる。お金さえ渡さなければ、出掛けるにしても平民たちが行ける所ですむだろうと考えていた。完全に目を離していた訳ではない。使用人たちには目を離さぬように言いつけていたし、息子が平民出身の姪に骨抜きになった事に怒った妻もミーナの行動に目を光らせていた。だから大丈夫だろうと男爵は思い、この問題児をどこか遠くにやらなければと行動を始めた。
残念な事に社交界に出てからその日までの短い間に、ミーナは既に幾人もの男を自分の崇拝者として作っていた。そして彼らから援助を得る事で金の問題を解決し、家の中は男性使用人たちを味方につけ、例の男爵の息子を利用した。こうしてミーナは度々屋敷から抜け出して夜会に参加していたが、男爵夫妻は中々気が付けないという哀れな事になった。
そうして夜会に出掛けている間に、ミーナとオーウェンは出会った。
通常であればオーウェンの周りには護衛が沢山控えている。ただその日、その夜会においてはオーウェンの護衛は普段よりも少なかった。皇帝一族との仲がなんとも微妙な貴族主催の夜会であり、あまりに厳重にしすぎると「皇太子はどうやら我が家が危険な存在だとみているらしい」とへそを曲げる可能性があったからだ。だからこそ、表面上は「我々は貴殿らを信じているのだ」とアピールするために、オーウェンの護衛は少なかった。
人々との対応を粗方終えたオーウェンが、会場の中央から外れ、いくつものパーテーションで仕切られている休憩スペースに一人腰かけていると、きょろきょろと注意散漫な様子で歩いていたミーナが横を通りがかった。ミーナはオーウェンを視認したコンマ数秒後に、この見るからに身なりの良い若者を次のターゲットにすると決めた。
「きゃあ!」
オーウェンの座るソファのすぐ近くを通った時、小声で悲鳴を上げて倒れこむ。流石に目の前でそんな事があればオーウェンも彼女を放置できない。自分の行動でどのように悪評が立てられるか分からないからだ。
「大丈夫かい、お嬢さん」
「あ、ご、ごめんなさい、ヒールが、新しいヒールが合わなかったみたいで……」
差し出された手をすぐには掴まず、恥ずかしさで焦ったようにスカートの布地をかき寄せる。その際、本来なら見せてはいけないヒールと足首をほんの少しだけオーウェンに見せた。靴ズレが起きていたのは事実の事で、彼女のかかとは赤みを帯びていた。とはいえそれはほんの一瞬の事、すぐに何重にもなっているドレスの裾に足は隠れてしまう。
何度も謝罪を重ねてから、ミーナは顔を上げた。そして自分に手を差し伸べているオーウェンを見て、茶色い目を丸くさせる。
「まぁ、王子様……?」
「ぷっ、ははは。確かにね、私は確かにそういう立場だよ。お姫様、立ち上がれそうかな?」
「あ、は、はい、大丈夫です!」
ミーナは差し出されたオーウェンの手を取って立ち上がった。
――護衛が戻ってきた時には、休憩スペースでオーウェンとミーナが楽し気に会話をしていて、オーウェンはすっかりミーナを気に入っていた。
多少マナーに荒い所はあれど、貴族女性の多くとは違う平民風味を持ったミーナが物珍しく見えたのもあるのだろう。
主人がミーナを気に入った事を察した護衛は、すぐさま彼女の背景を調べる。そして次の夜会でもミーナを探していた様子のオーウェンのために、オーウェンの参加する夜会にミーナも参加するようにと男爵家に通達された。
なんとか田舎の方に嫁がせる算段がついて屋敷に帰っていた男爵も、彼女はちっとも外出してないと思っていた夫人も、とんでもない話に仰天してしまった。
「まさかミーナが皇太子殿下に見初められるとは……」
「どうしてあの子が見初められるような事になっているの!? 部屋で大人しくしているのではなかったの!」
こうして息子と使用人たちの裏切りを知り、男爵夫妻たちは酷く落ち込んだ。
だがしかし、帝国貴族として、皇太子殿下が望んだのならば断わる事は出来ない。
「どうするのですか貴方、あの娘が何か問題を起こしたりしたならば……」
「確かにそれは問題だが……だが知っているだろう、あの子の母親は役目を果たさずに逃げている。あの子が役目を果たすというのなら、我が家の名誉もある程度回復が出来るはずだ。しかも皇太子殿下だぞ、相手は」
「それは……そうですけれど……」
夫妻は話し合い、最終的にミーナを自由にする事にした。
とはいえ彼女の行動に対する苛立ちは簡単には抑えられない。その苛立ちを解消するために、二度も親を裏切った息子と、当主の命令を無視した使用人たちを罰したが……それは別の話。
こうして、ミーナはオーウェンの傍によくいるようになった。
多くの貴族令嬢はミーナを誰かは知らなかったが、既に夫や婚約者、兄弟に手を出されていた令嬢たちにより、彼女の素性はすぐ噂になった。まっとうな貴族たちはオーウェンという帝国の未来を担う者の近くに、尻軽のような女が侍る事をよくは思わない。だが直接オーウェンにその事を言えないために、婚約者たるアイリーンマリーの元に言いに来る令嬢が増えた。
「アイリーンマリー様。またオーウェン様の傍に、あのミーナという女が侍っていたのです! しかも腕を絡ませて、胸を押しあてて! 見ていられない状態でございましたわ」
アイリーンマリーは広げた扇の下で溜息をつく。
オーウェンがミーナを連れ回すようになってからこのような訴えは、それはもう多かった。
オーウェンに物申せる者は少ない――事もない。特に内容が政治的であったりする事等であれば、口出し可能な人はそれなりにいた。
ただし、彼の私的な時間に口出し出来る人は限られている。よほど近しい側近や護衛が多少物申すか、或いは皇帝陛下と皇后陛下、そして婚約者であるアイリーンマリーだ。
その中で令嬢たちが最も声をかけやすいのは――勿論、アイリーンマリーだった。
アイリーンマリーは普段から、様々な令嬢の悩み相談を受けていた。将来の皇太子妃、皇后としていつか部下になるかもしれない令嬢たちに気を配るのは彼女からすれば当然の事だったが、オーウェンとミーナの行為についての不平不満が集まってくるのは予想外であった。
これまでオーウェンの傍に行き、恋人のように過ごす令嬢や未亡人などはそれなりにいた。その時も多少の文句は出たが、それでもアイリーンマリーが一言「気にしておりませんわ」と言えば誰もが黙認した。しかしミーナを傍に置くようになってから、アイリーンマリーの一言では収まり切らない人が随分と増えた。恐らく普段からミーナが貴族としては恥ずかしい侍り方をし、オーウェンのいないところでは彼の恋人として立場を主張しているせいだろう。
「母親が貴族令嬢、父親が平民……とはいえ、養子入りの前に検査はされて、貴族としての要件は満たしている。であれば、私に皇太子殿下のお気持ちを止める事は出来ませぬ」
アイリーンマリーは今回の訴えた者にもそう説明した。
これだけ話が届きつつも、アイリーンマリーは未だにミーナに会っていない。
だが彼女の事は、オーウェンがミーナを気に入ったとして側近護衛たちが彼女について調べた時に、そのままその調査結果を受け取っている。
ミーナ・アップルビー。
アップルビー男爵たちに、約一年前に引き取られる。
それまでの十五年間は平民の少女として両親と暮らしていた。親の経歴は以下の通りだ。
ミーナの母親のキャロリン・アップルビーは、アップルビー男爵家の唯一の女児として幼い頃から貴族の使命を果たすべく育てられてきた。しかし時折下町に出掛けており、その下町で出会ったダンと恋に落ちる。
先代男爵は最終的にはキャロリンに政略結婚をさせるつもりであった。なので何の政略にもならない平民と娘が結婚する事に難色を示したが、母とキャロリンの弟である現男爵が姉の恋路を応援したために、貴族の責務を果たした後であればダンと結婚する事を許すと伝えた。
ところが信じられない事にキャロリンはその貴族の責務を拒否したのだ。そしてダンと駆け落ちした。男爵は怒り狂って娘を探したが、遠くに逃げたらしく見つける事が出来なかった。せっかく背中を押したのに裏切られた母と現男爵も、キャロリンのこの行動には呆れてしまったという。
それから時を経て、父男爵が亡くなった事が理由か、キャロリンとダンは娘のミーナもつれて帝都に帰ってきていたらしい。ダンは土木作業、キャロリンはパン屋で働いていたという。ミーナも飲食店でホールスタッフとして働いていた。それでも金が少し足りなかったらしく、時折男爵家に金の無心があったが、現アップルビー男爵は金は渡さなかった。
彼らに金が無かった事の主な原因は、ダンとキャロリンが仕事終わりに飲む酒のせいだった。多少の量ならともかく、毎日かなりの量を二人で飲んでいたという。ミーナはまだ子供だといわれて酒を飲む事は許されていなかった。この酒代に、お金が消えて行っていたのだ。
夫婦の最期は唐突に、あっけなかった。二人そろって同じ夜に、突如倒れたのだ。夫婦にとっては不運な事にその日ミーナは働いていた店で問題が起こり、家に帰れなかった。他の従業員らと店の片づけをし、そのまま夜を店で越した。
ミーナが帰ったのは、両親が酒を飲みながら倒れた、次の日の夕方だったのだ。
家に帰った彼女は狭い部屋の中、倒れたままピクリとも動かない両親を見つけた。悲鳴を上げた事で周辺の人間が集まり、一気に騒ぎは大きくなる。
その後調べられた結果、事件性はなく酒を飲み過ぎたせいで倒れたのだろうと判断され、ミーナは突然一人になった。
その事を聞いた男爵は、親の罪は子にある訳でもないとして妻と話し合い、最終的に彼女の検査を行い、問題が無かった事から男爵家の令嬢として受け入れた……。
ミーナ・アップルビーの生い立ちはこういうものだ。急ぎ調べられたために足りない所はあるが、最も重要な点がクリアされているために放置されたのだろう。
「それにしても、こうも女の恨みを買う女を、部下として入れるのは骨が折れるわね……」
アイリーンマリーはそう愚痴った。
◼️◼️◼️
『帝国が人柱の国と呼ばれている理由を説明するには、この国の――この大陸の――この世界の――この星の話をしなくてはならない。
数万年前から数千年前までの間、この星では、ある神が人を愛し、見、守っていた。
人は最初こそ神を敬っていたが、次第に数が増え歴史を積み重ねるうちに、神を忘れて傲慢になっていった。
あるものは、自分たちが苦しい時に助けない神など存在しないのだと言った。
あるものは、地上の土地を支配する自分たちが神だと言った。
そのくせ、何かあると神に縋り、救いがあれば感謝するが、救いが無ければ酷く神を罵倒した。
神はそんな人間たちの所業も、可愛い子供の反抗のように見守っていたが、数年、数十年、数百年、数千年と反抗が重なると――人間的に言うと――少し辟易し始める。たまに改心する事もあるのだが、すぐまた元通り。人間たちは独り言のつもりかも知れないが、神は全ての人間の声が聞こえるので、四六時中休みなく、誰かが己を罵倒する声が聞こえ続けていた。
そんな日々が続き、数千年前のある日、神はそっと仕事を辞めた。星からも去った。
誰がそれを責められるだろうか? 人間ですら、ずっと反抗して反発しておいて都合の良い時のみ擦り寄ってくる子供を愛し続けるなんて嫌気もさすというもの。
そうして神が人間を守らなくなってはじめて、人間たちは思い出したのだ。自分たちが住む大地は、人間が住むには過酷過ぎる土地だということを。
長い長い間、1秒も休まずに神が人間を守っていたからこそ、今まで人間は大きな顔をして、食物連鎖の頂点に立ち生きてこれたのだと。
気付いても、もう遅い。
神はもう、この星にいない。
いるのは愚かな人間たちと、長年神が抑えていた星の膿――魔物だけ。』
◼️◼️◼️
皇太子オーウェンの婚約者アイリーンマリー公爵令嬢と、オーウェンの恋人ミーナが初めて出会ったのは、オーウェンとアイリーンマリーの結婚があと半年まで迫ったある日の事だった。
オーウェンは事前にアイリーンマリーに、ミーナと会わせたい旨を伝えていた。アイリーンマリーはそれを受け入れて、三人の対面が叶ったのだ。
「初めまして、ミーナさん。わたくしはアイリーンマリー、オーウェン殿下の婚約者で、皇太子妃になる者よ」
アイリーンマリーはあくまでも、自分という人間の自己紹介も兼ねてそう名乗っただけだった。ミーナとオーウェンの寵愛を争おう等とは微塵も思っていなかった。
ところがミーナはそう取らなかった。自分はオーウェンの恋人だという自覚があった。ミーナの耳には、アイリーンマリーの名乗りは「お前がなんであろうともわたくしこそがオーウェン殿下の正しい妻となる女ですわ!」と宣言したように聞こえていたのだ。
「オーウェン様は私と結婚するんです!!」
ミーナはそう叫んだ。アイリーンマリーは突然の宣言に驚いて、オーウェンに助けを求めた。あくまでも「ミーナさんは貴方の恋人ですわよね、なんとかしてくださいませ」という意味合いだった。オーウェンはそれに「勿論だ」という意味を込めて目線を合わせて頷いたが、その言葉のない会話は、余計にミーナを苛立たせた。
ミーナ視点では、自分の目の前で恋人が他の女と通じ合っているようにしか見えなかった。確かに通じ合っているのだが、目的が全然違ったのだが、ミーナにはそう見えないので仕方ない。
「私はマリーさんと違って、もう何度もオーウェン様と愛し合ってるんです!」
ミーナはオーウェンの腕に抱き着きながら、そう主張した。
それを聞いたアイリーンマリーは眉を顰める。彼女が眉を顰めた点は、ただ一点。
「わたくし、貴女に“マリー”と呼ぶ事を許しておりませんわ。それにわたくしに対して名乗っておりませんわね。オーウェン殿下、貴方は挨拶一つまともに出来ない女を皇居に連れ込むおつもりでしょうか」
「すまないねアイリーンマリー。こういう所が彼女の可愛い所でもあるのだけれど、君に対しての態度としては頂けないな」
「お、オーウェン様?」
オーウェンはミーナに微笑みを向ける。その微笑みにミーナは強張った顔を緩めたが、続いた言葉に硬直した。
「ミーナ。アイリーンマリーに謝るんだ。名前を敬称もなしに呼ぶのは失礼な事だよ」
「で、でも、だって」
「それは人間として、まず守らねばならないルールだ。ほら、謝るんだ。大丈夫、アイリーンマリーは心が広いからね」
呆然としながらも、オーウェンにこう言われてはミーナも、何も強く言えない。肩を落としながらアイリーンマリーに対して「申し訳、ありませんでした……」とか細い声でつぶやいた。本当にか細い声だったが、それを咎めようとは思わない。優しさではなく、そこで更に突っ込んだせいで話が進まない方が嫌だったからだ。
「許しますわ。次はありません、お忘れなく」
「っ、は、はい……」
「それでオーウェン様。ミーナ様を皇居に招き入れるという事でよろしいのですね」
「ああ。ミーナは私の愛しい女性だ、これほど一人の女性を愛したのは、初めての事なんだよ。良いだろうか、アイリーンマリー」
愛したと言われ、ミーナは勝ち誇った顔をアイリーンマリーに向けた。
確かにオーウェンは婚約者に対して、別の女性を愛していると説明した訳だ。普通婚約者として怒り狂ったり嫉妬する所だろう。普通なら。
「ようございます」
アイリーンマリーはあっさりそう言った。扇で顔を隠すでもなく、顔をゆがめたりするでもない、ほぼ即答であった。
ミーナが唖然とする横で、オーウェンはニコニコ微笑む。
「良かった、君に反対されたらどうしようかと思っていたんだ」
「反対する訳がないではありませんか。……約束は守っていただきますよ?」
「勿論だとも。君との約束を破ったりしないと誓おう」
「でしたら、お好きにどうぞ」
和やかな会話にミーナは混乱してしまう。だって婚約者が他の女に入れこんで、家に連れ込むと宣言しているのに、アイリーンマリーは嫉妬もせず、すごくあっさりと肯定したのだ。意味が分からないのも仕方のない事だった。
「ミーナ。これで結婚後も君と一緒にいられるよ」
そこに加えて、オーウェンのこの一言である。ミーナの混乱は最高のレベルになった。
「け、っこん? オーウェン様、私との結婚の事、ですよね?」
オーウェンは生まれた時から皇族として育っているために時折人の心が分からないが、このミーナの言葉の意図を読み間違える事はなかった。
「いいや、アイリーンマリーと私の結婚の後の話だ」
「ひどいっ!!」
ミーナは叫んだ。
「私と結婚してくださらないのですか!?」
「いいやするとも、アイリーンマリーと結婚した後は、正妃の許可が得られれば側妃として召し上げる事も簡単なのだよ」
「どうしてアイリーンマリー様と結婚するのですか! 私がいるのに!」
この言葉の意図には、オーウェンも首をかしげる。
いや、言葉は理解出来るが、ミーナがそう言う理由が分からなかったのだ。
「どうしてと言っても、アイリーンマリーは皇帝陛下がお決めになった婚約者だ。彼女は将来私の正妃として、皇后となる女性だよ。彼女との結婚が覆る訳がないじゃないか」
オーウェンにとってはそれは当たり前の事だった。それでもなお彼に近寄る女性はいたから、彼は気が付けなかったのだろう。ミーナがアイリーンマリーを押しのけてただ一人の奥さんになろうと思っていた事に。
アイリーンマリーは一応、女性であったので、多少ミーナの気持ちが分からないでもなかった。とはいえオーウェンの味方になる事はあっても、ミーナの味方になる理由などないので、黙っていた。
ミーナは、恋人の言葉に目を見開いた。そんな風に二人の将来を考えているとは思っていなかったのだ。
オーウェンはミーナに愛を囁いた。愛していると何度も言った。君を奥さんにしたいと言った。だから正妃にしてくれるのだと、ミーナは思い込んでいた。
俯いて、ぐ、と下唇を噛みしめる。
そんなミーナを見ていたアイリーンマリーは口を開いた。
「オーウェン様。ミーナ様に、一言よろしくて?」
「ああ、どうぞ」
オーウェンは快く頷いた。
アイリーンマリーはミーナを見つめる。
「オーウェン様が望むのですもの、わたくしは反対いたしません。ですがどうやら……貴女には、皇太子の女は、荷が重いようですね」
アイリーンマリーはこれ以上の会話は不要だろうと、オーウェンには挨拶をして席を立った。その後の会話はオーウェンとミーナがするべき事であり、もうアイリーンマリーには関係のない事だったからだ。
半年後、皇太子オーウェンと皇太子妃アイリーンマリーは結婚した。多くの人間に祝福された結婚であった。
二人の結婚後からひと月しない内に、皇太子オーウェンの暮らす皇居にアップルビー男爵令嬢ミーナが側妃として召し上げられたが、その事は大して騒ぎにもならなかった。
◼️◼️◼️
ミーナは信じていた。
確かに最初こそ、オーウェンの正妃はアイリーンマリーだ。しかし自分もオーウェンの傍に行き、側妃になり、そしてアイリーンマリーを凌ぐ寵愛さえ受ければいいと思ったのだ。
寵愛を受け、アイリーンマリーより先に次の皇太子さえ産めれば……建前はさておき、実際の権力者はミーナになれるはずだ。そう思いながらミーナは、男爵家から皇居と呼ばれる宮殿へと移動した。見送る男爵夫妻の目が冷たさよりも哀れみがにじんでいる事に気が付けなかった。
皇居に向かって最初にミーナが会わされたのは、オーウェンではなく魔法使いである。
魔法使いに会うのは、ミーナは初めての事だった。
魔力というものは多くの人間が体内に持つ力であるが、殆どの人間はそれを使う事が出来ない。だがたまに、使う事が出来る者がいる。そういう者たちは魔法局という場所に集められて、魔法使いとしての育成を施される。
魔法使いは能力の強さや向き不向きにすべての尺度が向いており、生まれの地位が低くとも出世の可能性は高い。
ミーナも幼い頃は自分に魔法の才能があり、魔法局から迎えが来て、魔法使いになって活躍する……という未来を夢想した事がある。だがそんな事はなかった。代わりに、両親の死後、貴族からの迎えが来たので、それは気にしていない。
「ちょっと。早くオーウェン様に会わせなさいよ!」
「なりません。皇居の決まりにより、まず検査をしなくてはなりません」
「検査ですって!? 私はオーウェン様の側妃になるべく来たのよ!」
「これは絶対の決まりですので、側妃殿下であろうと、歯向かうというのは皇帝陛下に歯向かうという事になりますが、よろしいですか」
皇帝陛下の名前まで出てきては、ミーナも口ごもるしかない。
魔法使いはフードを深くかぶっており顔が良く見えない。ただ声からするに、女のようだった。万が一魔法使いがミーナに危害を加えたりしないように侍女たちも控えている。
その中で検査をされたが、直接触ってくる事は一度も無かった。手をかざされただけだ。体中を撫でるようにゆっくりと手は動いたが、ただの一度もミーナの体に触れる事はなかった。ただ魔法使いなので、何か魔法を使っているのだろうとは予想が付いたが。
「……以上になります。どうぞ、側妃様をご案内下さい」
魔法使いはそう言い、ミーナの退出も待たずに出て行った。失礼な事だと思ったが、魔法使いの地位は場合によっては皇太子に匹敵する事もあると聞いたので、彼女(?)に当たり散らすのはやめておこうとミーナは考えた。
侍女に連れていかれ、ミーナは新しく生活する部屋へと移動した。
男爵家で与えられた私室も、平民時代の家より広かった。だがここはそこより更に広い。
「ここが私の部屋……」
ミーナはにやにやした。
これから自分の生活が始まる、栄光の生活が始まる。そう思った。
その夜、オーウェンはミーナの寝室を訪れる。
「やあミーナ、会いたかったよ愛おしい人」
「オーウェン様! 会いたかった、ずっと会いたかったです……」
ミーナはオーウェンに飛びついた。そのままベッドに倒れこんだ。
久しぶりの交わりであったがいつも通り満たされながら事を終え、清掃も終わり二人はベッドで微睡んでいた。
「オーウェン様、明日も会いに来てくださるでしょう?」
アイリーンマリーの元に行かせてはならないとミーナが声をかけると、オーウェンは頷いた。
「勿論、来れる日はいつでもミーナの元に来るよ」
「毎日じゃないの?」
「私にも仕事が忙しいこともあるからね、毎日は難しい。でもミーナを優先するよ、約束する」
「嬉しいわっ」
ミーナは幸せだった。これからも幸せが続いていくと信じていた。
もしかすれば、何も知らないふりをして部屋に籠っていれば、ずっと幸せでもいられたのかもしれない。
だがミーナはそうしなかった。蹴落とさねばならないアイリーンマリーの事が気になって仕方ない。
案内された部屋のあるあたりをよく歩き回ったが、どうにも自分以外の暮らしている人間は見られない。代わりに、皇居の敷地にある別の建物には多くの人間が常日頃歩いているようだった。
「ねえちょっと。あそこは何なの?」
ミーナの部屋からも見える建物は、皇居と同じように立派な建物だが完全に独立しているので、ミーナが赴くことはない。それでも目に入れば気になるものだ。
「あちらは、他の皇族の方が住んでおられる建物でございます」
「皇族……? ああ、皇帝陛下のお子様たちの事ね」
ミーナも、皇帝陛下とオーウェンが親子でない事ぐらい知っている。皇帝陛下には子供が他に沢山いるというが、その多くが表には出てきていない。という事はあの建物に押し込められているのだろう。
可哀想にと、ミーナは哀れんだ。オーウェンが皇太子に選ばれた事で、離れで暮らしていかねばならないのだと思ったからだ。
「そういえばアイリーンマリー様は? お会いしないのだけれど」
ミーナは一番聞きたかった事を侍女に聞く。侍女は表情の変化をせずに答えた。
「皇太子妃殿下は、代々皇太子妃が暮らす宮殿で暮らしております」
「…………は?」
ミーナは目が点になる。
「きゅう、でん? ここではないの?」
「はい」
その新事実は、今まで幸せだったミーナの生活を一気に灰色にした。
どういう事だと罵っても良かったが、罵った所で意味がない。代々と目の前の侍女は言った。つまり、皇太子妃は最初からこの建物に住む事などなかったのだ。
あの日、初めて会った日、あっさりとミーナを認めたアイリーンマリーを思い出す。あの態度も、普段会わないからだと思えば理解出来る。知っていてあの女は説明しなかったのだ! とミーナは怒ったがなんとか耐える。必死に耐えて、叫びたいのを呑み込んで、侍女に尋ねる。
「へ、へえ、そう。アイリーンマリー様に会う事は出来るかしら」
「残念ですが、それは出来かねます」
「何でよ! 私みたいな側妃には会わないとでもいうの!?」
「いえ。皇太子妃殿下がこちらにお訪ねになられればお会い出来ますが、側妃様はこちらの皇居の外に出る事は許されておりません」
「は?」
目を点にするミーナの様子を見て、侍女は説明を続ける。
「入られる際に説明があったはずです。こちらの皇居に一度お入りになりましたら、出る事が出来るのは離縁した時のみですと」
「何それ!? 聞いてないわ!」
「いいえ、ご説明されていました。側妃殿下は同意していらっしゃいましたし、魔法契約書にもサインをしていらっしゃいました」
サインと聞いてかすかに思い出す。
確か、男爵家にて、皇居まで移動する前に……何か説明をされて、サインした、ような。
記憶が曖昧だが、それの事を指しているのなら、ミーナは全く覚えていなかった。
そういえば、側妃とはいえ皇太子の妻になったのに、夜会の一つにも行っていない。まず皇子を産まねばと思っていたし、ともかく敵はアイリーンマリーだと思っていたので、夜会などに意識が向かなかったのだ。
その日の夜は皇太子の御渡りがあった。オーウェンに対してミーナはどういう事かと問い詰めた。
「どうして外に出られないのですか!? 私も夜会に出たいです!」
オーウェンはミーナの願いに眉を顰めた。
「それは私と別れるという事か」
「ち、違います!」
いつもと違う低い声に、オーウェンの怒りを感じて首を横に振る。
オーウェンはいつでも穏やかに微笑んでいて、多少の無礼も笑って許していた。そんな人間が怒るとどうなるか、想像もできない。
「そうではなく、側妃として、オーウェン様と共に夜会を……」
「そんな事は側妃の仕事ではない」
「……え?」
「夜会に出るのは、側妃の仕事ではないと言ったんだ。ミーナ、事前説明にもあったはずだ。側妃の仕事は、私の子を産むことだ。その仕事に集中するために、側妃は一度皇居に入れば、離縁以外では外に出れない。そういう決まりだ、ルールだ」
「な、なんですか、それ、そんな、子供だけ産んでいればいいっていうんですか!?」
「当たり前だろう。そのための側妃愛妾制度だ」
ミーナは気が付けば、オーウェンの頬をぶっていた。
「出て行って、出て行って!!!」
ミーナの叫びに、オーウェンはこれ以上の会話は無理だと出て行った。
……一人になった後、ミーナは自分の感情を自覚した。
自分は、地位だけでなく、本当にオーウェンを愛していたのだ。そしてオーウェンの妻として、彼の横を独占したかったのだと。
普通であれば、皇太子の頬をぶつなど侮辱罪で裁かれてもおかしくない事である。しかしオーウェンはミーナを罰したりはしなかった。
暫くの間、ミーナはオーウェンに会おうとしなかった。オーウェンはミーナが落ち着くまで、彼女を放っておいた。
そんな中、皇居の人間の健康管理を担っている魔法使いたちの一人から、報告が上がる。
ミーナが懐妊したという報告だった。
◼️◼️◼️
『神という盾を失った人間たちに、魔物たちは次から次へと襲いかかった。彼らは人間を襲い食べたりするだけでなく、存在しているだけで瘴気を生み出して、人が生きていける土地を少なくしていった。
多くの人間が魔物に殺された。
多くの人間が瘴気の影響で死んだ。
そんな中では誰もが自分の事ばかりを考えて、自分たちが生き残るために行動するのは当たり前。
ある国は神がいなくなった後に現れた、魔法とは違う、瘴気を消せる特殊な力を持つ人間を聖女や聖人として祭り上げ、国を守った。
ある国は魔法や武力を極め、魔物を殺し続ける道を選んだ。
ある国は巨大な壁と穴を掘り、その中に引き籠った。彼らがいまだに生きているのかは、誰も知らない。
ある国は対策が遅れ、怒り狂った国民が反乱を起こしたが、問題を解決する方法はなく滅んだ。
そして帝国は、当時の大魔法使いにより、魔物や瘴気を阻む結界で領土を覆った。しかしその結界を維持し続けるためにはとてつもない量と数の魔力源が必要だ。
帝国はその動力源として、人間を選んだ。
故に他国の人々は帝国を、人柱の国と呼ぶ。』
◼️◼️◼️
「……そう。ミーナ様が懐妊しましたか」
「はい。どうなさいましょうか」
「ミーナ様の護衛を増やしなさい。彼女のお腹には、大事な皇族の御命があるのです。絶対に、お守りするのです」
皇太子妃の宮殿で、アイリーンマリーはそう身の回りの者に命令を伝達した。使用人たちがその指示を実行するために動くなか、アイリーンマリーはすぐ傍にいる傍付きの男性を呼び寄せる。男性はアイリーンマリーが望む通りに飲み物を用意して差し出した。それでアイリーンマリーは喉を潤す。
皇太子妃は皇居という愛称で呼ばれる宮殿では暮らさないが、かの建物の敷地内は皇太子妃に管理権限がある。
故にミーナが皇居に入って以降、どのように行動していたかの情報は全てアイリーンマリーの元に届いていたのだ。
「ミーナ様には絶対に御子を産んでいただかなくては。貴族たちからの突き上げも酷くなってまいりましたもの」
頼まれた時、アイリーンマリーは内心面倒だと思ったが、否定は出来なかった。オーウェンの我が儘は、契約には反さないからこそ断れなかったのだ。お互いに、最初から契約の穴を突く事を考えていたのだろう。
頼みとは、オーウェンがこれから召し上げなければならない側妃・愛妾を召し上げるのを、ミーナが子供を産んだ後にしてほしいというものだった。
皇帝や皇太子の側妃や愛妾が皇居に入り身分を保証されるには、管理者である皇后や皇太子妃の許可がいる。最終的に皇后・皇太子妃が許さなければ、どれだけ皇帝・皇太子が望んでも妻には出来ない。
貴族たちもそれを知っているので、アイリーンマリーが宮殿に入った直後からアイリーンマリーの元には側妃や愛妾を希望する者たちの釣書が山積みとなった。
オーウェンの頼みのせいでそれを処理できず、貴族たちから再三「送った釣書には目を通していただけましたか?」という声が、どこに出掛けてもある。
ミーナが子供を産めば、それが死産とかでもなければ、側妃・愛妾は解禁だ。いや、最悪死産でもオーウェンには受け入れてもらわねば、アイリーンマリーが抑えるのにも限度というものがある。
ミーナの出産後はこぞって貴族令嬢が皇居に入り、そして皇太子と夜を過ごし、子を孕んで、皇族を産み、場合によっては皇居を辞するだろう。望んでというよりも、それが使命であるために。
「ミーナ様は耐えられるでしょうかね」
分かり切っている疑念を、アイリーンマリーは呟いた。
それから十月十日後、ミーナは娘を産み落とす。彼女の名前はオーウェンがマーガレットと名付けた。
オーウェンはマーガレットを可愛がった。愛しい妻ミーナが産んだ子だ、可愛くない訳がない。それはもう溺愛した。
一方でミーナは、産んだ子供が男児でなかった事に苛立った。これではだめだ、男児を産まなければアイリーンマリーの上には行けない!
だがしかし子供を産むという事がどれほど大変かを身をもって実感してしまったために、次々産みたいかというと……首を縦には振れない。
それに、オーウェンが娘のマーガレットを溺愛しているのも、気分が良くなかった。娘とはいえ、自分以外の女にオーウェンがデレデレしているのが嫌だったのだ。まあ、貴族の子育ては基本的に乳母によって行われるので、マーガレットは基本的にミーナの目の前にはいなかった。故にそこの感情はなんとか耐えられた。
ギリギリの状態であったミーナに、不幸が続く。
「皇太子妃アイリーンマリー様より通達でございます。明日より、側妃及び愛妾の皆様方が皇居に入居いたします」
「なんですって!? アイリーンマリー様に何の権限があって!」
とんでもない話に大声で叫ぶと、侍女はいつも通りの無表情で言った。
「この宮殿の権限をお持ちなのは、第一にアイリーンマリー様でございます」
「何よそれ、何よそれ!! オーウェンを呼んで!」
「皇太子様は暫くお仕事でお忙しいとお伝えいたしましたが」
「いいから呼んでよ!」
ミーナが癇癪を起こすので致し方なく侍女たちはオーウェンにこの話を伝えた。オーウェンは忙しい時間の合間を縫って、ミーナの元に来た。
「どうして他の女が来るのよ! 私を愛するって言ったじゃない!!」
「勿論、ミーナの事は愛している。他の女性たちとは国のための関係だ。側妃と言えど、あくまでも身分や安全の保障の地位でしかないし、愛妾の女性たちはもっと立場が下だ。君の敵になどならないよ」
「ふざけないでよ、この浮気者!」
オーウェンは眉を顰めた。
「浮気者? 皇族を増やすのは大事な仕事だ。帝国を守るために必要な事だ、知っているだろう」
「そんな事どうでもいいわ!」
この一言はオーウェンの中の、ミーナへの愛情をすり減らした。
これまではすれ違ったりしながらも、ミーナへの愛情があった。だが、この一言はいけない。
オーウェンは皇太子である。
国を一番に考えて、行動する立場である。
そんな男の妻になったにも関わらず、国を守る最重要な問題を、そんな事と言うのは許しがたい事だった。
「文句があるのなら出ていくといい。私は君の意見を支持するよ、ミーナ。君を愛しているからね。私の妻である事が嫌になったなら、いつでも出ていくといい」
オーウェンはそう言ってミーナから離れて行った。ミーナは引き止めなかった。悪いのは百パーセントオーウェンだと確信し、彼が自分に謝るべきだと強く信じていた。
次の日から、静かだった皇居は騒がしくなった。様々な貴族の令嬢たちが側妃や愛妾として入居したのだ。
ミーナはてっきり、女同士の争いが起きると思ったが、多少の諍いがある程度で、基本的には平和そのものだった。
高位貴族やお金のある貴族の娘の多くは、側妃として入居している。世話をする侍女も少しであるが連れてきている者が多い。
一方でお金のない貴族などは、愛妾として入っている者が多い。世話をする侍女は皇居……つまり皇太子側から派遣された。部屋は狭いが、皇太子が寝るのに相応しい立派なベッドは各部屋に備え付けられている。
ミーナがオーウェンとは会わないと大々的に主張したため、オーウェンは皇居に来ては他の女性たちの元に通った。ミーナはその話を聞いては怒ったが、オーウェンが謝りに来て、側妃と愛妾たちを追い出すように動くべきだと固く信じていたので動こうとしなかった。
オーウェンはアイリーンマリーから頼まれた通り、愛妾たちと優先して夜を過ごした。場合によっては魔法使いが作った精力剤を飲んで、一夜で数人の女性の相手をする事もあった。
そうして女性たちは次々妊娠する。どうやらオーウェンはしっかりと子供を作る能力があるらしいと分かり、次第に側妃たちからも希望が出始めて、訳アリ女性を優先してオーウェンは足を運んだ。
その間、ミーナが他の女性がオーウェンの子を孕んだと知って堕胎させようと動いたが、アイリーンマリーの強い強い命令によって全て阻止された。未遂どころか、動き出そうと最初の命令を発した段階で全てが止められていたため、表向きは何一つ問題は起きていなかった。ただ、部下からミーナが自分の他の子供を殺そうとしたと聞いたオーウェンは、よりミーナへの情を無くす。
次の年には、オーウェンの子が次々産み落とされた。
◼️◼️◼️
『帝国は人柱の国である。
――では一体だれが人柱となったのか?
帝国は領土も広く国民も多かったが、それはつまり結界の範囲も広いという事に他ならない。
そんな広い結界を維持するのに、平民をいくら集めても意味がない。
帝国において、平民が平民たる理由は、身に保有する魔力が感知出来ないぐらいに少ないからだ。あまりに少ないために、昔は平民は魔力を持たないと考えられてきた。現在ではその考えは否定され、貴族が小さな池なら平民は葉っぱから垂れるしずく一滴ぐらいの差はあれど、魔力は持っていると広く知られている。
ともかく、そんな平民を集めても、結界維持には役立たない。
では魔法使いたちを使うのか?
それはいけない。何せ結界を維持し続けるために、魔法使いたちは技術を継承していかねばならなかった。確かに彼らの保有魔力は貴族の平均より多い事が殆どだが、道具を使い続けるにはそれを整備し動かす人間は必要不可欠だ。
結界が作られた当時の皇帝は、故にこう判断した。
「これ以降、結界を維持するための魔力は、余ら皇族が担う」
元々皇族は強い魔力を持っているがために、その地位についたと言われている。故に皇帝とその血族は、貴族たちと比べても魔力を多く保有していた。
時の皇帝によって皇族と、皇族の血が濃く保有魔力の多い貴族は全て一つの宮殿に集められた。その宮殿の中心部には魔力を集める機関と、集めた魔力を結界に注ぐ機関が組み込まれていた。後にこの宮殿は、皇居と呼ばれるようになる。
皇居に集められたすべての皇族と貴族たちはそれより先、皇族となり、彼らは衣食住が一生保障される代わりに、自由を失う。
そして彼らの子孫たちもまた、生きる結界の動力源として生まれ、育てられ、生きていく。
こうして帝国は、皇帝を頂点とする皇族たちを人柱とする事で、魔物や瘴気から国を守る事に成功した。
まだ他国との関わりが残っていたころ、他国の人間から「人柱」と揶揄された皇帝は鼻で笑った。
「我らの犠牲で数万の帝国民が、未来永劫生き残るのだから、問題など何一つありはしない」
と。』
その言葉は今なお皇族の心に刻まれている。
帝国の未来を担う皇太子であれば、なおの事。
◼️◼️◼️
オーウェンたちが十五歳の時の事。
――皇太子オーウェンと公爵令嬢アイリーンマリーの婚約が調った際、事前に皇太子妃の身分と立場のために契約が交わされる事になった。
主に契約は、アイリーンマリーからオーウェンに対する希望が多かった。不敬だと叱られるかもしれないと思いながらも、長く共に過ごすのならば、隠し事をしても意味はないとアイリーンマリーは全てを素直に打ち明けた。
その書類をゆっくり見つめて確認したオーウェンは、頷いた。
「うん、いいよ」
「……よい、のですか?」
「ああ。勿論全てがそのまま……ではないけれど。アイリーンマリー嬢、君がもっとも願っていることは認めよう」
オーウェンは書類を一旦机の上におき、テーブルの上で両手を組んだ。
「つまりはまあ、君が皇太子妃となった後に愛人を持ちたいという件についてだが、許すよ。勿論、私との間に一人か二人は子供を産んでもらわねばならないけれどね」
「それは勿論です!」
皇太子妃に選ばれる令嬢は、魔力保有量が多い事と、皇太子と血が近くない事の二点で選ばれる。
オーウェンは現皇帝の無数にいる兄弟の一人と、皇族の子を孕むべく宮殿に上がった令嬢との間に生まれた子だ。単純な血筋による継承順位では遥か下であったが、生まれついた時から保有魔力が多く、魔力量がほぼ確定すると言われる十歳では彼に勝る魔力を持つ人間は、皇帝陛下以外に皇族の中にはいなかった。
故に彼は十五歳にして皇太子に選ばれた。
そして彼の治世を支える将来の皇后を選ぶ際には、彼の両親の出自についてもしっかり情報が集められている。そういう情報の把握及び管理は、皇居と呼ばれているいくつかの建物からなる宮殿を管理する魔法使いたちの重要な仕事の一つだ。
オーウェンの父親が引く血、そして母親が引く血、それと近い親族であるとされた貴族令嬢は、どれだけ高位貴族だろうと、強く希望していようと、最初に候補から排除された。そうして残った中で最も多く魔力を持っていたのが、アイリーンマリーだったのだ。
皇太子妃に選ばれたと聞いた時、アイリーンマリーは軽く絶望した。
アイリーンマリーはその頃既に、相思相愛の相手がいたのだ。
親同士仲の良かった、伯爵家の次男であるグレイアム。それがアイリーンマリーの恋人の名前だ。
恋人といっても、接触はせいぜい手を握り合う事。お互いにキスだとかその先だとかの関係は一切なかった。
親同士が仲が良かった事もあり、二人の婚約は調う予定だった。……オーウェンが皇太子として選ばれて、アイリーンマリーが皇太子妃に選ばれるまでは。
アイリーンマリーが地位や魔力、実家の後ろ盾や或いは性格知能等に何か問題があれば、あくまで候補ですんだだろう。だがアイリーンマリーは公爵家の娘として、しっかりと教育が施されていた。問題が一切なく、候補の段階を飛ばして正式な婚約者となる事が決まった。
いつか貴族女性の使命として皇族の男性と交わり、皇族を増やす事になっていただろう。それはこの国の貴族は皆知っている事だったので、それ自体は「そういうものだ」と理解していたが、一側妃や愛妾と違い、皇太子妃になれば自由はなくなるようなものだった。もはや皇太子以外と結ばれる事は許されなかった。アイリーンマリーとグレイアムのほぼ決定していた婚約は白紙になり、アイリーンマリーはグレイアムが二度と手を伸ばせない存在になってしまった……。
暫くは絶望していたアイリーンマリーは、一つの希望に縋った。それは皇族の男性は、子を増やす事は“仕事”と考えている事が多いという事だ。現皇帝皇后の仲は良好で二人の間には子供が幾人かいるが、歴代を見れば必ずしも二人の仲が良好だったとは言えない。あくまで仕事として子供はもうけたものの出来る限り共にいないようにしていた皇帝と皇后もいたし、皇后も愛人を抱えていた時だってある。
皇后としての仕事をしっかりと行う代わりに、二人が傍にいる事だけは許してほしい――そうオーウェンに訴える事にしたのだ。
恐らく父母に言えば、良い顔はしない。それどころか止められて、グレイアムと一切会えないようにされてしまうだろう。だからアイリーンマリーはこの契約を、オーウェンと直接会う時まで隠し持っていた。そして婚約を締結させるために両家がそろった時、二人きりで話す場でオーウェンに差し出したのだ。
公爵令嬢としてはよくない事…………無責任な事だと分かっていたが、この時アイリーンマリーの心は恋に強くとらわれていたので、その事は考えないようにしていた。
アイリーンマリーの自分勝手なお願いは、オーウェンにあっさりと受け入れられた。これによってアイリーンマリーは護衛としてグレイアムを傍に置けるようになったのだ。表面上はいつもの凛とした淑女の様相であったが、内心はかなり狂喜乱舞していた。帰ったならグレイアムにも報告しなければと思っていたアイリーンマリーだったが、次の言葉に頭が真っ白になった。
「希望するのなら、その愛人との間に子をなしても構わないよ」
オーウェンの表情は、特に変化がなかった。その言葉が嫌味なのかそれ以外の何か思惑があるのか、初対面のアイリーンマリーには判断が出来ない。固まったまま言葉を返さないアイリーンマリーにオーウェンは少し不思議そうな顔に表情を変える。
「どうかしたのかな、アイリーンマリー嬢」
「い、今、子と……」
アイリーンマリーは自分勝手極まりない希望をオーウェンに伝えていたものの、子を作る所までは考えていなかった。愛人は持てたとしても、その愛人との間の子を産む事は皇太子妃として出来ない……許されないだろうと思っていたのだ。
……愛人から許されないと言われればそれまでなのだが、そのあたりは、恋に一杯一杯になっている少女の目からは都合よく外れていた。
「……愛した人との間には子供を欲するのでは? 傍にいるだけでいいのか?」
オーウェンの言葉からは嫌味のようなものは感じず、むしろ純粋な子供の疑問そのものであった。
皇族は、一部の選ばれた者以外、皇居で生まれて皇居で一生を終える。
場合によっては帝都以外にも存在している、結界を維持する要装置のある宮殿に引っ越す事はあるが、護送は厳重でその間に逃げ出す事も出来ない。
逃げ出したとしても、皇族は生まれた時に魔法使いによって魔力を装置に注ぐための魔法を刻まれている。その魔法は結界の維持装置でもある皇居内部にいる分には穏やかにゆっくり魔力を吸い出すだけであるが、外に出ようものなら吸い上げる速度が加速していき、早ければ数日、長くても一か月ほどで死に至る。その事を知っているため、逃げ出そうと考える皇族は殆どいない。逃げ出す理由もないのだろう。逃げ出さないように彼らの多くは教育されるし、生まれた時から衣食住が揃っていて死ぬまでそれが保証されているのに、それを蹴ってまで逃げ出そうと考える皇族はめったな事ではいなかった。
そんな中で育てられたオーウェンの思考が、普通の人々と少し違うのは仕方のない事であった。
「た、確かに、かつては彼との間に子をなし、普通の貴族として生きていくことを夢見ていましたが……」
頭が真っ白になってしまったせいで、アイリーンマリーはつい素直にそう答えてしまった。それを聞いたオーウェンは「やはりそうなんだな」と納得したように頷いた。
「どうしようか。アイリーンマリー嬢はどうしたい? 私との子を産んだ後、愛人との子を産むとして……その子供の未来の話だな。愛人にそこそこの爵位を与えておいて、その後継者とするか」
「…………何故そのような事を…………皇太子殿下には何の利益にもならないではありませんか」
一周回って恐怖すら覚えて、アイリーンマリーはそう訴えた。オーウェンはやはり無垢な子供のように目を少し丸くして、それからほんの少し首を傾げた。
「何故、か……。そうだな、君が嘘をつかずに教えてくれたから、だろうか」
「嘘を、つかず……」
「ああそうだ。もし君が私に黙って、あるいは私を騙して愛人を囲うというのなら、最終的に許すとしてもある程度の罰を望んだかもしれない。勿論、子供を産むなど言語道断だ。…………だが君は私に素直に教えてくれた。褒められたことではない願いと知りながら訴えるのだ、それほど愛しているのだろう? 私はその愛の強さが素晴らしいと思う。…………私の母は、私を産んだ後はすぐに皇居を辞したからな、名は知っているが、一度も会った事がない」
アイリーンマリーはハッとした。
皇居に入る女性の全てが、皇族と結婚しようとして入る訳ではない。中には一生を皇族に捧げる女性もいるが、あくまでも仕事の一環として入る女性も多い。
皇居で子を産めば、皇族を増やし帝国の安全に貢献したとして名誉が得られる上に、その子供の所持する魔力量に応じてお金も貰える。お金欲しさに皇居に入り、皇族の男性との関係を望む女性もいるぐらいだ。身分と魔力の保有、そして魔法使いにより感染病などを持っていない事さえ認められれば、貧乏な貴族女性でも皇居に入れる。だから家族や自分が生きていくために、子供を産むのだ。
皇居で産み落とされた子供は、基本的に全て乳母によって育てられる。母親が希望すれば会う事は出来るが、皇居で一生を終えるぐらいの覚悟がなければ、殆ど面会は希望されないという。
オーウェンの母親もそうだったのだろう。
皇居を出れば、二度と子供に対して自分が産みの母親だと名乗る事は許されないので、二人が母と子として触れ合う事は一生ない。
「父親は……魔力を多く持つことは褒めたが、親として愛してくれたのかは分からない。あまり会話もした事がないからな。まあ、それはいいんだ、別に。乳母たちは私を愛して育ててくれたし、皇帝陛下と皇后陛下も気にかけてくださる。…………関係ない話をしてしまったな。忘れてくれ」
オーウェンは軽く笑ったが、アイリーンマリーは笑えなかった。
皇太子になったオーウェンは皇居の外に出る事が許され、様々な所に行く事が出来る。だが彼の行動は一生監視され続ける。
純粋な愛を求めても、皇太子であるオーウェンをただただ愛するというのは難しい事でもある。皇太子という地位とオーウェンを引き離す事は不可能だからだ。
彼に裏表のない愛を与えてくれたかもしれない両親は、どちらも彼の傍にはいなかった。アイリーンマリーのように、愛し慈しむ親は、オーウェンにはいない…………。
「ともかくだ。うん。私は愛し合う男女は尊いものだと思うんだ。だから君がそういう人がいるというのなら、皇太子妃としての仕事以外の部分では自由にしてくれて構わない。何、私からも公爵や皇帝陛下にこの件は話を通しておこう。気を抜く場を得る事が出来るのは、重要な事だろう」
アイリーンマリーは胸の中の難しい感情を言葉にすることは出来なかった。ただただオーウェンに感謝を述べるしかなかった。
帰り道、アイリーンマリーは耐えきれず涙をこぼした。自分に泣く権利などないと思いながらも涙を止められなかった。
自分は自分の事しか考えていなかった。オーウェンは自分の事を考えて行動する事など出来ないのに。
アイリーンマリーは泣き続けた。そして、彼が自分の恋を認めてくれた恩を、帝国のために働く事で返すと、強く強く決意したのだった。
◼️◼️◼️
オーウェンの子供が連日、産み落とされていく。
皇居の雰囲気は明るいものになっていた。
ここが皇帝の寵愛を競い合う後宮のような場であれば、子供が生まれることにより過激化する争いもあっただろうが、この宮殿にいる人々の多くはそういうものとは無縁だ。
側妃たちも愛妾たちも、子供が生まれた連絡が来るたび、母子共に無事だったと聞いては良かったと微笑んだ。
皇太子妃の宮殿にいるアイリーンマリーも、連絡が来るたびにホッとして無事に皇族を産み落とした女性に褒美を与えるよう指示をした。
オーウェンは生まれてきた子供たちを可愛がった。名付けは母親が望めば母親に名付けさせ、そういう事が無ければオーウェンたちが付けた。
数人の出産が終わった頃から、皇帝はオーウェンを褒めたたえた。オーウェンの血を引いた子供たちの多くが、幼いながらも魔力量が多かったからだ。
帝国の未来を担う、結界を維持する大事な魔力源が増えた事に皇居の人々も帝国の貴族たちも大喜びした。
ただ一人、陰鬱としていたのはミーナである。
明日にはオーウェンが謝りに来るだろう、そう思いながら日々を過ごしていたのに、そんな事はないままに月日が過ぎる。気が付けば自分以外の女がオーウェンの子供を産み落としている。つまりは、オーウェンがそれだけ他の女を抱いたという事になる。自分の男の愛が他に注がれる。想像するだけでも辛く苦しかった。
最後にオーウェンと顔を合わせたのはいつの事だろうか。このままではオーウェンに捨てられてしまうと考えた時、ミーナが思い出したのは自分が産み落とした娘の事だった。
オーウェンは娘をたいそう可愛がっていた。では、娘を使えばオーウェンが自分の元に帰ってくるかもしれない。そう思ったミーナは侍女にこう命令する。
「私の娘を連れてきなさい」
侍女たちは一度はうやうやしくその命令を受けたが、しばらくしてからミーナの部屋に帰ってくると、こう言った。
「お会いにはなれないとの事でございます」
「はあ? 何故!」
「姫様は現在、体調を崩しておられるために面会謝絶の状態でございます」
ミーナは舌打ちを一つする。体調を崩すという事は、体が弱いという事だ。使えない奴だと情のない事を思いながらぐるぐると部屋の中をミーナは歩き回った。
「オーウェンに……会わせて!!」
ミーナがそう叫ぶ。
彼女の願いはおよそ一週間かけて叶った。オーウェンとミーナは、およそ一年ぶりに顔を合わせた。
「なんでもっと早く来てくれなかったの!」
ミーナはオーウェンの顔を見てすぐにそう叫んだ。それも仕方のない事で、会いたいと訴えてからもう一週間と少し経っている。その間にもオーウェンはこの皇居を出入りしており、連日夜はここで過ごしていた。
それにも関わらず彼はミーナの元には現れなかったのだ。
「私は貴方の妻よ! 私が会いたいって言ったのに!」
ミーナの癇癪にオーウェンは溜息をつく。
「これでも最大限早く訪れている。今の私の夜の予定は、一か月先まで決まっているんだ。そう簡単に君に会いには来れないよ、ミーナ」
「よ、てい? 他の女の所に行くのが!? あの女たちを私より優先するっていうの! あんなブスたちが!」
「確かに君は私の第一の側妃だが、他の側妃たちも愛妾たちも、皇居にいる以上は等しく私の妻だ。彼女たちを侮辱するのは止めてもらおう」
オーウェンが他の女を庇った事で、ミーナは顔を真っ赤にさせた。
「連日他の女と遊んで、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い! 性病に罹ってるに決まってるわ!!」
確かにミーナの知識の通り、仕事にしろ本人の希望にしろ、肉体関係を複数と結ぶ人間は性病になる事が多い。だがここはそういう、一般人たちが何の縛りもなく自由に関係を持っている場所ではない。
「ミーナ。君は一度、皇居に入るための誓約書を読み直した方がいい。ここの人間の健康管理は魔法使いたちによって行われており、完璧だ。性病を持つ人間は治療を施されたのちに外に出されるし、私も、私と閨を共にする女性たちも、行為の前に魔法使いにより検査で安全を確認されてからしているんだぞ。私たちが性病に罹っている訳がないだろう」
魔法が凄いというのは知っていたが、魔法使いがそんな事が出来て、普段からしているとは知らなかったミーナはもごもごと続くはずだった罵倒を呑み込んだ。
オーウェンがミーナを冷たい目で見る。
「……それからどうにも、君は私を他の、普通の男性と同じように考えているようだな。……皇族を増やすという大事な責務を理解できない女性を、長く皇居には置いておけない」
オーウェンはそれだけ言い、ミーナの部屋を出て行った。
元々今夜もある側妃の元に通うと前々から決まっていた。側妃がオーウェンとの夜を望んだのはもう二か月も前の事だ。オーウェンには夜だけではなく、昼間も皇太子としての仕事があるので、中々側妃の元に赴けなかった。そんな側妃にオーウェンが頼み、本来彼女に割り当てる時間の一部をミーナの部屋に行くために使ったのだ。真面に会話が出来そうであればそのまま会話をしたが、一年ぶりに会ったミーナは相変わらず感情的に癇癪を起こすだけに見えたため、オーウェンはもう自分の時間を彼女に割くのが嫌になった。
部屋の外に出ると、魔法使いが一人控えていた。もしミーナとオーウェンがそのままいい雰囲気になったりするのなら、行為を行う前には検査をしなければいけなくなるので控えていたのだ。
「すまないが、部屋替えを頼む」
「畏まりました。どちらに?」
「行先はどこでも。ただ、この建物内にいては、いつミーナが他の側妃たちに手を出すか分からない。こんな所には置いておけないだろう」
魔法使いは頭を下げた。
オーウェンが歩き出した時、ミーナの部屋からは怒号と物を投げた音が聞こえたが、オーウェンがミーナを振り返る事はなかった。
これがオーウェンとミーナが最後に二人で会話をした瞬間であった。
オーウェンと言い争いになり、怒りに任せて暴れまわったミーナは、いつもの通りに侍女たちに体を洗われて眠りについた。
そして次の朝を迎えた彼女は、驚愕する。
「な、に、これ」
つい昨日まで、ミーナの部屋は彼女好みに作られた、広く立派な部屋だった。皇太子の妻として相応しい広さがあった。壁はミーナの好きな薄ピンクに染められていた。
だが目が覚めたミーナのいる部屋は、クリーム色の落ち着いた壁紙の部屋だ。ベッドこそ昨夜寝た時と同じであるが、起きてすぐに気が付くほどに部屋が狭くなっている。それでも十分に広さはあるのだが、何年も皇太子が一番寵愛する側妃として広い部屋を与えられていたミーナにとっては、突然部屋が狭くなったとしか思えなかった。
「ちょっと、誰か、誰か!」
ベッドサイドのベルを鳴らすと、暫くしてから足音がして侍女たちが現れた。
その侍女たちは普段ミーナの世話をしていた侍女たちとは別の侍女だったのだが、ミーナはその事に気が付かなかった。皇太子の妻という高い地位になったミーナにとって、侍女たちは一人ひとりの顔と名前を覚える価値もない存在だったからだ。それでも普通であれば、今までの侍女たちとの年齢に随分差があると気が付きそうなものであるが、残念ながらミーナは何も気が付かなかった。
「どうかなさいましたか、側妃様」
「この部屋は何!? 私の部屋じゃないわ!」
「いえ、本日よりこちらがミーナ様のお部屋でございます」
「はぁ!? 誰がそんな事決めたのよ! またアイリーンマリー!?」
「皇太子殿下でございます」
オーウェンがミーナの部屋を替えた。
数秒間は呆然としていたが、すぐにミーナはオーウェンを呼ぶように侍女たちに言いつける。侍女たちは彼女の言葉に従ったものの、オーウェンがミーナの願いを叶える事はもうなかった。
◼️◼️◼️
ミーナがオーウェンと会えなくなってから、そのまま数年が経った。
ミーナは暫くオーウェンに会わせろと騒いだもののオーウェンが彼女の願いにこたえる事はなく、あまりに暴れるために、「それ以上暴れるのであれば皇居から今すぐ出て行っていただく」という通達がされた。
それは困るため、ミーナは大人しくなったのだ。
何せ皇居にいれば、衣食住が保証される。夜会に出る訳でもないので豪華なドレスを沢山仕入れる事は無理だが、この建物内にいる限り、飢える事もなく働く必要もない。
ミーナは労働を知っている。だからこそ、働かなくても生きていける環境を知ってしまった事で、二度とあんな状態に戻りたくないと考えていた。
オーウェンがミーナを蔑ろにするのは許しがたい事だったが、この頃にはミーナの方も、オーウェンへの恋心も愛情も殆どないようなものだった。
常日頃使用人たちとしか触れ合わないミーナだが、自分はオーウェンの第一側妃だと謎の自信だけは持ち続けていた。
そんな彼女の元にある日、許しがたい話が飛び込んできた。
侍女たちが話しているのが聞こえてきたのだ。侍女たちは恐らくミーナに聞かせるつもりはなかっただろうが、やや年配な者が多かったために侍女たちは少し耳が遠かった。そのため、お互いに大き目な声で会話をしていて、まだ若いミーナの耳に簡単に入ってしまったのだった。
「聞いた? 皇太子妃様が、皇子殿下を御生みになったそうよ」
「まあ素晴らしいわね。魔力は多いの?」
「そうみたい」
「なら皇太子殿下の後継者はその皇子殿下かしら」
「流石にそれは飛躍し過ぎでしょう、だってまだ赤子だもの……」
ミーナは衝撃を受けた。自分の知らない所でアイリーンマリーがオーウェンの子を孕み、産み落とした。しかも、男を!!
まずいまずいとミーナは焦る。思い返せば、自分はアイリーンマリーを押しのけて皇太子妃になるために、彼女より先に男児を産もうと考えていた筈だ。ところが産んだのは女児だけ……。
他の側妃や愛妾はどうせ自分より下だから――と、根拠もなくミーナは信じていた――問題ないが、アイリーンマリーは駄目だ。
あの女に勝つのは、子供を使うしかない――ミーナはそう考えた。
それから彼女は、自分が産んだ娘を捕まえ、自分の手元で育て、アイリーンマリーが産んだ皇子より次の皇太子として相応しい存在にしようと考えた。
無茶だらけの考えだ。
まずオーウェンの次を継ぐ者は、やはり魔力の多さで考えられる。故にアイリーンマリーの産んだ皇子が男児だろうと、魔力が無ければオーウェンの後は継げない。
そして皇帝になれるのは、帝国では男だけだ。法律がそうなっている。
前者をミーナが知らなかったとしても、後者は平民ですら知っている事だ。
何故この時のミーナがそう考えたのかは、もう誰にも分からない。
ミーナは決意すると共に、行動を起こした。彼女は長年問題を起こすこともなく怠惰に過ごしていたので、監視が僅かに緩んでいた。その隙をついてミーナは一人部屋を出る。元平民の行動力が生かされてしまった。普通の令嬢であれば窓から出よう等と考えないが、ミーナは侍女たちにバレないように、寝室の窓を開けてそこから出て行った。
そして子供が多くいる場所を目指す。無駄に年数を過ごしていたので、子供たちが育てられている場所だけは知っていたのだ。
ここで第二の問題として、出産後一度も会っていない娘が分かるのか? という問題が立ちはだかったが、これもすぐに解決してしまう。
自分の娘を道具としてしか見ていないミーナであったが、オーウェンが名づけた名前は憶えていた。
マーガレットだ。
だが名前だけが分かっても意味がない……と思ったが、マーガレットには不幸な事に、ミーナにとっては幸いな事に、マーガレットの容姿はミーナによく似ていた。どれぐらいかと言えば、顔立ち、髪の色、目の色までミーナに似ていたのだ。唯一違うのはさらりとしたミーナの髪とは違い、マーガレットの髪の毛は波打っているはね気味な毛質だけだったが、二人が並べば母子だと分かる程度に似ていた。
マーガレットは他の子供たちと仲良く遊んでいた。主にマーガレットの傍にいるのは女の子ばかりで、少し離れた所で見守っているのも侍女ばかり、男の姿は見えなかった。
ミーナは勢いよくマーガレットたちの傍によっていった。侍女たちは運悪く、マーガレットたちから少し目線を離していた。皇居は基本的に安全で、皇居で最も尊ばれ守られる幼い皇族たちに不埒な事を考える人間などいないという油断があった。
マーガレットたちは突然近づいてきたミーナに驚いたものの、大人から暴力を振るわれたりした経験がなかったために、逃げる事もせずにしゃがみ込んでいた。
「マーガレット?」
「? うん、わたし、マーガレットよ」
名前を尋ねられ、マーガレットは素直に肯定した。
次の瞬間、ミーナはマーガレットの腕をつかんで引っ張り出した。他の少女たちが悲鳴を上げ、マーガレット本人も高い悲鳴を上げた事で侍女たちは異変に気が付く。
侍女たちの騒ぎ声を聞いたミーナはマーガレットをなんとか抱きかかえ、そのまま走り出した。マーガレットが泣き出して逃げようと暴れるが、それを髪を引っ張って「静かにしなさい!」と怒鳴り黙らせる。
このまま自分の部屋に帰り籠ればいい。そう思いながらミーナは走り続けていたが、長年労働もせずまともな運動もしていなかった彼女に、それなりに体が大きくなっている子供を抱えて走る事は難しかった。
宮殿の廊下を走っていたミーナだったが、侍女たちによって呼ばれた騎士たちがすぐに彼女に追いつき、マーガレットは無事に助け出された。
そして物語は冒頭へと話が戻る。
騎士に押さえつけられたミーナは怒りに任せて暴れていたが、そこに一人の見知らぬ女がやってきた。恰好からして、恐らくこの皇居に側妃として上がっている貴族令嬢だというのはなんとなく分かる。
そんな女性をマーガレットは「お母様」と呼んだ。そして彼女に抱き着いている。それに余計に怒ったミーナだったが彼女は取り押さえられて、そのまま家具も何もない部屋へと連れていかれた。
「出しなさいよ! 私はオーウェンの第一側妃よ!!」
そう叫ぶも騎士たちは何も答えず、ドアは閉じられたまま開かない。
そのまま一夜が過ぎた。
昨日まではふかふかのベッドで寝ていたのに、今日は床の上で寝なければならない。あまりの落差にミーナは絶望した。あんな事をしなければ良かったと後悔したが、それはあくまでも自分の生活に被害が出たために思った事でしかなかった。
次の日、一人のフードを被った魔法使いがやってきた。
「出しなさい!」
ミーナは魔法使いに向かって指を向ける。そして声高にそう命令した。魔法使いはやはりフードを深くかぶっており、口元しか顔が見えないために何を考えているのか分からない。
魔法使いは何も言わないまま、そっと手をミーナに向けた。
「ちょ、ちょっと! 何するのよ! 近づかないで!」
一転してミーナは怯え、顔色を悪くし、部屋の隅に逃げる。
しかし元々家具がなく狭い部屋、大した距離は稼げない。
「来ないで、来ないで!!!! いや、来るな! オーウェン、助けてオーウェン!!!!!!」
それがミーナの最期の言葉だった。
数日後、アップルビー男爵家に一通の手紙が届く。夕食時で、男爵家の人々が全員そろっていた。
皇居からの書類に、男爵は慌ててそのまま、家族の目の前で手紙を開く。それから中身に目を通し、男爵は内容に顔を真っ白にし、けれど最後まで読んで顔に色を戻した。
「どうかしたのですか」
妻が不安がって尋ねる。皇居という事は、ミーナが何かをしたに決まっていた。現在のアップルビー男爵家で皇居との関わりがあるのは、ミーナだけだったからだ。
男爵は暫くなんと説明したものかと口ごもっていたが、結局家族全員に伝える事を決めて簡単に説明した。
「ミーナが次代を担う皇族の方に不敬を働き、処分されたそうだ。だがミーナが産んだ皇女様の存在を鑑みて、アップルビー男爵家には咎はない、との事だ」
家族は揃って言葉を失ったが、一つ確かな事があった。これ以降、ミーナという人間の名前は男爵家の中で触れてはならない禁忌のような存在になったという事だった。
◼️◼️◼️
オーウェンの執務室に、アイリーンマリーが訪れた。アイリーンマリーは歷とした皇太子妃であり、普段からオーウェンと共に仕事をしているので、彼女が現れた事自体はおかしくはない。
だが彼女は最初に、人払いをオーウェンに頼んだ。オーウェンはゆっくりと瞬いて、それから執務室にいた全ての人間に出て行くよう命じた。
例外として、アイリーンマリーの背後にいつも控える側付きの男性だけが残っていたが、壁際に立ち存在を消していたので目立たなかった。
「ミーナが契約違反により、魔法使いにより処理されました」
「…………そうか」
皇居に入る時、全ての女性は皇居の決まり事を説明されて、同意して入る。
それに反した時は基本的には管理者であるアイリーンマリーの所に連絡が入り、前例と違反の内容により、処罰を決める。
だが例外もある。
それが皇居内にいる皇族に対して害を与えた時だ。
国を守る重要なパーツである皇族に対する害は、国家反逆罪。この場合は、対応した魔法使いが独断で処理する事が許されている。
なので魔法使いによってはアイリーンマリーに連絡をしてから対応してくれる者もいるし、逆に、権力者からの横槍を嫌がって即座に処理してしまう者もいる。
今回の担当者は後者だったらしく、アイリーンマリーの元にミーナが問題を発生させたと連絡が来て、彼女が対応を考えている間にミーナは処理されてしまった。
「殿下の最愛の方をお守りできず、申し訳ございません」
ミーナは実の娘とはいえ、マーガレットを誘拐する動きをした。
行き先は恐らく外部ではなかったが、仮定でしかないので実のところは分からない。万が一皇居の外に出ようとしていたなら、罪はより増えていた。その状況も鑑みられたのだろう。
自分が命じた訳ではない。だが皇居内部の女性の管理はアイリーンマリーの仕事でもある。ミーナが死んだのなら、その責任もあるとアイリーンマリーは考えた。頭を下げるアイリーンマリーに、オーウェンはいつもと比べると少し疲れたような声で言った。
「顔を上げてくれ……長年、君には迷惑をかけたな、アイリーン」
「大した事はありませんわ」
実際、ミーナにアイリーンマリーが困らされた事は殆どない。ミーナのやった事に対して、ではこうしてと指示出しをしたぐらいだ。
苦労したのも迷惑だったのも、実際にミーナの世話を担当した人々だろう。
「…………最愛、か」
オーウェンがひとりごちる。
「私は……彼女を愛していたのだろうか?」
たしかに最初は愛していると思っていた。だがその愛は永遠のものだと思っていたのに、どんどん弱り、最後には消えてしまった。
愛していると思い込んでいただけなのかもしれないとオーウェンは思ったが、まるで心の声を読んだかのようにアイリーンマリーが口を開く。
「オーウェン様は、ミーナ様を愛していらっしゃいました。今のオーウェン様の中に想いがあられなくても、かつてのオーウェン様は、真実、彼女を愛しておられましたよ」
「アイリーン……そうだろうか?」
「はい。わたくしはそう思います」
アイリーンマリーはそう言ってから、少しの間をおいて、オーウェンにこう告げた。
「とはいえわたくしも、真実の想い合う愛など、わかりませんが」
アイリーンマリーのいつにもまして自虐的な口調にオーウェンは驚いた。
「何を言う、アイリーン、君にはいるだろう」
ちらりとオーウェンの視線が壁際に控えているアイリーンマリーの傍付きへと向かう。それに気が付いたアイリーンマリーは、首を横に振った。
「長らく殿下にはお伝え出来ずにいたのですが……彼はわたくしの愛人ではありません。わたくしの従兄です」
アイリーンマリーが視線をやると、傍付きの男は前に出た。
「帝国の希望の未来、皇太子殿下にご挨拶申し上げます。私は前任であるグレイアムが皇太子妃殿下の元を去ってより、皇太子妃殿下のお声がけいただき、仕えさせていただいております」
「ちなみにですが、彼は幼い頃に引いた風邪が原因で、子を成す行為そのものが出来ませんの。そのため、処理もすませた上でわたくしに仕えてくれています」
男性器についての対応が済んでいるという事だ。
「……本当はもっと早くにお話しするべきだったのですが、殿下に恥を晒してまで願ったにも関わらず別れたとは言い辛く、本日までお伝え出来ずにいました。申し訳ございません」
「いや、いや……構わない。だが、何故……?」
アイリーンマリーは少し悲しげに微笑んで、オーウェンに己の恋の顛末を語った。
アイリーンマリーと婚約するはずだった伯爵令息のグレイアムも、最初こそ本当にアイリーンマリーを愛していただろう。
アイリーンマリーが急遽皇太子の妃になってしまうハプニングはありつつも、むしろそれは恋のスパイスとなって二人を燃え上がらせた。実際、その勢いでアイリーンマリーはオーウェンに愛人を持つ事を許容するよう願い出ている。
幸いなことにオーウェンは快く愛人の存在を許した。
さて、常日頃一緒にいるために、グレイアムをどういう扱いでアイリーンマリーのそばに置くか。それが次の問題となった。
最も良いのは騎士として護衛になる事だ。
護衛騎士であれば、貴族の中でもそれなりに身分の高い者がなったりする。特に皇族の護衛ともなれば、貴族の当主ですらその役目につくこともある。
だがグレイアムは剣はからきしだった。いくらなんでも、剣をまともに振るえないのに護衛騎士は無理だ。
それから様々な事を考えたが、アイリーンマリーのそばにいて宮殿までついて行く事も考えた結果、グレイアムはアイリーンマリーの傍付きとしてついて行く事になった。
だが長年高位貴族の息子として過ごし、アイリーンマリーと結婚後も爵位を与えられて当主となるように教育されてきたグレイアムにとって、他人に仕え労働を行うのは苦痛でしかなかったようだ。彼が他人の世話をしたがる性格であればなんとかなっただろうが、グレイアムは違った。最初こそ恋の情熱でなんとかなったが、時間経過と共に鬱々とした気持ちを持ち出す。
本当なら今頃、親から爵位をもらい、良いところの貴族令嬢を妻に迎えて当主になっていた。
だが今は、輝かしい表舞台に立つアイリーンマリーの日陰者として、彼女の傍に侍るだけ。
次第に二人の心は合わなくなり、グレイアムはついにアイリーンマリーに一方的に別れを告げて、宮殿を去った。二人の関係は終わり、アイリーンマリーはあれほど側にいてほしいと願っていた人を失ったのだった。
「わたくしのような女に、愛を語る資格などないかもしれません。ですが……息子の顔を見たときに、胸の内にひどく温かなものが広がったのです。それがきっと愛だと……いえ。自分に人を愛する事が出来ると思いたいだけなのかもしれませんが……」
「アイリーン。それは愛だ。親が子に想う愛だよ。私が、生まれた子供たちに感じたのと同じだ」
オーウェンは立ち上がり、座っているアイリーンマリーの前に膝をついた。慌てるアイリーンマリーを制して、膝の上の彼女の手を握った。
「…………私たちはこれまで、国を背負う者として協力しあってきた。もし君が許してくれるのならば、国を担う者同士としてだけでなく、夫として。妻として。最初からやり直してくれないか」
「わたくしで……よいのですか? 初対面で己の我欲を優先するような女を」
「君以外に、私の役目を理解し、共に歩める人はいないよ」
アイリーンマリーの目から、雫が頰を伝って落ちる。
「これからも、おそばにおいてくださいませ。最期まで、オーウェン様をお支えする事を、どうかお許しください」
二人が抱き合うのを見ながら、壁と一体化していた傍付きは外にいるオーウェンの部下たちに、今しばらくは入れない事をそっと共有したのだった。
◼️◼️◼️
数日前に怖い目にあって以来、マーガレットは突如泣き出す事があった。その度に泣いているマーガレットをあやしていた女性は、自分の方に歩いてくる高貴な女性に慌ててマーガレットを抱いたまま礼をする。
マーガレットは涙をこぼしながら顔を上げ、パァッと笑顔を浮かべた。
「あいりーんさま!」
「マーガレット。怖い目にあったと聞いたわ。大丈夫だったかしら?」
「うん、うんっ、きしさまたちがまもってくださったの、おかあさまもすぐにむかえにきてくださったの!」
「それは良かったわ」
マーガレットの言うお母様は、実の母ではない。だがマーガレットからすれば、実の母同然の女性である。
アイリーンマリーより幾分か年上の彼女は、元は帝国の南にある別の宮殿にて、皇族のある男性との間に子供を授かり、出産した女性だった。ところが彼女が産み落とした子供は息をしていなかった。乳を吸う子供を失ってしまったにも関わらず、彼女の胸からは母乳が出てくる……。
皇族を管理している魔法使いたちは、パズルのピースを合わせるためには、人の心すら蔑ろにする事がある。
女性はまともな説明もないまま、マーガレットの乳母として都に連れてこられたのだ。反発してもおかしくなかったが、幸いにも彼女は生まれてすぐに母親から興味を失われてしまったマーガレットに乳を与え、母として愛し慈しんでくれた。
「もう二度とこんな事は起こりません。安心してちょうだい」
「ありがとうございます、皇太子妃様」
深々と頭を下げる彼女に手を引かれて、マーガレットはニコニコ笑顔で去っていく。
それを見送ってから、アイリーンマリーはそっと、窓の外を見た。
死した魂は皆一度空に登り、その後、裁定を受けて地の底に落ちるか、さらに空の上に行くかが決まると言う。
ミーナは今、どこにいるのだろう?
「何故彼女は、あの子を愛さなかったのかしら」
使命として、仕事として子を産む他の女性たちが産んだ子に愛情を持てないのはまだ分かる。
だがミーナはオーウェンを愛していたはずだ。
愛した男との間に出来た子を、何故愛せなかったのか。
アイリーンマリーには分からない。
アイリーンマリーは今、オーウェンを愛している。皇太子として務めを果たす彼を尊敬すると同時に、己のような罪深い女を愛してくれる彼を、愛している。彼との間に生まれた子は本当に可愛い。乳母に任せきりにするのではなく、自分でも世話をできる限りしている。
アイリーンマリーは今幸せだ。
ミーナは生前、幸せだっただろうか?
不幸せだっただろうか?
もし不幸せだったとしたら……彼女は一体、どうすれば幸せになったのだろうか。どうすれば、あのような形で死ななかったのだろうか。
オーウェンがアイリーンマリーとの婚約を無くし、ミーナを皇太子妃にすれば幸せだった?
そこまでしなくても、ミーナだけを愛して他の側妃や愛妾をいれなければ幸せだった?
きっと、間違いは、最初からだった。
ミーナは幸せをオーウェンと共に求めた時点できっと、形が多少変わるだけで、この結末は決まっていたのだろう。
せめて彼女が彼を愛さなければ……というのは、無意味なたらればでしかない。
◼️◼️◼️
『◼️◼️代皇帝オーウェンと、皇后アイリーンマリーは愛情深い皇帝夫妻として知られている。二人の間には十人近い子がいたとされ、二人が今日我々に馴染み深い演劇オーギュストンとマリアのモデルとされているのは、多くの人が知る所だろう。帝都の南噴水公園には皇帝オーウェンの像が建てられており、その横には皇后アイリーンマリーも寄り添っているが、この像は夫婦円満、恋の成就、子宝など様々な事を願う帝国民が拝みに来るために、訪れる人が絶える事がない人気のスポットとなっている。』
■アイリーンマリー
公爵令嬢→皇太子妃。
魔力量は多い。
■オーウェン
無数の皇族→皇太子。
魔力量は多い。子供の殆どが「魔力量が少し多め~多い」であるため、皇帝からは優秀と言われた。
■ミーナ・アップルビー
平民→男爵令嬢→皇太子の側妃。
魔力量は普通。
■マーガレット
皇太子オーウェンと側妃ミーナの間に生まれた娘。
乳母の事をお母様と呼んでいるが、これは他の幼い皇族が実の母親にお母様と声をかけているのを見て、「傍で育ててくれる侍女じゃない女性=おかあさま」と認識したため。特殊環境で生まれ育っているので、今のところ実父実母にそこまで拘っていないが、それはそれとして実父オーウェンにはなついている。
魔力量は多い。
■スティーヴン
皇太子オーウェンと皇太子妃アイリーンマリーの間に生まれた息子。
魔力量は多い。
■マーガレットの乳母
作中で説明された通りに元は別の地域の皇居に入り、皇族の子を出産した。自分の子は死産だったが母乳が出たため、その少し後に生まれたマーガレットの乳母として魔法使いたちによって皇太子の妻たちが暮らす皇居に移動させられた。
魔力量は普通。
■皇帝
オーウェンの父方の伯父。
魔力量は多い。ただ子供は「魔力量が普通~少し多い」で収まっていた。
■皇后
魔力量は多い。
■アップルビー男爵
ミーナの叔父。ミーナの母親の弟。昔は姉とは仲が良かったが、彼女が平民と駆け落ちした事によって関係が悪化した。
ミーナの最期を聞き、自分が引き取った事は正しかったのだろうか? と悩んだりもした。答えは出ない。
魔力量は少し少ない。
■アップルビー男爵夫人
ミーナの義叔母。子供を数人産んだがすべて男児。ミーナを引き取る事は(親を失った同情により)同意していたので、彼女のやらかしについて夫を一方的に責めたりすることはなかった。
魔力量は少し少ない。
■アップルビー男爵令息の一人
ミーナに篭絡されて親の指示を二度も無視した息子。親からはとても折檻されたが、それでもミーナにぞっこんだった。ただ皇太子の元に行ってしまい、数年後に皇族に手を出そうとして死んだと聞き、流石に恋心も消えた。
魔力量は少し少ない。
■キャロリン・アップルビー / ダン
ミーナの実両親。
母親はアップルビー男爵家の長女。父親は色々仕事を転々としていた平民。急性アルコール中毒らしい症状で亡くなった。
母親は魔力量が普通。父親は魔力がほぼない。
■ミーナの侍女たち(最初~中盤まで)
比較的若いかつ優秀な侍女たち。実は皇居内で配属される侍女のレベルは他の側妃や愛妾よりずっと良かった。
魔力量は様々。
■ミーナの侍女たち(終盤)
引っ越し後の侍女たち。ちょっと問題があったり、他に仕事がなくて困っていたりする侍女が多い。なので中盤ぐらいまでミーナに仕えていた侍女よりも大分レベルが落ちる。ミーナがやらかした際にはちゃんと監視していなかった事を咎められ、罰を受けた。
魔力量は様々。
■側妃たちと愛妾たち
皆魔力のある貴族令嬢。中には現時点で婚約者が決まっている女性もいる。あくまで子供を産む仕事として入っている人が殆ど。皇族の子を産んだ事があるというのは帝国では一種のステータスにもなっているので、産んで皇居から辞した後に結婚相手に困るという事はあまりない。
側妃は実家にある程度力があり、家から世話をする侍女とかを呼んだりできる人が多い。愛妾は逆にお金がなく、それこそお金を稼ぐために入っている人が多い。
部屋は側妃に与えられている部屋の方が圧倒的に広いが、愛妾たちも一人ひとり個室が与えられている(リビング、寝室、個室風呂などが完備)。
皇居に入る際に「離縁以外では外に出ない。外に出た場合は、産んだ子供に対して母親と名乗る事を禁ずる」他様々な事を書かれた契約書にサインさせられる。この契約書は魔法使いが作ったものであり、破るとすぐ魔法使いに分かる。
子供を産むと一人につき一定金額の報酬が支払われる。万が一死産とか出産後数日で子が亡くなったとしても十月十日の時間と出産という危険のある行為を行っているため、その報酬が没収される事はない。産んだ子供の魔力が多いと、それに上乗せでお金が支払われる。
産んだ子供とどうかかわるかは本人の自由であるが、一度母親としての仕事を拒否した場合、よほど熱心に会わせてくれと訴えない限り会わせてもらえない。
魔力量が少ない人から多い人まで様々。
■伯爵令息グレイアム
アイリーンマリーの幼馴染であり、伯爵家の次男。
アイリーンマリーの愛人を止めた後は(彼が考える)貴族男性がやるタイプの労働を行おうとしたが、それまでは周りからの押し上げがあったにも関わらず、一気にそっぽ向かれてしまい困惑する。アイリーンマリーの愛人だった間は何をしていたとしても「この男は皇太子妃の愛人だ」という事で周りが忖度したが、二人の仲が終わった時点で忖度が終わってしまった結果だった。彼は忖度が自分の実力によるものと思っていたため、現実の落差に打ちのめされ、何かしらの部門で頭角を現す事もなくその後は貴族社会に埋もれていく。
魔力量は普通。
■グレイアムの家族
アイリーンマリーの愛人になる事を次男が選んだ時は、一応止めつつ、そこまで愛しているのなら……と許したが、あっさりとアイリーンマリーと別れて帰ってきたうえに仕事が上手くいかないと愚痴るので完全に見限った。
魔力量は普通。
■アイリーンマリーの傍付き
アイリーンマリーの従兄。実は長男だが、子供が出来ない事が分かった事で嫡男から外されて、家でやや冷遇されていた。そこをアイリーンマリーに助けられたので、彼女に対する忠誠心が高い。
■皇族
帝国を維持し平和を守るための歯車。揺り籠から墓場まで。
実は結界に日々魔力を吸い上げられているために、平均寿命が他の貴族より低い。魔力があまりに少ないと、若くして死んでしまう。なので出来る限り魔力が多い子供を増やそうと苦心している。
なお、皇室とか皇家ではなく皇族と言われるのは、厳密には血よりも魔力量を重視しているため。数が減ったり総魔力が減ると、貴族の中から魔力の多い人間が皇族に補充される。
◼️帝国の平民
「帝国は皇帝陛下や皇族により結界が維持され、魔物や瘴気に苦しまなくてすんでいる」
という、ざっくりとした認識はあるが、皇族の詳しくどんな風に生活していて、どれぐらいいるかとかは知らない。魔法使いによる情報統制が行われていて、真実が広く知られる事はない。
■皇居(結界維持の核がある宮殿)
産めよ増やせよ魔力を貯めよ。帝国を守る重要装置兼魔力保管庫。
ちなみにこの中には皇族ではない普通に職務についている貴族男性(魔力持ち)もいるので、たまに皇族以外の男性との浮気が起こったりするが、それが咎められる事はない。なぜなら生まれた子供は問答無用で皇族の枠組みに組み込まれるから。血統管理の問題から、魔法使いたちは父親が誰かだけはしっかりと探る。入る際には書類及び口頭での念入りな説明もされるので、入った後に知らなかったという訴えは出来ない。
■魔法使い
皇族を管理し帝国を維持し平和を守るための歯車。
皇居にいるのは特に医療・生物に特化している者が多く、皇居内の人間が病気を持っていないかという常日頃からの検査も行っている。