5.もう君と恋人に戻りたいだなんて言わないから
「ママ、いたいいたい?」
スネイヴは何も言わずに部屋から出て行った。パタンとドアが閉まる音がして、リタはそのまま床に座り込み、ポロポロと涙を流す。
リィヴェが心配そうにリタの頭を撫でる。その小さな手のぬくもりで、更に涙が零れ落ちた。
「リィヴェ、ごめんね、ママすぐに元気になるから。そしたらお祭り行こうね」
「ママが、いたいいたいなら、リィ、おまつりがまんできるよ。おにわで、あそんでくるから、ママはおねんねしてて」
「リィヴェ……」
健気な娘の言葉に、本当にダメな母親だとリタは必死に笑顔を作りリィヴェを抱きしめた。
「ママは、お兄ちゃんが、きらいなの?」
「違うわ、リィヴェ。ママはお兄ちゃんが大好きよ。でも一緒には居られないの。ママにはリィヴェがいてくれればいいわ。大好きよ、リィヴェ」
「リィもママがだいすきよ!」
きっとまた、この気持ちは封じられる。大丈夫。そう何度もリタは心の中で繰り返す。涙が止まった顔を拭き、リィヴェの手を握り締める。
「さあ、お祭り、行こう!リィヴェの可愛い姿、みんなに見てもらおう!」
そう話しかけるが、リィヴェの反応が返ってこない。心なしかいつもより温かな手の温度に、リタははっと娘の顔を覗き込む。
さっきまでは元気にしていたのに、頬は赤く染まり、苦し気な呼吸をしていた。そう言えば昨夜は花まつりが楽しみだと中々夜寝付けない様子だった。
何回も何回もドレスを着たり脱いだりしていたリィヴェを思い出す。まさか…風邪をひいてしまったのだろうか。花まつりに行きたくて、無茶をしていた?リタが心在らずだったから、娘の体調不良に気付けなかったとしたら……
「ああ、どうしよう、花まつりの日はお医者さんはお休みなのに……ううん、私が母親だもの、しっかりしなきゃ……」
街まで出れば休日にやっている医者も居るはずだと出かける準備をする。苦し気なリィヴェに何度も何度も心の中で謝った。
──ごめんね、ママがしっかり見てなかったから。ごめんね…
泣きそうになりながらもリィヴェに掛物をかけ、抱き上げた。辻馬車を拾い、街まで行くしかないが、花まつりの日に果たして空いている馬車などあるのだろうか。不安に胸が圧し潰されそうになりながらも、バタバタと家を出た。
必死に馬車を探すが、街行の馬車は全て満員だ。絶望感に泣きそうになっていると、ふいに後ろから声を掛けられる。
「リタ、どうしたんだ?リィヴェに何かあったのか?」
振り返ると、其処にはスネイヴの姿があった。リタはなりふり構わずスネイヴに駆け寄った。
「リィヴェが熱を出して…!!直ぐに、直ぐに医者にみせなきゃ…!!でもお祭りで馬車が…!!」
「っ!!大丈夫だ。僕が馬を出す。さあ、乗って!!」
あんなに酷い態度を取ったのに、スネイヴは迷うことなくリタに救いの手を差し伸べる。リィヴェごと抱きかかえられ、馬に乗せられる。後ろから抱きしめるようにスネイヴの体温を感じ、リタは泣きそうになってしまった。
数刻馬を走らせ隣街に辿り着いた。スネイヴが迅速に医者を手配してくれ、リィヴェを診てもらう。やはり風邪だったようで、注射をされ、飲み薬を処方してもらった。薬が効いたのか、すやすやと寝息をたてるリィヴェにリタはホッとして腰が抜けそうになってしまった。
ふらふらと座り込むリタをスネイヴが後ろから抱きかかえるように支えてくれる。その体温にドキリと胸が音を立てた。
「大丈夫かい?リィヴェも落ち着いて良かったね。宿をとったから、今夜は其処で休んで、明日また家まで送るよ。だから君もしっかり休んで」
「あ……その、ありがとう。本当に動揺してしまって…ごめんなさい。貴方を巻き込んじゃって。こんなに良くして貰って何と言えば…」
「いいんだ。僕がしたくてしたんだから」
遠くで花まつりで賑わう声が聞こえる。まつりから外れた所にある宿屋の客は皆まつりに行っているのかシンと静まり返っていた。
花まつりの日に、リタとスネイヴは恋人になり、口付けをした。初めて結ばれたのも花まつりの日だった。思えば花まつりはスネイヴとの思い出ばかりだ。
「花まつりで…君は串ドーナツを食べてたね、いつも」
ポツリと零れた言葉にリタはふっと笑った。
「貴方は串肉だったわね」
「初めて君を誘った花まつりの日は緊張して肉が喉に閊えるかと思ったよ。味何てまったくわからなかった。君は美味しそうにドーナツを頬張っていて…可愛いいなって思ってた」
まるで昔に戻ったかのように、あの日が思い出された。好きだと、そう自分の気持ちが素直に伝えられたあの日が、切ないほど懐かしかった。
「君が…貴族である僕を受け入れられないのなら、僕は貴族を辞める。伯爵家からも出る。そう覚悟したんだ」
「え……?」
「実はね、君に別れを切り出されてから、君を迎えに来る準備をしていたんだ。勝手にね、君は僕を待っていてくれるんじゃないかって…思い込んでた。どんな気持ちで君がこの数年間過ごしてきたのか…出産や子どもを抱えて…大変な思いをしてきたことなんて…知らなかった。最低だな」
ポツリポツリと話されるスネイヴの言葉に、リタの心臓は不穏な音を立てていく。まさか…スネイヴがそこまで自分を想い行動してくれていたなど、知らなかった。そんな彼に、リタは最低な嘘を吐いたのだ。
「最低だと…分っていても、君を諦めきれなくて、往生際が悪かったね。もう君と恋人に戻りたいだなんて言わないから安心してくれ。リタとリィヴェが幸せになれるように、僕は影から協力するよ。もう貴族でも伯爵家の嫡男でもない普通の男だけど、仕事もあるし、君たちの力になれるくらいは甲斐性はあるつもりだから、何かあったら…今みたいに、言って欲しい」
どこまでも優しいスネイヴに、リタはもう涙が堪えきれなかった。自分の為に全てを捨てて、リタの嘘にも気付いているだろうに、責めずに、身を引いた。そしてこれからもこの距離を護りつつ、惜しみなくその力を貸してくれると──…
もう限界だった。
好きだ、この人を愛している──
リタの瞳からポロリと涙が零れ落ちた。
「リタ……?」
「全部、嘘よ。夫が居ることも、リィヴェの父親が貴方じゃないと言ったことも。あの子は、貴方の子ども。貴方を愛していたから、一人で産んで育ててきたの。ごめんなさい、スネイヴ……──」