1.サヨナラ、もう二度と会わないわ
「ねえ、スネイヴ。私達別れましょう?」
リタ・カルマンは平和な昼下がりのカフェで、向かい合って座っていた恋人に突然別れを切り出した。目を丸くしてリタを見つめる恋人…スネイヴ・ロードンは育ちの良さそうな整った顔を曇らせた。
「何故?僕たちは愛し合い、未来も誓い合った。別れる理由が分からないよ」
「ねえ、本当に私達一緒になれると思った?私は商人の娘。貴方は貴族。住む世界が違うわ。私は伯爵夫人には向いていないのよ」
リタはカルマン商会の長女で、スネイヴはロードン伯爵家の嫡男である。出逢いこそ偶然で、本来なら交わる筈は無かった。素性を隠していたスネイヴが貴族だと知ったのはつい最近のこと。
そして、伯爵家から圧力がかかり、カルマン商会が立ち行かなくなったのも、つい最近のことだった。
『息子と別れて頂けますね?』
氷の様に冷たい声が今もはっきりと思い出せる。リタは、スネイヴの縋るような視線を無視し冷たい視線を送り返した。
「私たちは終わりよ。貴族だと隠していた貴方を信頼することも、このまま愛することも出来ないわ。貴方は貴方の世界で幸せになって頂戴。私を決して巻き込まないで。サヨナラ、もう二度と会わないわ」
返事も聞かずにリタは席を立った。スネイヴはリタを引き留めなかったし、それが彼の答えのような気がした。家族の為にも、商会の為にも、リタはこの決断を曲げることは無い。
こうして二人は別れた筈だった──
◆◆◆
「月のものが…来ない……?」
スネイヴと別れて一月が過ぎようとしていた。毎月規則的にきていた月のものが遅れており、心当たりがあるリタは蒼褪めた。
スネイヴとは何度も身体を重ねていた。婚姻するまではと避妊はしてくれていたが、それも完璧とは言えない。まさか…と奈落の底に突き落とされるような絶望感がリタを襲う。
「どうしよう……」
身を切るような想いで、別れを切り出したのに。本当は愛していた。彼の妻になりたかった。生涯をその隣で過ごせたらと…ずっと夢見ていた。
しかし、それは無理なのだ。お互いの為に、別れるのが正解な筈だった。そう信じていたから、彼を傷つけてでもこの手を放した。
もし、彼と自分の間に子が出来ているのなら、堕ろす選択肢は無い。
「っ………」
リタはそっと下腹部を撫で、涙を流す。
「ねえ、ここに居るの?」
彼を望めないのならば、子を望んでも良いのだろうか。駄目だと言われても、リタの中の決意は固まっていた。
それから月日が経過し、リタの胸の中にはすやすやと寝息を立てる可愛い赤子が抱かれていた。
「リィヴェ、それがあなたの名前よ。愛してるわ。ママと一緒に幸せになりましょうね」
◆◆◆
「まーまっ!みて、むしさん!」
「いらない、いらないから、バイバイしようねっ!!」
娘の手の中でもじゃもじゃと動く虫に気が遠くなりそうな自分を叱咤しながら決死の思いで虫を掴み、茂みへと逃がしてやった。カルマン商会の伝手を頼って隣国に移り住み、二年が経った。女手一つで育てたリィヴェはもうすぐ三歳になる。活発な子で、いつもリタは驚かされてばかりだ。
「そろそろお祭りね。リィヴェに可愛い衣装を作ってあげるわね」
「リィはむしさんのふくがいい!!」
「……、きっと似合うわ」
自然豊かな田舎町で育てた所為か、リィヴェは虫が大好きだ。お嬢様育ちのリタは移り住んでから何度卒倒しかけたか。今では素手で触れるようになったのだから『母は強し』である。
田舎街でも貴族の避暑地としては人気のあるこの町には、幾つもの別荘がある。別荘の持ち主たちは夏場しか滞在しないので、不在時も合わせ年間を通して別荘を管理するのがリタの仕事だ。
リタが管理を任されている別荘はヴィヴィオ子爵が所有するものである。横暴な貴族が多い中、ヴィヴィオ子爵夫妻はとても穏やかで思慮深い。子連れで隣国から移り住んだ商家の娘であるリタにも分け隔てなく親切に接してくれ、リタはこの夫妻に心から感謝している。
今は春先であり、夫妻が訪れるのはあと少し先の話であるが、少しでも過ごしやすくなるようにと別荘を管理するのにも力が入る。
庭の雑草をせっせと抜きながら、虫を探して楽しそうに走り回るリィヴェを微笑ましく見つめた。
「リィヴェ、そろそろ休憩しない?ママ、美味しいお茶を淹れるわ。良い子はひとりで手が洗えるかしら?」
「わーい!リィヴェはよいこだから、あらえるよ!」
素直に手洗い場まで駆けていく愛娘を見送りながら、リタはそっと立ち上がった。お茶の準備をしようと庭から出ようとした瞬間、背後から視線を感じ、反射的に振り返った。
別荘の庭先には、眼を見開いてこちらを凝視している男が居た。その姿が目に入った途端にリタは驚きで目を見開いた。
時間が止まった気がした。
まさか、こんな所で再会するだなんて、思っても見なかった。田舎が全く似合わない、高貴な佇まいに、あの頃と変わらない優しい瞳。見上げるほど大きな身長に、息を呑むほど整った顔。
忘れるはずは無い。
リタにとって生涯で只一人愛した人。そしてリィヴェの父親──
「スネイヴ……──」
自然と零れた彼の名に、目の前の男─スネイヴは瞳を揺らした。
「リタ……」
絡み合う視線と、重たい沈黙を破ったのは、手を洗って帰って来たらしい愛娘の声だった。
「ママーっ!!おてて、あらえたよーっ!あれ?おにいさん、だあれ?」
スネイヴの息を呑む声が聞こえた気がした。銀色の髪と菫色の瞳。自分と瓜二つな容姿を持つリィヴェを見て、スネイヴは瞬時にある仮説に辿り着いたかのように、リタを見つめた。
「リタ……、この子は……」
「わ、私の子よ。あ、貴方とは、関係ないから安心して頂戴。リィヴェ、ママはこのお兄さんとお話があるから、お部屋で良い子で待っていられる?机のお菓子食べていいから」
「はーい!」
ご機嫌で家の中に入っていくリィヴェの姿が見えなくなった瞬間に、リタはスネイヴに抱き寄せられていた。