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無意識

作者: 齊川 萌

 さあ、ここに入ればすべてが始まる。

 確か入り口の立て看板にはそんな文言が書いてあったような気がする。それだけだ。たったそれだけ。

 だが一歩踏み出そうとして気づく。地面が酷く乾いている。これでは中に入ることは出来ない。それを本能が教えている。無理に進もうとすれば洞窟はぼろぼろと崩れ始めるに違いない。そんな現場に出くわしたこともなければ、誰かにそう言われた記憶もない。そもそもどうしてこんな場所にいるのかさえ分かっていないのだ。ここにあるのは洞窟だけだ。先も見えない、ただの真っ暗な洞窟。入り口を湿らせなければ進むことの許されない洞窟。山のふもとにあるのか、それとも谷底にあるのか、それさえもあいまいだ。

 とにかく、水分だ。

 私は辺りをきょろきょろと見回してみた。文字通り何もない。この洞窟がどうやって出来上がったのかも分からない。私は唇を開き、右手を突っ込んだ。ああ、そうだ、これでいい。私は自分の中に正解があったことを喜んだ。そうして唾液が滴る右手で洞窟の入り口に「×」を書いた。何度も何度も繰り返すうちにやがて「×」は巨大な水たまりを作った。私はこの中に入る資格を得たのだ。

 ゆっくりと、一歩一歩中へと入っていく。ふいに洞窟の向こう側から深い呼吸のような風が吹いてきた。それは私の全体を包み込んで、なんとも言えない不思議な感情を呼び起こした。甘美、恍惚、望郷、懐古——その一つ一つがゆっくりと私に馴染んで、洞窟の入り口はやがて私へと戻って来た。

 もっと奥へ進みたい……その欲望を叶えるために必要なのは、力だった。これもまた、私の記憶を超越した知識として湧き上がって来た。それがどのような力なのかさえ手に取るように分かった。私は全身にまんべんなく分布された血肉のすべてを動員して、私の身体を少しだけ大きくすることに成功した。私の全身が織りなすリズムに合わせて、私になった洞窟の入り口も鼓動した。互いのリズムが重なり合うことで私はますます力を得ることができ、私の身体は一回りも二回りも大きくなることに成功した。こんなにも自分が大きくなれるのだと知って、私の中にまた別の力が湧いてくるのを感じる。

 しかし、進もうと思えば思うほど私の中の力は大きくなり、やがて私はその力に自身が飲み込まれないように保つことで精いっぱいになっていた。洞窟は本当にゆっくりとだが入り口が狭くなっていっている。私はもう元の世界に戻ることは出来ないのだと確信した。これもまた、常識や一般論を超越したところからやって来た知識だ。この世にはアカシックレコードというものが存在するらしいが、私がこの先で得ようとしているものは、まさにその狂気じみた都市伝説の先にある真実なのではないかとさえ思った。

 洞窟の内側が奇妙に波打っている。それは私を嵌める罠のようにも見えた。誰が何のためにこの穴を掘り進め、そうして洞窟という形にしたのか全く見当もつかない。ただ一つ確かなことは、この洞窟の中に入ってしまった私は、この狡猾な生物に飲み込まれてしまったのだということだけだった。洞窟は生きているのだ。

 何度も意識を飛ばされそうになりながら奥へと進んでいくと、暗闇の中にさらなる暗闇が存在した。そこが自分の辿り着くべきゴールなのだと、またも本能がそう叫ぶ。私は迷うことなく最後の力を振り絞った。もう、この先に何が待っていようと恐れることなど何もない気がした。この先私に待っているのは、希望以外の何物でもないことが私にはわかったからだ。

 洞窟の鼓動がどんどんと早くなって来る。暗闇の中の暗闇は私を迎え入れるように徐々に同じ目線の高さに下りてくる。飛行機から下りるための階段がゆっくりと下されるように、私の目の前に空洞が下りてくる。私の鼓動は早くなり、私はだんだんと洞窟になっていくのが分かった。私は洞窟の一部になるためにここにやって来て、そうしてわけもわからずに唾液を垂らし、その水たまりがすべての始まりなのだと知った。

 ここまで来てしまえば、もう安心だ。

 私は……いや、その洞窟は言った。奥の方から生ぬるい風が吹いてくる。それはシンフォニーの響きを持って私の鼓膜を震わせる。音のない音が、光のない光が、そして闇を持たない暗闇が私のすべてを包み込んだ。

 ああ、私は、生きている、生きている、生きている!

 私はすべての力を解放した。その瞬間、洞窟の奥から吹く風に乗って私の身体は飛び出し、そうしてしばらくののち、私は意識を失った。

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