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短編大作選

ナップザックダンディー

作者: 高鳴ともつぐ

 目の前で子供が溺れた。その光景が、今も脳裏に深く刻まれている。何も、することが出来なかった。足が固まって、びくともしなかった。そんな、自分に今も悔いている。

 助けてあげられなかった、昔の出来事が、今の僕を作っている。そう断言してもいい。その出来事があってから、外出時は、色々な役立つ道具を入れた、ナップザックを持つようになった。


 それからというもの、頻繁に目の前には困っている人が現れた。男性もたまにいたが、ほとんどが子供や若い女性だった。どうやら、僕は困っている人を、引き寄せてしまうらしい。あの日から、僕の人生は、ガラリと変わった。

 僕が困りを、誘発してしまっていたらどうしよう。僕が誰かの不幸を、呼び寄せてしまっていたらどうしよう。そんな考えが頭に浮かんだ。


 気になりすぎて、占い師に見てもらうことにした。見てもらった結果、誘発しているのではなかった。誘発ではなく、こちらが困っている人に、引き寄せられているのだと言われた。

 僕はヒーロー。柄にもなくヒーローなのだ。自分の意思ではなく、ヒーローのような使命を、与えられているのだ。だが、ヒーローとは何もかも程遠い。ただの、ダサいオジサンだ。


 収入源は株だけ。仕事と呼べるかは、疑問だ。でも、1億の貯金がある。人が苦手だから、株に行き着いた。人と関わらない仕事なんて、限られる。人が苦手な人は、大抵、ここに辿り着くだろう。

 人は苦手だけど、助けたいと思ってしまう。それは、昔からだ。あの出来事があってもなくても、人の困りが気になってしまう。人が苦手だからこそ、助けたいと思ってしまうのかもしれない。


 恋をせずに、40歳まで来てしまった。男性とも、まともに話せない。なのに、女性とペアになど、なれるわけがない。こっちがいいとしても、そんな情けない僕を、女性は嫌うだろう。

 もういいと思っている。ひとりで生きていこう。そう、心に決めている。




 路地裏辺りを歩いていた。すると、男の人に、車に乗せられそうなっている、美女を見つけた。とてもとても、苦しそうだった。眉毛は下がり、眉間にはシワが寄っていた。

 僕が助けなければ、もっと強い傷になる。一生消えない、心の傷になってしまう。自然現象から助けることや、機械から助けることは多かった。それが今までの、ほとんどを占めていた。だから、こんな状況は初めてだった。


 向かっていくと、殴られた。殴られながら、何度も立ち向かっていった。痛みは、なぜかほとんどなかった。この状況で力を発揮する道具は、持ち合わせていなかった。ここで力を発揮するのは、己の度胸だけだ。

 車に乗せられてしまった後の、美女の想像をしては、苦い顔になった。突然、男の人たちは、諦めたように車に乗り込み、エンジン音を響かせながら、去っていった。


 カッコいいと言えるものではない。ヒーローと言えば、嘘になる。普通の臆病なだけの男だ。ただただ、美女の不幸の度合いが、進まなくて良かったと、思うだけだった。

 助けられたが、他の人に助けられたかった。そう、思われているかもしれない。そんな、後ろ向きの考えが、頭に浮かぶ。いつもの僕から、全然変わっていなかった。


 会釈をして帰ろうとすると、呼び止められた。美女の声だった。その声には、ありがとう、という言葉が乗っていた。ありがとう、ありがとう、と何度も言われた。

 美女は小刻みに震えていた。男の人が怖いと言いながら、僕へは真っ直ぐと心を突き刺してきた。泣いていた。美女は顔を隠すことなく、顔をぐしゃぐしゃにしながら、泣いていた。心が痛んだ。


 僕みたいに、女性と接することに、ためらいがある人がいる。そのなかで、ああいった、淫らな行為は理解できない。理解したくもない。女性の気持ちを、もっと考えて欲しいと思う。

 僕の目からも、涙が溢れた。音を出すことも、呼吸が苦しくなることもなかった。でも、立派なしずくが、ぽたぽたと土に染みた。


「本当に本当に、ありがとうございました」

「あ、はい」

「なんで、助けてくれたんですか?」

「あなたが困られていたので。あの、嫌な思いをしているのを目の当たりにして、助けない人はいないと思います」

 このあとの、美女の心が心配になった。美女の心には、油性マジックで書いたような、なかなか落ちない、心の傷が残るだろう。ただ、心配することしか出来ない自分に、ため息が出た。


「だ、大丈夫ですか? 気持ちの落ち込みとか無いですか?」

「分かりません。今後、思い出して、落ち込んでしまうかもしれません」

「そうですよね」

 美女の美しさに魅了されて、口を動かすことを、何度も忘れた。夕方のやさしい風にも、肌は不快感を覚えていた。美女は、口角をフラットに戻し、明るさにつま先だけ入ったような状態だった。

「可愛いので、男の人の目には気を付けてくださいね」

「はい。ありがとうございました」

 美女は、何度も何度も頭を下げていた。


「警察に行きましょう。交番がそこにあるので行きましょう。行けますか?」

「はい」

「ナンバープレートは覚えているので、そこは任せてください」

「ありがとうございます。本当に助かります」

 連れ去られそうになった現場から、少し遠いが、見える位置に交番がある。それは幸いなことだ。

 少し力の入っていない、脱力感のある美女の肩を、最小限の接触面積で支える。そして、ゆっくりと交番に繋がる道を歩いてゆく。


「大丈夫ですか」

 その言葉を、何度言ったことか。それしか、思い付かなかったから。短い距離のはずなのに、長い道のりに感じた。

 風が頬をかすめ、むず痒い。息をすることを忘れ、胸あたりが、どんよりと重たい。会話の弾まない空気に、押し潰される寸前まで来ていた。

「本当にやさしいですね」

 落ち着いて、正常に呼吸をする美女に、ほっとした。喉辺りのモヤモヤも、いつの間にか溶けていた。




 ポツンとたたずむ、地味な外観。白とか、黒とかしかない。建物の中の想像をしても、想像は膨らまない。そういう世界に、僕らは足を踏み入れようとしていた。

「すみません」

「どうされました?」

 やさしそうな女性の警察官が、近寄ってきてくれた。とても、話しやすそうな感じだ。

「黒いバンだったと思います。車のナンバーは・・・・・・」

 僕も一緒に、状況説明に参加した。説明中、美女はずっとこちらを見ていた。それに動揺し、何度か声が裏返ってしまった。


 頼もしいわけではない。今までこんなに、状況説明をしたことがない。それどころか、喋り方を忘れた日もあった。

 交番から出て、少し歩いた場所で立ち止まり、美女が軽く頭を下げた。

「代わりに話していただいて、ありがとうございました」

 美しかった。こちらも、自然に会釈が出ていた。


「ツラくて、話せませんよね」

「軽く触られたくらいなので、傷はそれほどではないですが」

 美女は、笑顔まで届くような、放物線上にずっといた。でも、またそこから外れてしまったように感じた。

 思い出すたびに、美女は暗さをまとってしまうだろう。そう考えるだけで、心が痛んだ。

「あの、連絡先とか、迷惑でなければ・・・・・・」

「はい」


 交換した。スマホの連絡帳に、女性がいる。初めてかもしれない。こんな風に聞かれたのは、もちろん初めてだ。

「夜が不安で・・・・・・」

「あっ、はい」

 僕の力量ではない。僕だからというよりも、誰かと繋がっていたかっただけだ。そう思っていた。ネガティブは溢れるが、ひとりの生物として、美女の不安を、なんとしても打ち消してやりたい。


「友達は、いますよね?」

 気になった。美女の交遊関係が。でも、美女の声は聞こえることがなかった。失敗したと思った。

 しばらくは、ドスンドスンと揺れながら走る、大型トラックの震動。そして、大声で喋りながら通りすぎる、若い男女の音だけだった。

「友達には、相談できることではないので」

「ごめんなさい。答えにくかったら、答えなくてもいいので」

「大丈夫です。信頼できるので」


 知らない人の方が話せる。それなのだと、感じた。目の前の大通りを見れば、左右から立て続けに、車両が走ってきている。勢いよく流れてゆく。それなのに、僕のまわりだけ、ゆっくり流れていた。

 きっと、美女の心の奥は、流れてもいないかもしれない。止まったまま、しばらくは動いてくれない。そんなことも、あるだろう。

「お母さんからの、連絡は来ましたか?」

 美女は4回大きく、首を横に振った。口角と目尻を下げながら。

「たぶん、今日は来ません。そういう母なんです」

 その後の言葉が、なかなか出てこなかった。


 放っておけない癖が、抜けない。干渉しなくていいものも、気になってしまう。いつも、様々な角度から、物事を考えてしまう。

 相手の気持ちを、必要以上に考えてしまう。だから、人間さんと半日ほど、ずっと一緒にいた日の夜には、寝込む寸前までいく。

 相手のためになっているかは、分からない。自分の中のわだかまりを、ただただ、ほどいているだけなのかもしれない。

 気になることは、とことん考えてしまう。だから、どんな小さなモヤモヤも、消し去ってしまいたくなる。


「これで、被害届は出せたので。家でゆっくり、休んでください」

「色々と、ありがとうございました」

 美女の顔の翳りを、この目で見てしまった。昔から、不安も高揚もすぐに分かる。美女の不安は、ひとりで帰れば、増幅してしまう。猫背の感じも、涙目の感じも、放っておけるレベルではなかった。

 放っておいたら、こちらまで息が詰まる。そのまま苦しく、明日を迎えてしまうことになる。


「ひとりで帰るのが、不安であれば、一緒にいきますが」

 自信を、心配が追い抜いた。スッと、押し出されるように、やさしい言葉を口にしていた。

「お願いしてもいいですか?」

「はい」

 人ひとり分の空間を、間にもたせる。僕の体温や香りが、伝わりきらない距離を保ち、美女と並行して歩いた。

「何か、昔あったんですか?」

 美女は、こちらをまっすぐ見ながら、そう聞いた。

「まあ」


 不思議だった。表情で、読み取られたのだろうか。自分では、顔に出ないタイプだと思っていたのだが。

「あの、何で分かったんですか?」

「人が苦手そうなのに、必死で助けてくれていたので。何かと、私と重なっているなと思いまして」

 観察力が、とても鋭い。どこか、僕にも通ずるところがある。歩行するスピードを緩める美女に、合わせてゆっくりと進む。

「あっ、こっちです」

 家の方向を、手や伸ばした人差し指で、示しながら進んでいく。美女の落ち着きは、僕が一番落ち着いている状態くらいにまで、上がってきた。


「僕の過去とか、本当に聞きたいと思っていますか?」

「はい。興味ある人のことは、何でも知りたいものですよ」

「そ、そうなんですね」

 興味があるという、今まで縁遠かった言葉に躓きつつ、足はスムーズに動いていた。だが、アスファルトに転がっている小石を、不意に何度か、蹴飛ばしてしまった。

「過去のことを聞くのは、駄目だって分かってます。でも、知りたいと思ってしまって」

「はい」


「私、人の気持ちをものすごく、考えてしまう人で」

「僕もです」

 落ち着かない人だ。美女の落ち着かない部分が、目につく。表情は、狭い範囲内だが、コロコロと変わっている。そして、空間や人の動きを、常に観察しているのが分かる。

 疲れるだろう。僕もそうだから。でも、それをしないと余計に疲れる。そこが、難しいところだ。

「やはり、私たちは、似ているのかもしれません」

「あ、はい」

 似ているという言葉に、胸がとろけそうになった。生きづらい性格だと、ずっと思っていた。

 だから、あまり自分が好きではなかった。でも、美女と似ているということだけで、一歩前に、進めた気がした。


「僕の少し昔の話、してもいいですか?」

「あっ、はい。お願いします」

「昔、僕の目の前で、子供が溺れてしまったことがあって。でも、その時、何もすることが出来なかったんです」

 思い出しただけで、息が詰まる。喉元あたりに、冷たさと震えがいる。でも、美女に僕のことを分かってもらいたい。そのために、夢中で搾るようにして、言葉を紡いだ。


「その昔の出来事が、今の僕を作っていると言っても、過言ではないんです」

「そんなことが、あったんですね」

 美女は、こちらにガツンと視線をぶつけていた。だが、僕の視線は、乗用車や、空を飛ぶ小さな鳥たちなど、動くものに、引っ張られるように動いていた。

「そんなことがあってからは、外出するときには、色々な役立つ道具を入れた、ナップザックを持ち歩くようになりました」

「本当にやさしい人なんですね」

「それは、違うかもしれません。自己満足ですよ」


 僕は、自分のためにやっている。ただ、それだけだ。正常な心に近づくために。まともな生活を送るために。日々、葛藤を続けているんだ。

「それから、僕のまわりでは、事件や事故が何度も起きました」

「はい」

「そして、僕は困っている人を作り出してしまっているのでは、と悩みました」

「ああ」

「でも、占いで、誘発ではなく、引き寄せだと言われたんです」

「あっ」

「僕が困っている人を作り出しているのではなく、困っている人が、僕を呼び、引き寄せているのだと。だから、それを信じて、少しでもポジティブに生きようと決めたんです」

「素晴らしいじゃないですか。私のことも助けてくれて、素敵な人ですよ」

「ありがとうございます」


 人助けをしたからといって、素敵な人と決まった訳ではない。人と、かなり距離を取ってしまったり、自信が持てない男だ。そんな男は、素敵なんかじゃない。駄目な男だ。

 つんと、左手に冷たいものが当たった。それは、美女の右手だった。それまで、なんとか解放出来ていた、左を向くという行為。それは、たった今、ガッチリと制限された。

 人は苦手だけど、助けたいと思ってしまう。それは、自分勝手なのかもしれない。理屈からは、少し離れているかもしれない。

 でも、それをしないと、僕が僕ではなくなる。僕がいる理由を、常に探しているんだ。


 沈黙が増えた。美女と手が触れてから、意識がさらに強くなった。美女は、ずっとこちらを見ている。そんな気配がある。

 美女の自宅まで、どれくらいあるか分からない。ただ、歩くのみだ。たった今、美女に路地裏へと導かれた。そこは、ひとりで歩いても、圧迫感を抱く細い道。

 電柱が左右に等間隔に存在し、圧迫度が増している。手が触れてからの発言は、美女が放った『こっちです』だけだった。


「あの?」

 静寂を切り裂く、美女の短い言葉が飛ぶ。緊張感は、計り知れない。未知の世界。これからの、美女の発言は、想像も出来ない。

 知っている現実から、のっしのっしと、道の未知を踏みつけ、どこまでも進んでいる感覚。たぶん、振り返っても、現実は見えない。

「一人暮らしで、一緒にいてくれる人がいなくて」

「はい」


 音を立てず、喉を外側に向けて、唾を呑む。まばたきで、何度も視界は遮断される。

「今だけ、一緒にいてくれませんか?」

「えっ?」

 予想外の言葉に、驚くことしかできなかった。

「一緒に、喫茶店でも行きませんか?」

「僕で、いいんですか?」

「はい。お願いします」

 好意であってほしい気持ち。そして、好意であってほしくない気持ち。そのふたつが、イヤホンのように絡み合っていた。


 可愛いが怖い。美しいが怖い。今まで、そう感じて生きてきてしまった人間に、このような状況は重い。

 その一方で、美女の純粋さに、吸い込まれている部分もあった。慣れてきたのだろう。美女の目線は、さらに強いものとなっていた。

「PiPiっていう喫茶店、知ってますか?」

「はい、たまに行きます」

 唯一、月に一回は行くお店だ。美女が発した、PiPiという、半濁音の連なり。その、一番始めの辺りで、もう心に響いてきた。


 美女のいない、車道側を向いて、息を吐く。慣れるどころか、慣れからどんどん、遠のいている気さえする。焦点を定めず、ぼんやりと美女を見る。もう笑顔かどうかも、分からなかった。

「あの、こっちの道にしませんか?」

「えっ?」

「大通りより、人気のない道が好きなので、それに近道なので」

「はい、いいですよ」


 まわりを見渡しながら、細い道に、ゆっくり入って行く。急に、景色は変わる。植え込みや、ブロック塀などが多数ある。

 静けさが増した。車の走行音は、遠くなった。静けさが増せば、自ずと気まずさも増す。

美女と僕は、似ている部分が多い。だから、美女も同じような気持ちかもしれない。そう思っていた。それなのに、美女からは気まずさを、一切感じなかった。




 コンクリートで、整えられたような、小さな川が見えてきた。成人男性の身長ほどの幅の、小さな川だった。

 何かを感じる。僕に何かが、訴えかけているような気がした。

「少し、待ってください」

「どうかされましたか?」

「何か、聞こえる気がして」

「えっ?」

「静かにしてみましょうか?」

「はい」


 川の流れる音。鳥が囁く音。車が走る音。自然と、創造物が織り成す、音の世界。そのなかに、誰かがいた。か細くて、やや高い声。

「子供の声がします」

「子供ですか?」

 助ける人間として、タイミングがいい。それだけではなく、耳もよくなっていた。少女が苦しむ声だ。どこかで、溺れているに違いない。見回したが、それらしき人はいない。

「ごめんなさい。私には聞こえません」

「いえ。あっ」

 小さくではあるが、白色をした動くものが見えた。急いで駆け寄る。鞄をガサゴソと漁りながら。

 必死で追いかけてくる美女に、申し訳なさを感じた。心の傷が癒えないまま、僕のそばを離れないでくれている。美女の、奥の方にある優しさを感じた。誠意が伝わってきた。


「あっ、いました」

「いましたか?」

「はい。小さな女の子です」

 川で溺れていた。苦しそうに、バタバタと手足を動かす。顔は水面ギリギリのところで、ゆらゆらしていた。

「大丈夫? 今、助けるからね」

 美女の声が響いた。僕が声を出そうとする前に、美女がもう、口を開いていた。僕の何倍も、決断力があり、僕の何倍も、頼りになる。


「頼んでもいいですか?」

「はい」

 ナップザックを探り、取り出す。

「これは、水に濡れると、自動で膨らむ浮き輪なんですけど。僕はコントロールが悪いので、代わりに投げてください」

「あっ、はい。分かりました」

 美女の目に、力強いものを感じた。僕の何十倍もの、強い力を。美女は、目を閉じて2、3秒し、目を開けた。そして、思い切り、浮き輪を投げた。

 その軌道は、美女の未来に繋がるような、美しいものだった。浮き輪の下部が、水平に美しく着水し、膨らむ音が鳴る。


「はあ、良かった」

 凍えているのか、怖さに満ちているのか。少女は、震えながらも、しっかりとした握力を見せていた。目に光るものを浮かべながら。

 川の流れる音も、確認出来るほどにまで、上昇していた。僕が後ろでロープを引っ張り、美女のアシストをする。

「頑張ってよ」

「もう少しの辛抱です」

 少女は、安心と不安が入り交じった表情をしていた。水面を滑るように、こちらに近づいてくる度に、心臓が揺れる。鼻も口も動かすことを忘れ、かなりの苦しさがあった。

 水面から、陸地に上がった瞬間、美女は少女を抱き締めた。少女は泣きながら、ずっとずっと、しがみついていた。




 あれから、数日が経過した。やっと、犯人が逮捕されたらしい。美女を無理やり、車に乗せようとした男たちだ。美女からの連絡に、株のことは忘れ、のめり込んでいた。

 良かったね、と安心を、そのまま文章にするのがいいのか。それとも、これからの人生を、後押しする言葉を並べればいいのか。よく分からない。


 何台ものパソコンと、にらめっこする日々。それよりも、美女という、生きた美しさに触れることの方が、自分には合っている。美女といる時の僕は、生き生きしている。伸び伸びしている。

『これから、会えませんか?』

 美女からのメッセージ。目的は、正直読み取れない。僕に、会いたいわけがないから。こんな僕に。

 マウスの右側に、置いてあるマグカップを手に取り、口に持ってゆく。流し込むと段々、心地よい甘さで、満たされてゆく。

 一方で、脳内は苦みだらけ。でも、こちらは、会いたいの一択だった。狭い書斎のような場所を、小さく右往左往し、スマホをずっと見つめていた。


 『会います』その4文字だけを、打ってパッと送信した。すぐに、返信があった。

 『あの喫茶店で』という文字。指定されたのは、あの日、結局行けなかった、PiPiという喫茶店だった。呼吸をしているのか、いないのかさえ分からないほど、意識は乱れていた。


 すぐに、向かった。まだ、時間まで余裕はあるが、何の準備もせずに、サッと外に出た。ナップザックだけを、拾い上げて。

 雑音は、気にならなかった。視覚に入ってくるザラツキも、気にならなかった。全ての感覚が、心臓のドキドキに、乗っ取られたかのように。

 歩くのが速かったのか、美女しか眼中になかったのか、街並みが線に見えた。無数の線が、流れているかのように見えた。


 扉を引いたが開かず、冷静に押して入る。店内を見回すと、もう美女が席にいた。西日が強い席で、ノートに一生懸命向かっていた。ノートは、オレンジ色に染まっていた。

 美女は、大学生なのだろうか。もう忘れていた。始めに交わした会話は、ほとんど覚えていない。


 着飾る美女に、少し後ずさりをした。近づいていっても、美女は気付かない。だから、こちらから話しかけてみた。

「こんにちは」

「あっ、こんにちは」

 こんにちは、という挨拶しか出てこなかった。もっと、心に残るような、突飛なあいさつがしたかった。根元には、そういうキャラがいる。でも、出来るわけがない。

「すみませんでした。突然、呼び出してしまって」

「いえ。大丈夫ですよ」

 戻っていた。語彙のない喋りしか、出来ない自分に。そして、美女と初めて会うかのような、心持ちになっていた。

 対面は、初めてに近い。横並びで、あんなに心を奪われた。なので、長時間の対面は、嬉しくて苦しい。


 メニューにある、肉の塊たちの写真で、目線を遮断した。醜すぎるもの、美しすぎるものは、目を背けたくなる。だが、真剣に向き合いたくもなる。

「あの、話があって」

「はい、どうぞ」

 メニュー表を、ゆっくり上げてみると、美女の視線とぶつかる。そして、優しい瞳で、笑いかけてくれた。

「好きです。私たち、恋人になれませんか?」

 美女に告白された。それが、告白だとすぐに理解できた。まわりには、漏れていない。このテーブルという世界だけで、行われている感じだった。


「その気持ちは、違うと思います。勘違いですよ。来週になれば変わります。一時的なものだと思いますよ」

 そう口にしてから、沈黙は続いた。そして、僅かに苦しさを覚えた頃、美女は静かにうなずく。

「今日は今日、明日は明日、来週は来週なので。未来の気持ちを、軸にしてください」

「はい」

 そこから、今までの美女に戻った。笑顔を振り撒いて。でも、その笑顔が、やや作っているものに見えた。

 告白の熱が、落ち着いてきた。そこに、美味しそうな肉々しいニオイが、入り込んできた。緊張で、ほぼ視覚で生きていた。そう感じた。




 メールは続いた。やり取りは、途切れなかった。こちらも、本来のおふざけ心が、漏れるようになっていた。

 相変わらず美しい。美女から送られてくる写真は、どれもどれも。僕の中の自信が、起き上がったかは分からない。だが、好きという気持ちが、恋に近くなってきている。




 告白から、一週間が経った。シンプルな、着信音が鳴る。美女の名字である、珍しい二文字が表示された。すぐにスライドして、耳に当てる。

「もしもし」

「あっ、こんにちは。私です」

「どうも」

「話があります」

「はい」

「まだ好きです」

「はい」

「まだ好きと言いますか、今の方が好きです」


 息を呑んだ。全身に汗が、にじんでゆく。気持ちは、だいぶ変化していた。

「何も出来ない、僕でもいいのなら、よろしくお願いいたします」

 美女は笑いながら、泣いていた。

「会いたいです。すぐ近くに来ているので、会えませんか?」

 耳に、スマホを付けた状態で、靴を履く。そして、流れのまま外に出た。見渡すと、右耳にスマホを押し当てて、泣いて微笑む美女がいた。電柱に、寄り添うみたいに。


「抱き締めてもいいですか?」

「あ、はい」

 嬉しかったのだろう。今までで一番、美しい笑顔を見せてくれた。同時にスマホを切り、ポケットにしまった。そして、早歩きをして、近づいた。

 ガッチリと美女は、僕のカラダを包んでくれた。優しかった。あたたかかった。柔らかかった。無言が続く。


 僕は、ナップザックを開けた。そして、密閉できる透明な袋を取り出した。そこから、ハンカチをそっと取り出し、美女に渡した。

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