笑う男
「まったく、この程度の事もできんのか!」
オフィスに男の怒鳴り声が鳴り響く。
御年、五十。課長という立場にある男にとって、周囲の人間は役立たずの集まりであった。
言い訳ばかりで任せた仕事をろくにこなす事も出来ない御手。
何度注意しても忘れ物をしてくる布里。
縁故採用で入った癖に、週に一回は遅刻をしてくる布里の弟。
そもそも布里(兄)の方も縁故採用で入った口だった。
この地方では古くから布里という名字の家が多く、男の勤めているような中小企業には布里という名字の者が多い。
都会生まれの男にとっては、そういった古くから続く因習も気に入らない点の一つだった。
「……しかし、課長が用意しておくと言っていた資料がさっぱり届かず、昨日ようやく届いたばかりなんです。何度も連絡したのに何故返事をくれなかったんですか?」
「うるさいっ! 言い訳ばかりペラペラと口を動かしおって。それだけ口が動くのなら、先方に謝罪の連絡でも入れておけ!」
「そ、そんな……。そもそもこの件の責任者は課長、貴方でしょう?」
男の無体な言葉に、御手は思わず反論を返すが男は聞く耳を持たない。
「私には私の仕事が山ほどあるのだ! その位は君の力で何とかしたまえ」
「か、課長!」
追いすがるような御手を振り切り、男は三階にある喫煙室へと駆け込んだ。
無能な部下のせいでイライラが募っていた男は、一服して心を落ち着けようとしたのだ。
しかし、そこには先客がいた。
「おや、直瀬君ではないか。ここで一服という事は、君に任せていた仕事の方は上手くいってるのかね」
日戸野部長は男の上司であり、年も八つ程上の五十八だ。
「それは……御手が口ばかり達者で、さっぱり仕事の成果を上げておらず進捗状況はいまいちでして……」
男の言葉を聞いた日戸野部長は、その恰幅のいい体を震わせて怒鳴り散らかす。
「君は一体何をやっているのだ! あの仕事は君に任せたものだ。その責任者である君がこうして呑気にタバコを吸いに来るとは、君の頭の中にはお花畑でも咲いているのかね?」
男はこの上司の事を嫌っていた。
昔から自分に対してだけは妙に厳しく、今回のように大声をあげられる事も多々あったのだ。
その後も三十分間にも渡って部長の雷は落ち続けた。
酷い集中雷雨である。
「クソッ……。ただ怒鳴ればいいと思っている無能が! 部長という立場にあるなら、もう少し部下の扱い方をどうにかしろ!」
ようやく解放された男がそうぼやいていると、男の視線が前方から一人の若者が歩いてくる様子を捕えた。
その若者はだらしなくスーツを着ており、きちんとネクタイも締めていない。
そんなだらしない若者を見るや否や、男は先ほどまで自身が叱責されていた事も忘れ、歩いてきた男に詰め寄った。
「和夫! 貴様、一体今何時だと思ってる!?」
それは縁故入社してきた布里兄弟の弟、布里和夫だった。
「いやあ、ちょっと電車が混んでましてね……」
週に一度は遅刻してくる和夫だが、今日に限っては既に昼を過ぎている。
このような遅刻魔がクビになっていないのは、それだけ仕事も出来るからであった。
それこそ和夫がいないと仕事が回せなくなる程で、和夫の専門的な知識は必要不可欠となっている。
「電車が混んでたなどと……ッ。言い訳するならもっとマシな言い訳をしたまえ!」
イライラの解消先としてターゲッティングされてしまった和夫は、その場で男の叱責を受け続ける。
遅刻が多い事以外は、仕事も出来て世渡り上手で、他の上司からの印象がいい和夫であったが、男だけは例外だった。
十分程もガミガミと口うるさくしていた男に、辟易とする和夫だったが、そこに救いの手が差し伸べられる。
prrrrrr……。prrrrrrrr……。
「む、大事な話をしているというのに電話か。仕方ない……」
そう言うと男は携帯を取り出しパカッと開くと、電話に出る。
男の使用している携帯はガラケーであり、設定の仕方も分からないので着信音も初期設定のままになっている。
それは中小とはいえ、仮にもIT企業に勤めている者とは思えないお粗末さだった。
「もしもし、私だが、……和賀か。どうしたんだ?」
男に電話をかけてきたのは、同期で入社した和賀という男だった。
電話の相手が和賀だった事に、男は顔を歪ませる。
この和賀は男にとっては目の上のたんこぶであった。
同期で入社しておきながら、常に男の一歩先を進み、男がまだ平社員の頃に先に主任へと昇進。
そして和賀が課長へと昇進すると、引きずられるようにして男が主任に。
今の課長という男の役職も、以前は和賀が就いていたものだ。
他社に引き抜きされて、会社を辞めていった和賀。
そして残された課長というポストを、男が引き継いだという経緯があった。
そうした経緯もあり、元々嫌っていた相手ではあったのだが、それ以上に和賀のだらしない体つきと、ギトギトの油ものを平気そうに食べる和賀の姿には、元々嫌悪感を覚えていた。
『いや、久々に食べ放題の店にでもいかないかと思ってな。最近駅前にオープンした豚丼屋が開店サービスをしているらしいぞ』
和賀が豚丼を食べるなど、まるで共食いじゃないか。
脳裏に浮かんだ光景に思わず吐き気を覚える男だったが、どうにか表に出ないように努める。
「いや、悪いが俺も年でな。あまり脂っこいものが体に受け付けなくなってるんだ」
『そうなのか? 俺はまだ現役でバリバリいけるんだがな。それなら仕方ない、またの機会にするとしよう。ああ、それとだな……』
その後も和賀の私生活の話などを聞かされ、鬼の形相をしながら声だけは通常ボイスという、器用な真似をしながら和賀と話す男。
昔、男が平社員で金に困っていた頃、和賀はよく男を食事に誘ってきた。
同じ平社員であるハズなのに、和賀は妙に金回りがよく、いつも奢ってもらっていた時期があったのだ。
男はその時の事を引きずっていて、和賀に対してだけは未だに強気に接することが出来ないでいた。
『じゃあな! 体には気を付けろよ!』
そう言って切られた電話を片手に、大きなため息を吐く男。
体内に蓄積した怒気を吐き出すかのように、重いため息を吐いた男は、いつの間にか和夫がいなくなっている事に気づく。
「あの、遅刻魔めっ!」
こうして男の一日は今日も過ぎていく。
「ふう、全くどいつもコイツも……」
自宅に帰って食事などを終えた男は、ブツクサ言いながらも冷蔵庫から大量のアイスを取り出す。
そして、すぐに食べるもの、少し溶かしてから食べるものと順番に分けて並べる。
このアイスクリームを食べる時間が男にとっては至福のひと時であった。
ファミリー用の箱入りのアイスから、棒付きのアイスを一本ずつ取り出しては、次々と口に運んでいく。
帰宅途中に買ってきたコンビニ弁当を食べた直後だというのに、アイスを食べるその手は留まる事を知らない。
やがて、箱入りのアイスを食べ終わった男は、カップに入っているアイスを食べ始める。
男は目の前に並べた三種のカップアイスに、順番にスプーンを通す。
硬い状態のアイスより、少し溶けかけた方を好む男は、ゆっくりと味わいながら三種のカップアイスを平らげていく。
「今日はこの辺にしておくか」
それで満足したのか、男はそう独り言ちると寝る準備を始める。
一人やもめの男の家には、家事をしてくれる妻の姿も子供の姿もない。
しかし男はそうした感傷に耽る事もなく、大いびきをかいて床についた。
▽△▽△▽△▽
「ううううぅぅぅ~~ん……?」
太陽の光を浴びて目を覚ました男は、寝ぼけ眼をこすりながらも、ボーッとした頭で何か違和感を感じていた。
「……なんだぁ?」
段々とハッキリとしてくる頭で、違和感の原因を探っていた男は、朝日に照らされる自室がいつもと違うように感じられた。
「……もしや!?」
慌てて男が枕元にあった目覚まし時計を見ると、既に時計の短針は十の位置に達しようとしていた。
「ッ!? このっ、オンボロ時計があ!」
寝坊に気づいた男は、無造作に目覚まし時計を壁に投げつける。
ガシャンッ! と大きな音を立て、表面のプラスチック部分が割れて飛び散るも、男にそれを気にする余裕はなかった。
「急がなくては!」
男は常に就業開始時間を目安に毎朝出勤をしていた。
そのため、時折数分から十数分の遅刻をすることはあったのだが、今日はそれどころではない大遅刻だ。
慌てた様子でスーツを着込み家を出る男の姿は、奇しくも昨日遅刻してきた和夫とどっこいどっこいだ。
「ようやく着いたか……」
男が会社に着いたのは既に昼の十二時近いという時間だった。
家を出る前に連絡をしたとはいえ、これほどの重役出勤にさしもの男も気が引けるかと思いきや、ほとんど悪びれる様子もなくオフィスルームへと入っていく。
「課長! やっと来たんですか! ちょっと遅くなるって言ってましたたけど、流石に遅すぎですよ!」
そう声を張り上げたのは御手だった。
相変わらずうるさい奴だ。そう思って御手に視線を向けた男は、言い返そうと開いた口を開けたまま、ポカンとした様子で御手を見る。
すると、
「おま、え……」
そこには見慣れた自分の顔があった。
だがよく見ると百キロを超える男とは違い、体格は御手のものだし、呆けている男に話しかける声は御手のものだ。
そして職場を改めて見てみると、御手以外にも布里兄弟をはじめとして、数名の人間の顔が自分と同じ顔をしていた。
「ハァッ……ハァッ……これ、は?」
自然と息が速くなってくる男。
そんな様子のおかしい男に、男と同じ顔をした職場の人間が次々と話しかけてくる。
「どうした? 息が荒いぞ」
「直瀬さん、どうしたんですか?」
しかしそれらの声も男には届かなかった。
「夢、だ。これは、夢……」
そう小さく声を漏らすと、男はそのまま意識を失った。
それからどれくらいの時間が経ったのか。
男が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。
「あ、お目覚めになりましたか。意識を失う前の事は覚えていますか?」
看護師と思われる女性が男に声を掛ける。
しかし、男はすぐに返事をすることが出来なかった。
なぜなら、その看護師の女性も自分と同じ顔をしていたからだ。
「ふううぅぅぅーー……」
一旦落ち着いてみようと大きく深呼吸をしようが、目の前の光景に変化はない。
自分と同じ顔をした看護師が心配そうに声を掛けてくるだけだ。
男は混乱する思考をどうにか纏め、状況に適応しようと辺りを見回す。
すると窓から外の様子が映った。
「外も……か」
距離が離れていてハッキリと見ることは出来ないが、病院の窓から外を覗き見た男は、看護師だけでなく表を出歩く人の中にも、自分と同じ顔をしている者がいることに気づく。
しかし、どうも全員が全員自分の顔になっている訳でもないらしい。
その事に少し安心感を覚えた男は、ひとまずこの不可解の出来事をありのまま受け入れる事にして、とにかく退院の手続きと会社への連絡を取る。
それから男はこの原因不明の症状を抱えつつ、どうにか元通りの生活を送れるように動き始める。
精神科、眼科、心療内科、脳神経外科…………。
しかし、どの医者にかかっても原因は特定することは出来なかった。
そうこうしていく内に、症状は悪化の一途を辿っていく。
これまでは相手の顔だけが自分の顔になっていただけだったのが、声まで全て自分の声に聞こえるようになったのだ。
当初、男はその声が自分の声である事にすぐには気づけなかったが、何度も聞いている内に声の正体に気づく。
自分と同じ顔をした人間が、全て自分と同じ声で話しかけてくる。
それは男の精神状態を著しく損ねたが、更に男を追い込んだのは、肝心の聞こえてくる内容だった。
誰々が遅刻をしただとか、言い訳がましい事を延々と喋り続ける声だとか。
以前から男が気に入らなかった、自分の周りの人達の欠点部分に関する内容だけが、妙に男の耳にこびりつく。
声量だけ見れば小さな声であったとしても、男には耳元で話しかけられたかのように聞こえてくるのだ。
「ア"ア"ア"ァァァァッッッッッ!!」
この連日続く奇妙な状況に遂に男は耐え切れず、職場で絶叫を上げてしまう。
そして手にしていたペンを、己の右目へと深く突き刺した。
「キャアアアア!」
「な、直瀬さん!?」
慌てた周囲の人間が男のもとに駆け寄ってくるも、男にはそれら全員が自分と同じに見えていた。
顔も、声も、体格すらも自分とまるっきり同じ。
それを見てますます暴れだす男であったが、複数人に取り押さえられて床に組み伏せられる。
「お前、は……俺じゃ、ねええ! 俺の前、から消えっろおおおお!」
その後、統合失調症と判断された男は、右目の治療を終えた後、専用の病院へと入院する事が決まった。
▽△▽△▽△▽△▽
「俺は……俺、だ。お前じゃ、ねえんだ……」
男はボソボソと幽鬼のような形相で、同じような言葉を呟き続ける。
都内では受け入れ可能な入院先がなく、郊外の小さな医院に入院する事になった男。
一時期のように暴れまわる事も減っており、今では意味不明な事を口走る程度にまで症状は改善していた。
そういった経緯もあり、厳重な隔離病棟などではなく、一般の病棟に移されて経過を見守る事になっていた。
それはつまり、脱出しようと思えば容易に脱出できるという事を意味している。
「………………」
月の明かりが辺りを照らす、満月の夜。
フラフラとした足取りで男は病院を抜け出していた。
ペタ……ペタ……と、小さく響く足音。
男は裸足のまま郊外の静まり返った住宅街を練り歩く。
やがて、一軒の民家へとたどり着くと、何を考えているのか男はその家に侵入を開始する。
古い民家の作りをしたその家は、明かりがついておらず、住人は不在のようだった。
「…………」
無言のまま玄関から庭側へと回った男は、縁側のガラスの引き戸を素手で殴り始める。
男の拳が、ガラスの張られた引き戸に幾度も叩きつけられるが、男の拳が痛むだけで、ガラスが割れる様子はない。
すると男は周囲を探索し、倉庫の傍に置かれていた、所々錆が浮かんでいる消火器を手に縁側へと戻ってくる。
そして、徐にその消火器を振り上げると、引き戸に向けて思いっきり叩きつけた。
ガシャーン! と大きな音を立ててガラス戸が割れる。
男は割れたガラスの破片がちらばる縁側を、素足で歩きながら家の中を散策する。
特に目的はないようで、徘徊老人のように同じところをウロウロしたりと、その行動は不気味としか言いようがない。
と、その足が不意に止まった。
そこは昔ながらの台所で、若干の生活感が感じられる場所だ。
しかし、そんな事は今の男にとってはどうでもいい事だった。
「お前、は……何なんだ…………」
かすれた声で男が誰何する。
そこにはいつの間にか、自分が立っていた。
虚ろな……どこを見ているか分からないような瞳で、じーーっと。何も言う事もなく、ただ、ただ、男を見つめている。
既に精神のすり切れている男は、最早喚き散らす事もせず、自然な動作でスーッと体を動かす。
そして薄明りの中、視線の端に映ったシンクにある、包丁を手に取った。
そして、表情の消えた顔をした男は、無造作に自分に近づいていくと、その腹部に包丁を突き刺した――。
その刹那、男は世界が塗り替えられていくような感覚を覚えていた。
「これ、は……グヴォァッ」
男は何か言葉を発しようとしたが、それは叶わなかった。
吐き気のような感覚と共に、吐血してしまった為だ。
見ると、自分の腹部には、先ほどシンクから手に取った包丁が突き刺さっている。
暗くてよく見えないが、刺した箇所からは血がドクドクと滲み出ている感覚もしていた。
「あ……う、ううぅぅ……」
出血していくにつれ男の意識は朦朧としてくる。
そしてついに姿勢を維持できなくなり、床に倒れ伏す男。
その男の耳に幾人かの声が聞こえてきた。
それは久々に聞く、"自分以外の声"だった。
その声は男のすぐ近くから聞こえてくるようだ。
最早体を起こす事も出来なくなっていた男は、必死に首の向きを変えて声の発生源を確認しようとする。
「ひと…………」
声そのものは複数人のものであるが、どうやら各人言っている内容は違うようだ。
それら別々の言葉が、別々の声で順番に発せられ、一つの文章に聞こえていたらしい。
必死に首を動かしている男は、ようやく自分の周りに立つ人間の足元が確認できた。
「…………わが……」
その間もずっと同じ言葉を繰り返し続ける周りの人物たち。
まるで呪詛のように紡がれるその声に、背筋が凍るような悍ましさを感じた男。
必死にその声の発生源を確認しようと、最後の力を込めて首を上方へと向ける。
そこには――。
「ぶ、ちょう……に、かず、お……?」
男の見知った顔がそこにはいくつも並んでいた。
よく聞けば、確かに先ほどから聞こえてきた声は、どれも聞き覚えのある声であった。
倒れ伏す男を囲む形で左から順に、
口煩い日戸野部長。
忘れ物のエキスパート、布里(兄)。
言い訳の博覧会、御手。
大食いチャンピオンも真っ青、和賀。
ミスター遅刻マン、布里(弟)。
そして最後に…………。
「おれ……か?」
右端に一緒に並び立つ、自分と同じ姿かたちの人物を認識した男は、
「ふ、は……はははは、はは……」
と、心の底から声を上げて笑いを上げるのだった。