兄であり続けられなかった男の話
両親が戦争で死んだ。
悲しいことだったが、この国では珍しいことじゃなかった。
本当に大変なのはその後。
俺たちの家は貧困層にあたり、頼れる親戚もいなかった。
いたとしても3人も子供を引き取ってくれるような裕福な家はそうそうない。
当時俺は10歳。7歳と2歳の弟たちを養える年齢ではなかった。
孤児院に入れたのは幸運だったのか、不運だったのか。
字の読み書きは辛うじてできたが頭が悪かった俺は孤児院の闇に全く気付かなかった。
人当たりは良かった先生に馬鹿みたいになついて、ずっと腹を空かせている弟達のために近所のストリートチルドレンと一緒になって盗みを働く日々。
治安の悪い地区で過ごすうちに喧嘩も強くなっていった。
その分家にいる時間は減ったが、末弟のスプリングにはフォールがついている。
そんなことを考えてできるだけ多くのものを盗んで金に換えて食べ物を持って行った。
弟たちの分だけだと取り合いになるから孤児院に住むみんなの分もって。
この町を牛耳るマフィアは弱いものをいたぶってはいろんなものを持っていく。
孤児院に届くはずの配給だってあいつらがほとんど持って行ってしまっている。
そんな奴らから盗みを働くのは悪ではない。
元々それは俺たちのものだと俺は本気で信じていた。
「ねえ、兄さん」
12歳になったフォールが俺に尋ねてきた。
このころのフォールは素直で賢い、それこそ絵に描いたようないい子だった。
スプリングや年下の仲間の面倒を見ながら孤児院の家事を手伝う傍ら何やら難しい本を読んでいた。
そんな賢い弟が何より自慢だったし、いつか金をためてどこかの学校に通わせてやりたい。
でも俺の貯蓄はいつだって林檎一個だって買えない。自分の不甲斐なさを呪いながら、「なんだ」と聞く。
「今日、夜はいますか?」
普段甘えてこないフォールが珍しい。
本当なら一緒にいてやりたいが、今日は今までで一番の大物。成功すればしばらくは3食食べさせてやれる。
「いや、ごめんな。今日はどうしても外せなくて」
「そう、ですか……」
「なんだ、何かあったのか?」
「いいえ! 何でもありませんよ。兄さんこそ気を付けてくださいね」
「おう、任せとけ。フォールもスプリングやみんなのことよろしくな」
「勿論ですよ」
そういって笑ったフォールの目にはなんだか元気がなかった。
「兄さん、時間ができたら相談したいことがあるのですが、いいですか?」
「分かった。明日は必ず空けておく。すぐに聞いてやれなくて悪いな」
「大丈夫ですよ。俺だってスプリングの兄ですから」
本当にフォールは頼れる弟だ。俺よりはるかに出来のいい頭を撫でて俺は仲間たちとの合流場所に向かった。
フォールの様子、少しおかしかった。明日はなるべく早く帰ろう。
フォールが男娼をし始めたのはその日の翌日のことだった。
俺は何度も言った。
お前はそんなことしなくていい、と。
俺が守るから危ないことはするな、と。
治安の悪いこの町は衛生的な面でもすこぶる悪い。
娼婦や色を売っている少年少女がそういうことをして病気になったって話はよく聞くレベルだ。
大事な弟がそんな目には合ってほしくないし、何より俺たちから奪うマフィア相手に女のような真似をすることが汚らわしく思えた。
フォールも家を留守にすることが増えた。
そのせいでスプリングが泣く日が増えて、それに連なって俺が家にいる時間も増えた気がした。
フォールは俺のいう事なんか聞く耳持たずで、段々とその態度にいら立ってきた俺との関係は冷えていった。
あれだけフォールに懐いていたスプリングも次第に距離ができ、反面俺によく懐くようになった。
アイツが男娼を始めたころに孤児院の先生が変わり、しばらくして配給もマシになってきた。
フォールはマフィアの愛人になり、更に俺との仲は険悪になっていく。
俺はアイツを汚らわしいカマ野郎とののしり、
アイツは俺を出来の悪いチンピラとののしった。
いつしか口論は暴力へと変わり、今まで弟にだけは手を挙げなかった俺が初めてフォールを殴った。
理由は何だったか。アイツが俺だけじゃなく俺の盗賊仲間まで侮辱し始めたことだったような気がする。
喧嘩三昧の俺の方が圧倒的に力が強いが、フォールは的確に急所を突いてくるのでいつだって泥試合になる。
何で何で変わっちまったんだよ。
俺があの時お前の話を聞いていれば変わらずにすんだのか。
かつては三人一緒に居たいといっていたスプリングは、今やフォールの名すら口にしない。
俺たちは戻れるのか。仲の良かったあの頃に。
まだ、まだきっと大丈夫なはずだ。
フォールは決してスプリングに暴言を吐かないし、傷つけるようなこともしない。
顔を見ない日が数か月と続いたある日、俺は仲間たちとある船を襲った。
その船には大量の食糧が積まれていて大成功した俺たちは大喜び。
分け前をもらい、それを孤児院のみんなに届ければ久々のご馳走に子供たちは大喜び。
そしてその喜びを否定するように部屋のドアが音を立てて開かれた。
「てめえ一体どういう了見だ!」
入って来るなり俺の胸倉掴み上げたフォールはしばらく見ない間にまた一段と綺麗になった。
それが全て汚い大人に足を開くためだと思うと腹立たしくて仕方がない。
スプリングを含めた他の子供たちが隣の部屋に逃げたのを確認すると俺はフォールを挑発する。
「久々に帰ってきたと思ったら随分なご挨拶だなフォールクンよぉ」
「てめえがどこで何をパクろうが自由だがな。寄りにもよって組の運送船襲ってんじゃねえよ!」
「はっ、俺らから巻き上げた金で禿げた連中を太らせるだけなら貰っても問題ねえだろうが」
「三下マフィアなら俺だって態々来ねえんだよ! わかってんのか、てめえらチンピラが手ぇ出したのはアポ・ルカネだ!」
「てめえが股開いて媚び売ってるジジイのとこだろ!? 知ってんよ! だからどうした! この町じゃあ力が全てだろうが!」
そんなに大事か。マフィアのジジイが大事か。
お前知ってるか。俺たちの末弟がな、お前を恋しがって夜に泣いてんだよ。
どんなに腹が減っても、近所の悪ガキに石を投げつけられても泣かなかったスプリングがお前を求めて眠っているときに泣いてんだよ。
そんな弟に飯を盗ってくることよりマフィアに媚び売ることが大事なのかよ。
「クズに飯食わしてもらってるてめえにはわかんねえだろうがな。こいつらは毎日毎日腹すかせてんだよ。配給なんかじゃ全然足りてねえ。何でかわかるか。てめえらが独り占めしてるからだよ!」
すっかりこいつは綺麗になった。ガリガリにやせていた数年前が嘘のように健康的に肉がついた。でもなフォール。スプリングはまだ腹を空かせてるんだぞ。てめえが媚び売ってる奴らのせいでな。
怒鳴る俺には一切臆さず、フォールはいっそ軽蔑したように睨み返してきた。
「てめえの悪事の言い訳にガキを使ってんじゃねえよ」
嘲笑とともに発せられるフォールの言葉。俺は我を失って弟を殴りつけた。その直後に急所を蹴られ床に倒れたのは俺の方だった。
「いいかよく聞け、サマー。てめえが日ごろからバカにしてるこの俺の計らいで今ならてめえの両手の爪で勘弁してやろうってことになった。感謝しろよ、お兄様」
何がお兄様だよこの野郎。卑怯な手を使うようになって。弟泣かせて。家にも帰らなくなりやがって。
何が家族だ。お前なんか……てめえなんか……。
「てめえなんか弟じゃねえよクズ野郎」
無表情のアイツは俺の頭を床にたたきつけた。そこには苛立ちを感じた。
フォールの合図でマフィアの一員と思わしき二人の男が入って俺を拘束する。頭がぐらぐらして全く力の入らない身体を引きずられる。
すると誰かが部屋に押し入った。
「なんだこのガキ!?」
「サマ兄を放せえ!!」
スプリングだ。ダメだ、お前じゃ敵わねえ、逃げろ。俺の声は音として外に出ない。
スプリングが振り上げたモップは高い位置で何かにあたった。見るとフォールが右腕で受け止めていたのだ。
「相談役! このガキ!」
やめろスプリングに触るんじゃねえ。
スプリングにつかみ掛かろうとする男を止めたのはなんとフォールだった。
「どうでもいいのに構うな。とっととそのバカ連れてけ」
どうでもいい。
それが……それがお前の答えなのか。
ずるずると引きずられるようにして俺はアポ・ルカネのテリトリーの地下に連れていかれた。
余計な言葉を言わないように口にタオルを突っ込まれ、両手を拘束された状態でマフィアのボスの前に連れてこられた。
そこで10枚の爪を剥がされた。
どんな喧嘩よりも痛くて、俺は久しぶりに泣いた気がする。
剥がした後が一番痛く、尚且つ引かなかった。
捨てられるようにして路上に出される。
フォールはそんな俺を見下ろしていた。
「満足かよ、この野郎」
「ひとまずケジメはつけた」
地に付したまま起き上がらない俺の顔を覗き込むようにしてフォールはしゃがむ。
月明りに照らされてアイツはとても神秘的に映った。だが俺はこういうのがジジイにウケるのかとどこか汚いものを見ているようだった。
「これに懲りたら襲う相手くらい選べ。あともう少し活動を抑えろ」
「はっ、溝鼠は卑しく生きてろってか? 冗談じゃねえ。飯を食わなきゃ人は生きてけねえんだ! だったらこれまで通り俺はあいつらのために盗むだけだ」
「貧しい中で一部の者が得をすればそれだけ反感を買うんだよ。お前はお前の尻拭いをあいつ等にさせるのか?」
「ア゛ァ!? 俺がいつてめえのケツを他人に拭かせたよ!?」
「兄は大人しく弟の面倒を見てろよ」
それをお前が言うのか?
スプリングを守ることを放棄したお前が。
弟を放って帰ってこなくなったお前が。
寄りにもよってお前がその台詞を。
痛む指など無視してフォールの胸倉を掴む。
抵抗するように添えられた右手に違和感を覚えた。
なかったのだ。フォールの小指と薬指が。
マフィアの世界だ。俺が両手の爪を剥がされたように、指の一本や二本詰められることもあるだろう。
だが、それが身内に起こったことに俺は動揺した。
「お前……どうしたんだよ。その手」
「関係ない」
隠すようにされた右手を俺はつかむ。力をこめるほど指先が痛んだがそんなのはどうでもよかった。
「関係なくないだろ! お前ッ! お前もうマフィアなんかと関わんじゃねえよ!」
「うるせえよ! アンタが! 俺のやり方に文句をつけんのか! アンタはただ泣いてるスプリングの傍にいればいいんだよ! そうすれば全部丸く収まるんだ!」
なんで……。
「何でお前がスプリングが泣いてること知ってんだよ! 全然帰ってこねえくせに!」
何なんだよ。
全部丸く収まるって。
アイツが寝てるときに泣いて求めてるのはお前なんだぞ。
お前がいなきゃ意味ねえだろ。
スプリングにはお前がいなきゃ。俺じゃあだめなんだよ。
俺の手を振り払ってフォールは逃げた。
俺は追いかけて、結局フォールを見つけることはできなかった。
アイツがマフィアとつるんで何をしているのか俺は全然知らないのだ。
情けねえ。
フォールだって俺の弟なのに。俺はダメな兄だ。
家に帰って眠りにつく。
その日からスプリングは夜中フォールを求めて泣き出すことはなくなった。