四
「瑛太って誰?」
頭上から一哉が声をかけてくる。
「友達の彼氏」
そういうことらしい。
「友達の彼は名前で呼ぶんだ?」
一哉は不服そうだった。
「だって、名前しか知らないし」
「俺は?」
(え?)
クラスメートの男子で名前で呼ぶ子がいないわけではないけれど、それはみんなが名前で呼んでいるからで、一哉のことは苗字の佐々で呼んでいた。
「可南子って呼んでいい?」
「うん。じゃあ、私も……」
一哉って――そう言いたかったのに、なんだか照れくさくて声には出せなかった。特別な存在になったみたいだった。うん、確かに特別な存在なのだけれど。
低層のマンションの間にぽっかり公園があって、一哉に手を引かれるように公園に入った。
手を離し、一哉がブランコの柵に腰を下ろす。そして。
「帰りたくないな」
ぽつんと呟く。
「私も」
そりゃ、一緒にいられるならその方がいい。
咲は瑛太と一緒みたいだった。夜も深い。どこにいるんだろうと思う。夜を共に過ごすのだろうか。高校を卒業して何にも縛られない今は開放感がある。カラオケの盛り上がりもそこにあったのだろうと思う。
時間は十一時を過ぎていた。このペースで家まで行ったら一哉が家に帰るための電車はたぶんない。だからと言って急ごうとも言葉が出ない。
一哉が笑う。
「夢じゃないよな」
手を握ってくる。一哉が手を離した途端冷えてしまった手が温もりを取り戻す。
「それとも、大仕掛けのどっきりとか? どっからかパネルをもったやつが出てくるとか無しだよな?」
一哉が見上げてくる。
「だってさ。信じられないよ。嫌われてたと思ったのに、手を握っても振りほどかれないんだぜ」
一哉が続けて言いながら指を絡めてくる。
「嫌ってなんかいなかったよ」
素直になれなかっただけだ。
「なんかさ。何もかも都合よく行き過ぎ。怖いくらいだ」
一哉の声が不安そうだった。
「ねえ、帰りの電車なくなっちゃうよ?」
一緒にいたいのは山々だけど、そっちも心配だ。
「俺はどうにでもするよ。オール組と連絡とって混ざってもいいし。どうせ家には帰らないかもしれないって言ってあるから」
「でも」
それでも、大晦日の終日運転じゃないから電車はなくなる。
「早く帰りたい?」
「そうじゃなくて、だって心配だから」
「そっか、家の人も心配してるよね」
一哉が立ち上がろうとする。
「だから、そうじゃないって」
可南子は頭を振った。
「帰らない」
一哉の手をぎゅっと握った。
「帰らないと、マズイだろ?」
「電話すれば大丈夫。今日で最後だからって言ったらきっと大目に見てくれるから」
「いいの?」
一哉が怪訝そうな声を出す。即答はできまかった。ホントにいいのかなって気持ちや軽い子なんだって思われないか心配になる。人気がある一哉が本気で相手にしてくれているのか不安がないわけじゃないし、どっきりにかけられているのは実は自分なんてことがないわけじゃなくて。
でも――。
「うん」
可南子は頷いた。
このまま家に帰ってさよならなんてしたくなかった。
「その返事だけでいいや。行こう」
一哉が立ち上がる。
「だって、一哉は帰れないじゃない」
おそらく、たぶん、きっと。
「だから、大丈夫だって」
「だけど」
可南子は携帯を取り出すと家に繋いだ。出た母親にオールに行くから帰らないと告げた。一哉が家まで送ってくれたとして、その後が絶対に気になると思った。
「いいの?」
「だめ?」
一哉に問いかけながら、もう気持ちは決めていた。
「どうする?」
一哉が聞いてくる。可南子はとくんと胸が弾んだ。
「どこか、暖かいところに行こう?」
まだ夜の空気は冷えるから。このままここに居たら風邪をひいてしまいそうだと思った。
とりあえず駅まで戻ってターミナル駅に出た。電車からはホテルのネオンが見えて、胸がとくんとくんと震えていた。
平日の深夜、ロータリーにはタクシー待つ人の列が並んでいた。
「変なとこ行くより、ホテルの方が安全かな」
一哉が耳元で話してくる。可南子はこくんと頷いた。確かにそうかもしれないと思った。駅の裏側に周るとそれらしいホテルが並んでいる。可南子は顔を上げられなかった。やっぱり、悪いことをしている気がする。
ゆっくりと歩いていると、立ち並ぶホテル街を抜け、店の入ったビルの前を通り、住宅街に入ってしまった。
可南子が一哉を見上げると、一哉も見てくる。
「なんでだろう。入るのためらったのなんて初めてだ」
一哉が小さく息を零す。
(え・・・)
初めてじゃないんだと思ったけれど、
一哉が入っていったとして、自分ははたして付いていけただろうかと思った。
しばらく歩くと小さな公園があって、そこでベンチに座った。月は頂点を越えていた。夜が半分終わったということだ。
「寒い?」
「少しだけ」
止まっていると足先から深々と冷え込んでくるようだった。
「じゃあ、やっぱり行こう」
一哉が手を引いて立ち上がる。
「ん」
可南子は不安だった。家に帰ろうと言ってくれた一哉を拒んだのは自分なのだから今更嫌だとは言えない。いざとなると、色んなことが頭を過ぎった。こんなことになるなんて思っていなかったから何も準備していない。ムートンのショートコートとチェックのスカートにスエードのブーツは自分が持っているもので一番可愛いと思えるものを選んだ。だけど、勝負下着なんてつけてないし、だいたいそんなものを持ってもいない。
(どうしよう)
一哉に手を引かれて歩いていると、ホテルのネオンが見えてきた。空きと青く表示しているホテルに手を引いたまま一哉が入ろうとする。可南子は足が止まってしまった。怪訝そうな顔をして振り返る一哉に可南子は小さく頭を振った。
室内にはパソコンが置いてあるテーブルとソファと小さなローテーブルがあった。
「嫌なわけじゃないの」
可南子は何回目だか分からない言葉を呟いた。
「分かったよ」
一哉も何回目か分からない答えを返してくる。
一応個室として仕切られてはいるけれど、扉は上と下が少しづつ開いていた。
漫画喫茶を併用しているネットカフェは盛況らしく、数件回ってやっと空いている部屋を見つけた。
「ホント、分かったから」
一哉がため息交じりに言う。
可南子としては、まだ気持ちが収まりきれなかった。
「少し寝よう?」
一哉がソファに腰を下ろす。空調が効いている室内は暖かかった。
可南子はまだ立ち尽くしていた。さっさとソファに座ってしまった一哉がよそよそしい感じがした。
(怒ってる?)
「ごめんなさい」
誘ったのは自分のようなものなのに、ホテルに入る直前で拒んだんじゃ怒るのももっともな気もした。
一哉が見上げてくる。見つめ合ったまましばらく時間が過ぎた。
「そりゃさあ、俺のこと信じてくれないんだって少しは傷ついたけど」
「信じてないわけじゃない」
「でも、嫌だったんだろ?」
「だから、嫌だったわけじゃない」
「どうして? って聞いて欲しいの?」
「そういうわけじゃなくて」
よく分からなくなってくる。
「どうしたいんだよ」
「分かんない」
なんだか情けなくなった。
「そんなに俺のこと好き?」
「うん」
それだけは即答できる。諦めて押さえ込んでいた気持ちは今、自分でも持て余すほど胸の中で膨らんでいた。
一哉は驚いた顔をして、そして笑顔に変わった。ソファから立ち上がると近づいてきて、ちゅっと唇に触れてくる。
「これで許してあげるよ。だから」
肩に手を回してくる。促されるままに可南子もソファに座った。扉の上下の隙間が視界に入る。これでは話をするにも気を使う。
勇気を出してホテルに入ってしまえばよかったと後悔した。
一哉が頭に手を回してきてこつんと額をあわせる。
「いきなりホテルは無かったかもな」
「ごめん――」
「もういいよ。正直疲れたし。少し寝よう?」
そう言うと一哉が目を閉じる。
この体勢で? と思ったけれど、そのままでいた。
しばらくして、
「寝ないの?」
一哉が目を開ける。
「だって、勿体無い」
寝てしまったら時間が過ぎるのはあっという間だ。
「じゃあ、どうする?」
「このままでいたい」
一哉の手を取ると指を絡めた。少しでも触れていたかった。一哉の口元が緩んで、可南子はほっとした。
静かとは言えない店の中だった。はっきりと分からないまでも話し声や廊下を歩く足音、そしてがざがざと衣擦れの音もする。
温かい中でただ、時間が過ぎるのを待っていた。
始発で家に帰って、それからラインの交換を何回かして、夜、一哉が電話をくれた。
その電話を可南子はベッドの中で取った。
「明日、会える?」
それは、嬉しい提案だったけれど。
「ごめん」
会いたいのも山々だけれど、きっと無理だ。
「どうして?」
一哉の声が不安そうだった。理由を言いたくはなかったけれど。
「熱があって、明日までに下がるかどうか分からない」
家に帰った後少し寝て、昼ごはんだと起された時、体がふらふらしていた。熱を計れといわれて、仕方なく計ったら三十八度だった。
「昨日寒い中ふらふら歩いたからか。ごめん」
「ううん。違うよ」
心当たりがある。
「じゃあ、何?」
「……きっと、知恵熱」
可南子は思い切って言った。
喉も痛くなければ鼻がぐすぐすするわけでもなく頭が痛いわけでもなく咳がでるわけでもない。
「は?」
一哉が呆れたような声を出す。
「あんまりびっくりすることばかりだったから」
告白に一哉が応えてくれたことも、絡めた指も触れた唇も交わした言葉も全てが。
「まさか、キスしたの初めてとか?」
(まさか?)
その単語には少しショックを受けた。
「……そうだよ」
一哉は初めてじゃないんだと思う。当然といえば当然だ。
「なんか、それ、すごい嬉しいかも」
一哉の声が弾んでいた。
「一哉は?」
知りたくなった。いつどこで誰と?
「小四かな」
「ええ?」
予想をはるかに超えていた。
「でも、そん時は好きっていうより好奇心だったし」
だけど、と一哉が言葉をつなぐ。
「高三で可南子とクラスが同じになってになってからはしてないよ。みんな清算して真面目になろうと思ったし」
(えっと……)
可南子は返す言葉が見つからなかった。
しばらく沈黙が流れて、
「幻滅……した?」
一哉の声が戸惑いぎみだった。
「でもさ、俺は俺だから。過去のことは無かったことにはできないし。可南子の前でかっこつけようとするとドジるし。ありのままの方がいいんかなって」
「ううん。幻滅なんかしない」
隠すよりはっきり言ってくれた方がいい。
そもそも幻滅のしようがない。
優しいところが好きというなら、冷たいと感じたら幻滅するだろう。
かっこいいところが好きならかっこ悪いところを見たら幻滅するかもしれない。
どこに惹かれたのか自分でもわからない。ただ、その存在が愛しいと思ったのだ。
「ちょっとびっくりしただけ。高一の時から私のこと気にしてたみたいなこと言ってたし、彼女とかいないって聞いてたから」
「ああ、可南子と付き合えればいいなと思ってたけど、嫌われてたみたいだし。歳上が多かったせいもあるけど、同じ高校の子と付き合うと面倒そうだったから」
一哉があっけらかんと言う。
「あ、そう……」
確かにそうかもしれない。
「でも、今は可南子だけ」
「ホント?」
少々不安になった。
「ホントだって。今までは好きだって言われると冷めちゃったのに、昨日は嬉しかった」
(ほんとに?)
更に不安になった。
「会いたいな」
一哉が呟くように言う。
「うん。がんばって、熱下げる」
たとえ、それが口説き文句だったとしても本当に会いたいのだから仕方ない。理想とはまったく違う恋をしそうだと思いながら、胸のどきどきは止まらない。
「だから、明日会おう?」
だめだと言ったのは自分なのに、熱なんてもう関係なくなっていた。この次があったら、もう逃げないとも決めた。
「無理するなよ」
「うん。もう熱下がったみたい」
「現金だな」
「うん。だって、会いたい」
好きな人の声が薬にもなる。
恋は不思議なもの。理想の人とは全然ちがうけど、理屈なんか通らない。
小さな棘から芽吹いたばかりの小さな恋はその根を心の奥底にしっかりと伸ばしていた。
end
読んでいただきましてありがとうございました。