三
卒業式が終わり教室ではいくつかのグループに別れてがやがやと話をしていた。最後だというホームルームまでにはまだ時間がある。可南子は話の輪を抜けると、一人廊下に出た。誰かに呼ばれて教室を出て行った一哉が中々戻ってこなかった。いくら今日で学校に来るのが最後といっても教室で告白なんてする勇気はない。一人になるのを待ってはみたけれど、そんな時は来そうになかった。つい昨日咲から電話があって約束忘れてないよね、と言われた。自分が言い出したことだし、自分がすればまだ告白していないという咲の背中も押せる。
(偶然、会わないかな)
廊下は偶に人が通る程度だった。みんなクラスで最後の別れを惜しんでいるらしい。
「どこに行ったんだろう」
一哉が呼ばれて教室の入口まで行ったのは見たけれど、相手が誰だったか影で見えなかった。けれど、今日は卒業式だ。考えられるのはファンの下級生といったところか。体育館の裏で告白されてる? そんなベタなことを思いながら可南子の足は体育館に向かっていた。
(あっ――)
体育館へ続く渡り廊下の入口で一哉の姿を見つけて可南子は足が止まった。
ゆっくり近づいてくる姿に胸がどくんどくんと弾みだす。気が付いたらしい一哉が立ち止まって嫌そうに顔を歪めた。
(やっぱ、嫌われてるじゃん……)
泣きそうになって、でも、涙を胸の奥に閉じ込めた。咲との約束だ。
視線を逸らすように、一哉が通り過ぎようとする。
「待って」
可南子は思わず袖を掴んだ。周りには誰もいなかった。こんな機会はもうない。卒業してしまえばもう一哉と会うこともない。自然に関係は消滅する。けれど咲が言うとおり嫌いだと言われた方がはっきり諦めがつく。
「ボタンは落としたわけじゃないからな」
一哉が視線を背けたまま、面倒そうに言った。
(え?)
話が見えなかった。
「ボタン?」
よく見ると、ブレザーのボタンが全てなくなっていた。それは、ファンの子に取られたんだとすぐに分かった。
「あげたんだ」
可南子が言うと一哉が視線を向けてくる。
「そうだよ。だから、俺がドジだったわけじゃない。いや、取られる時点でドジだって言われるかもしんないけど」
一哉の語尾が沈む。
(あ……)
もう数ヶ月前のことをまだ気にしていたらしい。
「ごめんね」
可南子は胸が熱くなってきた。
「なんで、謝るんだよ」
一哉の声が柔らかかくなる。
「酷いこと言った。一年の時の文化祭の後も、あの時も」
「別に本当のことなんだから言われても仕方ないよ」
「そんなことない。文化祭の時、佐々がこれなかったのは練習試合が遅れたからで仕方ないことだったじゃない。来なかったのが佐々だったなんて思わなかった」
「でも、無責任だと思ったんだろ?」
声が不機嫌になる。
「違う。そんなこと思ってなかった。でも」
係りを一回こなかったくらいで無責任とまでは思わない。
「でも。なんだよ!」
一哉の口調が険しくなった。これ以上引き伸ばしても一哉を怒らせるだけだと可南子は思った。掴んでいた袖をぎゅっと握った。
「好きなの。だから、一緒にいると頭が真っ白になっちゃって、なんか自分でも分からないこと口走ってる」
それは本当のこと。
「ごめんね。最後にちゃんと謝りたかった」
だからなんだと言われればそれまでで、自分がすっきりしたいだけだと言われればその通りだ。
一哉の返事はなかった。引導を渡して欲しかったけど、それは望みすぎだ。咲との約束もちゃんと果たした。
「今までありがとう」
可南子は一哉を見上げた。もう、これが最後なんだと思った。
「マジ?」
一哉が目を細める。可南子はこくんと頷いた。気持ちを言ってしまって素直になれた自分がいた。
「俺、嫌われてるんだと思ってた」
一哉は呆然とした顔をした。
「だって、俺にだけ容赦ないこと言うだろ」
「ごめん……」
好きなことを知られたくないと思うから、パンクした思考回路はその時一番言っちゃいけないことを選択するらしい。
「なんだ……」
大きく息を吐き、空を見上げる。
「違ったんだ……」
一哉はそう小さく呟いた。
そして。
「俺も」
と続けた言葉に、
「えっ?」
可南子は信じられなかった。
「俺の好みにケチつけんなよ」
一哉が不服そうに言う。
「だって、酷いことばかり言ったのに」
有り得ないと否定しながら、夢なら覚めないで欲しいと思った。
「なんでも一生懸命にやるじゃん。この間の棘だって俺ならすぐに諦めた。一年の球技大会の時も」
「え? 見てたの?」
その大会に可南子はバトミントンのダブルスで出場した。十五点先取という試合で、まだ一点か二点しか取っていない時相手に十四点取られて、その後、十四点まで追いついた。
「自分の試合が終わってちょうど体育館に応援にいったとき、そこだけ人が集まっててさ」
「でも、負けちゃったけどね」
可南子にはあまり良い思い出ではない。
どうせ負けるならあっさり負けろと言われたりもした。
「凄かったよ。あれから、気になって、だから無責任の一言は余計に効いた」
「ごめん……」
可南子は胸が痛くなった。
一哉が笑う。
「そんな顔見せてくれるなら、酷いこと言われるのもいいかな」
「え?」
可南子は両手で顔を覆った。自分がどんな顔しているかなんて分からない。顔が赤くなっていくのが分かった。それも、耳まで。
「可愛いところもあるんだ」
一哉が頭に触れてきてそっと撫でる。
何も言葉が出なかった。
頭の中が真っ白になるどころか、溶けてなくなってしまったみたいだった。
教室へ戻ってしばらくすると担任が来た。ホームルームの後、また名残を惜しんで、少しづつクラスメートが減っていった教室の中、最後は可南子と一哉の二人きりになった。今日の夜は有志で集まってカラオケに行くことになっている。少しだけど、自由な時間があった。
お互い見合って、なんだか照れくさかった。
「カラオケ行くんだろ?」
「うん」
「そん時また会えるよな」
「うん」
でも、その時は二人きりじゃない。
一哉が近づいてきて、可南子はどうしたらいいのか分からなくてただ立ち尽くしていた。別に打ち合わせしていたわけじゃなくて、まだ一哉がいると思って可南子は帰らなかっただけだ。
至近距離まで来て一哉が立ち止まる。見上げるとすぐそこに一哉の顔があった。少し近づいてきて気がして、可南子は思わず顔を伏せた。
「……だめ」
言葉が口をついて出る。心臓はばくばくしていた。
「なんで? もう、誰もいないよ」
一哉の声は冷静で、自分だけが慌てているみたいだった。
「だって、それ以上近づいたら、ショックで心臓が止まっちゃう」
立っているのがやっとなほど、自分が頼りなかった。
「止まっちゃったら、人工呼吸してやるよ」
一哉が顎に手をかけてきて、上を向かせる。何か言おうとする前に、唇を塞がれていた。
(嘘っ)
男の子は性急だって咲が言っていたのを思い出した。可南子がびっくりしたまま固まっていたら、軽く啄ばむだけで唇が離れていく。可南子は自分の唇がかさかさに乾いている気がした。
「心臓、止まった?」
「……うん」
実は嘘。ばくばくいつもより元気に動いてる。
「俺も止まった。でも、幻滅される前に好きな子とキスしたかった」
一哉が大きく息を吐く。
「幻滅なんてしないよ」
有り得ない。
「なんかさ。水島が絡むとドジっちゃうみたいだから。鍵間違えたり、名前間違えたり」
「名前?」
それは初耳だった。
「文化祭の当番表が回ってきたとき、水島と水鳥を間違えて、だから、少し厳しい時間だったけど練習試合の後の時間に名前を書いたんだ。どうせなら、一緒がいいと思って。よく考えたら、水島の方が自分より後だったから、名前が入ってるわけがなかったんだよな」
「そうだったの?」
確かに似てるから、間違えられることもある。
「何もわざわざ厳しい水鳥先輩と同じ時間にすることなかったじゃんって、後で散々言われた。他にもさぼったやついたのにお咎めなしだったし」
「そうよ」
でも、一緒に回りたいと思ってくれたのは少し嬉しかったりした。
「ホント、俺には容赦ないよなあ」
「あ、だって。一緒に回れたらよかったのに」
楽しかっただろうと思う。でも、また失言しちゃったかもしれないから、それはそれで微妙だ。
「まあ、はっきり言われた方がいいこともあるし。信じられるからさ。目の前では良い事言って影で何か言われるよりずっといいし」
「あ……」
言葉がでなかった。それでも余計なことは言わない方がいい。
「でも、あの時、後で抗議してくれたらしいじゃん。俺にはずいぶんなこと言ってたのに、ちょっと嬉しかった」
「だって、酷いと思ったから」
「そんなとこ」
そういうと、一哉が耳元に口を寄せてくる。
好きだよ――耳元で囁かれて、熱い息を感じて、ぞくっと体の奥が疼いた。
「だから」
一哉が言葉を繋げる。
「簡単に幻滅しないでくれよ」
探るように手が下りてきて、指を絡める。
「……しないよ。だから、佐々も」
自分ながら嫌になってしまうけど、また何を言ってしまうか分からない。
もう一度触れてきた唇は柔らかく感じた。
空には丸い月と星がいくつか光っていた。暦ではもう春なのにひんやりした空気が体を包み吐く息もほんのり白い。ただ、繋いだ手からは温もりが伝わってくる。
「楽しかったね」
可南子と一哉はクラスメートの有志が集まったカラオケを一次会が終わった後で抜けてきた。思いのほか人数が集まり、一つの部屋では収まらなくて二つの部屋に分かれた。けれど、常に人が互いの部屋を流れて、どちらも盛り上がっていたみたいだった。
一次会が終わったのは夜十時を過ぎていた。オールに行こうと誘われたけれど、可南子はそれは断った。カラオケの後で合流しようと一哉と約束していた。
で、友達と別れた駅のホームで落ち合って送ってくれるという一哉と電車に乗ったのだけれど、一つ前の駅で降りた。
襟を立て家路を急ぐ人達の中でゆっくりと歩く二人は異質だったけれど、誰も気に止めてなんていないみたいだった。
町並みが商店街から住宅地に変わっていく。駅を離れるほど人が減っていき、二人きりになった。互いの手が掠めて、追ってくるように一哉の手の手が指を絡めてきた。
「冷たいね」
一哉が温めるように手を包んでくる。
「あったかい」
手袋なんかより、手だけじゃなくて心まで温めてくれるような温もりだった。
突然、可南子の携帯が鳴った。
「誰だろ」
携帯は咲の名前を写す。
「友達?」
「うん」
どうしよう、と可南子は思った。
「早く出れば?」
一哉が促してくる。
「ごめん。少しだけ」
可南子は携帯を繋いだ。
「告白した?」
第一声から直球な咲はいつものことだ。
「うん」
だから、隣にいるわけで。
「どうだった?」
興味津々という声で咲が聞いてくる。
「あ……うん」
当人を目の前にして、うまくいったとは言いづらい。
「あのね――」
どう言ったら通じるかな、と可南子は思っていた。しばらく携帯に沈黙が流れた。
「明日にでもバンティングセンターにでも行く? 思い切りバット振ったら気分いいよ」
咲の声が沈黙を破る。
(バッティングセンター?)
どっかで聞いた台詞だ。
「違うの」
咲は誤解したらしい。
「え、じゃあ」
「うん」
可南子は繋いでいる一哉の手をぎゅっと握った。確かに感じる温もりは告白の答えだ。
「咲は?」
自分だけが幸せになっちゃったずるい気がする。もし、咲が告白していないと言ったら、首根っこひっ捕まえて太志のところへ連れていくつもりだった。気持ちはちゃんと言った方がいい。そう実感した。
「あー」
咲の歯切れが悪くて、絶対してないなと思った。明日行こうと可南子が言おうとしたら、
「いやさ。なんとなく彼に言ったら、告白なんてしていいのは俺にだけだ、なんて言われちゃって」
「え?」
彼なんていつできたんだ、と可南子は思った。ルックスはピカ一と言っていた彼の後に男の話は聞いていない。それにしても、またずいぶん強引な男だと思った。
(強引?)
そのキーワードが少しひっかかった。
「私がしないって言ったら可南子は絶対しないじゃん。だから、黙ってた」
当たり前だ。玉砕だと信じていたのだから。
けれど。
「咲に新しい彼がいたなんて知らなかった」
「あ、そうだっけ? でも、可南子は一度会ってるし」
(はあ?)
「まさか、瑛太?」
ずーずーしいというか強引なやつではあった。
「うん」
「あれから、付き合ってたの?」
数ヶ月経つ。その間、一度も報告を受けていない。
「うん」
短い返事を返してくる。明らかに咲らしくなかった。いつもなら聞いてもいないことも機関銃のように喋る咲なのに。
「何も言ってくれなかったじゃん」
喋りすぎだよと思うことも多々あったけど、まったく話してくれないのは寂しく感じた。友達落第したのかな、なんて思ってしまう。
「うーん。なんとなく? だって恥ずかしいじゃん」
「えー」
思わず声に出してしまった。今まであんたは何を喋ってきたのかと小一時間問いただしたい気持ちになってくる。
「いや、だってさ」
もじもじしている様子が声からも伝わってきた。
「好きなんだ、彼のこと」
なんとなく分かる気がした。二人だけの秘密にしておきたい。
「かな? 色々と合うみたい」
(色々?)
そこは深く突っ込みたいと思いはしたが。
「そうなんだ」
可南子はやめておいた。自分だって言いたくないことはある。
「良かったね」
咲が幸せなら文句はない。
「あ……」
咲が小さな声をあげる。そして聞き取れなかったけれど、咲とはあきらかに違う声が携帯から小さく聞こえた。そして、可南子だよと、咲の声が答える。
「とにかく安心したー。じゃあ、またね」
忙しい咲の声の後、携帯が切れたことを告げる。
(瑛太と一緒?)
たぶんそれは正解だろうと思った。咲はちゃんと自分の恋を見つけたらしい。