一
窓の外は夕陽に染まっていた。
体育館もその周りに立つ木も、校舎の脇を走る舗装された細い道もその道の脇にあるテニスコートもそこに立つ人も。空気さえオレンジ色が滲んでいた。
閑散とした校舎とは裏腹に校庭からは運動部の掛け声が聞える。テニスボールの弾む音が五階の教室まで響いていた。
「どうしようかな」
誰もいない教室で水島可南子は週番日誌を書いていた。生徒会も運動会も文化祭もお役ごめんの3年生にも週番は課せられる。ホームルームの号令は苦ではないが、なんといっても日誌は面倒だ。最後の所感に何を書こうかと考えながら前のページを捲ってもでてくるのは、『何もありませんでした』や『良い天気でした』というどうでもいいことばかりだ。担任もそのことで文句を言わないのだから同じ言葉を並べればそれで済む。大事なのはあと四ヶ月足らずで控えている大学受験であって、日誌の所感で悩むより英単語を一つでも多く覚える方が有意義なのだろう。けれど、それでは何か物足りない。可南子は、例えば花壇にチューリップが咲き始めたとか、小さな発見を書くようにしていた。
実は、今日書くことは朝から決めていたりする。校門の桜の木が色づいてきていて、授業が終わるまではそのことを書こうと思っていた。
ただ、授業が終わった後、一斉に帰途についたクラスメートとは別に、鞄を置いたまま教室を出て行ったやつがいた。
佐々一哉。クラスメートの一人だ。
一哉がどこに行ったのかは分からないけれど、鞄があるのだから教室へ戻ってくるのだろう。だから、なんとなく、時間つぶしをしているわけだ。
足音が廊下から聞えてきて、可南子はどきっとした。
(戻ってきた?)
だからといって、特別な何かあるわけではなく、せいぜいさよならの挨拶をするぐらいのことだ。なのに、心臓がばくばくと弾み出す。
足音は確実に近づいてきて、教室の扉が開いて、姿を現した人を見た途端、可南子は一瞬息を忘れた。
去年までは部活の関係か短くしていた髪が今は少し長くなって後ろに流していた。端正な顔立ちに長身ですらっとした体格は雑誌に出ていてもおかしくない。事実、昨年まで所属していたバスケット部にはファンクラブまであったらしい。
「あれ、まだいたんだ」
そいつは暢気な声をかけてきた。
「……あ、うん。週番だから」
可南子は日誌を指差した。
「一哉は?」
続けて聞くと、一哉は両手を広げてまいったよ、という顔をする。
「広田のところに志望校のことで相談」
言いながら近づいてきて、窓の桟に手をつくと空を見上げた。
どうやら一哉は担任のところに行っていたらしい。
「迷ってるんだ」
可南子が声をかけるとまあねと答える。そして、突然顔を歪めた。
「いっ……」
声をあげて、桟に置いていた右手を目の前に持ってきて人差し指の先を凝視した。
「どうしたの?」
可南子は一哉の視線が示す指先を見た。
「棘がささったみたいだ」
「え?」
可南子が声をあげると、一哉はその指先がよく見えるように差し出してくる。
第一間接より少し上に、ぽちっと赤くなっているところがあって、茶色の木屑がほんの少し顔を出していた。
「痛そう……」
棘を刺した経験は何度かあった。何も触れなければ痛みはたいしたことはないけれど、ふとした拍子にちくちくと痛む。自分では取れそうでなかなか取れない厄介なものだ。
「そのうち取れるだろ」
その声は暢気そうだったけれど。
「早く取った方がいいよ」
可南子は手を出しかけて躊躇った。
目の前にあるのは、大きくてごつい男の子の手だった。それも、姿を見るだけでどきどきと胸が弾むようなやつのだ。
「でもなあ」
一哉が左手で棘を取ろうとする。けれど、その手は空振りで終わった。もう一度、今度は爪で押し上げて、先を出そうと試みる。けれど、押された指は赤くなるけれど、棘は思い通りになるものかとばかりに、その姿を現さない。
「無理そうだろ?」
一哉が諦め声を出す。
「でも、時間が経ったらもっと中に入っちゃうかもしれないし」
自然のものなら腐って出てくるというけれど、それまでちくちくする痛みを我慢しなきゃいけない。
可南子は一哉に分からないように大きく息を吐くと、一哉の人差し指に触れた。
どきんと胸が弾んで、まるで何かに急かせるように心臓はばくばく鼓動する。意識が宙に浮いたようで心許なかった。初めて触れた手は温かくて、見た目より柔らかく感じた。
「取れそうか?」
「分からないけど」
毛抜きでも持っていればいいけれど、そんな道具の持ち合わせは無かった。爪で棘を押し出すようにすると、指が赤くなるばかりで棘はまったく動かない。
「もう少し出てくれたら」
爪で挟めば取れそうだと思った。
微妙に場所を変えて棘が出てくれることを願って、可南子は棘を押し出そうとした。
可南子が棘を格闘している間、一哉が左手でまえの席の椅子を引くと座った。
「無理そうならいいよ」
一哉の声は諦めている。
「うん……」
答えながら可南子は諦めきれずにいた。棘は結構痛いのだ。
「でも、ごめん、痛いよね」
爪を皮膚に立てているのだから、痛くないわけがない。
「いや、大丈夫だけどさ」
一哉の顔は窓の外に向けられていた。
可南子は少しがっかりした。こんな至近距離で見詰め合ったら心臓が止まってしまうかもしれない。けれど、まったく関心がない素振りは寂しいものがある。
窓外では相変わらず部活の掛け声が響いていた。時を刻むように角度を変えた夕陽が教室に入ってくる。
しばらく格闘した甲斐があってか、少し棘が顔出してくれた。慎重に爪で挟んで棘を取ったとき、太陽は沈み教室の中は薄暗くなっていた。
「取れたっ」
それはニ、三ミリの小さい棘だった。可南子が顔をあげると、呆れたような一哉の顔があった。
「サンキュ」
至近距離で見つめてくる。
可南子は頭の中が真っ白になった。でも、何か言わなきゃと思った。そして、何かに操られたように口が開いた。
「まったく一哉ってばドジなんだから。こんなところで棘を刺すなんてフツーはしないよ。ファンクラブの子が知ったら幻滅しちゃうんじゃない」
まるで教科書を読んでいるみたいにすらすらと言葉がでた。言いながら、言い過ぎだよと可南子は思った。自分の言葉とは思えなかった。けれど、紡ぎだしたのは自分の口だった。
「悪かったな」
一哉がむっとした顔をする。地雷を踏んだらしい。
「あー、俺は派手で冷たくて無責任でドジなやつだからな、すみませんね」
椅子からガタンと音をたてて立ち上がり「付き合わせて悪かったな」と冷たく言うと一哉は鞄を乱暴に取り上げ、教室を出て行った。
遠くなっていく足音を聞きながら、可南子は呆然としていた。
「ドジは私の方だ……」
口から出てしまった言葉は戻らない。上半身は固まっていて、足がかたかたと小さく震えていた。また、酷いことを言ってしまった。
あの時もそうだった。一哉の話が出た時に話を振られて、可南子は自分は地味で温かみがある人が好みだからタイプが違うと言った。それをばっちり本人に聞かれた。それはまだ良い。
クラスは違ったけれど、二人とも美化委員だった一年生の時、文化祭の見回りの当番が一人担当時間に来なかった。それで、一年生は連帯責任でトイレ掃除をやらされた。
『無責任なやつがいるよね。人の迷惑も考えて欲しいよ』
そう一哉に言ったのはまさかそれが一哉だとは思わなかったし、部活の事情で来れなかったことも知らなかった。更に、事前に委員長に話して了解を得ていたことなんて全然知らなかった。一部の先輩が一哉に反感もっていて、それはきっと一哉がもてるからなんだろうけれど、それで、一哉の立場を悪くしたくてやったことだなんて知らなかった。
ごめん、と項垂れた一哉にかける言葉なんて思いつかなかった。
あの時はクラスも違って、弁解もできなくて、遠くから見ていることしかできなくて、三年になってクラスが同じになった時、嬉しいような苦しいような複雑な気持ちだった。
やっと、少し話せるようになったのに。
「まだ、覚えていたんだ……」
忘れていて欲しいと思っていた。
ただの一度係りをさぼっただけで本気で無責任なやつだと思ったわけじゃない。さぼりたくなる気持ちが分からないわけじゃないし、クラスやら部活やらその時の事情でタイムスケジュールどおりに行かないこともある。あの時はかえって嬉しかったぐらいだ。ただ、一哉が側にいて、なんとなく口から出た言葉だった。あの時も今も、何か言わなきゃと思うと、言わなくていいことを口走る。頭が真っ白だった。あの時も今も。べらべらしゃべって良い事はない。
沈黙は金――可南子はそう日誌に書き込んだ。
「でさ。そのホテルが最低で」
「うん」
可南子は咲の言葉に頷いた。幼馴染の咲はよく携帯に電話してくる。内容は彼氏とののろけ話がほとんどだった。
「ゴムは一つしかないし」
「うん」
一つじゃだめらしい。
「風呂は泡がでないし」
「うん」
泡はでるもんなんだ。
「シーツには染みはあるし」
「うん」
それは嫌かも。
「彼も最低で」
「うん?」
「濡れてもないのに突っ込んでくるし」
「う……ん」
「問答無用で突いてきて」
「……うん」
「勝手に自分だけいっちゃって、後はビール飲みながらエロビデオ見てんだよ」
「……そうなんだ」
それもちょっと嫌かも、と可南子は思った。
開けっぴろげな咲は何でも話してくる。一緒に通った中学までは男の子と付き合った経験がなかったのに、高校に入った途端に人が変わったように咲は遊び人になった。今の彼氏で何人目か可南子は把握していない。半年続いた彼氏はいない。
「もっと咲に合う人がいるんじゃないの?」
可南子は提案してみた。咲ははっきりした二重の大きな目をした見た目可愛い感じの明るい子で、男女問わず人気がある。開けっぴろげな性格も嫌味がなくて好かれる一因だと思っていた。まるで体目当てみたいな人ではなくて、もっと内面も理解してくれる人がいいんじゃないと思ったりする。
「見た目はいいんだけどなあ。でも、それを鼻にかけてるっつーか。どんな扱いしても女は付いてくるみたいに思ってるんだ、きっと」
咲が不服そうに言う。
(それでいいの?)
可南子はそう思ったけれど、口には出さなかった。中学時代に咲が好きだったのは、ちょっと小太りでお世辞にもかっこいいとは言えない子だった。けれど、面白くてよく気が付いてそんなところが好きだったのだと思う。
咲は突然その子を好きなことを止めると言い出した。隣に並ぶと不釣合いだからということらしい。それから、咲は見た目を気にするようになった。
「男運が悪いのかなあ?」
咲はそう言うとため息をついた。
(見た目で選ぶのをやめたら?)
そう思いながら、可南子は言葉を飲み込んだ。そんなことは何回も言った。けれど、譲れないことらしい。
「でも、いいところもあるんでしょ?」
付き合おうと思ったのだから、何か惹かれるところがあったはずだ。
「う……ん。まあ、見た目は今まででぴか一」
(そこなんだ……)
まあ、見た目も大事だとは思う。
「付き合っていったら変わるかも、よ」
そんな男振っちゃえばと言いたいところだが、たぶん、話の内容から初めて登場した人物だろうと推測した。男をとっかえひっかえもあんまりいいことだとも思えない。
「そうだねえ」
咲の気の無い返事が返ってくる。
それから、少し雑談をして電話を終えた。
咲がいる世界と自分のいる世界はまるで違うもののように可南子は思う。
一哉の手に触れるだけでどきどきしたのに、その手で触れられたら心臓はあっけなく機能停止しそうだ。触れられるところだって、手とか顔とか頭とか、そんな陽の当たる場所じゃない。服の上からだって誰からも触れられたことのない胸の膨らみとか、自分だって見ることも触れることも躊躇するような体の秘部を晒すなんて、考えただけで体の奥がぞくっとした。手や口や舌でああしてこうしてそうしてどうする――なんて咲から聞いた時は顔が耳まで真っ赤になった。
「やだ……」
何を考えているんだろうと可南子は思った。
(そんなことあるはずがない)
ずっと前に嫌われたと諦めた人だった。諦めたはずなのに、今日みたいにまだいると思うと待ってしまう。姿を見ると視線を向けてしまう。声が聞こえると、耳をかたむけてしまう。
だいたい、可南子の理想は地味で温かい人のはずだった。漫画でもドラマでも好意を持つのは主人公の引き立て役とも思えるような脇役で派手でも激しくもないかもしれないけれど、穏やかに笑っていられればいいなあと思ってたのに、惹かれたのはその対極に位置しているような人だった。
出会いは通学路。駅から学校までは広い遊歩道で繋がっている。そこで何かがあったわけじゃない。ただ、一哉が友達と笑いながら横を通り過ぎていっただけだ。可南子も友達と話しながら歩いていたのだけれど、一瞬、一哉の笑顔以外が真っ白になって、友達の話し声が遠く感じた。その時は誰だかわからなかったけれど、その後、委員会で一緒になった。人気があって、名前だけは聞いたことがあるやつだった。世界が違う人だと思ったけれど、ルックスに似合わず真面目で気取ったところがなくて、一哉が笑うとこっちまで笑顔になってしまう。ただ、そそっかしいところはあって、二階に行きたかったのに三階まで上がって行っちゃうとか、行き先は音楽室なのに、ちょうど鍵箱で隣に位置する生物室の鍵を持ってきてしまうことはあったりした。そんなことはどうでもよかった。理屈じゃなかった。理想なんてどこかへ行ってしまった。ただただ惹かれていった。
「また、嫌われちゃった……」
一哉がからむとなんかおかしくなってしまう、小さな失言は度々だ。
どうせ望みなんてないとは思う。彼女がいるという話は聞かないけれど、ファンクラブまであるやつだ。これといってとりえのない自分なんか相手にしてくれるわけがない。けれど、報われない思いは棘のように心に刺さって折に触れ思い出したようにチクチクと痛みだす。
(誰か取ってくれないかな)
その棘は自分では触れられないところにあった。