第10話「優希を狙う男」
陽介が放課後にECB部の部室に行くと、派手な髪の毛の色をした見知らぬ男が、ソファーに座ってコーヒーを飲んでいた。
部室の内装はほぼ喫茶店なので、いらっしゃいませと声をかけてお客として対応すべきか、陽介は少し迷った。入部したばかりなので、こういう場合の細かいルールはまだよく分からない。
「陽介くん。こっちこっち」
カウンターの奥からECB部副部長の石川が手招きしているのが見えたので、陽介は軽く会釈しながらソファーの前を横切った。見知らぬ男はコーヒーカップを口につけたまま、陽介を目で追っていた。
石川は陽介をカウンターの奥に引き入れると、小声で尋ねた。
「今日は優希くん来るの?」
「多分もう少ししたら、マリオンと一緒に来ると思います」
「じゃあ、私は陽介くんのコーヒーを作るから、それまであの人の相手をお願い」
「それはいいですけど、誰なんですかあの人」
「黄金拳闘部主将で三年の関谷さん。ここじゃとても有名な人」
陽介はソファーに座っている男を改めて見た。エメラルドグリーン色の直立した短髪、鋭い目つきに尖った顎、学生服の上からでも分かる細く引き締まった肢体。
拳闘部ってことはボクサーか。しかし、この漂ってくる才気は尋常じゃない。ひょっとしたら、師匠と同レベルなんじゃ……いや、あんな化け物がそう何人もいるはずはない。
陽介は石川の淹れたコーヒーを持って関谷の向かいに座った。軽い挨拶をかわすと、関谷は静かに言った。
「お前、異能力プロレス部の新歓試合に出てただろ。ライブで見てたから覚えてるよ」
「それはどうも……どうでした? あの試合」
「まぁ一年ボウズなら、あんなもんだろ。普通だな」
そこで会話が途切れる。沈黙に耐えきれなくなった陽介は、思い出したようにコーヒーを飲んだ。
「うまいか?」
「はい。石川先輩が淹れてくれたものを飲むのは初めてですけど、とてもおいしいです」
石川のコーヒーは切れの良い酸味と苦味のバランスが絶妙だった。これぞコーヒーといった感じの王道を行く味で、文句なしにうまい。
「そうか。せっかく淹れてもらったんだが、俺はブラックコーヒーがどうも苦手でな」
陽介は関谷の前にあるコーヒーカップを見た。確かに中身はほとんど減っていない。
「じゃあ、砂糖かフレッシュがあったら取ってきます。ちょっと待っててください」
「いや、いい。ここに来る前にちょうど購買部で買ったものがある」
関谷は横に置いてあったビニール袋から紙パックの容器を取り出すと、封を開けて自分のカップに注いだ。
「余らせちまうのもあれだから、お前のにも入れてやるよ」
関谷はそう言うと、陽介の了解を得ずに白い液体を注いでいく。陽介は彼の行動を気のない様子で眺めていたが、やがてある違和感に気づいた。
あの牛乳、やけに粘度が高い。注ぐ音に擬音をつけるなら、トトトじゃなくてタポタポだ。まさか腐ってるのか? いや、さっき購買部で買ったと言ってたから、それは考えにくい。
陽介は関谷の持つ紙パックのラベルを見た。白と青のツートーンのデザインだったので、てっきり牛乳かと思っていたけど、どうやらあれはヨーグルトドリンクのようだった。
しかし、コーヒーにヨーグルトを入れるなんて聞いたことがない。まぁ、同じ乳製品だから大丈夫だとは思うし、何となく乳酸菌がコーヒーの苦みをよりまろやかにしてくれそうな気もしなくもない。
陽介のカップにヨーグルトを注ぎ終わった関谷は、自分のカップを手に取ってうまそうな顔をして飲み出した。その様子を見た陽介も安心して自分のコーヒーを飲むと、盛大に噴き出した。
何だこの酸っぱさは!! 見た目はまともなのに、腐った牛乳を飲んでいるようだ。これはどこかの国では苦痛や不快感を与えるための拷問道具としても使われていると説明されても、全く違和感がないほどのまずさだった。
「何だ、お前。こういうのダメなのか?」
「……ダメに決まってますよ。よくこんなの平気な顔して飲めますね」
目にうっすら涙を浮かべて苦しむ陽介を、関谷は軽く笑い飛ばした。
「何を言ってやがる。これだよこれ、この普通じゃなさがいいんだ」
石川が掃除道具を持って奥から出てきた。陽介は自分で片づけますと言ったが、彼女は陽介が噴き出して汚した床を手早く掃除しながら言った。
「甘いベトナムのヨーグルトと酸味のないコーヒーを使えばヨーグルトコーヒーはおいしいけど、どっちも日本のものを使うのは非常に危険」
「へぇ~詳しいですね……ひょっとして、関谷先輩がこのヨーグルトコーヒーを作ることも知ってました?」
「普通の人が何も知らずに飲んだらどうなるか興味があった。思った通り、とってもいいリアクションだった」
「そんなの褒められても、全然嬉しくないですよ……」
陽介がソファーでぐったりしていると、優希とマリオンが部室に入ってくるのが見えた。
「こんちわわー。あれ、誰その人。お客さん?」
「そうだ。お前に用があって来たんだ」
関谷は優希の前に立つと、精巧な彫像を鑑賞するように角度を変えながら彼の全身を眺めた。
「やはり、お前の普通じゃなさは最高だ。俺は三年の関谷亮平、今日から俺の女になれ」
関谷のぶしつけな態度に抗議しようとしたマリオンを、陽介は片手で制した。この男が我を通すための底知れない力を持っていることは、漂ってくる才気の量で分かっている。今はもう少し相手の出方を見た方がいい。
「今は誰とも付き合う気はないんだ。詳細は新歓試合のアーカイブ放送でも見てよ」
「俺は、はいそうですかと簡単に諦めるような男じゃねぇ。いい男にはいい女が必要だからな」
「いい女が必要なら他をあたった方がいいよ。そもそも僕はまだ男なんだからね」
「今のままのお前で十分だ。力づくで言うことを聞かせるのはたやすいが、それではつまらん。そこで、何かお前から条件を出してくれ。それを聞くまではここを動かんぞ」
「いきなりそんなこと言われてもなぁ、う~ん……」
優希はため息をつくと、腕を組みながら天井で回るファンを眺めた。
「やぁ、みんな。ちゃんと集まってるようだね」
ECB部部長の大野が静寂を破るようにドアを開けて入ってきた。彼は部室の中に漂う微妙な空気と関谷の存在に気付くと、石川のもとに行ってそれまでの状況を整理した。
「優希くん、ちょっといいかい?」
大野は優希を手招きした。彼らはしばらく何かを話し合っていたが、やがて優希が関谷の前に戻ってきて言った。
「こんなのはどう? 陽介と関谷先輩でボクシング対決をして、もし先輩が勝ったなら僕とつき合う。でも、負けたらいざぎよく諦める」
何も聞かされずにいきなり自分の名前が出たことに、陽介は驚いた。
「俺が戦うのかよ! ……というか、そんな条件出していいのか?」
「優希から条件なんか出す必要ないわ。キッパリと断ればいいじゃない」
関谷の返答より早く、陽介とマリオンが優希に詰め寄る。
「大丈夫だって。陽介が負けるわけないでしょ」
さも当然だと言わんばかりの優希の顔を見て、関谷は小さく笑った。
「一応言っておく。他の勝負ならいざ知らず、ボクシングならどんな異能力を使おうが、俺に勝てるやつは一人もいない。本当にそれでいいのか?」
「もちろん」
「じゃあ、決まりだな。しかし、お前ほどの女を賭けるなら、俺好みの特別ルールでやりたいんだがどうだ?」
「何でもいいよ。それより、僕はまだ男だってさっきも言ったでしょ」
「訂正する必要はない。つき合った初日には、もうお前が立派に女の体だってことを分からせてやるよ」
関谷は待ちきれないといった感じで優希に手を伸ばす。その手首を陽介が横から握って止めた。二人はそのまま無言で睨み合う。
「そうそう……その特別ルールだが、マウスピースの代わりに電球を口に入れてボクシングをするんだ。これでパンチを喰らうと、ポンッといい音がして電球の破片で口の中がズタズタになるんだ。舌も深く切るし頬も突き破るから、半年はまともに飯が食えなくなるぞ。どうだ、面白いだろう?」
「普通じゃないですね、そのルールも先輩も」
関谷は陽介の腕を振りほどくと、発散する気で圧倒するように陽介を見た。
「そうだ、だからいい……普通の試合は退屈すぎて耐えられんからな」
陽介は最初に関谷と会った時の直感が間違ってないことを再認識した。 関谷先輩はただの異能力者じゃない、達人クラスの領域にまで確実に足を踏み込んでいる。
「明日の17時にゴングだ。場所はウチの部のリング、遅れずに来いよ」
彼は有無を言わさずに試合の日を決めると、笑みを浮かべたまま部室を後にした。