私たちのフィールド・オブ・ドリームス - The song of Baseball Maniacs. - 2
犬でもグラウンドへ紛れ込んだ?
違う。犬でも猫でもない。内野審判全員が一斉に球審の頭上を指差す。
(――蜘蛛!)
蜘蛛がバックネットをよじ登っていた!
『蜘蛛男? あの蜘蛛男ですか? 三十年の時を越えて伝説の蜘蛛男が復活したんですか?』
『いえ違います! 蜘蛛男じゃないですよ!』
『女! 男じゃなくて女! スパイダーマンガール! 蜘蛛のフレンズだ!』
『おや? 背負ったリュックから何か垂らしましたね?』
『人の心の幸せを壊す亡国結社【アヌスミラビリス】許せない……何のことでしょうか?』
球場中の警備員がバックネット裏へ勢揃いして上を見上げている。だが迂闊に手を出したら落下事故も免れない、そんな事態は現場のアルバイト警備員の手に余る。
観客の目も蜘蛛女に釘付けで、もはや始球式どころじゃない雰囲気。
やれやれ……適当に顔見世して引っ込めば終わるセレモニーだというのに、どうしてこんな厄介事態に巻き込まれなくちゃいけないのか……
「偽謙信!」
ところが不運は、それだけでは済まなかった。
『ちょっと待って下さい……バッターボックスにも何か別のフレンズが現れましたか? 白く立派なたてがみをなびかせた獅子? ライオンのフレンズですか?』
『いや違います……あれは武者装束です、諏訪法性兜の野球武者ですね!』
『解説の鍬田さん! つまりこれは……』
『川中島です! 川中島の決着を野球で着けてやる! という時を越えた遺恨試合ですね!』
なに? 私は聞いていない、こんなサプライズなんて!
「!!!!」
ファウルゾーンで控えるディレクターへ目配せしても「俺は知らないぞ」と首を振られる。
誰の差し金なのよ? 当事者に段取りを知らせない余興なんて誰かの誕生会じゃないんだから!
『――此処で会ったが四百年目!』
そんな戸惑いも一層する劇性を帯びた声。明瞭な滑舌と美しい声色が場内へ響く。
『川中島の因縁、この地にて果たしてくれるわ!』
一気呵成のプロモーションで閉じたドーム球場が彼女の小屋となる。
『いざ尋常に勝負為されよ!』
「あなたは!」
バッターボックスに乱入した武田信玄、その扮装をしてたのは私の「教え子」、面と向かって「あなたを教師にはさせない」と啖呵を切った子。
純真で無垢で鈍感で生意気な、私の可愛い教え子。
そして球場に響く声は彼女ではなく、別人がアテたものだ。
ワンフレーズで分かる。これも私の教え子、上杉祭りのステージへ土足で上がり込んできた子。
もし彼女に僅かでも女子アナ志向があったなら、どんな手を使っても潰さなくてはならない、それほどに美しい容貌を兼ね備えた子。彼女の声に違いない。
「どうしてあなたたちは!」
私を邪魔してくるの! 一度ならずも二度までも衆目の前で顔を潰しに来る!
何のつもり、この子たち?
『戦国最強の座――――この一打に賭けて!』
ビシリと決まったホームラン予告にスタンドも興奮。千両役者の口上が、ドーム(小屋)の方向性を定める。有無を言わさず誘導する。
急膨張する五万人分の期待感は恐ろしいほど、四方八方から熱量が降り掛かってくる。
『甲斐の虎は越後の龍との一騎打ちを望んでいます!』
『四百年ぶりに蘇った川中島の結末や如何に!』
事情を知ってか知らずか、放送席も流れに乗っかってしまった。
こうなればもう後へは引けない。「段取りが違う」とか言い訳してマウンドを降りたら【無粋】のレッテルを貼られる。五万人分の溜息が私を失望の沼へ叩き落とす。
ダメ、そんな姿は晒せない。
私はブーイングを浴びてはいけない女。常に光の当たる側に立っていなくてはいけない女。
「分かったわ……投げればいいんでしょ投げれば」
たかが始球式、顔を真っ赤にして勝った負けたの真剣勝負など求められてはいない。
仮に打たれたところで「てへ☆打たれちゃった♪」と舌の一つも出して見せれば、カメラが喜んで私を抜く。それをオーロラビジョンに大写しされて拍手喝采シャンシャン終了。
そういう茶番劇なの、始球式って。打ちたいなら打てばいい。私には何のデメリットもない。
『こぉーい!』
なによ勝手に熱り立っちゃって。こんな余興で私を打ち負かしたところで何の自慢にもならないでしょ。私は既に勝者、投げる前から勝者。洋々たる前途が約束されたレッドカーペットの女。若くして巨万の富を手に入れる現代のシンデレラガールズなの。
単なるセレモニーで失うものなど何もない。
「――果たしてそうかしら?」
「なっ!」
ここにいた。水道橋ドームを一気呵成の劇空間に仕立て上げた口上の主が!
バニーボーイズのマスコット、兎の着ぐるみで顔を隠しているけど、声で分かる。
「何? 何をするつもり?」
「安心して。背中から襲ったりしないから。そんな卑怯は武士道に背く」
というか襲いようがないわ。ここはマウンド、三百六十度の視線で監視された場所。五万人分の注目を前に下手な言い訳は通じない。
「さぁさぁ先生、野球は投手が投げなきゃ始まらないわよ?」
着ぐるみの「教え子」は私に球を手渡して、
「…………」
数歩下がると、私の投球を丁重に促す。
本当に何もしない気? 純粋な野球での勝負を望んでいるの?
「…………」
油断したところで、着ぐるみから変なものを出したりしないでしょうね?
(ま、いいわ……)
もはや考えても仕方ない。どうせ適当に球を投げ込めば私の仕事は終わり。今後一切「教え子」たちと交わる機会もなくなるのだから。邪魔しようたって大したこともできないでしょう?
「……んじゃいきまーす」
予定外の展開に胸踊らす五万人の観客たち、事の成り行きを見守るテレビ関係者、審判、ベンチの選手たち……何はなくとも私が投げないと先へと進まない、そんな同調圧力に背中を押され、
ザッ……堅いプレートの上で脚を振り上げる。見栄えのいいワインドアップからテイクバック、
ズシャ。足を斜面へ投げ出して体重移動、それに伴って右腕を思い切り振り下ろし、
リリース。
遠心力が極まるポイントで球を放す。
これでいい。これで終わり。
結果ノーバンであろうとワンバンであろうと「ありがとうございました!」と愛想の笑顔を振りまいて裏へ帰ればいい。それで本日のお仕事終了です。お疲れ様でした。
でした――――とはいかなかった。
「謙信、破れたり!」




