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十年前、ウルリーケが編上げた結界は常軌を逸していた。一国を覆う規模、数種類の複雑な魔術の同時発動。魔術師がたった一人で作り出せるレベルではなかった。通常なら数十人の魔術師が協力して発動させる規模の大魔術だった。
外からの魔術攻撃は吸収し、その熱量を結界構築維持に再利用させ、結界に触れた者を昏倒させる。
それは人を傷つける魔術ではなかった。ひたすら、守るためのもの。
けれど、各国の王は戦慄した。これだけの魔術を操る者が攻撃に回ったら、どれほどの破壊力をみせるのか。何より彼らを震え上がらせたのは、彼らの保持する「最高位の魔術師」の攻撃が全く効かなかったことだ。かつてなかったことだった。ウルリーケ一人で戦局がひっくり返る。
彼らはウルリーケを欲した。
各国と停戦条約を結んだ後も、ローグヴェーデンが守護結界を解くことはなかった。けれど、条約を結んだ手前、国交を閉ざし続けるわけにもいかず、貿易や人の移動も制限付きながら、再開された。
結界に触れても昏倒しないでローグヴェーデンに出入国するためには特殊な魔術解除具を身に着ける必要があった。入国は一月に百人までと定められ、入国を許されるのは身元の確かな貴人や商人のみ。
そうやって厳しく制限しても、ウルリーケを攫おうとする曲者が時折紛れ込む。けれど紛れ込める曲者の数はそう多くない上、ウルリーケの周囲は騎士団でがっちりとガードされているため、ウルリーケを生かしたまま攫うことは不可能に近い。
ならばウルリーケを殺そう――為政者たちがそう結論付けるのにそれほど時間はかからなかった。最強の武器を失うのは惜しいが、他国に奪われるよりはいい。それに、魔術の発動者であるウルリーケを殺せば、結界を消滅させられるのではないか。
斯くしてウルリーケは世界中から命を狙われることになったのだった。
実際には、今のウルリーケは魔力を使い切った抜け殻状態なので、列国の欲しがる最強の武器としての価値はない。それにウルリーケが死んでも、消滅するような結界ではない。結界はウルリーケから完全に独立していた。
(だから本当に私に護衛は必要ないのだけど…)
――そんなことをラーシュが許すはずもなかった。そしてそれはウルリーケに忠実な騎士団であっても。
「結界が無事ならウルリーケが死んでもいいなんて、思うはずないだろう!」
「ローグヴェーデンを護るためにすべてを捧げてくださった貴女を護れないのならば、我々に存在価値はありません。たとえ今の貴女に魔力がなくとも、貴女の尊さが損なわれたことにはならない。すでにローグヴェーデンの国民にとって貴女は存在するだけで安心し、希望を感じることが出来る尊い聖女さまなのです。どうか我らに貴女を護らせてください」
…だからウルリーケは探そうと決めたのだ。魔力を取り戻す方法を。少しでも長く生きるために。彼らの優しい想いに応えたくて。
国中の書物を漁った。年配の魔術師を探しては魔力について教えを乞うた。けれど、欲しい情報はなかなか見つからなかった。元々魔術師の数は少ない。それに、力のある魔術師は大国ロヴィニアが連行している。魔力についての研究もロヴィニアのほうが進んでいた。
アーロンは部下に国外の情報を集めさせた。どんなささいな情報でも魔力に関することならなんでも。そして、今回部下が見つけてきた不思議な事件の調査にラウラとロニーが出向いたのだった。
***
一ヶ月と少し前、どこからともなくひらひらと一匹の蝶が飛んできた。白色の蝶だ。それは真っ直ぐローグヴェーデンへ向かい、結界に触れて消滅した。
「…消滅した?では、魔術の類という事か…?」
生物ならば昏倒して結界の前に落ちるはずだ。
アーロンはすぐに部下を派遣して蝶の目撃情報を集めた。その結果、それは西から飛んできたらしいとわかった。
大雑把な方角しか掴めず、蝶は既に消滅してしまったため、それ以上調べようがない。結界には何の影響もなく、さほど気に留めるほどの案件ではないのかもしれないが、少しでも魔術に関わりがありそうならアーロンとしては細部まできっちりと調べたかった。彼は無駄足になるかもしれないと覚悟の上で西に数名の部下を派遣して蝶の出所を探らせることにした。団長の無茶ぶりに、けれど異議を唱える者はいない。
その性質上、白銀の騎士団員にはウルリーケへの心酔度合が高い者が多い。王国を守護した聖女を護りたいと志願する者が後を絶たず、実際にウルリーケに接してその姿がずっと変わらないことに驚きつつも、むしろ神聖に感じ、清楚で可憐な妖精のような美少女に仕えることを喜びとしている。彼らは大切なウルリーケを「姫」と呼んで慈しんでいた。「姫」のためなら、彼らはなんでもする。
騎士団の執念が功を奏したのか、たまたまなのか、白い蝶はそれから六日間、毎日一匹ずつ飛来した。そのお蔭で彼らは蝶がどこから飛んでくるのか把握できた。
大陸西部に位置するキルキス山脈。その山の中腹の隠里。
魔術に関する調査ならば、魔術師がいたほうがその痕跡を見つけやすい。そういうわけで、神殿からラウラが、騎士団からはロニーが調査の担当者兼ラウラの護衛として、キルキス地方に赴いたのである。
キルキス山脈までは馬車を飛ばして十日、隠里へは二日かけての登山になる。屈強な成人男性でも大変な行程を、しかしラウラは物ともしなかった。むしろ、ウルリーケと離れ離れになるほうが辛いと、帰りの馬車は夜通し御者を務めて行程を繰り上げたくらいだ。
***
「蝶を飛ばしていたのは小さな女の子でした」
ロニーは調査結果を簡潔に報告した。
「でもその子は自分が何をしていたのか、分かっていなかったようです」
「女の子、あ、ターニャっていうんですけど、自分に魔力があるって、私たちが行くまで気付いてなかったみたいなんです。まあ、無理もないくらい微々たる魔力でしたしね。その里で魔力があるのはターニャだけでした」
ラウラが後を続ける。魔術師は魔力を感知できる。魔力の高い魔術師ほど、相手の魔力を正確に把握する。
隠里は、お尋ね者や、行き場のない者たちが寄り集まって出来た里だった。その中には魔術師もいたのだろう。けれど先祖がそれを隠し、魔力を持たない者との結婚を何世代か繰り返して、どんどん血が薄れていけば、自分が魔術師の末裔だとは気付かないこともありうる。
それほど魔力を持たない者であれば、神殿が関与する必要はないだろうとウルリーケは思った。もしも、魔力を持て余していそうな者を見つければ、保護することも神殿と騎士団の大事な役目だ。
「では…、蝶が真っ直ぐローグヴェーデンまで飛んできたのは、偶然だった?」
何かの遊びだったのだろうか。だがキルキス山脈からローグヴェーデンまでは遠い。その距離を蝶の形を保ったまま飛ばす魔術は遊びの域を超えているのではないか、などと考えながらウルリーケが質問すると、ロニーが首を横に振った。
「いや、それはまだわからない。ただ、ターニャは蝶がローグヴェーデンまで飛んできていることを知らなかった」
「ターニャは花を貰ったと言っていました」
「…花?」
ラウラの言葉にウルリーケは瞬いた。「はい」と、ラウラは頷く。
「花びら部分が銀色の造花だったそうです。その花にターニャが触れると、白い蝶が現れて、飛んでいく。蝶が現れると同時に花は焔に包まれて消えてしまったそうです」
「焔…」
その花に魔術がかけられているのは間違いないだろう。だが。
「目的も、魔術の種類もわからない…」
子供向けの他愛無い奇術だろうか。そこまで考えてウルリーケはふと顔を上げた。ターニャが触れると――。
「その花、魔力に反応した…?」
呟きに、ロニーがにやりとした。
「勘がいいね、姫。その花にターニャ以外の人が触っても何も起こらなかったらしいよ」
「その花はもうない?」
「残念ながらね。ターニャは花が消えてしまうのは惜しいが、蝶が出てくるのが面白くて全部使ってしまったってさ。ただし」
そこでロニーは言葉を切ってウルリーケを見つめた。
「一日に一本だけだよ、と花をくれた男に言われたんだって。理由はわからない」
「…蝶が一日一匹だったのは意図的…?」
何か意味があるのだろうか。一日一本。用法容量を守りましょう―。…摂りすぎは毒?
(クリストフェルに聞けば何か判るかな)
クリストフェル・フレイヴァルツは魔力を持たないが、ローグヴェーデンにおける魔術研究の第一人者だ。ただし不用意に近付くと、実験につき合わされていいように振り回される危険性がある、要注意人物でもある。
後で聞きに行こうと考えながら、ウルリーケはラウラに向き直る。
「…ターニャに何か異常は?」
「特に問題はなさそうでした」
ラウラは間髪入れずに答えた。ウルリーケに話しかけられて、嬉しそうだ。ラウラの返答に、ウルリーケは考え込んだ。容量を守ったからだろうか。それとも元々無害な玩具だからか。
(…目的がわからない。だけど、キルキスからローグヴェーデンまで飛んでくる魔術に何の意図もないとは考えにくい…。でもなぜターニャに?)
キルキスの山奥に住む、魔力もさして多くない少女。
「…ターニャに花を渡した男については何かわかったか?」
アーロンの質問にロニーが答える。
「通りすがりの旅人だと自称していたようです。細見の長身で真っ赤な長髪に真っ赤なマント、見たことのない奇抜な衣装、となかなか派手な男のようです」
「………」
道化師だろうか。アーロンが「悪趣味な…」と、嫌そうに眉を顰めている。
「男の行方は部下に捜させています」
ロニーも眉を顰めている。それだけ派手な人物なのに捜索が難航しているのだという。アーロンが僅かに眉根を寄せた。ウルリーケも表情を変える。
派手な服装にばかり目が行って、肝心の男の容姿などは曖昧な情報しかないことに気付いたのだ。
(それを狙っての派手な格好だとしたら…)
正体を隠そうとしている。それは、何かよからぬことをしようとしているからなのか。




