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ウルリーケは神殿へと戻り、ラウラとクリストフェルとノアにことのあらましを話した。
「『花』を使ってもいいと思う?」
ノアは話しながら考えを纏めるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「使っても大丈夫だとは、思います。…ですが、刻印された魔術師の魔力に反応するなら、魔力がない状態で『花』に反応するかどうか…」
(やってみなければ、わからない、か)
「刻印が暴走する可能性は?」
「ないとは言い切れないだろうな」
クリストフェルの回答は情け容赦もなかったが、ウルリーケは頷いた。
「暴走した刻印に『花』を使えばどうなる?」
「魔力は吸収できると思いますが、うっかり魔術師の命まで奪いかねませんね」
ノアの推測はもっと容赦がなかった。
(どうする…。魔力が暴走してからでは手遅れだ。もっと刻印の情報が欲しい。せめて魔術回路がわかれば、もう少し…)
ウルリーケはアウロラのことを思った。
(もしかしたら、刻印のせいで…)
ウルリーケは頭を振った。
(今はそれを考える時じゃない)
「すべてのリスクを話して、その上でサシャさんに判断していただくしかないと思います」
悩むウルリーケにラウラがきっぱりと言った。
(ラウラ…)
ウルリーケは顔を上げた。
「…そうだね。…うん、そうする」
ウルリーケは再び牢へ行き、サシャに予測しうるすべてのリスクを説明した。サシャはあっさりと言った。
「構わねえよ、やってくれ」
迷いのないサシャに、ウルリーケは驚いた。
「…怖くないの?」
サシャはちょっと笑った。
「刻印がある限り、いつでも命の危険はある。ぶっちゃけ、俺も期限内に戻らなければ、刻印が発動して死ぬ。…でも、戻りたくねえ。だから、いいんだ」
ウルリーケは胸が痛んだ。黒魔術師は死ぬよりも辛い日常を強いられている。
(死なせたくない…)
「…わかった、やろう」
ウルリーケは一つきりのサシャの瞳を真っ直ぐに見つめた。…サシャの左目は虐待によって失われた。サシャの身体は傷だらけだ。ウルリーケは彼が上半身裸になったとき、それを知った。それでもサシャは明るく笑う。
「あぁ、頼む。ローグヴェーデンの聖女」
以前、銀の花の実験を行った、神殿から離れた広場にサシャを連れていく。アニタとミカルとノアが結界を張り、刻印が暴走しても周囲に被害が出ないようにする。
少し離れたところでウルリーケは見守った。側にはラウラとクリストフェルとレオンとアーロンがいる。
サシャが自ら手に「花」を持って、背中の刻印に触れるという作戦だ。
サシャが服を脱ぎ、準備が整った。
背中に花を当てる。ウルリーケは息を飲んだ。…けれど、何も起こらない。「花」は蝶にはならず、花のまま。
(反応しない…?)
その可能はあった。それでもウルリーケは落胆した。
(解放してあげられなかった…)
「ダメ、か」
サシャも、少し残念そうに笑った。ウルリーケは決めた。
「明日、もう一度やろう。今度は魔力のある状態で」
サシャは目を見開いた。
「…いいのか?」
黒魔術師に、魔力を戻す。それは危険な賭けだった。アーロンが眉根を寄せた。けれど何も言わなかった。クリストフェルは何か別のことを考えているのか、心ここに在らずという風情だったか、何も言わないのであれば、許可したと見做す、とウルリーケは決めた。
ウルリーケはサシャの瞳を見て、しっかりと頷いた。
「貴方を信用すると言った。やる」
サシャはにやりと笑った。
「いい度胸だな、お嬢ちゃん。流石はアウロラの娘」
その名前に反応した者が一人だけいたが、そのことに気付いたのはアーロンだけだった。
*
翌日、サシャはもう一度牢から出されたが、特に拘束はされなかった。今日は魔力が戻っている。逃げようと思えば逃げられるし、ウルリーケを害そうと思えば出来るだろう。
一応両側には騎士が付き、ウルリーケの横には騎士と魔術師がいるが、そんなものはサシャに言わせれば、ザルも同然の警護だった。
「油断し過ぎじゃねぇ?お嬢ちゃん」
呆れたように言うと、ウルリーケは笑った。
「それを指摘する人に、逃げるつもりがあるとは思えない」
「なんだ、隙を見せているのは、罠か?」
サシャが軽口を言うと、ウルリーケは真剣な表情でサシャを見つめた。
「…貴方の刻印を消したい」
その真摯な瞳に、サシャは何も言えなくなった。
広場に着くと前日と同様、アニタとミカルとノアが結界を創る。
サシャが服を脱ぎ、花を手に持った。
「背中を見せて」
ウルリーケが言うと、サシャは後ろを向いた。刻印はくっきりと浮かび上がっていた。
(魔力が戻ったから、刻印も戻った…)
「始めるぜ」
黒魔術師たちを捕える時、「花」は魔術師本人に触れさせて、魔力を奪っていた。今度は直接魔術印に「花」を当てる。
(剥がせるだろうか?)
祈るような気持ちで見つめる中、サシャが刻印に花を押し当てた。すると、刻印が引き剥がされるように半分浮かび上がった。
(うまくいった!?)
「ぅぐっ…!」
だが、直後にサシャが呻いた。刻印から黒い焔が吹き上がり、サシャの魔力を吸い尽くそうとするように渦を巻いている。花はその魔力をすべて吸収しようとしている。
「サシャさん!花を離して!!」
ウルリーケが叫んだ。だがすぐに、既に花がサシャの手から離れて、刻印に張り付くように焔のなかにあることに気付いた。
(暴走だ!)
ウルリーケは結界の中へと走った。
「お姉さま!!」
ラウラが悲鳴を上げた。
「ダメだ!近寄るな!!」
サシャが怒鳴るが、ウルリーケは夢中だったので聞こえなかった。ウルリーケはサシャの前に立った。
刻印の魔術回路が見えた。
刻印はサシャの魔力に食い込んでいるようだった。
(それなら…)
ウルリーケはもう何度も「花」が蝶になるところを見た。ここ数日、捕えた魔術師から魔力を貰っていたため、ウルリーケには魔力の余力があった。
ウルリーケが魔術を使うのは十年振りだった。
イメージしたのは「蝶」。ウルリーケに魔力を運んでくれるそれは、ウルリーケにとっては希望の象徴だった。
両掌を合わせる。そこに光が集まり凝縮されて蝶の形になった。ウルリーケは蝶をサシャの身体に入れた。
その時、「花」が蝶になった。蝶はふわりと飛んで、ウルリーケの身体に吸収された。
サシャがその場に頽れた。
「サシャさん!」
ウルリーケは跪こうとしてサシャの背中が目の端に映った。
(あっ…!)
刻印は消えていた。
「だ、いじょうぶ、だ…」
ぜいぜいと荒い息を吐いて、サシャが身体を起こした。
サシャは片膝を立てて、そこに身体を預けるようにしてウルリーケを見上げた。
「あんた、俺に何をした…?」
「私の魔力を入れた」
ウルリーケは跪いてサシャの肩に手を置いた。
「魔力は…滞っていない」
頷いて、手を離すとにっこりと微笑んだ。
「うまくいったみたい」
サシャは目を見開いた。
「お姉さま、もしかして『花』を創ったのですか!?」
ラウラが駆け寄って来た。興奮に頬が赤く色付いている。ウルリーケが頷くと、ラウラは「お姉さますごい、流石お姉さま」と言って涙を流した。サシャはそんなラウラに唖然としたが、ウルリーケはいつものことなので、特に気にすることなくサシャに顔を向けた。
「刻印は消えている」
サシャは目を見開いたまま固まった。
刻印が消えた?そして自分はまだ生きている。あり得ない。
アーロンがウルリーケに説明を求めていた。ウルリーケは簡単に解説した。
「刻印はサシャの魔力をすべて吸い尽くそうとしていた。それを花は全部奪おうとしてた。あのままではサシャの魔力が全部吸い尽くされて死ぬと思ったから、私の魔力を入れたの」
「『花』の魔術は覚えるのに二年はかかると言われていたんですよ!?それをお姉さまは…」
ラウラが興奮してアーロンに詰め寄っている。ウルリーケは律儀に訂正した。
「正確には、私の魔力を取り出しただけだからあの『花』とは違うの。あれは放たれた魔術を分解して魔力にすることも出来る、もっと高度な魔術で…」
「ふ…はははっ…」
突然サシャが声を上げて笑い出したため、ウルリーケたちは驚いてサシャを見つめた。だが、驚かされたのはサシャの方だ。
「まさか本当に刻印を消してもらえるとはね…」
そうしてサシャは姿勢を正すと、すっとウルリーケに頭を下げた。
「感謝する、ローグヴェーデンの聖女。…身体が軽くなった気がする。…心も」
ウルリーケは微笑んだ。真っ直ぐな人だと思った。黒魔術師なら、もっと心が屈折していてもおかしくないのに。
「…刻印が消えたら、貴方はロヴィニアから解放された?」
「あぁ」
「…もうローグヴェーデンに敵対することはない?」
「…あぁ」
サシャは微笑んだ。その笑みには万感の思いがこもっていた。ウルリーケも嬉しくなってにっこりと微笑んだ。
「それなら、貴方は自由。でも、他に行くところがなければ、ローグヴェーデンは魔術師を保護する用意がある」
「…自由?…保護?」
サシャはポカンとして、まるで初めて聞く単語のように、口の中で言葉を転がした。
「もう牢に戻る必要はない。今夜は神殿に泊まっていい。保護を選ぶなら、そこが貴方の居場所になるから」
そう言って踵を返し、サシャを置き去りにしてウルリーケはさっさと立ち去ってしまう。本当にサシャを拘束するつもりはないらしい。
サシャは唖然とした。
「……気風が良すぎだろ、お嬢ちゃん」
腹の底から笑いがこみ上げてくる。愉快だった。