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赤髪男の拍子抜けするほどあっさりとした返答に、ウルリーケたちは困惑した。
「罠じゃないでしょうか」
「ロヴィニア皇国と繋がっている可能性は」
「周辺にロヴィニアの密偵は」
「陛下がここにいることが漏れた可能性は」
「ロヴィニア軍に動きはないとの報告が」
ロヴィニアの密偵は見当たらない。少年が去ったあとも、赤髪男に動きはないとの報告を受けている。尤も、魔術でなんらかの目くらましを仕掛けていた場合は、どうしようもないのだが。
さまざまな情報を分析し、熟考したのち、たとえ罠でもここまで来たからには折角の招待に応じない手はないという結論に達した。
ウルリーケたちは翌日の午後、赤髪男の部屋を訪れると連絡し、その日は早々に休むことにしたのだった。
ウルリーケたち一行が泊まるのは、メルクの貴族の別邸である。その貴族とは密かに魔石の取引をしており、今回の訪問は表向きは商談のためとしていた。だが、その貴族は現在不在である。屋敷は自由に使ってよいとの許可を貰っていた。
軽目の夕食を済ませ、それぞれの部屋へと引き上げていく。
ウルリーケとラーシュは二間続きの客室を宛がわれた。この屋敷で一番良い部屋とのことだった。
ゴールドとグリーンを基調にした豪奢な部屋だが全体的に色調が抑えられており、品がいい。
(ラーシュの色だ)
ウルリーケは一目でこの部屋が気に入った。ここでなら落ち着いて話ができそうだ。話の内容を思うと、胸がどくどくと逸り、緊張に喉がからからになるけれども。
金糸で刺繍が施された黄色の長椅子におもむろに座り、ラーシュの手を取って隣に座らせると、コホンと咳払いをしてラーシュに声をかける。
「ラーシュ、お話があります」
改まった口調のウルリーケに、ラーシュは首を傾げる。
「何…?あ、部屋を別々にしたいとかは却下だからね。でもそれ以外はなるべくなんでも叶えるよ。ベルゲンの街中を散策したいとか、ベルゲン名物のレモンケーキを食べたいとか…」
「部屋割りの話じゃなくて……え、街中散策行ってもいいの?」
ウルリーケが思わず問うと、ラーシュは微笑んだ。ウルリーケの髪に手を伸ばし、優しく梳く。
「折角ここまで来たからね。まだ遅い時間じゃないし、変装もしてるしレオンもいれば大丈夫だから。行く?」
誘惑してくるラーシュに、ウルリーケは危うく乗りそうになってしまったが、ぎりぎりのところで踏みとどまる。
(違う!遊びの話をしたいんじゃなくて、今は――)
明日、赤髪男に会う。話がどう転がるか分からない。最悪、自分は明日、命を落とすかもしれない。その前にラーシュに伝えねばならないことがある。ウルリーケは深く息を吸うと、迷いを振り切るように真っ直ぐにラーシュを見つめた。
「ラーシュ、あのね。……マデリエネさんのことなんだけど」
「ききたくない」
「え!?」
意を決して話し始めたというのに、いきなり出鼻を挫かれてウルリーケはうろたえた。ラーシュはにっこりと綺麗な笑みを浮かべてウルリーケを見つめていたが、なんとなく黒いオーラを放っているように感じる。怖い。
「ウルリーケが彼女のことを気にする必要はないよ。会う必要もない」
ちなみに現在マデリエネは屋敷の一室に軟禁状態で閉じ込めている。迎えを呼んで彼女だけ送り返すつもりだったが、ローグヴェーデンからの報告でそれは難しいだろうと判断し、結局彼女も一緒に連れて帰ることになった。それまでは余計な動きをさせないために、見張りを付けての軟禁である。
にべもないラーシュの態度に、ウルリーケは困った。それでも伝えなければならなかった。残される彼のために。
「…わかった。じゃあ、独り言、言う」
ウルリーケはラーシュの側にぴったりと寄って、その腕に抱き付いた。逃がさないようにとしてだが、甘えているようにも見える。
「ウルリーケ…」
「…私は幸せだなって、思う。今、とても幸せ」
「…!!」
ラーシュの、息を飲む音が聞こえた。
「生まれた時からずっと、大切にしてもらった。大好きなひとの側にいられた。大好きな人の願いを叶えられた。それは私の願いでもあった。…本当に、これ以上ないくらい、幸せ者だよ」
ウルリーケが見上げると、ラーシュが凍り付いたように目を見開いたまま、ウルリーケを見下ろしていた。ウルリーケが微笑むと、ラーシュは泣きそうな顔をした。
「だから、もう、いいの。一生分の幸せをもらったの。これ以上、ラーシュから貰えない。…これから先は、ラーシュは他の人にあげるの」
「ウルリーケ、もういい」
ラーシュがぎゅっとウルリーケを抱きしめた。ウルリーケは小さく首を横に振った。
「…ラーシュに、幸せになって欲しいの。私に囚われて欲しくないの」
小さな手で、ラーシュの胸元の服を掴む。その手は震えていた。
「ウルリーケ、黙って」
「マ、マデリエネさんなら…」
言いかけたウルリーケの唇に、ラーシュが指を押し当てた。碧の瞳が強く睨むようにウルリーケを見据える。
「…泣きながら、言わないで」
言われて、やっと気付く。頬を伝う涙。
ウルリーケはうろたえた。泣くつもりはなかった。…笑顔で伝えるつもりだったのに。ぽろぽろと、意志に反して零れ落ちる涙に、どうしていいかわからない。これでは台無しだ。ラーシュが零れ落ちる涙を掬うように舐めた。反射的に目を瞑った瞼の上に、口付けが落とされる。
「!」
びくりと、ウルリーケの身体が震えた。おそるおそる目を開けると、碧の瞳が切なげにじっとウルリーケを見つめていた。ウルリーケは金縛りにあったように、動けなくなった。
「…囚われているのはぼくじゃない。むしろぼくがウルリーケを閉じ込めているんだよ。幸せを貰ったのはぼくのほうだ」
ウルリーケの唇を押さえていた指がそっと外される。直後、温かいものに唇を塞がれた。
「!?」
ラーシュの唇だ、と気付いたのは既に唇が離れた後だった。軽く触れるだけの口付け。それでも、唇への口付けは初めてだった。ウルリーケの涙が止まる。ラーシュはすぐに唇を離すと、ウルリーケの額に自分の額をそっと当てて、囁いた。
「ウルリーケを幸せにしたい。…泣かせたくない。ウルリーケ、可能性に賭けたいと言ったでしょう?だからまだ諦めないで。明日はウルリーケの命日じゃない。…遺言みたいなこと言わないで」
「!」
ラーシュの言う通りだった。ウルリーケは自分で可能性に賭けると言ったのに、勝手に諦めていた。
ウルリーケの目尻から、また涙が零れ落ちた。ラーシュの指が涙を拭う。優しく、何度も擽るように頬を撫でられて、次第にウルリーケは落ち着かない気分になった。涙が唇に流れた。ラーシュの指が唇に触れる。その仕草はぞくっとするほど色っぽく、眼差しは甘い。
「ああ、もう…。大人になるまで我慢するつもりだったのに」
仕方ないよね、と笑って唇にちゅと口付けられた。ウルリーケの顔が瞬時に茹で上がる。(仕方ないって何が!?)
啄むように何度も何度も落とされる口付け。軽く触れるだけのものなのに、徐々に甘さを増していく気がするのは何故だろう。溺れているみたいに、息が出来ない。
「早く泣き止んでくれないと、止められなくなるよ?」
脅迫めいたことを言って悪戯っぽく笑うラーシュは、とっくにウルリーケの涙が止まっていることに気付いているに決まっている。
こんなキスをされたら、なけなしの決意が揺らいでしまう。やっとの思いで覚悟を決めたのに。ラーシュにも、今はウルリーケ以外を見るつもりはないのだと、思ってもいいのだろうか。
「もう泣いてない…っ」
小さな手足をバタバタと動かして、やっとラーシュの唇が離れた。ウルリーケの顔は真っ赤だ。心は大人でも、身体は八歳なのだ。いろいろと免疫がない。
「…ラーシュのばか」
震えながら睨み付けるウルリーケに、ラーシュは苦笑した。
「…ごめん、あんまり可愛くて」
ふいっと横を向いてしまったウルリーケは、その時ラーシュが切なげに瞳を揺らしたことに気付かなかった。




