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ローグヴェーデンを出るのは、十年ぶりだった。
ウルリーケが結界を出ても、結界が緩むことはなかった。アーロンはほっと小さく息を吐き出した。感嘆の吐息だ。
「……素晴らしい結界ですね」
小さな少女が起こした奇跡。だが、その代償に少女は未来を失った。取り戻せるなら、何としても取り戻してやりたかった。
一行は商隊を装って森の中を馬車で進む。ウルリーケとラーシュの乗る馬車は大き目の六人乗りだ。外観は質素な作りだが、内部は座り心地の良い座席に、上等のクッションが置かれ快適だった。馬車にはアーロンとラウラも護衛として同乗している。
あまり護衛が多いと不自然なので、六名の騎馬以外はもう一台の馬車と荷馬車に分乗していた。
荷馬車の中には商品を入れた木箱を装って武器やクリストフェルが試作した魔術を込めた魔石などが詰め込まれている。
…その中の箱の一つがカタカタと動いた。
騎乗の騎士から報告を受けたロニーは、すぐさま馬車を停止させ、荷馬車だけ少し先まで移動させた。
箱はカタカタと振動し続けている。…不気味だ。
「この箱には魔石が詰まっているはず、だよなぁ」
「…です」
一緒に箱を検分するために来た騎士の頬は引き攣っていた。魔石が魔獣にでも変化したのではないかと怯えているようだ。
ロニーはニヤリと笑った。
「さぁて、何が出るやら」
ロニーは思い切りよく、蓋を開いた。
部下から報告を受けたアーロンは片眉を上げた。頭痛がする。
「…………もう一度、言ってくれ」
「はっ、木箱から女の子が出てきました」
部下は律儀に同じ言葉を繰り返した。
「わたくしも同行させてください!わたくしにもチャンスをください!わたくしだって陛下のお役に立ちたいのです!」
箱の中にいたのは、メイド姿のマデリエネだった。
「………………………………………………」
アーロンは頭を抱えたくなった。木箱の外側には、クリストフェルの字で【結界を通り抜けたら一度開けること】と但し書きが貼られていた。彼が手引きしたようだ。
マデリエネの乱入に、ラーシュとウルリーケは頬を引き攣らせた。ラウラは目を吊り上げている。しかし一行は既に結界を通り抜けている。今更戻れと言うのも難しい。それを見越して結界を抜けてからの登場なのだろう。
「クリストフェルさまは何を考えているのよ……」
ウルリーケの隣でラウラがギシギシと音を立てて奥歯を噛みしめている。その顔は鬼の形相だ。怖い。
「…マデリエネ殿。これは気軽な旅行ではない。遊び気分で付いてこられては迷惑だ」
ラーシュの厳しい声に、マデリエネは一瞬怯むも、ぐっと拳を握りしめて言い返す。
「遊びではありません。わたくしは本気です。陛下のお妃になりたいのです。でも待っているだけでは、陛下の眼には映らない。だからわたくしは追いかけることにしたのです」
ウルリーケは瞠目した。マデリエネの真っ直ぐさが眩しい。そっとラーシュを窺うと、眉根を寄せて、厳しい表情をしている。そこには些かも心を動かした様子はなかった。
「時と場合を考えるべきだな。闇雲に行動力を発揮するのは勇敢とは言わない。其方は足手纏いだ。そんな状態で追いかけられて、余が其方に情を移すとでも?…ベルゲンに着いたら迎えを頼むからそれまで宿泊先で大人しくしていなさい」
そうしてウルリーケの手を取ると踵を返して馬車へと乗り込む。一度も振り返ることなく。ウルリーケはそっと振り返りマデリエネを見つめた。マデリエネは唇を噛みしめて震えていた。その瞳は乞うようにじっとラーシュに向けられていた。
ウルリーケはラーシュの言い分も尤もだと思うが、ある意味なんの力もないのに、ラーシュを追ってきたマデリエネは純粋でいじらしいと思った。無謀ではあるが、マデリエネが本当にラーシュのことを好きで、どうしようもなく追ってきてしまったのだとしたら。
(ラーシュのことを、大事にしてくれるなら…)
ウルリーケは胸の奥で一つの決意を固めた。それは自身の心にナイフを突き刺すような痛みをもたらしたが、同時に救済の光を見つけたような、奇妙な安堵感ももたらした。
***
ウルリーケたち一行がローグヴェーデンを出て暫くののち。
ローグヴェーデンへいくつかの商隊が入国した。商隊はいつも出入りしている業者で、それはいつも通りの定期便だった。ただし各商隊の滞在期間がそれぞれいつもの予定より多少長かったり、入国日が早まったり遅くなったりしたため、数日間滞在が重なったことがいつもと違っていた。
入国する商隊が多い中、一台の立派な馬車がローグヴェーデンを出た。馬車は六頭立てで、周りを護衛する騎馬は一個小隊並の規模と統制のとれた集団だった。馬車はメルク公国の東隣、ミラルカ王国へと向かっていた。
馬車の中にはどんな貴人が乗っているのか。街道脇に住む村人たちは立派な馬車に目を見張る。ある者はレースの帳越しに、まだ少女と思われるシルエットが見えたと言った。また別の者は、銀色の髪の少女だと言った。
***
メルク公国はローグヴェーデンの王都ほどの面積しかない、小さな国だ。幸いなことにローグヴェーデンとは友好国である。メルク公国国境警備隊には事前にエリアスが通知を出していたため、問題なく入国することが出来た。勿論ただの商隊としか知らせていないが。
ベルゲンはレモン色の建物が連なる可愛らしい町だった。
アーロンは、一先ずここまで何事もなく(マデリエネの件はともかく)、無事到着できたことに安堵した。
密偵からの報告によると赤髪男は現在、とある旅籠の一室にいるという。特に連れはなく、一人だという。
赤髪男がベルゲンに現れたとの報告が入ってからほぼ一週間経つが、その間彼はほとんど部屋から出ていないという。
どうやって赤髪男に接触するか。
ウルリーケは直球勝負に出ることにした。即ち、直接男の部屋を訪ねて銀の花のことで話がしたいと伝えるのである。
(なるべく穏便に、友好的に)
とはいえウルリーケの名を出すのはリスクが高い。相手が友好的とは限らないからだ。ラウラとアーロンは反対した。だが、ウルリーケはこちらが心を開かなければ、相手に余計な警戒心を与えてしまうと思った。だから名乗るのは最低限の礼儀だと主張した。
結局、双方の妥協案として、直接訪問する前に、手紙で接触を図るということで落ち着いた。街中の少年をつかまえて、手紙を届けてもらう。ウルリーケの名前で、会いたいという内容で。手紙は読み終わったら燃えるように魔術をかけてある。
戻ってきた少年は、赤髪男から口頭で返事を預かって来た。曰く。
「いつでもいいよ。この部屋にいるから好きな時においで」
斯くしてあっさりと、赤髪男との面会が実現する運びとなった。