不幸な男 その②
さてと、懐から資料を取り出して、竹中の娘の住所を見る。ここから歩いて三十分ほどのところに住んでいるようで、電車を使わずに徒歩でその場所へ向かうことに。
時刻は午前十時ちょっと過ぎ。古めかしい家々が立ち並ぶ、口が裂けても高級住宅街とは言えない地域に、竹中の娘の家はあった。
もう一度資料に目を通して、竹中の娘の名前を確認する。
「竹中悠里……十六歳、か」
資料と同時に送られてきた写真。なかなかに整った顔立ちだ。とても竹中の娘だとは思えないほど凛々しく、太い眉毛が印象的だ。
竹中のあのアパートほどではないが、外観があまりよろしくないアパートの一室に、この悠里ちゃんとやらが住んでいる。
少しだけインターホンを押すことに躊躇うも、それもわずかの時間。
僕は人差し指で強く押した。
時間にして十秒ほど待っていると、ガチャリと扉が開いて中から人が出てきた。
「初めまして。君のお父さんのことで、少し聞きたいことがあるんだけど」
「私の……お父さん、ですか?」
眉の上で綺麗に切り揃えられた前髪をいじりながら、悠里ちゃんは不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
「そう。あ、僕の名前はアキラ。君の名前は?」
「知らない人に名前を教えるわけにはいきません。怪しいです……」
目尻をきつく吊り上げて、僕を完全に不審者扱いしてくる。
そうだな、ここは無駄話をすることは避け、本題を切り出した方がよさそうだ。
「もし、死んでしまった君のお父さんと、僕がお話できるとしたら、君は信じる?」
「信じません。宗教の勧誘なら帰ってください。」
「……やっぱり?」
「それじゃ、そういうことで」
扉を閉められそうになったところで、僕は咄嗟に足を突き出し、どうにか食い止めた。
「待って……! お願いだから僕の話を聞いてくれ……!」
「嫌です……! あなたみたいに怪しい人が来たら……絶対に相手をしないようお父さんから言われてるんです……!」
女性とは思えないほどの力で、扉を閉めようと必死になっている少女。そして、一生懸命それをさせまいとしている男。はたから見たら、確実に僕は犯罪者だ。
少女の家に押し入ろうとしている、変態。
やばい、このままじゃ通報されかねない。焦る思いをどうにか落ち着かせて、思考をこれでもかと巡らせた。
「聞いてくれ! ていうか聞け! 僕は君のお父さんから伝言を預かってる!」
ほんとは伝言なんてものは預かってはいない。けれど、僕が本当にあの竹中と会ったのだという証拠を提示しなければ、少女には信じてもらえず、ここまでやってきた意味がない。
嘘でも何でもいい。とにかく信憑性がある話なら。
「君のお父さんは、死んでもなお君を愛し続けている! 竹中のやつ言ってたよ……君に散々酷いことを言われてきたって!」
少しだけ力が弱まって、悠里ちゃんは言った。
「そんなのは嘘……やめて……やめて! 適当なこと言わないで!」
「嘘じゃない! キモイだのうざいだの、君は散々罵倒してきたんだろ!?」
「そ、そんなの女子高生なら誰だって言う言葉でしょ!? だいたい、あなたには関係のないことなんだから!」
「ああ、そうだよ。きっと君だけじゃなく、日本中の女子高生が一度は口にする言葉だろうよ!」
「もう帰って! あなたの顔なんて二度と見たくない! 早く帰って!」
あなたの顔なんて二度とみたくない、か。そんな酷い言葉を言われたのは初めてだ。やっぱり、子供なんてろくなもんじゃないな。
けど、ろくなもんじゃないけれど、ここで引き下がるわけにはいかない。
「君は後悔しているんじゃないか!? 本当は、お父さんにありがとうって、言いたかったんじゃないのか!?」
閑散とした外の空気に、僕の言葉は呑みこまれていく。響くのかも分からない、届くのかも分からない言葉が、悠里ちゃんに伝わることを信じて。僕はじっとその場で待つ。
すると、細切れに、小さな口から言葉が紡がれた。
「もう……やめて……これ以上私の心の中に入ってこないで……」
ペタンとその場に座り込み、悠里ちゃんは悔しそうに歯を食いしばっている。一筋の涙が頬を伝い、そして静かに地面に落ちた。
良かった。どうやら、ちゃんと、伝わったようだ。
「君は、お父さんに毎日、お弁当を作ってもらっていたんだろう?」
「どうして……そのことを……?」
驚きと悲しみが混じり合った、複雑な表情で僕を見る。
「だから言っただろう。僕はついさっき、君のお父さんと話をしていたんだ。ヨレヨレのセーターにサイズの合っていないズボン、何とも小汚い恰好をした君のお父さんにね」
「それ……!? お父さんが死んだ時に来てた服装……なんで……?」
「僕を信じてはくれないか? もう、君がお父さんの姿を見ることはできない。けど、お父さんは君の姿を、声を、ちゃんと感じることができる。ずっと言えずに後悔していたことを、今度はちゃんと伝えたらどうだ?」
涙目になった悠里ちゃんは、じっと僕の目を見つめて、そして言った。
「私……あなたを信じてもいいの……? 私の言葉は……お父さんに届くの……?」
強く頷き、肯定する。
「届くよ、絶対に」
「う……うっ……うう……」
いよいよ涙腺が崩壊して、その場に崩れ落ちる悠里ちゃんを見て、僕はそっと抱きしめ――たい気持ちで山々だったが、自分の頬を何度もぶって、正気を保つ。
「行こう、君が少し前までお父さんと暮らしていた、あのアパートに」
「じゃあ、娘ってのは、みんなそんなもんなのかね」
「分からないけど、たぶんそうなんだと思う。若い時に一杯……親を傷つけて、それで大人になってから後悔する。たぶん……子供ってそういうものなんじゃないかな?」
僕が悠里ちゃんを連れて、この汚い部屋へと戻ってくると、難しい顔をした二人の姿がそこにはあった。
「難しい……子育てってのは本当に」
「えへへ」とユリは笑うと、しばらく無言に。やがてこちらに気が付いたのか、二人の視線が僕に降り注がれる。
「アキラ? 娘さんは?」
「連れてきた。おい、竹中……心の準備はいいか?」
いきなり猫背な背中をピンとさせ、ボサボサな髪の毛を整え出した。
「何してる……?」
「いや、娘が来るなら、ちゃんとしなきゃなって」
「ばか、あんたの姿は悠里ちゃんには見えないよ」
「おいお前! 娘を下の名前で呼ぶな!」
「はいはい。そいつは失礼しましたよっと」
これだから嫌なんだ、娘を持つ親父というのは。
やれやれ、こんなおっさんのために頑張ってやったのに、その見返りがこれかよ。
君に俺の娘をやろう、ぐらい言ってもらわないと、僕としても素直に喜べないね。
「じゃ、呼ぶぞ」
「あ、ああ……」
扉の前で待たせておいた悠里ちゃんを部屋の中へと呼ぶ。
「お、お邪魔します……」
ぐるりと中を見回して、裕里ちゃんはホットしたような様子。
「何も変わってませんね、あの時から」
愛おしそうに壁や窓に触れて、悠里ちゃんはニコッと笑った。僕はひたすら無言でその場に立ち尽くし、竹中を見た。
「おお……こんなにも大きくなって……。ふふ、やはりの俺の娘だ。ますます顔も俺に似てきたな……」
いや、それは違うだろ。どっからどう見ても、あんたの遺伝子を引き継いでいるようにはみえないほど、悠里ちゃんは可愛いだろうが。
竹中は立ち上がって、娘を抱きしめようと手を伸ばす。だが、当然身体をすり抜けて、抱きしめることなどできない。
「竹中さん……」
ユリは表情を暗くして言った。
「あのさ、悠里ちゃん。お父さんに言い残した言葉って何?」
これ以上仕事に付き合わされるのは勘弁してほしいので、僕はそれとなく促す。
「なんか……たくさんありすぎて、何を言ったらいいのか分かりません」
僕は竹中に視線を送る。
「悠里……悠里……来てくれてありがとう、悠里……」
両手を何度もこすり合わせて、竹中は神に拝むように頭を地面につけている。
もう決して届くことのない、竹中の声。
何だかいたたまれない気持ちになった僕は、竹中の言葉を代弁することにした。
「来てくれてありがとう、だってさ」
しんみりとした表情で、悠里ちゃんは言った。
「それなら……ただいま、って伝えてあげて下さい」
「だってさ、竹中。あんたもなんか言いたいことあるんじゃないの?」
「じゃあ俺からは、バカな親父ですまなかった、と」
「バカな親父ですまない、だとさ」
悠里ちゃんはいきなり声を大にして言う。
「そんなことない! 私は……私は! お父さんにとっても感謝してるんだよ……? いつもお弁当作ってくれてありがとう、美味しかったです。それから、いつもお父さんの悪口ばかり言ってごめんなさい。本当は……お父さんのこと、大好きだったよ……!」
竹中は鳩みたく目をまん丸にして、ぶつぶつと細切れに言葉を紡ぐ。
「悠里……ありがとう。最期にその言葉を聞けて、嬉しいな……」
親子そろって啜り泣き、僕としてはとても気まずい。ユリも同じような心境なのか、僕のほうへとやってきて、舌をペロっと出して微笑む。
「お父さん……私頑張る……! 頑張って生きて、お父さんみたいな立派な大人になる……! だから……だからずっと……私のことを見守っていてね……? 約束だよ……」
「ああ、約束する……! 俺はいつまでも悠里のことを見守っているからな……? だから精一杯生きて……いつの日か、お父さんみたいな大人になれよ……?」
あんたみたいな大人にはなって欲しくないものだ。だって、絵画の価値が分からず、ぱちもんを押し付けられたり、挙句の果てには、奥さんに刺殺されたり。
そんな散々な人生を送るぐらいなら、もはや死んでしまったほうがましってものだろう。
「行くか、ユリ」
「そう……だね」
思春期独自の気恥ずかしさ。
中学生くらいまでは、親に反抗ばかりする。そして高校生になると、次第に親への感謝の気持ちが生じ始める。
けれど、やはりまだまだ子供というか、どうしても親にお礼を言ったりするのが、恥ずかしく思えてしまうのだろう。
心にもない言葉を投げつけて、そして後で後悔する。それをしばらく繰り返していくうちに、ようやく理解するのだ。
自分はなんて情けないやつだ、感謝の一つも言えないで何が大人だ、と。
まあ、僕にもそういう体験はある。これは誰しもが通る道のりだ。
もちろん、あそこで泣いている悠里ちゃんも。いや、もう悠里ちゃんに関しては、ちょうど通り過ぎたところなのかな。
竹中の部屋から出ると、晴れ晴れとした天気が僕らを出迎えてくれた。温かいお日様の陽射しを身体一杯に感じながら、僕は空を見上げてこう呟く。
「竹中……お前の娘さん、良い子じゃないか」