不幸な男 その①
僕の名前はアキラ。もちろんこれは偽名だ。何故偽名を使っているのかは、もう説明するまでもない。僕の仕事は事故物件を処理すること。加えて、幽霊の成仏。
まあ、あのわけのわからないプロデューサーとのやりとりを見てもらったから、どうすれば除霊できるのかはもうお分かりだろう。
要するに、死ぬ間際に抱えていた悔やんでも悔やみきれないほどの霊の想いを、僕が代わりに叶えてやるのさ。僕はそういった霊の想いを、まとめて怨念と呼んでいる。
ああ、これは設定を忘れてるかもしれない人のために、わざわざ説明してあげてるだけだから。それでだな……そろそろ本題に入ろうか。
こんな胡散臭い仕事ではあるが、それなりに需要はある。というのも、今説明したのは裏向きでの仕事で、表向きでは事故物件の処理をするというわけだ。
法律で決められているのだが、何かしらの事故が起きた物件を誰かに貸し出す際、その旨を伝えなければならなくなっている。
当然、そんなこと言われてしまったら、借りる方としては気味悪がって住み着かない。
そうして事故物件は忌み嫌われてしまうので、不動産業を営む人にとっては厄介な代物と言える。だからこそ僕のような人間は重宝されて、仕事が絶えることはないのである。
「さてと……」
淹れたてのコーヒーを啜り、僕は椅子に深く座りなおす。この椅子はなかなか心地が良くて、いつまででも座っていたくなるほどだ。
だが、いくらなんでも僕にだって仕事があるから、そうしているわけにもいかない。
「そろそろ行くか」
コーヒーを呷って飲み干す。僕の好みはブラックだけど、やはり一気飲みなどはするべきではない。苦みが一気に押し寄せるもんだから、思わず涙目になるところだった。
何時の間にやら僕の背後にいたユリは、僕に言った、
「アキラ? 何で泣いてるの?」
「ば、バカ! 泣いてねえよ!」
本当だよ? 別に泣いてなんかないよ?
ふん、これだから今時の女子高生には困ったものだ。人の泣き顔を見るや否や、こぞってバカにしてくる始末。
なにもそれだけではない。電車やバスなどでおかしな人を見つけたら、すぐさま自分の携帯を取り出して、その笑える瞬間を写真に収めようと躍起になるではないか。
挙句の果てにはSNSなんぞに投稿して、みんなの注目を集めたがるときたもんだ。実に困ったものである。モラルの欠片もありゃしない。
僕の頭上を浮遊しているユリに向かって、一言かけずにはいられなくなった。
「おい女子高生! 人のことバカにするのもいい加減にしろ!」
「ええ!? いきなり怒られた!?」
ジェットコースター並の速度で部屋中を飛び回り、大事な書類がみるみるうちに吹っ飛んでいく。恐らくこれは、僕に怒られたことが不服である、ということを身体全体を使って表現しているのだろう。
いや、確かに理不尽な説教ではあったかもしれないが、まじ迷惑なんだけど。
「ああ……やめろやめろ! 書類が滅茶苦茶だ!」
「だってアキラ……意味わかんないんだもん……」
ぶたれた犬のように怯えた顔をしているユリを見て、僕はなんだかすまないと思った。
仕方がない。ここは一つ大人の対応しようじゃないか。
「悪かったよ、いきなり怒ったりして。だから機嫌直せ、な?」
空中に寝そべる体勢で浮かびながら、得心のいかない顔をしているユリ。そんなユリを見て僕は、あることに気がついた。
今日のパンツも……縞パンか……。
どうにも不思議な話ではあるが、幽霊たちも下着や衣服を身に着ける習慣があるみたいでな。
傍から見たらパンツや衣服のみが浮いているのだろうか。いやいや流石にそれはないと思うが、それにしてもどういう原理なんだろう。
気になって仕方のなかった僕は、眉間にくっきり皺を寄せて、それはもう阿修羅のごとく険しい顔つきで質問してみることに。
「ユリ……パンツって……どうなってるんだ……?」
あれよあれよと疑いの蔓が伸びて、完全にユリは僕を不審者扱いしてくるのであった。
「あのさ、アキラ。そういうことは女の子に聞くべきじゃないと思うんだけど?」
お前は女の子である以前に死んでるじゃん。幽霊の分際で僕に逆らうとでも言うのか。
なるほどそいつは面白い。それならば闘おう。これは人類の存亡をかけた闘いである。
だってみんなも気になるだろ?
僕がさっき見たあのパンツには、果たしてどういう仕掛けがあるのか。もし霊感のある人にしか見えないのだと言うのなら、今からでも遅くはない。読者の諸君、今のうちに寺にでも行って修行してくるといい。
まあ、寺で修行したところで霊感を獲得できるとは思えないけれど。
「聞くんだユリ……これは生きとし生ける男にとって、とても重要な問題なんだ。だからどうか頼む……僕らに教えてくれ!」
辛うじて笑顔を保っていたユリであったが、その笑顔の温度はどんどん下がり、終いには九回の裏に逆転されそうな形勢になった野球の監督のような面持ちへと変わった。
ごめん、例えが長くて分かりにくいな。要するに呆れてるんだよ、ユリは。
「はいはい。いつにも増して今日のアキラ変態だね。それで? 何が聞きたいの?」
「僕は変態じゃない。男なんてみんなこんなものさ」
「もう分かったよ……これ以上この世の男性を不信な目で見たくないから、お願いだからもう変なこと言わないで……」
「了解した。それで、結局そのパンツの仕組みはどうなってるの?」
何故かわびしげな様子のユリであったが、そんなユリは気にせずに黙って話を聞くことにした。
「薄々勘づいてるとは思うけど、あたしやセレスちゃんの衣服はね、霊感のある人にしか見えないんだよ」
やはりそうきたか。霊感のある僕は勝ち組ということだ。すまないね諸君、どうやら君たちではユリの可愛らしい縞々パンツや、セレスさんのセクシーな下着は拝めないというわけだ。
いや、確かにパンツなんてただの布きれだとは言ったけれど、やっぱりたまたま目に入ったら見ちゃうじゃん? だから決して僕は、パンツが大好きな変態じゃないんだよ。パンチラは言わばお子様セットのおまけみたいなもんだ。
と、そんなことはどうでもいいとして、僕は一つの事実を発見した。そう……こうして思い返してみるとユリもセレスさんも、いつも同じパンツを穿いているということにな!
早速聞いてみた。
「なあなあ、お前ってなんでいっつも同じパンツ穿いてるの?」
赤面した可憐極まる女子高生のユリの顔を目の前にして、僕はシミジミとこう思った。
なんだ……女ってのは死んでも恥じらうものなんだな、と。
「てことは……いつもあたしのパンツを見てたってこと……?」
「まあ、そうなる」
「なんで他人事みたいにサラッと言ってるの!? 人のパンツを見ておいて、よくもまあそうあっけらかんとしてられるね!?」
「だって、ただのパンツだし」
「もういいもん! アキラのバカ!」
一昔前の小娘のように両手で手を隠したユリは、僕にパンツをいつも見られていた恥ずかしさからか、その場で立ち尽くす、ならぬ、浮かび尽くしていた。
だがまだだ、まだ話は終わっちゃいない。僕はどうしても、何故いつも同じパンツを穿いているのかが知りたいんだ。これを聞かなきゃ、死んでも死にきれない!――とそこに。
「朝からうるさいわねえ……一体何事よ……?」
言葉を鞭のようにしならせて、僕とユリを睨み付けるセレスさんが登場した。
「おい、もう朝じゃない。今は昼の十二時近くなんですけど」
「私にとっては十分朝よ。それで、何を言い争っていたの?」
ユリは両手を広げてセレスさんに抱き付き、涙目になりながら訴えかける。
「アキラが変態なの! あたしのパンツを舐めまわすようにして見たり! セクハラ紛いの発言してきたり! 助けて、セレスちゃん!」
心外だ。僕は舐めまわすようになど見ていない。ただ連続でチラ見をしたまでのこと。
それ以外は否定しないけど。
「アキラが変態なのはいつものことでしょ? なにを今さら騒いでいるのよ。観念なさい」
それはそれでどうなの? もしかしたらセレスさんは、僕をフォローしてくれたのかもしれない。いや、ていうか下手くそなウィンクをしてきているあたり、どうにもそうみたいだが。
って、そんなことはどうでもよくて、そのフォローはないでしょ?
僕は目で、「もう一回やり直せ」の合図を送ってみることにした。
が、なんと頓珍漢なやつなのだろうか。両目を一生懸命瞬きさせて、高速ウィンクをするのであった。ちなみにもう言わなくても分かるとは思うけれど、ことごとく全部失敗していた。外人って無駄にウィンクが上手い印象があったけれど、それはとんだ勘違いだったみたいだ。
黒人がみな歌やダンスが上手いわけではないというあの法則と同じだな。
「やめろ、おいやめろ! その不愉快なウィンクもどきはやめろと言っているんだ」
「失礼しちゃうわ。これは正真正銘のウィンクよ。もどきじゃないわ」
「じゃあ鏡で確認してみろって……」
「だって私たちは、鏡に映らないじゃない? 確認のしようがないわ」
ああ、そうだった。幽霊は鏡に映らないんだ。
僕はそんな不憫なるセレスさんに視線をあわせ、さきほどユリ投げかけた質問をもう一度してみることにした。
「それでさ、さっきユリにも聞いたんだけど、どうしてお前たちはいつも同じパンツ穿いてるの?」
「あら? そんなことも知らないの? 仕方ないわねえ……それなら――(以下略)」
とんでもなくセレスさんの話しが長かったため、誠に残念ながら割愛させていただきました。
まとめると、幽霊は死ぬ間際に身に着けていた衣服をそのまま引き継ぐそうだ。だから、ユリの場合は学校の制服に縞パンで、セレスさんの場合はお嬢様みたいな服装にセクシーな下着を引き継いだと言うことだ。
こうして種明かしをされてみると、実につまらないものであった。もっと壮大なスケールの話しを期待していただけに、僕としてはがっかりだよ。
「がっかりだよ!」
おっといけない、心の声が出てしまったようだ。驚いている二人をその場に残して、ようやく僕は今日やらなければならない仕事を思い出す。
「ってこんなことしてる場合じゃねえ! ボスに殺される!」
そう、一分一秒でも仕事が遅れようものなら、顔は見たことないがきっと強面であろうあのボスに殺されかねない。
急いでジャケットを羽織り、鏡の前でネクタイをきつく締め直す。
「これでよしっと……」
「アキラ、行ってらっしゃい!」
「気をつけてね、アキラ」
さきほどまでのいざこざが嘘のように、二人は明るい笑顔で僕を見送ってくれた。この笑顔のおかげで、僕は頑張れているのかもしれない。って違う違う。そうじゃないだろ。
「お前たちも来るんだよ……!」
「「ええ!?」」
「ええじゃない。二人がいないと仕事になんねえし」
別に僕一人じゃ何もできないわけではないが、幽霊を説得するにあたって、やはりユリやセレスさんの存在は不可欠なものと言える。
だってさ、人間にああだこうだと言われるよりも、同類の幽霊に説得されたほうが信憑性があるってもんだろ? 僕は駄々をこねている二人を無理やり連れ出し、いつもより少しだけ遅くなった仕事を開始するのであった。
「ここか……」
事務所からそう遠くない場所に佇むこの建物。見るからに何か出そうで、怪しい雰囲気を纏っている。人の住んでいる気配などは感じられず、廃屋と言ってしまっても問題ないほどだ。
にしても、アバズレ荘なんてネーミングをしてしまうあたり、恐らく大家は相当な変人か、もしくはただのアホなのだろう。
だってアバズレだよ?
漢字にすれば阿婆擦れであるが、阿婆擦れ女なんていう言葉からも分かる通り、あまりいい意味の言葉ではない。
「はあ……」
いや、もうこの辺で悪口を言うのはやめておこう。溜息を大きくついて、僕は目的地の201号室へと向かうことにした。
この建物は二階建てで、一階は101号室から103号室、そして二階は201号室から203号室となっており、201号室へと向かうためには階段を使わなければならない。
別に階段を上るのは造作もないことだが、どうにも僕は気が進まないでいた。
というのも、少しだけ強い風が吹くたびに手すりは気味の悪い音をたてながら揺れ、おまけにちらほらと階段に穴が開いていたりと散々な状態。
さすがに階段が抜け落ちるなんてことはないとは思うが、そうはいってもやはり、気乗りしないのは当然であろう。
「アキラ? 行かないの?」
怖気づいてしまったわけではないけれど、その場に立ち尽くしていると背後からユリがそう言ってきた。
いつもこいつには「外では話しかけるな」と口を酸っぱくするどころかレモン丸々一つ齧りつく勢いで注意してはいるのだが。
「ばか、まだ外にいるんだから話しかけるな」
「だったら反応しなきゃいいじゃん?」
そんなことができるならとっくにそうしている。話しかけられれば反射的に言葉を返してしまうのが僕の悪い癖だ。
鬱陶しそうな顔したユリを一瞥し、僕は階段へと向かう。古代遺跡の意地の悪い仕掛けを処理するように、僕は一段一段確かめながら上っていく。
途中何度かヒヤッとする場面があったが、なんとか上り終えることに成功し、ようやく201号室へと到着した。
「意外とアキラって小心者だよね」
言うに言われぬ達成感に浸っていると、呑気にぷかぷかと浮かんでいるユリにバカにされるのであった。
もちろん僕は小心者でもなければ臆病者でもない。むしろ心臓に毛が生えているのではと思うほどの大胆不敵な男である。男たるもの僕ぐらい勇敢でなくてはならないのだ。
「じゃあ、開けるぞ」
華麗にユリの言葉をスルーした僕は、早速仕事に取り掛かるべく扉を開いた。ちなみに言っておくと、セレスさんには逃げられた。
仕事の手伝いを頼むといつもそうなんだ。
幽霊相手じゃさすがの僕もつかまえるのは難しい。
まあそれはいいとして、何だこいつ? この見るからに幸薄そうな顔したおっさんは。
僕とユリの顔を確認するなり、いきなり不機嫌そうな態度ときたもんだ。何だか腹が立ったので、僕はできる限りのしかめっ面をして睨み返した。
すると隣にいたユリが、耳元でボソボソと話しかけてくる。
「ちょ、ちょっとアキラ……? なんでこの人いきなり機嫌悪そうなの……?」
「さあな。おっさんなんて皆、こんなもんだろ」
おっさんが機嫌悪い時というのは、だいたい三パターンに分類される。
第一に、競馬やパチンコなど、賭け事で負けた時。
第二に、健康診断の結果が著しく悪かった時。
第三に、嫁や息子などの家族から悪口を言われた時。
の、三パターンだ。
さて、このおっさんはどのパターンだろうか。いまだ部屋の奥へと入らずに、玄関でうんうんと頭を悩ませている僕に向けて、おっさんは一言だけ投げかけてきた。
「あんたら、俺のことが見えるのかい?」
「まあな。僕はちょっと変わった人間なもので」
「そうかい。で、何の用だ?」
おいおい、なんでこんなに高圧的な態度なわけ? ほら見ろ、ユリが怯えて僕の背中に隠れちゃったじゃないか。
「ねえアキラ……この人なんか怖い……」
「そうだな、とんでもなく失礼なおっさんだな。まったく、いい年こいて情けない限りだ」
「おい、聞こえてるぞ?」
違う違う、わざと聞こえるように言っているんだ。僕の可愛いユリを脅かした罰だ。
しかし、いつまでもこうしていがみ合っていては仕事にならない。ここは一つ、僕が大人になって腰を低くしてあげようじゃないか。
「まあ落ち着けよおっさん。僕の名前はアキラ、そんでこっちがユリ。あんたの怨念を晴らしにきたんだ。あんたに害を及ぼすつもりはないから安心しろ」
「はあ? 怨念……?」
どうして自分の姿が見えるのか、という疑問ではなく、僕の言った怨念という単語が気になるようだ。
「そう、怨念。あんたが死んでもなお、心に抱えてる気持ちだ。簡単に言えば、後悔ってやつか。それで、あんたの名前は?」
胡散臭い話だとは思うが、こう説明する以外どうしようもない。下手したら「出てけ!」とか言われるのかもと思っていたが、どうやらそんな心配は無駄だったようだ。
男は部屋の奥から僕らを手招きした。
「お邪魔します」
「わ、ちょっとアキラ? 大丈夫かな、入っても……」
よほどあのおっさんが怖かったのだろうか、依然としてユリは玄関のところから動かない。
「大丈夫だって。ほら、ついてこい」
慎重な足取りで中に入るとすぐに、台所と洗面所が視界に飛び込んできた。
そのまま歩みを進めていくと、昔ながらの畳が敷かれた部屋に男は胡坐をかいて待っていた。僕は男のちょうど正面に座り、ユリは僕の頭上で浮遊。しばらく沈黙が続き、気まずい雰囲気に押し殺されそうになっていると、ようやく男は話し始めた。
「俺の名前は竹中。年齢は四十歳だ」
四十歳には見えない。控えめに言っても五十後半ぐらいの老け顔である。鶏がらのように身体は骨骨していて、頼りない感じが満ち溢れている。
「奥さんは?」
「いるよ」
「子供は?」
「娘が一人」
ほう……家族にも子供にも恵まれた竹中は、一体どうして死んでしまったのか。自殺じゃあなくて、他殺の線が濃厚だ。
冷酷極まりない司令官のような表情で、竹中と名乗った男は言った。
「あんた俺のこと、家族に恵まれて幸せそうだ、とか思っただろ?」
僕の心を全て見透かしたかのように、竹中は不敵な笑みを浮かべて話を続ける。
「そいつは間違いだ、大間違いだ。いいか? お前みたいな若造には理解できねえのかもしれないが、家族なんてのはろくなもんじゃない」
竹中は勢いよく立ち上がり、声を荒げて言った。
「妻からは毎日毎日、稼ぎが少ないだの言われ、娘からは臭いだのキモイだの罵倒され、そんな生活が楽しいと思うか!? ええ!?」
うわ、ちょっと同情しちゃったよ。第一印象こそ最悪ではあったけれど、こうして話を聞いてみれば、随分と悲惨な人生を送っていたみたいだ。
ユリは涙目になりながら、竹中に向けて温かい言葉を贈る。
「竹中さん……あなたはとても可哀想だよ……一生懸命働いてるのに、そんな酷い言われようじゃ、あんまりだよ……」
「おう、分かってくれるか? お嬢ちゃん」
竹中は鼻を軽く擦って、照れた素振りを見せた。
「ところであんた、何で死んだの?」
ちょうどいい雰囲気になったところで、早速本題を切り出した。竹中は少し渋ってはいたものの、ため息をついてから観念したように言った。
「殺されたんだよ。情けない話だけど、俺の妻にな」
「奥さんに!? ちょ、それどういうことだよ……?」
驚きのあまり、僕とユリは互いに目を合わせて固まる。日蔭で伸びた植物のように頼りなげな体をますます縮めて、竹中は小さな声で言った
「話せば長くなるんだが、それでもかまわないか……?」
「あ、ああ……」
天井を見つめながら、惨劇の起きたその日のことを思い出しているのか、竹中は瞳を暗くして話した。
「あの日は、俺と妻の結婚記念日だったんだ。プレゼントをあげても、妻はいつも心にもないお礼をするだけで、感謝なんかされた試しがなかった」
こいつは……死ぬべくして死んだ人間ではないんじゃないか。そんな気持ちが、僕の心に宿り始める。
「けどまあ、妻は俺に飯を作ってくれたり、色々とやってくれてはいたから、当然その日もプレンゼントを渡すつもりでいたさ」
「へえ……竹中さんの身の回りのお世話は、ちゃんとしてくれてはいたんですね?」
ユリが言った。
「まあな。洗濯、風呂掃除、食器の片づけ、それから娘のお弁当作りなんかは俺がやってたけど、それ以外は妻がやってくれていたな」
ほぼ全部、妻から家事を丸投げされていたわけか。ほんとにさ、こいつは何で離婚しなかったんだよ。竹中が不憫過ぎて、本当に同情してしまうよ、これじゃあ。
「話は戻して、俺は街へとプレゼント探しに出かけたんだ。いつもはネックレスとか指輪とか、アクセサリー類を買っていってたんだけど、その日は別のものを買うことにした」
「別のもの?」
僕は相づちを打つ。
「そう、別のもの。通りを歩いてたら、偶然女の人に話しかけられてよ、何でも有名絵画を激安で売ってるとかいう話で、これだって思っちまったんだ、あの時は」
なるほど。これは嫌な予感しかしない。
「で、店まで案内してもらって、絵画を見てみたんだが、それはもう立派な代物でよ。俺が唯一知ってる画家のピカソが描いたとか何とかで、それをたったの三十万で売ってくれるってさ」
「まさか……買った、のか?」
「ああ、やっちまったよ。その時は自分が騙されてるとは思いもしなかったから、買っちまったんだ」
「うわぁ……」
ユリは微妙な顔をして、ため息まじりにそう声を漏らした。
「それで?」
頭をポリポリと掻いて、今さらながら後悔している竹中に向けて、僕は話を続けるよう促した。
「まあ、いい買い物をしたと思って、有頂天で家に帰宅したわけだ。妻はテンションの高い俺を見て、何があったのかと、聞いてきた。だからこう答えてやったのさ」
竹中の表情は一気に曇り、震え声で言った。
「ピカソの絵を百万で買ってきた! いい買い物をしたぜ、ってな」
「ちょっと待て、値段が変わってるぞ? さっきは確か――」
ユリが割り込んできて。
「さっきは三十万って、竹中さん言ってたよ?」
「そうそう、三十万」
自嘲したような笑みを浮かべ、竹中は言葉を短く吐き捨てた。
「見栄を張ったんだよ、俺は」
「見栄? 意味が分からない」
「要するに、三十万のものを買ったって言うより、百万のものを買ったって言うほうが、プレゼントを渡される側からしたら嬉しいだろ?」
だめだ、こいつちょっと脳みそが足りていない。
いや、妻への愛情が深いことは、とても素晴らしいとは思う。
けれど、百万もの大金のかかったプレゼントを渡されて、まあ実際には三十万だけど、素直に喜べる人がどこにいるというのか。
大金持ちの夫婦間であれば、そういう高価なプレゼントは当たり前なのかもしれない。
しかしどうにも、この男はそんなふうには見えない。
だってさ、この部屋を見てみろ。人が二人に幽霊が一人いるだけで、だいぶ窮屈に感じるほどだ。こんな部屋に住んでいるやつが、金持ちだとは思えない。
おまけに、ヨレヨレのセーターにサイズの合っていないズボンと、何とも小汚い恰好をしているではないか。さあ、そろそろ事の顛末を聞いてみよう。
「奥さんは、どういう反応をした?」
「ああ……怒り狂って怒鳴りつけてきた。今思い出しても恐ろしい……あんなにも妻が怒ったことはなかったからな」
「それで……そのまま、殺された?」
「そう。台所にいた妻に話しかけたんだが、その怒った勢いで包丁を取り出して、ぐさりと、ね」
チーン。こうして竹中は死にましたとさ。どうしたもんかね、竹中の怨念がいまいちぱっとしない。
「奥さんのことは恨んでる?」
「いや、まったく。俺が悪いし」
奥さんへの恨みは皆無。じゃあ、他にはどうだ……。
思い出せ、竹中の会話の中に、きっとヒントがあるはずだ。
「………」
思考を巡らせて、懸命に考えてみるも手掛かりが見つからない。完全に行き詰まり、もうダメかと諦めたその時、意外にも動き出したのはユリだった。
「ねえ、竹中さん。娘さんって、いくつ?」
竹中はキョトンと目を丸くさせる。突然の質問に多少の戸惑いを感じているのだろう。
「確か、今年で十六になる」
「じゃあ、あたしより一つ年下だね」
「そうか。君は俺の娘と違って、素直でいい子だな。どうせなら、君みたいな娘が欲しかったよ」
君みたいな娘が欲しかった。ここにヒントが隠されているんじゃ……?
ユリは竹中のもとへと近寄り、いきなり竹中の肩を叩き始めた。
「……どういうつもりだ……?」
当然竹中は、わけが分からないといった様子。
「あのね、竹中さんはもう、娘さんと会うことはできないでしょ? だから、あたしがその娘さんに代わって、親孝行してあげようと思って」
竹中はジッと黙って、ただその身をユリに任せている。
「あたしね、こう思うんだ。娘さんは、竹中さんのことを嫌いだったわけじゃないって」
「まさか。だったら何故、あいつは俺に向かって暴言を吐いたりする? おかしいだろ」
ちょっとずつ、話が見え始めた。
まだ推測の域をでないが、恐らく竹中のやつは、育ち盛りの娘さんを残して、自分が死んでしまったことが心残りなんじゃ。それに、自分がどんなに愛情を与えても、すべてことごとく拒絶されてしまったことへの悲しみ。
そういうものが折り重なって、竹中は幽霊としてこの世に留まってしまった。
だとすると、いったんここはユリ任せて、僕は娘さんを探しに行ったほうがいいかもしれない。娘さんにはもう、幽霊となった竹中の姿は見えない。けれど、竹中にはしっかり見えるはずだ。ボスから送られた資料に、確か娘さんが暮らしている家の住所が書いてあったはず。奥さんはもちろん刑務所にいるから、いま娘さんは一人暮らしをしているのだろう。
「竹中、ちょっといいか?」
ユリと竹中の話しの腰を折ってしまったが、そんなことはどうでもいい。
「なんだ?」
「今からあんたの娘さん探して、ここに連れてくる」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! いきなり何を言い出すんだ、お前は!」
がたんと立ち上がって、竹中の表情はみるみるうちに情けないものとなった。面白いものだ、娘のことが気がかりで、きっとその顔をもう一度見たいと思っているはずなのに、いざ僕が探してくると言ってみれば、たちまち怖気づいてしまうのだから。
「いいのか? もう二度と会えないぞ? この機会を逃したら」
「それは分かってるけど……」
頬の筋肉をひくつかせ、竹中は困った顔をした。
完全に否定しないあたり、竹中もまんざらではないはずだ。僕は勢いよく立ち上がって「後は頼んだ」と、ユリ告げた。
「分かった。あとは任せて」
「お、おい。ちょっと待ってくれ――」
ユリはにこやかな表情で竹中に語りかける。
「竹中さん。あたしもね、お父さんに向かって酷いことよく言ってたなあ……キモイとかうざいとか、今思えば、あんなこと言って、すごく後悔してる」
「そ、そうか……キモイ、うざい、臭いは、お父さんが傷つく言葉ベストスリーだ。ってそうじゃなくて!」
「そうなんだ。あたしそれ全部、言ったことあるかも」
うわ、ユリってそんなにおっかない子だったんだ。僕はそんな汚い言葉を吐き捨てるユリの姿を想像して、身震いをした。
二人のやりとりが続いていることを確認して、僕は颯爽と部屋を出る。