さらば、僕の淡い恋心 その①
朝はコーヒー。異論は認めない。
誰がなんと言おうと、やはり、朝のコーヒーは欠かせない。
「やっぱこれだよなぁ……」
茶を飲む老人のように、目を細め、ふうと息を吐く。
「アキラ……日に日におじさん臭さが増してない?」
黒い液体の入ったマグカップを、ユリは苦い顔して見つめる。
「もしかして、お前、コーヒー飲めないタイプ?」
「あんまり好きじゃないかな。コーヒー飲むなら、豆乳飲むと思う」
豆乳? なんでまた豆乳なんだ。
あんな粉っぽい飲み物、全然うまいと思えないんだが。
意味不明なユリをしり目に、天井を見やる。
「おはよう……二人とも」
最近、なんだか幽霊の気配を、感じられるようになった気がする。
これじゃ言い方が悪いか。
つまりだな、セレスさんやユリがどこら辺にいるのか、察知できるんだ。
今だって、セレスさんがこっちにやってくる気配を感じたから、天井を見た。
「最近、やけに起きるの早くないか?」
開き切っていない両目を擦りながら、セレスさんは言った。
「そうかしら……? 特に自分の中では、そういうことを気にしてないのだけれど」
「じゃあ、目が覚めたら、この時間って感じ?」
「そんな感じね」
心境の変化、というやつか。
何が原因かは知らないけど、まあ、別に悪いことじゃあない。
「アキラ、今日は仕事ないの?」
「め、珍しい……セレスさんが僕の仕事について聞いてくるとは……」
「なによそれ。私は普段から、あなたのことも仕事のことも、気にかけてあげているつもりよ」
あくまでも、上から目線である。
訳すと、「私があなたみたいなゴミ同様の人間を、わざわざ気にかけてあげているのだから、感謝しなさい」ということか。
「恐れ入りました……」
とりあえず、日ごろの感謝の気持ちをこめ、僕はセレスさんに頭を下げる。
すると、顎に手を添え、セレスさんは訝しげな顔。そしてユリは、「うわ」とか言って、口を半開きにしている。
なんだよ、ちょっと冗談で平伏しただけじゃん。
僕の身体は綺麗な直角を描き、完璧な謝罪と言えよう。
恐らく、この世で、これほどまでに頭を下げるのが美しい人間は、僕ぐらいだ。
「やめてちょうだい。朝から不快よ」
「アキラには、プライドとかないの?」
はい、2コンボ。
早速、二人の毒舌いただきました。
いやね、これがドМ体質の男だったら、泣いて喜ぶと思うんだよ。
それはもう、野良犬が久々の飯にありつけたみたく、歓喜するだろう。
だがしかし、生憎ながら、僕はそんな変態ではない。
言うならば、僕はエッチである。変態じゃ、なんだかマジっぽいじゃん?
だから僕は、自らをエッチな男だと認めよう。そりゃ、少なからずの自覚はあるからな。
爽やかなシトラスの香りが漂うような、エッチな男。
それが僕、アキラです。
「さてと、今日はどうすっかな」
二人の視線を掻い潜り、僕は椅子から立ち上がる。
まだマグカップの中には、コーヒーが残っているが、もういいや。
「結局、今日は仕事あるの?」
「ない。よかったなユリ。今日は僕たち、暇人だ」
「なんかそういう言い方されると、素直に喜べない……」
「そう。ようやく多忙な日々に、終止符を打てるのね」
「セレスさんはなんもしてないだろ。それに、今日はたまたま暇なだけで、明日は忙しくなるかもしれないんだぞ?」
両耳を手で覆い、セレスさんは「聞こえないわ」みたいな感じの態度を貫く。
やはり、セレスさんはセレスさんだ。
いくら朝ちゃんと起きれるようになったとは言え、ふざけた性格は変わらない。
まあ、一歩一歩、成長していければ、それでいい。
って子供かよ。この人はとっくに、成人してる。
「なあセレスさん」
「なにかしら?」
「お前ってもし、今も生きていたとしたら、何歳なわけ?」
いきなりユリが割り込んできて。
「アキラ! 女性に年齢を聞くのは失礼だよ!」
「そんなこと気にするほど、セレスさんは女子力高くないし」
「失礼しちゃうわね。私にだって、それなりの女子力はあるわよ」
「どれくらい?」
僕がそう聞くと、真剣に考えるセレスさん。
なんだか地雷を踏んでしまったようで、僕は聞いたことを後悔した。
「ごくり……」
ユリが擬音語を口にしたのとほぼ同時、セレスさんは言った。
「これくらい?」
いきなり僕に近寄ってきたかと思うと、そのまま抱擁。
抱きついた。セレスさんが僕に、抱きついたのだ。
幽霊の癖に、胸の感触はしっかりと伝わってくるものだから、僕は驚きと興奮と喜びを抱きつつ、どうにか言葉を紡ぐ。
「は、離せ! バカ野郎! ドキドキしちゃうじゃねえか!」
「あわわわ……!」
芥川龍之介の書いた小説のタイトルみたいな声を出しながら、ユリは僕らを指さす。
「ふふ……これで証明できたでしょう? 私の女子力がどれほど高いのか」
静かに僕から距離をとり、セレスさんは微笑する。
「ま、まあ認めてやらんでもない……この僕を緊張させるとは、なかなかどうして、女子力が高いと言えよう」
「異議あり!」
「はい、ユリ」
いつもはあまり使わない両足で、ユリは僕とセレスさんの間に立つ。
「そういうのは、女子力が高いとは言わないから!」
「じゃあ、どういうのなら高いんだよ」
セレスさんと顔を見合わせ、僕は肩を竦める。
「いい? 女子力はね、つまり、いかに女の子らしさを男子にアピールできるかが重要なの」
なんだか、女子小学生向けのファッション雑誌みたいな発言だ。
最近の子供はませてるからな。
必見! これで気になるあいつも一目惚れ! みたいな?
ああ、怖い怖い。僕は日本の将来が心配だよ。
「さりげなく手作りお弁当を見せびらかしたり!」
おい。さりげなくと見せびらかすじゃ、相反してるぞ。
「さりげなくメガネからコンタクトに変えてみたり!」
え、なにそれ。それのどこが女子力高いの。
「さりげなく授業中に見つめてみたり!」
嫌な思い出しかねえよ。授業中にやたらと目が合う女子がいて、「もしかして僕のこと好きなんじゃね?」とか思って告白したら撃沈。
「さりげなくぶつかってみたり!」
いいえ、それは嫌がらせです。
「とにかく! さりげなさが重要なの!」
以上、話をまとめると。
さりがない行動が、男のハートを射ぬく、だそうです。
「わー凄いなー」
小さな拍手でユリを褒める。
「いやいや、そんなに感謝されても、あたし困るよ」
この反応だ。
馬に念仏じゃないけれど、豚に真珠じゃないけれど、とりあえずユリがバカでアホで間抜けなことはよく分かった。それだけでも十分だ。
「ユリは本当に、女性の鑑ね。もう女子力の申し子と言ってしまっても過言ではないわ」
過言だよ。それはいくらなんでも。
「はい。というわけで、アキラ」
「なんだよ」
「後でお説教ね」
「どうしてそうなった……?」
人差し指を、魔法のステッキみたく振り回し、ユリは言った。
「セレスちゃんにハグされて、ニヤニヤした罰」
理不尽なことこの上ない。それに、僕はニヤニヤなんかしてないし。たぶん。
こうして、僕はこの後ユリに二時間にも及ぶお説教、もとい、愚痴を聞かされるのであった。
「ああああ……あり得ない。なんであいつ、ズラズラと言葉が出てくるわけ……?」
「あなたは本当に、残念な男ね」
「セレスさん……こんな時ぐらい、慰めてくれよ」
「これでも一応、そうしてるつもりなのだけれど」
そうかい、そうかよ。セレスさんに期待した僕がバカだったよ。
疲れ切った眼差しでセレスさんを睨み、僕は冷めきった残りのコーヒーを飲み干す。
「まずい……そして、苦い……」
セレスさんだけでなく、まるでこのコーヒーまでもが僕を愚弄しているようで、酷く僕は落ち込んだ。
世の中はこんなにも厳しいんだから、コーヒーぐらいは甘くてもいいのにな。
と、どっかの物語の主人公が言っていたっけ。
いいね、心に沁み渡るよ、その言葉。今度から無理してブラックコーヒーを飲むのはやめて、カフェオレでも飲むことにする。
「それにしても、やることがないってのは、困ったもんだな」
セレスさんは窓から見える景色を眺めている。
「いいじゃない。やることがあるよりは、ない方がいいに決まっているわ」
ああ、セレスさんはそういうタイプのやつなのね。
僕はむしろ、忙しいくらいでちょうどいいというか、手持無沙汰な状態だと、どうにも落ち着かないんだ。
暇であることに申し訳なさを感じるというか、人間としての使命を果たせていないというか。
とにもかくにも。
僕はそういう人間なのである。
「うわぁぁぁぁぁ! 頼むから誰か仕事をくれぇぇぇぇ!」
喫煙者が長いこと禁煙していると、禁断症状によって手足が震えることがある。
それと等しく。
僕の全身は震え始め、乗馬マシーンに乗ったみたくなっている。
「お、落ち着きなさい……」
「落ち着いていられるか! 頼むセレスさん! 僕になにか仕事をくれ! パシリでもなんでもいいから!」
口をあんぐりと開いて、呆れているセレスさんは放置。
代わりに、暇そうなユリのもとへ。
「ユリ! 頼む! 僕の相手をしてくれ、じゃなくて、僕に仕事をくれ!」
「え? え? あたし?」
自分の顔を指さし、ユリはこれまたセレスさんと同じようにポカンとした表情。
華奢な両肩を掴み、そして揺さぶる。
ユリの頭が右に左に、前に後ろに動く。
綺麗な黒髪が乱れ、ユリの口に毛先が入ってしまった。
「あ、アキラ……怖い……」
少し顔を引き攣らせながら、ユリは僕を涙目で見る。
ここでようやく、自分の突拍子もない行動を反省した。
「悪い……僕としたことが、情けないところ見せたな」
「ううん……大丈夫だよ」
目線があちらこちらを行き交い、ユリは落ち着かない様子。
いくら僕がいつもと違かったとはいえ、ここまで挙動不審になるのはいかなものだろう。
「どうした?」
夕焼け空のように紅く染まったユリの頬。
リンゴのようでもあり、魚の赤身のようでもある。
普段からよく、恥じらうやつではあったけれど。
こんなユリの表情を目にしたのは初めてかもしれない。
ホラー映画に思わず見入ってしまうようで。
有名画家の繊細な絵のタッチに心打たれたようで――死んでしまった初恋の人に、もう一度巡り会えたようで。
心臓から、じわりじわりと、熱い血液が送り出される。
これは……毒だ。
僕の血に毒が混じっている。
その証拠に、僕の身体はぴくりとも動かないじゃないか。
ユリ……今のユリは……僕にとっては、毒、なんだ。
「あ、アキラ……あのね……」
外から遮断されたこの世界。
聞こえるのは、二人の荒い呼吸音だけで、それ以外には何も聞こえない。
目を離せば消えてしまいそう。
それほどまでに、ユリの存在が儚げに見える。
掴んでも掴んでも、決して手中におさまることのない、霧のようだ。
わずかに開いた口で、僕は言葉を紡ぐ。
「なんだよ……」
「聞いて欲しい、話があるの……」
「お、おう」
照れているのか喜んでいるのか怯えているのか、よく分からない顔。
絡まったイヤホンコードみたく、複雑な表情である。
「あ、あたしね……」
嫌な予感は不思議としない。
何故かと聞かれたら、恐らく、僕はこう答えるだろう。
幽霊と関わると決めた時点で、ユリと深い関わりを持った時点で、ありとあらゆる最悪の状態を想定しているから、と。
脳内で予測をつけておけば、どんな事態にも対応できる。
つまるところ。
次のユリの言葉がどんなものであろうと、僕にはそれを受け止められる覚悟がある。
覚悟があれば、嫌な予感はしない。胸騒ぎもしない。
「あたしは――」
「ねえアキラ。ちょっといいかしら」
最悪だ。さすがにここまでは予想だにしなかった。
最悪の、いや、むしろ最高のタイミングと言った方がいいか。
狙って図ってやったとしか思えない。
空気の読めない嫁に機嫌を悪くする夫のように、僕は軽くキレた。
「ユリと話してたんだけど、なにか用事……?」
はあ、と、ため息をついたユリと全く同じ心境だ。
「用事がなければ、あなたに話しかけてはいけないのかしら?」
「そういうわけじゃない。ただ、もう少し気を遣ってくれ、ということだ」
「あら、よく分からないけれど、まあいいわ」
よくないけど、いや、もうどうでもいいや。
この人に何を言っても無駄。無意味。無駄方便なんかでもない。
「それで? さっさと要件を言ってくれ」
ツンと高い鼻をさらに高くさせ、セレスさんは威張る。
「あなたの大好きなコーヒーの粉が、もうそろそろなくなりそう。それを伝えてあげようと思ったのよ。それなのに、私の好意を無碍にするとは、なかなかに最低な男ね、あなたは」
その……なんだ。
僕に非があるというか、僕が全面的に悪いというか。
とにもかくにも。
「ごめんなさい……」
素直に謝るのが正しいだろう。
偉い。偉いよ僕。自分の過ちを認めるなんて、偉すぎる。
「分かってくれればそれでいいわ。私もとやかく言うつもりはないのだから」
「そうか……ありがとな、セレスさん」
「どういたしまして」
本当に用事はそれだけだったようで、セレスさんはどこかに消えていった。
意外と良いところあるじゃん、セレスさんにも。
と、少し見直したところで、僕は話を戻す。
「ごめん。それで、話の続きを教えてくれ」
「え……ああ……うん」
そうだよな。
何か大事な話だったのかもしれないけど、こうやってタイミングを逃してしまえば、切り出しにくのは理解できる。
「まあ、いいよ。別にいま話してくれなくても。また別の機会にしようか」
「そう、だね」
今思えば、僕とユリはやたらと近距離である。
だから僕はちょっと距離をとり、ユリから目を逸らす。
「あのさ」
それとほぼ同時、ユリは言う。
「アキラって今日、暇なんだよね?」
「暇だけど、それがどうかしたのか?」
「うん。あたしに付き合ってもらおうと思って」
「付き合う? それはどういう意味だ?」
「どういう意味も何も、そのままの意味だけど」
「ほう……」
「それじゃあ早速、行こっか」
「行くってどこに?」
二コリと少女らしい笑みを零し、ユリは言った。
「決まってるでしょ! 外に出かけるんだよ――」